|CENTER:218|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|c
|>|>|>|>|~No.028|
|&attachref(./028_2nd.jpg,nolink,オレの名は天龍。フフフ、怖いか?);|>|天龍(てんりゅう)|>|天龍型 1番艦 &nobr{軽巡洋艦};|
|~|>|>|>|~艦船ステータス(初期値/最大値)|
|~|~耐久|23|~火力|11 / 39|
|~|~装甲|7 / 29|~雷装|18 / 59|
|~|~回避|35 / 69|~対空|8 / 39|
|~|~搭載|0|~対潜|18 / 59|
|~|~速力|高速|~索敵|7 / 19|
|~|~射程|中|~運|17 / 49|
|~|>|>|>|~最大消費量|
|~|~燃料|25|~弾薬|20|
|~|>|>|>|~装備|
|~|>|>|>|[[14cm単装砲]]|
|~|>|>|>|[[7.7mm機銃]]|
|~|>|>|>|COLOR(gray):装備不可|
|~|>|>|>|COLOR(gray):装備不可|
|>|>|>|>|~改造チャート|
|>|>|>|>|''天龍'' → [[天龍改]](Lv20) → [[天龍改二]](Lv84+高速建造材×8+開発資材×24)|
|>|>|>|>|~図鑑説明|
|>|>|>|>|LEFT:天龍型1番艦、天龍だ。&br;駆逐艦を束ねて、殴り込みの水雷戦隊を率いるぜ。&br;相棒は、同型艦の龍田だ。&br;あいつ、ちゃんとやってるかな?ま、いいけどな。|
※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。

#fold(CV:井口裕香、イラストレーター:彩樹 (クリックするとセリフ一覧が開きます)){{
CV:井口裕香、イラストレーター:彩樹
#shadowheader(2,[[定型ボイス一覧>天龍/定型ボイス]])
#table_edit(天龍/定型ボイス)
~
#shadowheader(2,[[時報ボイス一覧>天龍/時報ボイス]])
#table_edit(天龍/時報ボイス)
~
#shadowheader(2,[[季節ボイス一覧>天龍/季節ボイス]])
#table_edit(天龍/季節ボイス)
~
}}

*ゲームにおいて [#game]
-現在登場している軽巡の中で最も旧型のためか、一般的な軽巡と比較して能力上限が低い。
後継の5,500t型軽巡洋艦の[[多摩]]と比べると、
|LEFT:25|LEFT:50|RIGHT:25|RIGHT:25|RIGHT:25|RIGHT:25|RIGHT:25|RIGHT:25|RIGHT:25|RIGHT:25|RIGHT:25|RIGHT:25|CENTER:25|CENTER:25|RIGHT:25|RIGHT:25|c
|No.|名前|CENTER:耐久|CENTER:装甲|CENTER:回避|CENTER:火力|CENTER:雷装|CENTER:対空|CENTER:対潜|CENTER:索敵|CENTER:運|CENTER:搭載|CENTER:速力|CENTER:射程|CENTER:燃料|CENTER:弾薬|h
|028a|天龍|23|29|69|39|59|39|59|19|BGCOLOR(#FFFF99):17|0|高速|中|25|BGCOLOR(#FFFF99):20|
|040a|多摩|BGCOLOR(#FFFF99):25|29|69|39|BGCOLOR(#FFFF99):79|BGCOLOR(#FFFF99):49|59|BGCOLOR(#FFFF99):39|10|BGCOLOR(#FFFF99):2|高速|中|25|25|
と、運と弾薬コスト以外で勝るところがない。
--搭載機に至っては0であり、序盤で有用な[[零式水上偵察機]]による索敵が行えない。
装備自体は出来るが搭載0扱いになる。%%元の索敵が低いため、搭載出来たところで役に立つかは疑問。%%
水上機の搭載が必須な[[弾着観測射撃>戦闘について#Observation]]も行えない。
--妥協っぽくなるが[[探照灯]]や[[照明弾]]、[[高射装置>91式高射装置]]に[[熟練見張員]]など、艦載機に頼らない装備を迷わず渡せる。
-ゲーム的には敢えて育てる必要はないと思われがちだが、[[天龍]]を必要とする任務は多い。
#fold(必要となる任務(2018年7月時点)){{
必要となる任務(2018年7月時点)
「天龍」型軽巡姉妹の全2艦を編成せよ!
「三川艦隊」を編成せよ!
&color(red){「三川艦隊」出撃せよ!};
新「三川艦隊」を編成せよ!
&color(red){新「三川艦隊」出撃せよ!};
「三川艦隊」を新編、突入準備せよ!
&color(red){新編「三川艦隊」ソロモン方面へ!};
「第十八戦隊」を新編成せよ!
&color(red){抜錨!「第十八戦隊」};
精鋭「第十八戦隊」を再編成せよ!(改二指定)
&color(Red){精鋭「第十八戦隊」、展開せよ!(改二指定)};
&color(Red){新編成「三川艦隊」、鉄底海峡に突入せよ!};
の計12任務が確認されている。この内、&color(red){赤字};は出撃を伴うものであり、特に新三川艦隊は十分に育ってないと達成が難しい。
}}
後述の遠征でも練度の高い軽巡を要求されるので、育てておいて損はない。
-また僅かではあるが他より弾薬の燃費が良いため、遠征艦隊の一員として重点的に運用されることが多い。
--遠征における必須要員として、軽巡を指定してくる遠征先は非常に多い。
特に遠征先として有用な「東京急行」や「北方鼠輸送作戦」などでも軽巡は必須。要求レベルを達成できるようにしておくといい。
--改造するとこの利点が失われるため、遠征要員にするなら無改造のまま運用するほうが有利。

&br;
**[[期間限定グラフィック>艦娘カード一覧(期間限定グラフィック)]] [#graphic]
-2015/07/17より期間限定で、水着バージョンの母港グラフィックが公開された。
--これまでの他艦の限定グラフィックと同様に、水着バージョンのグラフィックも立ち絵限定で、カードイラストはそのまま。
他の限定グラフィック同様、限定期間終了後に図鑑に格納された。
--[[絵師のつぶやき:https://twitter.com/ayaki_generatio/status/622006787806396416]]によると、持っているのはサーフボードの一種のボディーボードの模様。
更に「[[あれは寝そべって乗るんですよ・・・つまり・・・分かりますよね?:https://twitter.com/ayaki_generatio/status/622006972041162752]]」&color(Silver){よく分らないからイラスト図解プリーズ};
---ちなみにボディーボードは日本では女性向けの印象が強いが、海外では男性競技者も女性とほぼ同じ比率で存在しているらしい。
また必ずしも寝そべって乗るばかりでなく、「ヒザを立てて座り乗りし、小回りを効かせる」スタンスもメジャーなようだが、天龍ちゃんが立て膝で座ると・・・それはそれで・・・分かりますよね?
-
//上のマイナスは下のイラストの表示位置調整用なので消さない様に
#fold(限定イラスト:夏季限定Ver.){{
限定イラスト:夏季限定Ver.
&attachref(./028_Summer_2nd.jpg,nolink,);
//中破絵は無しで
}}
*諸元 [#spec]
#fold(竣工時){{
竣工時
|CENTER:180|CENTER:180||CENTER:180|CENTER:180|c
|~排水量(基準)|3,230t|~全長/全幅/喫水|142.7/12.3/4.0m|
|~機関出力|51,000馬力/3軸|~速力|33.0kt|
|~航続力|5,000海里/14kt|~乗員|337名|
|~主兵装|>|>|14cm砲単装4基4門、8cm高角砲単装1基1門&br;53.3cm魚雷発射管3連装2基6門|
|~装甲|舷側63mm、水平25mm、司令塔51mm|~搭載機||
}}

*来歴 [#history]
#fold(年表){{
年表
|CENTER:BGCOLOR(#0d0015):COLOR(#ffff00):40|CENTER:BGCOLOR(#0d002c):COLOR(#ffff00):40|BGCOLOR(#0d002c):COLOR(#ffff00):600|c
|1917|5.17|横須賀海軍工廠にて起工|
|1918|3.11|進水|
|1919|11.20|竣工、横須賀鎮守府所属|
|~|12.1|第2艦隊第2水雷戦隊に編入|
|1921|4.20|第2水雷戦隊より除籍|
|~|12.1|第1艦隊第1水雷戦隊に編入|
|1922|12.1|第1水雷戦隊より除籍|
|1923|9.24|関東大震災に伴い救難活動を行う|
|~|10.16|~|
|~|12.1|第1艦隊第1水雷戦隊に編入|
|1925|12.1|第1水雷戦隊より除籍|
|~|12.1|第1艦隊・第1水雷戦隊に編入|
|1928|12.10|第1水雷戦隊より除籍。呉鎮守府部隊に編入され、練習艦兼警備艦となる|
|1931|10.9|第1遣外艦隊に編入|
|1932|1.28|第一次上海事変勃発に伴い警戒待機|
|~|2.2|第1遣外艦隊のまま第3艦隊に編入|
|~|8.1|第1遣外艦隊より除籍、第3艦隊に編入される|
|1933|5.20|第3艦隊第10戦隊に編入|
|~|11.15|第10戦隊より除籍、旅順要港部に編入|
|1934|11.15|旅順要港部より除籍。呉警備戦隊に編入|
|~|11.20|呉警備戦隊より除籍、第3艦隊第10戦隊に編入|
|1937|1.21|第10戦隊旗艦|
|~|8.21|第3艦隊第10戦隊指揮下にて青島攻略作戦支援を下令|
|~|8.24|青島攻略作戦中止|
|~|12.1|第14戦隊解隊、第3艦隊第10戦隊に編入|
|~|7.1|支那方面第5艦隊に編入|
|~|12.15|第10戦隊解隊。第3予備艦と定める|
|1939|11.15|警備艦となり、舞鶴要港部所属|
|~|12.1|本籍を呉鎮守府から舞鶴鎮守府に移し、練習艦兼警備艦となる|
|1940|11.15|第4艦隊第18戦隊に編入|
|1941|12.2|第18戦隊旗艦となる|
|~|12.17|第2次ウェーク島攻略作戦|
|1942|2.9|スルミ攻略支援|
|~|3.28|ブーゲンビル島要地攻略作戦支援|
|~|3.31|ブーゲンビル島より撤収|
|~|4.23|第18戦隊指揮下にてツラギ及びポートモレスビー攻略部隊援護を下令|
|~|5.15|第4艦隊指揮下にて内地帰投・修理整備を下令|
|~|6.3|舞鶴工廠に入渠|
|~|7.11|第18戦隊指揮下にてポートモレスビー他攻略支援を下令|
|~|7.14|第8艦隊第18戦隊に編入。東部ニューギニア要地攻略作戦全般支援・補給確保を下令|
|~|8.16|第18戦隊指揮下にてラビ攻略作戦全般支援を下令|
|~|9.11|撃沈された弥生の救難捜索|
|~|9.19|第18戦隊旗艦を龍田に変更|
|~|11.7|第4水雷戦隊旗艦|
|~|11.9|第4水雷戦隊旗艦を解かれる|
|~|11.23|第18戦隊旗艦|
|~|12.18|マダン港外にて米軍潜水艦((アルバコア(USS Albacore、SS-218)))の雷撃で戦没。死傷者44名、生存者は磯波・涼風により救助|
|~|12.24|第18戦隊解隊|
|1943|2.1|除籍|
}}

#fold(艦長){{
艦長
|CENTER:BGCOLOR(#0d0015):COLOR(#ffff00):55|BGCOLOR(#0d002c):COLOR(#ffff00):120|BGCOLOR(#0d002c):COLOR(#ffff00):290|c
|第1代|角田貫三 中佐|1918年2月16日~1918年7月20日(艤装員長)|
|~|~|1918年7月20日~1920年11月20日(艦長)|
|第2代|村瀬貞次郎 中佐((在任中に大佐昇進。))|1920年11月20日~1921年12月1日|
|第3代|横尾敬義 大佐|1921年12月1日~1922年5月29日|
|第4代|河村達蔵 大佐|1922年5月29日~1922年12月1日|
|第5代|松下元 大佐|1922年12月1日~1923年10月15日|
|第6代|小栗信一 中佐((在任中に大佐昇進。))|1923年10月15日~1924年12月1日|
|第7代|瀧田吉郎 大佐|1924年12月1日~1925年10月20日|
|第8代|木田新平 大佐|1925年10月20日~1925年12月1日|
|第9代|毛内効 大佐|1925年12月1日~1926年11月1日|
|第10代|山口清七 大佐|1926年11月1日~1927年11月15日|
|第11代|菊野茂 大佐|1927年11月15日~1928年12月10日|
|第12代|沢本頼雄 大佐|1928年12月10日~1929年8月20日|
|第13代|高橋伊望 中佐|1929年8月20日~1929年11月1日|
|第14代|蜂屋義尾 大佐|1929年11月1日~1930年12月1日|
|第15代|斑目健介 大佐|1930年12月1日~1932年11月15日|
|第16代|田結穣 大佐|1932年11月15日~1933年11月1日|
|第17代|金沢正夫 大佐|1933年11月1日~1934年5月25日|
|第18代|井沢徹 大佐|1934年5月25日~1934年11月15日|
|第19代|春日末章 大佐|1934年11月15日~1935年11月21日|
|第20代|鎌田道章 大佐|1935年11月21日~1936年2月15日|
|第21代|工藤久八 大佐|1936年2月15日~1936年11月10日|
|第22代|宇垣完爾 大佐|1936年11月10日~1937年8月2日|
|第23代|阿部孝壮 大佐|1937年8月2日~1938年12月15日|
|第24代|山崎貞直 大佐|1938年12月15日~1939年11月15日|
|第25代|鹿目善輔 大佐|1939年11月15日~1940年10月15日|
|第26代|高橋雄次 大佐|1940年10月15日~1941年8月28日|
|第27代|後藤光太郎 大佐|1941年8月28日~1942年6月5日|
|第28代|浅野新平 大佐|1942年6月5日~1942年12月5日|
|第29代|上田光治 大佐|1942年12月5日~1943年2月1日|
}}

*小ネタ [#trivia]
**天龍・概説 [#r4678a6f]
-八八艦隊計画の3,500トン型巡洋艦として建造された、天龍型のネームシップ。
生まれは横須賀海軍工廠。第一次大戦終結直後の1919年、大正8年11月20日に竣工。相棒の[[龍田]]より竣工が遅れ、年下となった。

#fold(解説){{{
解説
-日本海軍初の近代型巡洋艦で、高出力・小~中型の軽巡洋艦を水雷戦隊旗艦とする用兵方針を決定づけたマイルストーン的存在。
--その思想の源流には、第一次大戦時の戦術研究の成果、特に「偵察艦」の有用性と、ドイツ海軍の有力な水雷戦隊が攻撃展開時の防御手段を欠いたためにイギリス海軍に撃破されたという戦訓がある。
---従来の「水雷戦隊旗艦」は、駆逐隊後方での通信や補給を担う「駆逐艦母艦」的な性格が強かった。
それを本隊と共に行動させ、見通し範囲の広さと高い通信能力を活かして索敵を実施、さらに戦闘時には艦列先頭に配置し、駆逐艦より優れた砲火力を最大の防御力として、魚雷を満載した駆逐艦たちを敵主力のそばまで送り届けよう、という戦術思想を具体化したのが、天龍型に始まる日本海軍の「水雷戦隊旗艦用軽巡」だった。
---駆逐艦との連携を意識した設計の近代軽巡洋艦はそれほど珍しいものではない。が、1900年代初頭にはすでに運動性能の差が顕在化しており、実際に敵陣に切り込む駆逐隊の嚮導任務には、駆逐艦をやや大型化して指揮能力を付与した嚮導駆逐艦を充てるのが主流となりつつあった。水雷戦隊指揮に対応した近代軽巡が担った役割の主軸は、あくまでも偵察や遠隔火力支援、あるいは艦隊防空だった。
日本海軍の要求の意図は、戦闘海域において強烈な衝撃力・近接戦力として機能し得る、重砲備・重雷装の大型嚮導艦の導入であった。極めてアグレッシブな運用法を想定していたのだ。
---当初は司令部機能を重視した7,200トン級中型巡洋艦とのハイ・ロー・ミックス調達が予定されていたこともあり、天龍型は駆逐艦並みの運動性能を目指して、積極的にコンパクト化が推進された。排水量を同世代の軽巡と比較すると、英ダナイー級が5,000トン前後、エメラルド級が満載状態で9,000トンを超過していたのに対し、天龍型は公試時で4,000トン弱。近代軽巡のフォーマットの祖となった初代アリシューザ級と同等か、むしろわずかに小さいほどである。ちなみに同時期の嚮導駆逐艦は満載で1,500~2,000トンほどだった。
--堅実な船体設計に新方式のタービン、駆逐艦を指揮するにあたって十分な快速と悪くはなかったが、その代償としてあまりにも小型化が過ぎたために、航洋性と居住性、発展性が''お察し状態''となった。
計8隻まで増備される予定だったが、結局は計画合理化の過程で7,200トン級との統合・艦型の一本化が決定。同等以上の快速を維持しながら船体を大型化して、航洋性や居住性を改善、汎用性を持たせるとともに砲門数と雷装も強化した5,500トン型が新規に開発されることとなり、2隻までの増備に留まった。
このため、どちらかといえばその後の巡洋艦の開発や、新型主機の広範な採用のためのプロトタイプとしての趣が強い。
---タービンには同時期就役の江風型駆逐艦((かわかぜがた、と読む。谷風型とも言う。計画上は先行していてネームシップになる予定だった谷風が、竣工の遅れで2番艦になっちゃったという、どこかで見た、というか、いつものパターンです。計画最大速力37.5ノット、江風は公試で39ノット超を記録した。))([[江風]]の先代)と同様に欠陥を抱えており、竣工からしばらくの間はよくタービンの羽根が切損する事故を起こしていた。
---天龍竣工から3年後にはワシントン海軍軍縮条約によって、後に「重巡洋艦」という新艦種を生み出すこととなる条約型巡洋艦のアウトラインが示されたが、[[古鷹]]に始まる一連の日本海軍重巡は、特に砲備と偵察能力を伸ばす形で軽巡洋艦を発展させた設計を基本としている。軽巡と重巡の別を問わず、日本の近代巡洋艦には多かれ少なかれ天龍型の血が流れているのだ。
--後の[[球磨]]・[[長良]]型と同じ三本煙突だが、天龍型だけ煙突に微妙に傾斜がかかっており、一本一本の太さが全く異なるという外見上の特徴を持つ。
その艦影からは、アリシューザ級に始まる英国近代巡洋艦の流れを汲んだ艦であることが推して知れる。
--竣工の段階では英国の同クラスの嚮導艦や偵察巡洋艦を速力・戦闘力で凌ぎ、日本海軍でも前級の筑摩型防護巡洋艦([[筑摩]]さんの先代)の2/3程度の排水量でありながら同等以上の戦闘力を持っていた。''「フフフ……怖いか?」''
&br;
-''完成当時は世界水準''の彼女だが、新型で同等の排水量の[[夕張]]と比べると、片舷に指向できる砲火力は2/3、正面だと1/3しかなく、魚雷は旧式の53cmと、攻撃面では散々に負けている。5,500トン型との比較でも同様の結果となる。
--武器では負けていても装甲は新型の夕張に匹敵する範囲と厚さ!……つまり、紙装甲。
一応ちょっとだけ装甲範囲は広いが、これは夕張よりも缶数が多く、そのぶんバイタルパートが大きいことに起因している。&color(Silver){心臓部がデカいとおっぱいもデカくなるのか・・・?};
--一方、航続距離だけは同じ重油搭載量の夕張の1.5倍、14ノット巡航で5,000海里であり、この点だけは,5,500トン型にも引けを取らない。
---ただし天龍型は、全10基中2基の重油石炭混焼缶の換装がされていないので、石炭の分ちょっと上乗せされている(重油920t、石炭150t)。低負荷時や巡航時には混焼缶を優先して使用していた。さらに言えば、天龍の燃費がいいと言うよりも''夕張の燃費が悪すぎる''のである。&color(Silver){秋月? いえ、知らない子ですね。};((排水量が同規模となった最新鋭駆逐艦の秋月型は、重油1,080tを搭載、18ノット巡航で8,000海里も航行できた。さらに脅威的なのは、天龍型以上の航続距離と同等の速力を、天龍型の10基に対し、たった3基のボイラーで実現している点である。))
ちなみに5,500トン型も重油石炭混焼缶を積んでいたが、戦前の時点で全て重油専焼缶に換装されている。換装前で重油1,260t、石炭350tを搭載し、14ノット巡航で5,000海里((理論要目値、実際は最後発の川内型以外は海里数は同じだが12kt台までしか出せなかった))を走ることができた。換装後のデータは不明。
---なので、石炭を焚いている時は「いわきの煙はわだつみの 龍かとばかりなびくなり」と軍艦マーチさながらの時代がかった煤煙を吐いていた。
また、重油専焼の艦が給油ホースをつなぐだけで澄ましていられるのに比べ、石炭を積む分だけ燃料搭載が大仕事であった。
手空き乗員総出で突撃ラッパに合わせつつ、石炭を入れたザルを人力で手送りし、150トンも積み込むのである。
南方では艦内温度があっという間に40度を超え、かといって炭塵で肌が炎症をおこすので長袖服を脱ぐわけにもいかず、まことにツラい作業だったという。
---8基の重油専燃缶のうち大型缶は6基で、残りの2基は小型缶である。おそらくは混焼缶の特性と合わせ、部分負荷運転が効率的におこなえたのだろう。
---見逃せないのは蒸気過熱装置の採用である。5,500トン型では[[鬼怒]]にて試験採用され、[[川内]]型で標準装備となったこの機構は、ボイラー周りの複雑化を代償に、発生した蒸気をさらに加熱することで熱効率を若干向上させる。天龍型の使用蒸気圧力は、[[球磨]]型と同じ18.3kg/cm2。装置の効果は燃費に反映されていたのだと推察される。
なお夕張も過熱装置を採用しており、起工は天龍竣工の約2年半後、ちょうど川内型、とりわけ%%被災して一度カーンカーンされる前のほうの%%[[那珂]]ちゃんと同期で、技術的にはより新しいはずなのだが・・・?((考察するための手掛かりはどうやら、天龍型を上回る軸出力かつ総数を減らした重油専燃缶のみで計画されたことと、2代目神風型駆逐艦に使われた設計を下敷きとしたパーソンズ/三菱式タービンの採用にありそうである。))
--計画速力33ノットは、艦隊型駆逐艦の中で最も遅い改装後[[初春]]型と同速。ついでに[[秋月]]型とも同速である。
鈍足っぷりに定評のある改装後夕張の32ノットよりはちょっとだけ早いが……波が出てくると[[特型>吹雪]][[駆逐>綾波]][[艦>暁]]について行けなくなるのは内緒だよ?
---正確には、いくら10年の年代差があるとはいえ、現役の軽巡洋艦をしのぐ凌波性と高速力、その上61cm魚雷9本の重雷装までも獲得してしまった特型の方がすごいのである。
--特型相手でも十分怪しかったが、その後続々と就役しつつあった[[朝潮]]型駆逐艦や計画中の次期駆逐艦([[陽炎]]型のこと)が相手では、完全に凌波性が不足していよいよ水雷戦隊旗艦の任につくことが出来なくなり、マル4計画の枠外で天龍型の2隻を[[大和]]・[[武蔵]]用の[[随伴防空艦>秋月]]として改造することが決まった。内容は主砲と魚雷を全て下ろして[[長8cm連装高角砲>8cm高角砲]]5基を搭載するもの。
昭和16年には実際に予算もつけられたものの、日米開戦のため沙汰止みとなる。((「日本巡洋艦物語」より。))
---昭和10年~15年頃には上記に加え[[12.7cm連装高角砲]]4基や[[10cm連装高角砲]]3基を搭載する案も検討されていた。((「未完成艦名鑑 1906~45」より。))
似たような防空巡洋艦構想は[[球磨]]・[[多摩]](信濃・第111号艦用の随伴防空艦)と、[[由良]]・[[鬼怒]]等の5,500t型、更には何と[[鳳翔]](局地用防空艦)にまであったが、何れも実現していない。
[[五十鈴]]のみが主砲を12.7cm連装高角砲に換装した防空巡洋艦に[[改装>五十鈴改二]]された。
--拡張性が皆無に近かった上、結局防空艦への改装もできなかったため、完成当時は世界水準だった彼女も、太平洋戦争期では大半の駆逐艦よりも弱い有様だった。
&br;
-筑摩型と比較した場合に際立つのが、武装配置の合理化である。
すべての砲と発射管が両舷へと指向可能な構造になっており、そのぶん数を減らすことで大幅な軽量化と容積の圧縮を図っている。これは駆逐艦の設計手法に近い。
--主砲の[[14cm単装砲]]は[[伊勢]]型や[[長門]]型の副砲でもあり、人力揚弾・揚薬の人力装填。まあ旧式だしね……。天龍を初め、5,500トン型軽巡洋艦全てに採用されている。
---中口径砲としては口径が小さく威力不足が指摘されるが、弾薬の軽さもあって操作性には優れており、小口径砲と比較した場合はそれなりのパンチ力も持っている。
特型以降の駆逐艦に広く普及した[[12.7cm砲>12.7cm連装砲]]と比べると、弾丸の重量は1.6倍ほど重く、初速は910m/sに対して850m/sとそれほど劣らない。
連装に対して単装、かつ揚弾機を持たないため、1砲架1斉射あたりの投射重量と連射性では劣るが、1発の炸薬量と貫通力、有効射程では格上である。
護衛として突撃を妨害してくるであろう敵方の水雷戦隊へ打撃を浴びせ、後続の駆逐艦を守るには適した装備であり
また応急人力駆動が可能な為、運用の為の砲兵さえ確保できれば如何なる状態でも応射可能な部分も利点(機力駆動前提の砲は艦の動力設備が故障・破損すると何も出来なくなる)だった。
---船体中心線上に4基の砲架を並べる無難な配置だが、2番砲架は直前に艦橋があるため、斜め前方の射界に少々支障があったようである。
5,500トン型では2基の砲架を左右並列配置とすることでこの点が大きく改善され、特に突撃の際、斜め前方から正面にかけて濃密な弾幕を展開することが可能となった。
---砲熕兵装に関して特筆すべき点として、中口径砲を主砲とする日本軍艦として初めて「方位盤」と呼ばれる、発砲に必要な諸元を算出するための照準・計算装置を採用していることが挙げられる。((「羅針盤」とは異なる装置である。))

#fold(もう少し詳しい解説。){{
もう少し詳しい解説。
-「方位盤射撃装置」などとも呼ばれるこれは、黎明期の火器管制システムの一部であり、弾道修正の一部手順を自動化したほか、砲術長をはじめとした射撃指揮官による各砲照準の一元管理、各種状況の容易な把握、そして電気信号での遠隔撃発を可能とした照準装置である。
--より原始的な方位盤を用いた全砲の統括照準は、日清戦争よりも前、有煙火薬全盛期の大口径砲艦において、自艦の砲煙のせいで砲側では照準が困難という理由ですでに実施されていたが、無煙火薬と速射砲の普及によって一度廃れた。この2つの要素は、日清戦争期とそれ以降の砲戦術に、各砲を連携させての射線形成から、個々の連射性能を最大限に活かした各砲独立射撃へのパラダイムシフトを引き起こした。
--が、日露戦争以後は、砲の大型化や射程延伸によって交戦可能距離が開いたことで「散布界」を考慮した弾着修正の必要が生じ、また照準に足る性能の測距儀や、時間経過に伴う自艦と目標との距離の変化を計算・予測する「変距率盤」と「距離時計」の導入により、再定義された打ち方や弾着修正の要領を含む「射法」という概念が具体化された結果、再び一元的な射撃指揮装置にニーズが生じたのだ。
--ちょうど日露戦争と同時期、より近代的な方位盤が英国にて模索されはじめ、1913年、大正2年にはヴィッカース製の方位盤射撃装置が、変距率盤と距離時計を発展させた機械式コンピューター「ドライヤー式射撃盤」と共に、イギリス海軍に採用される。
---大雑把に言えば、方位盤が測距儀や見張り員と連携して照準と観測を、それらの情報をもとに射撃盤が目標の現在・未来位置算出と弾道計算をおこなう。第一次大戦以前に、これだけ洗練された火器管制装置を主要な砲打撃艦に備えていたロイヤル・ネイビー、なんだかんだで侮れない存在である。&color(Silver){測距儀の性能差のせいで、夾叉または最初の命中弾を得るまでの時間がドイツに比べて長かったのはナイショだ。};
--この報を受けた日本もさっそく開発に着手し、敷島型戦艦[[朝日]]や金剛型[[榛名]]でのテストを実施。大正6年以降には、[[扶桑]]型と[[金剛]]型を皮切りに、大口径主砲搭載艦へ標準装備されるようになった。
この流れはより小さな艦へと波及し、まずは天龍型に、やがて簡略化されたタイプが[[睦月]]型駆逐艦にも採用される。
---外見はハンドルがたくさん付いた単眼式の望遠鏡のようなもので、測距儀は別に備えている。後に主流となる「測距儀と一体化された円筒ないし箱形の小屋」型の方位盤とは全く印象が違うが、基本的な機能は同一。
竣工時の天龍型の場合、キャンバス張りの羅針艦橋の後方寄り、ちょうどマスト搭載探照灯の下あたりに設置され、その直前に据え付けられた2.5m測距儀とともに照準を担っていた。
天龍は後の天蓋固定化改修の際に測距儀を屋上に移設しているが、方位盤の移設・更新については不明である。
---これら初期の国産方位盤には、照準器たるそれ自体に計算装置が組み込まれていたが、昭和に入って国産射撃盤が実用化されると、両方を装備することを前提として機能を分担した設計がおこなわれるようになった。
大口径砲用の射撃盤は昭和5年から同7年にかけて[[北上]]と[[大井]]をテストベッドとして開発され、実戦配備は昭和8年、榛名の主砲用から始まり、改良されつつ大~中口径砲の指揮系統へ逐次導入された。これと並行して簡略型の「距離苗頭盤」も開発され、昭和7年以降、[[既存の>吹雪]][[特型>綾波]][[3タイプ>暁]]への追加装備を始めとして、新型駆逐艦への搭載が進められた。
---一方で高角砲の指揮用として、方位盤に航空機への照準機能を付与することも試みられた。
専ら高射用の方位盤は「高射機」と呼ばれ、同じく高射用として設計された「高射射撃盤」、そして砲および機銃への伝令装置とセットで「[[高射>91式高射装置]][[装置>94式高射装置]]」を構成した。高射装置の登場後は、単に方位盤と言った場合は平射向けのものを指すようになった。後に平射砲でも応急的な対空戦闘が可能なように、方位盤をベースとしつつ一部に高射機の要素を導入した「高角方位盤」も開発されている。
-5,500トン型の主砲7基7門を見てしまうと4基4門という天龍型の頼りなさは否めない。しかし切り詰められてこそいるものの、船体の設計や武装の配置は、至って堅実で無理がない。これに当時の日本人の体格に最適化され、軽装甲目標であれば十分な威力と最善で10発/分の発砲サイクルを発揮する14cm砲、そして効率的な統制・正確な射線形成を可能にする方位盤を組み合わせることで、主砲の口径が15.2cmより小径化し門数は半減、さらに副砲が高角砲1門へと削減されているにもかかわらず、筑摩型同等の砲戦力を維持している。
--運用史を龍田と比較した際に顕著な天龍の特徴は、この艦砲機構を水上艦艇に対してフル活用し、水雷戦隊旗艦よりもむしろ水上打撃力の一翼を担ったケースが目立つ点である。
}}

--雷装は艦これの[[駆逐艦装備>61cm三連装魚雷]]より旧い「六年式53cm三連装魚雷発射管」を二基、艦の前後に搭載しており、当初はレールの上に載せて発射管を左右いずれかの投射する舷側に移動させ旋回させるという形式をとっていた。
しかし荒れた海の揺れる艦上で重量物の装填済み発射管をレール移動させ、旋回させるのは困難かつ危険な事が分かり、昭和9年頃に発射管基部に高さを設けて中心線上に固定して旋回させ投射する形式に改められている。
---筑摩型の45.7cm単装3基とでは、射線数2倍かつ魚雷自体の性能も上。同時期に竣工した一等駆逐艦の標準が53cm連装3基であるため、これらと同等の打撃力を持つ重雷装だった。
しかし魚雷戦大好きな日本海軍、この分野の技術革新と既存装備の陳腐化は早かった。
後継の61cm魚雷は、5,500トン型では長良型から連装4基、駆逐艦では睦月型に3連装2基という形で装備が開始され、天龍型の雷装は早々に見劣りがするものとなってしまった。
---近代化改装された艦を除き、5,500トン型の雷装は53cmないし61cm連装発射管4基が標準である。が、配置は右舷2基・左舷2基であり、実は天龍型の方が片舷当りの射線数が多かったりする。
ただ、球磨型、長良型も設計当初先述の欠点が判明するまでは三連発射管の中心線前後二基配置であった。先述の欠点が判明したので投射の確実性を取る方向に変更したのである。
--上で触れられているとおり、軽巡洋艦としては小さすぎたために改装の余地はほとんどなく、対空兵装の逐次追加程度にとどまっている。&color(Silver){%%つまりちみっこなのだが、胸部装甲はおっきい。トランジスタグラマー?%%};
---艦娘の天龍は15年梅雨限定ボイスで電探による天気予報を披露したが、''史実の天龍が電探を装備したという記録は無い。''
&color(Silver){ただの勘だの、悪天候に弱いだけだの、FURUN○製のオーパーツだの、実は頭のアンテナらしき艤装が天龍の本体だの、散々な言われようだった。};
}}}

&br;
-ロンドン海軍軍縮条約の失効直前、日本海軍は天龍型2隻を廃艦にする代わりに代艦として1万t級軽巡洋艦の建造を米英に通告しており、実際に起工された。しかしこれは軽巡洋艦とは名ばかりの重巡洋艦であり、条約失効後に[[20.3cm連装砲]]を搭載し本来の姿として完成した[[彼女>利根]][[達>筑摩]]のことであった。
そのため軽巡の頭数が不足することから天龍型の廃艦も取りやめられ、旧式艦でありながら第一線で使われることとなった。&color(Gray){てか1万tクラスに水雷戦隊率いらせる気ハナからゼロだっただろ…}; (^^) 

&br;
**天龍・戦歴 [#ec346db6]
#fold(戦間期がその生涯の大半を占め、日米開戦から戦没まではおよそ1年。しかしなかなかに波乱万丈な艦生である。){{
戦間期がその生涯の大半を占め、日米開戦から戦没まではおよそ1年。しかしなかなかに波乱万丈な艦生である。
-1928年まで各水雷戦隊の旗艦を務めた後、遣支艦隊として中国方面の警備任務や、呉・舞鶴の練習艦および沿岸警備などに従事。
--天龍が初めて旗艦を務めた水雷戦隊は、あの第二水雷戦隊。竣工からまもなくして拝命となった。
天龍自体が初の水雷戦隊旗艦用軽巡であり、事実上の二水戦初代旗艦というわけ。&color(Silver){フフフ、怖いか?};
---一応、第二水雷戦隊自体はそれ以前から存在したが、最初は後の「花の二水戦」どころではない旧式小型艦(三等駆逐艦)の寄せ集めであり、旗艦の利根(先代)も幾分新しくはあったもののレシプロ機関の旧式艦だった。
しかも漸く二等駆逐艦が揃った頃には更に旧式の、日露戦争当時の装甲巡洋艦が旗艦を務める事態になっていた。
いくら当時の水戦旗艦への要求が「駆逐艦母艦」だったとはいえあんまりな編成だが、当時は第一次大戦の真っ只中で、利根や筑摩型3隻などは南洋方面で船団護衛や巡洋艦「エムデン」を筆頭とするドイツ通商破壊艦((特にエムデンは冒険的な活躍をし、エピソードを後世に語り継がれている。世代が世代だけに艦これ未実装だが、その例外となり得るほどの伝説的な艦である。))の捜索などに奔走しており、水雷戦隊に最新型を回す余裕がなかったのだ。
--1921年に二水戦を退いた後、今度は第一水雷戦隊の旗艦を数次に渡って務めている。
この最中に関東大震災が発生。持ち前の快速を活かし、物資の輸送と救援活動を実施した。
--1935年4月の満洲国皇帝訪日に際しては、宮島での警衛艦を務めた。
--日中戦争が開戦した1937年には、第十戦隊旗艦として青島攻略支援に出撃する予定だったが、これは中止となっている。
&br;
-日米開戦直前の1941年12月1日、[[第四艦隊>鹿島]]の隷下として姉妹で第十八戦隊を編成。
丸茂邦則((まるも・くになり氏。くにのり氏だった可能性あり。派手なエピソードが無い・・・というか、後任者の残したエピソードがやたら強烈なためにいまひとつ影が薄いが、大戦初期の快進撃から軍勢に陰りが見え始めた時期にかけて、堅実に天龍と龍田を指揮した職人である。))少将の指揮のもと、開戦後は太平洋戦線緒戦の各地攻略を支援、珊瑚海海戦にも参加。
--この時期は姉妹揃っての単隊行動が多い。第六戦隊や第二十三駆逐隊と連携し、対地砲撃や陸戦隊の揚陸に奔走した。
--二十三駆の解隊後は第二十九駆逐隊・第三十駆逐隊とも連携したが、彼女たちは基本的に[[夕張]]率いる第六水雷戦隊の指揮下にあった。
十八戦は直属駆逐艦を持たず、六戦の護衛や別働隊となることが多かったようである。
---後述する松山司令官が着任したのは珊瑚海海戦後、二十三駆解隊とほぼ同じタイミング。1942年5月終盤、整備と乗組員休養のため、母港の舞鶴に帰港したときだった。
--7月に六水戦が解隊されると、三十駆が海上護衛隊を経て、新設の「外南洋部隊」、すなわち第八艦隊所属となった。同時に十八戦も初期編成に組み込まれた。正式な水雷戦隊ではないが、天龍と龍田は、[[睦月]]、[[弥生]]、[[望月]]、[[卯月]]の4隻を、実質的に統率することになった。
&br;
-そして、生涯最大の魅せ場が訪れる。
自身同様に旧型で、第二海上護衛隊所属となっていた二十九駆の夕凪(2代目神風型9番艦・未実装)、そして同じく第二海上護衛隊へと異動したはいいが、いろいろと問題を抱えた夕張((2隻の所属艦隊については異説あり。実質的に第八艦隊の指揮下にあったことは間違いないようだ。))と共に、第一次ソロモン海戦に参加した。
--元々は不参加の予定だったが、第十八戦隊の首脳による必死の訴えで急遽参戦が決定した。
しかし流石に僚艦との性能差は覆しがたく、急な参戦の所為もあって色々と不具合に悩まされたようだ。
なお龍田は、このとき別の輸送任務に従事しており、同行できなかった。
--'''「俺を、第一線から下げるなっての」 ― 第十八戦隊司令官・松山光治((まつやま・みつはる氏。海兵40期。海の無い奈良県の出身で、同県が輩出した数少ない海軍将官のうちの一人。砲術畑のかたで、[[五十鈴]]や[[榛名]]の砲術長、砲術学校教官、[[北上]]、[[衣笠]]、[[高雄]]の艦長を経て十八戦司令官に就任。後に館山砲術学校の校長となった。「坐り込み」をはじめとして、何かと意気を感じるエピソードを持つ人物である。))海軍少将'''
・・・と、本当におっしゃったのかどうかは定かでは無いが、意訳としては大体合っていると思う。
氏が参謀長と共に敢行した第八艦隊司令部への直談判は、''「松山光治の坐り込み」''として、後にちょっとした伝説となったらしい。
---ただでさえ中核となった5隻の重巡中、4隻が艦齢の旧い古鷹・青葉型だったのに加え、輪をかけて旧式かつ小型で低凌波性能かつ弱武装かつ鈍足、おまけとばかりにあれこれトラブルを抱えた3隻が、松山少将の人力で以って無理やり参戦してきたのである。作戦計画は、特に速力と艦隊運動の面で大幅な妥協と簡略化を余儀なくされた。鳥海のページの1編集者いわく、''「オンボロ余り物共の烏合の衆」''。
第八艦隊司令長官・三川軍一中将の心情はいかなるものだったのか・・・。&color(Silver){私の計算では・・・こんな事あり得ない・・・!};
---そもそも夜戦目当てとはいえ、大した航空支援も無しに巡洋艦隊を大規模な敵性海域に殴り込ませるという計画自体、士気の維持に寄与した点を除けば、どこか場当たり的な感が拭えないものである((ちなみに参謀として作戦立案の中心となった人物が、"あの"神重徳大佐だったりする・・・。))。旗艦・[[鳥海]]にしても、艦齢が若い一方で、他の[[高雄]]型姉妹と比べると近代化改修が遅れており、一部機材は旧式化していた。三川長官はそんな現場の指揮を担わされた挙句、敵艦隊に甚大な打撃を与えることには成功したものの、肝心の目標である輸送船団まではとても手が回らず、作戦終了後に批判の的とされてしまったのだ。&color(Silver){どうも苦労人属性が見え隠れしているような・・・。};
--結局、艦隊の先陣を切って水雷戦をする艦種でありながら、邪魔にならないよう主力より後ろに配置されてしまう。
指令伝達に重要な無線電話の設定すら間に合わず、3隻は鳥海とろくに連絡が取れない中で戦う羽目になった。
---夕張は3軸中1軸が故障で全速力が発揮できず、航行不能時に陸戦隊となるべく個人用の小火器を積み込む有り様で、さらに軽微ながらも初期の戦闘で損傷を受けていた。
夕凪は電源故障で船位不明に陥り、手近な敵艦を雷撃した後にやむなく戦線を離脱した。
天龍は天龍で、探照灯射撃で駆逐艦1隻を中破に追い込むも、砲撃の振動でジャイロコンパスが故障、針路がわからなくなっていた。&color(Silver){リアル羅針盤ルーレットじゃねえか・・・。};
---各艦とも、もはやヤケクソな状態だったが・・・炎上する敵艦を避けるために、先を行く[[古鷹]]が転針。これに針路不明の天龍が続航し、さらに夕張も続いて、本隊とはぐれてしまったことが、この後の戦闘に思わぬ結果をもたらすことになる。詳細をご存じでない方は、各自で調べてみてほしい。&color(Silver){%%一言で表すと、9割以上は逸れる編成で羅針盤に2回勝った。あるいは逸れた先からボスへと行った。%%};
--なお、この戦闘で天龍は探照灯照射につきものの反撃を浴び、同灯を破損して失っている。眼帯の元ネタは、このサーチライト破損の表現なのではないか、と囁かれている。''仮にそうだとすると、ガチの隻眼。''
&br;
-その後は戦局が徐々に悪化する中、南洋方面の攻略支援や輸送作戦に従事。
--1942年8月末から9月初頭にかけての、ポートモレスビー作戦に伴うラビ攻略作戦では、三十駆のほか[[叢雲]]や[[嵐]]に加え、なんと[[第>浦風]][[十七>谷風]][[駆逐>浜風]][[隊>磯風]]の指揮を執ることになった。
龍田と持ち回りで旗艦を務めて出撃し、兵員・物資揚陸や火力支援にあたったが、戦略の甘さが祟ってさっぱり成果が上がらず、陸戦隊ともども苦戦を強いられ、とうとう撤退に追い込まれた。この際、若干の隊員が取り残され、ついに消息不明のままとなってしまった。
---この戦いにおける最大の活躍は、作戦初期に連絡途絶・消息不明となり、撤退開始後に所在が判明した353名の陸戦隊員に対する救難活動であろう。
彼らは上陸地点近傍で待機中に空襲され、発動艇ごと物資や無線機を沈められていたのだ。
敵の航空攻撃が活発化する中、駆逐艦たちや潜水艦伊1(未実装)と共同で逐次収容を試み、最終的には天龍が261名を一気に引き揚げ、10月の後半に撤収を完了させた。
---この救難行動中の10月2日、ラバウルにてB-17による爆撃を受け、戦死者22名、重軽傷者48名という、大きな人的損失を被ってしまった。
同時に副砲が破壊されたが、代替品を地上軍から捻出、突貫工事で仮装備して救難を続行した。
&br;
-この後、11月初頭からしばらくの間、天龍は第十八戦隊を離れ、ショートランド泊地にてガダルカナル島への全力輸送に携わることになる。このとき、生涯でただ1度だけ、[[暁]]、そして[[雷]]と同じ戦列に並ぶことになった。
--同時期、至近弾の影響と思われる操舵装置の不具合が表面化した龍田は、一度トラック泊地に回航され[[明石]]による修理を受けたが結果は思わしくなく、結局舞鶴工廠に入るまで不調を引きずることになった。この時期以降、天龍型姉妹は別行動を取るようになる。天龍戦没まで1ヶ月を切ろうとしていた。
--悪天候で艦載艇を失い、さらにその乗員がガ島に取り残されるなどの苦難に見舞われつつも任務をこなしていた天龍だったが、戦力再編の折、''11月7日に、第四水雷戦隊の旗艦に抜擢された。''
・・・と思ったら、''同月9日に、たった2日で取り消された。''将旗は元・旗艦、[[朝雲]]へと戻されることに。どういうことなの・・・
---'''「ごめん、天龍。俺、やっぱり朝雲のことが好きみたいだ」 ― 第四水雷戦隊司令官・高間完((たかま・たもつ氏。海兵41期。ハルナーな提督には聞き覚えがある名ではないだろうか。))海軍少将'''
・・・などとおっしゃったはずは 絶ッ 対 に 無いが、細かいことはともかく、天龍の老朽化を如実に物語るエピソードではある。
&color(Gray){朝潮と運命を共にした佐藤康夫司令といい、[[霞]]を愛した木村昌福司令官といい、朝潮型乗りにはガチが多い。無論、一本気で胸が熱くなるという意味で。};
---真相はどうやら、朝雲を含む駆逐艦たちのみの編成でガ島行き輸送作戦を実施するにあたり、後方の作戦指令室として%%留守番を命じられた%%臨時旗艦を拝命したということのようである。しかしそれって結局は老朽化が原因なのでは・・・。&color(Silver){オレを第一線から下げるなっての!};
--そんな理不尽な扱いを受けながら、第一夜戦明けの11月13日朝に参加した第三次ソロモン海戦では、これまた無茶をやらされていたりする。
&br;
-泥沼化するガダルカナル島、そして東ニューギニアに対する連合軍の反転攻勢。戦局は悪化の一途だった。
特にラバウル・ニューギニア方面守備隊の負担が限界に達したため、第十八戦隊が戦力を拡充し、これを支援することになった。
--11月23日、涼風に座乗してラバウルに入った松山司令官は、到着するなり、先に着いていた天龍へ将旗を移動。''天龍は再び第十八戦隊旗艦へと復帰した。''
配下には駆逐艦が大量補填され、東部ニューギニア方面護衛隊を編成。龍田を除いて主力艦艇だけで11隻という大所帯が誕生した。
---第十八戦隊の天龍以下、第八駆逐隊の[[朝潮]]・[[荒潮]]、第十駆逐隊の[[夕雲]]・[[巻雲]]・[[風雲]]、その他が[[白露]]・[[春雨]]・[[磯波]]・[[早潮]]という・・・なんだよ、これ。
&color(Silver){高性能駆逐艦がこれだけ揃ってるのに旗艦の座を譲らせないとは、松山氏、%%相当なこだわりプレイ派%%天龍と乗組員たちをとても信頼してたんだな・・・。};
---もう少し合理的に考えるならば、指揮下に入ったとはいえ第十八戦隊直属となったわけではない駆逐艦たちのクルーに対して松山司令官が配慮した、あるいは旗艦に任じる権能が無かった可能性もある。
一方で木村司令官と霞の例のように、勝手を知り尽くしている艦への座乗には意思疎通や状況把握に関して有利な側面があり、また直談判までして出撃してソロモンの夜を共に戦い抜いた天龍への愛着と、そのクルーに対する信頼が、松山司令官に無かったとは考えにくい。
何かしらの記録やご本人の言葉が残っていればよいのだが・・・真相は闇の中である。この件について参考になる文献をご存じの方は、ぜひ加筆をお願いしたい。
---え、1隻足りないって? いやあ・・・まさかの[[電ちゃん>電]]なのです・・・。
暁と雷との出撃時、天龍は旗艦では無かった。電は第六駆逐隊のメンバーで唯一、天龍の指揮下で戦った経験を持っているのだ。
--絶望的な状況下、とにかく数を揃えるために、とりあえず使える生き残り艦を寄せ集めたに等しい有り様だったが、ある意味で第十八戦隊が最も賑やかかつ強力になった時期であり、間もなく訪れる天龍の戦没、その戦歴の終わりに華を添えた。
--12月8日、輸送作戦に従事中の[[朝潮]]が空襲により中破する。
この時ラバウルにて待機中だった天龍に対し、松山少将は緊急出動を発令。''自身も座乗したうえで、天龍を単騎で救援へとかっ飛ばした。''&color(Silver){そう来なくっちゃなぁ、抜錨だっ!};
&br;
-最期は1942年12月18日、パプアニューギニア北岸・マダン上陸作戦の支援中。20時15分ごろ、SS-218「[[アルバコア>俗称・スラング集/あ#albacore]]」の雷撃を受け、これが致命傷となった。
--同作戦には第十八戦隊の上記戦力に加え、涼風や輸送船数隻のほか、鳥海、[[熊野]]と[[鈴谷]]、さらに[[隼鷹]]率いる母艦航空隊の直援として、磯風や浜風、そして[[阿賀野]]が参加していた。
--この際、旗艦任務は[[磯波]]に引き継がれた。救援は[[荒潮]]がおこなう予定だったが、先に輸送作業を終えた[[涼風]]へと命令変更、彼女が天龍のもとに駆け付けた。
---当初は曳航を試みたものの浸水が進んで思うようにいかず、最終的に横付けして生存者を救助することとなった。少なくとも21名が戦死していたが、多くの乗組員が命を繋いだ。
---被雷直後から救助完了までの目視および通信の記録は、[[電]]の乗組員がその戦闘詳報に書き残している。ボイラー室後部を貫かれ、火炎と白煙を上げる様子が、彼女と彼らが最後に見た天龍の姿である。
--沈没時刻は夜遅く、23時ごろ。南緯05度8分・東経145度57分、マダン沖およそ15km、ヴィティアズ海峡のビスマルク海側に眠る。
---潜水艦による日本海軍軽巡洋艦最初の撃沈例となった。姉妹揃って潜水艦に沈められている。
--1942年12月24日、編成からおよそ1年と1ヶ月で、第十八戦隊は解隊された。龍田は第八艦隊直属となった。
松山司令官は、天龍を見送るかのように第一線を退き、館山砲術学校の校長となった。
---なお、''解散直前の12月21日に、第十八戦隊旗艦は磯波から望月へと''・・・&color(Silver){運用上の都合なのか、それとも旧型艦が氏の好みなんだろうか・・・。};
&color(Silver){磯波は磯波で、上記11隻の中では天龍に次ぐ古参だし・・・。};
&br;
-開けて1943年、昭和18年の2月1日。近代の夜明けと共に先駆けとなるべく産まれ、後輩たちに追い抜かれてなおがむしゃらに時代を駆け抜けた古兵は、日本海軍の艦籍名簿から姿を消した。
}}

&br;
**天龍・よもやま [#c439f9e8]
#fold(その他の逸話や考察、命名と後継についてはこちらに。){{{
その他の逸話や考察、命名と後継についてはこちらに。
-第一次ソロモン戦を含め、夕張とは何かと縁のある艦だったりする。
--そもそも帝国海軍にしては珍しい三軸推進だったり、
--同戦終盤、互いに傷を負いながらも、駆逐艦を共同で探照灯射撃して大破させていたり、
--それ以前のウェーク島攻略戦で、F4Fワイルドキャットの大暴れに手を焼いたり。
---本隊旗艦の夕張は、たった数機の爆装戦闘機により駆逐艦疾風(2代目神風型7番艦:未実装)と[[如月]]を沈められたことで極度の混乱に陥っており、
&color(Purple){「落ちつけ、夕張。何があったか、きちんと説明しろ」};&color(Green){「逃げて! いいから逃げて! 敵機が来る!」};&color(Silver){(注:意訳)};
直後に別働隊へ敵機が来襲、同行していた[[龍田]]共々攻撃に晒され、天龍は機銃掃射によって乗組員一人を失ってしまい、
&color(Purple){「くそう、夕張、何か俺たちにできることがあるか? 助けが必要なら知らせろ」};&color(Green){「―――! ―――!」};&color(Purple){''「シカトしてんじゃねえよ!」''};&color(Silver){(注:意訳)};
--&color(Silver){「あいつと厄介事に当たるときには、大抵無線が不調になってる気がするぜ・・・」};
--そもそも夕張の設計思想の根底には「3,500トン型、つまり天龍型よりも小さな船体に、5,500トン型相当の戦闘力を盛り込むにはどうすればいいのか」という平賀氏の野心があった。結果的に、同規模の排水量、駆逐艦を拡大したような基礎構造、3軸推進、デビュー時は画期的だったがコンパクトすぎて発展性に余裕が無いなど、共通点が何かと多くなっている。それでいて天龍は英国流の保守的な外観と艦内配置、対する夕張はより先鋭的で独特な外観と艦内配置を持つなど、対照的な点も多い。致命傷が潜水艦の雷撃で、また2隻の曳航を試み、そして最期を看取ったのが、天龍は[[涼風]]、夕張は[[五月雨]]だというのは、明らかに偶然だが・・・ゲーム的には不思議な一致である。
--その一方で、相棒と称する龍田とのエピソードはそれほど多くない。実際には結構な回数、少なくとも夕張とよりは多数の出撃を共にこなしているのだが、天龍が武勲を立てたときに限って別行動しているのだ。自己紹介の''「あいつ、ちゃんとやってるかな?」''という台詞には、彼女なりの龍田への想い・気遣いが含まれているのかもしれない。
#br
-乗組員の話となると、とかく第十八戦隊司令官の松山氏に関する逸話にベクトルが向きがちだが、歴代の艦長にもまた個性的な面々がいる。
--3代目の横尾敬義((よこお・たかよし氏。1921年12月1日から、1922年5月29日まで在任。))は、明治から大正にかけて近代魚雷射法の理論確立に携わり、さらに[[特殊潜航艇>甲標的 甲型]]の初期アイデアを発案した、魚雷戦の権威だった。
--5代目の松下元((まつした・はじめ氏。1922年12月1日から、1923年10月15日まで在任。))は、後に海軍兵学校における教育向けの訓戒「五省」を考案する人物である。
#fold(訓戒「五省」とは){{
訓戒「五省」とは
-「ごせい」と読む。「論語」学而第一04の

曾子曰、吾日三省吾身、為人謀而不忠乎、与朋友交而不信乎、伝不習乎(曾子曰く、「吾日に吾身を三省す。
人の為に謀りて忠ならざるか。
朋友と交はりて信ならざるか。
習はざるを伝ふるか」と。)。

を元ネタにしたのかどうかは不明だが、いわく、

一、至誠に悖る勿かりしか  (常に誠実であったか?)
一、言行に恥づる勿かりしか (言動に不一致や瑕疵は無かったか?)
一、気力に缺くる勿かりしか (精神力は十分だったか?)
一、努力に憾み勿かりしか  (努力を欠かさなかったか?)
一、不精に亘る勿かりしか  (継続を怠らなかったか?)
-実際には旧海軍70年以上の歴史の中で、この訓戒が教育に用いられたのは末期の10数年ほど。比較的新しい文化である。
--当時は古参の海軍士官を中心に、柔軟性を重んじる気風に由来する「厳格な標語に対するアレルギー」があり、日本海軍の伝統にそぐわないとして否定的に見られる場合も少なからずあったようだ。
--一応、戦後の海上自衛隊では伝統的に継承されているほか、この訓戒の意思に感心したアメリカ海軍の将校が、メリーランド州アナポリスの米海軍兵学校に英訳版を掲示したという逸話も残る。
}}

--25代目の鹿目善輔((かのめ・ぜんすけ氏。1939年11月15日から、遅くとも1940年10月14日まで在任。))は、戦後、米海軍横須賀基地警備隊のトップとして辣腕を振るうことになる。
警備隊長時代の氏のモットーは「警備隊の勤務を通じて日本人の米人に対する国際信用を高める。米人をして真の日本人の特性を理解せしめる」であったという。

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#fold(タービンの欠陥と江風型駆逐艦との関連、艦本式以前の日本海軍ギヤード・タービン史。){{
タービンの欠陥と江風型駆逐艦との関連、艦本式以前の日本海軍ギヤード・タービン史。
-実はタービンから減速ギアにかけての仕様が、江風型とほぼ同一。
3動翼盤1段の巡航タービンを同軸に備えた2動翼盤1段+1動翼盤5段の衝動高圧タービンと、こちらも3動翼盤1段の後進タービンと同軸化された1動翼盤7段の衝動低圧タービンによって構成されるブラウン・カーチス((英ジョン・ブラウン社によって開発された、発展型カーチス式タービンの商標である。ブラウン・カーチス社という企業が存在するわけではない点に注意。))/川崎式全衝動タービンに、高圧側41歯・低圧側67歯の小ギアと301歯の大ギアから成る三菱/キャメル・レアード/ジョン・ブラウン製の1段減速装置を組み合わせている。
違うのは各部の製造工廠・企業と主機数・推進軸数で、江風型の2基2軸に対して3基3軸を搭載し、常備排水量で2.7倍近い差がある船体を、計画最大速力の33ノット付近まで加速させている。天龍に限って言えば公試で34.206ノットを記録している。&color(Silver){ちなみに公試の段階からトラブル続出だった模様。};
--共に日本海軍のオールギヤード・タービン採用艦((全タービン軸ではなく、巡航用タービン軸にのみ減速ギアを設けたパーシャルギヤード・タービンに関しては、すでに駆逐艦で採用されていた。一等駆逐艦として江風型の前級にあたる磯風型は、中央軸が直結式の高圧タービン、左右軸の左が減速式の巡航高圧、右が巡航中圧、さらに左右それぞれが直結式の低圧・後進タービンで駆動される1基3軸推進で、1軸あたり最大750回転/分で運転されていたようだ。))としては先駆けの部類で、そもそもオールギヤードという方式自体がまだまだ熟成されていない時期の設計でもあった。とりわけ天龍型は、''計画上では''同方式を日本海軍で初採用した艦だった。&color(Silver){実際の竣工順はどうだったのかって? 江風ェ・・・};
-全軸に減速ギアを備えるということは、推進軸・スクリュープロペラの回転数を効率的な領域に設定できると同時に、タービンの回転数を大幅に上げられるということでもある。
--前述の筑摩型3隻の中でも、1隻だけ4軸推進を採用し、公試では唯一27ノット超を達成した矢矧([[矢矧]]さんの先代)の場合、タービンと推進軸は直結式で最大465回転/分、軸馬力は2基4軸((外側軸が高圧タービン直結。内側軸の左が巡航高圧、右が巡航中圧、加えて左右それぞれの低圧・後進タービンと直結されている。全力時は左右ごとに1基2軸の計2基4軸となり、巡航時は内側軸のみが1基2軸として機能する、複雑な蒸気経路を備えている。))の計画値で22,500、最大で3万弱。建造当時は世界屈指の高出力と快速を誇っていた。
--対して天龍型の主機は、推進軸の計画回転数が400回転/分まで低下すると同時に、''低圧タービン軸の回転数が約1,800回転/分、高圧タービン軸に至っては約3,000回転/分、軸馬力は3基3軸で計画値51,000、全力で回すと6万馬力に迫り、それでいて主機3つの合計重量は削減されて1,000トンを切っている''という、それまでの常識を踏まえるとまさにケタ違いのパワーを発揮するシロモノだったのだ。&color(Silver){そりゃあ江風型ともども、初期不良のオンパレードにもなるわな・・・。};
参考として、大規模近代化前の[[伊勢]]型が、排水量およそ3万トンの船体に4万5千軸馬力である。少なくともデビュー当時、天龍型の船体に対する出力がいかに凄まじかったかが理解できよう。
---特に従来比で回転数がとんでもないことになった高圧タービンへの過負荷傾向が問題で、既存の技術レベルではブレードの折損事故が多発することとなったわけである。最終的に、これ以上の高出力化を図るためには、タービン素材自体の改良と、高・低圧両タービンの負荷配分の見直し、特に低圧タービンの効率改善とギア比の変更による両軸回転数の平均化が不可欠だという結論に至った。
--こうした状況は技術陣の地道な努力によって日に日に改善されていき、やがて安定した出力を発揮し、同時期の駆逐艦であれば先導・指揮に不足のない性能へと熟成されていった。
---もちろん最大速力が速いに越したことはないのだが、艦列全体が限界に近い速力で走ってしまうと足並みを揃えての艦隊運動が困難となるため、実際にはある程度の余力を見込まなければならない。水雷戦隊の嚮導艦は基本的に先頭で艦列を引っ張る立場のため、後続艦に対して最大速力が少し劣る程度では問題にならない。むしろ重要なのは、海況に左右されずに運動するための耐候・凌波性と、突撃時に後続艦の運動を阻害しないための加速力である。
---天龍型は筑摩型に対し、排水量を5,000トン弱から3,500トンへと減らした上で倍近い軸出力を与えられているため、そのぶん加速が鋭くなっている。ここが天龍型の肝、性能上の真価だと言える。
---逆に、この排水量削減と、船体中心線にプロペラシャフトを通す3軸推進ゆえの竜骨の弱さ、八八艦隊計画時代の日本式軍艦が総じて採用したスプーン・バウによって、耐候性に限界が生じたのは明確な性能上の弱点であり、大型化した後発の軽巡たちや、より小型ながら設計の工夫によって高い凌波性・航洋性を実現した特型以降の駆逐艦たちに水をあけられる原因ともなっている。
---矢矧の公試速力27ノットに対して天龍が34ノットという数値を読んで、「出力差の割にはそれほど速くないな」と感じた方がいるかもしれない。
船体の設計や排水量が近似ならば概ね最大馬力の3乗に最大速力が比例することを考慮すると、矢矧の速力を6~7ノット向上させるためには約1.825~2倍の出力が必要だという解が出る。出力差はだいたい理論値どおりだが、問題は上述のとおり、天龍型が筑摩型よりも小型にまとめられている点である。特に全幅と喫水が絞り込まれた細長い船体となっており、それならもう少し速力が向上してもよさそうなのだが、実際は「船体形状や排水量差の割にはそれほど速くない」のだ。全体的に改良の余地がまだまだ残る設計だったことが読み取れる。
&br;
-これらのデータが、従来の直結式タービン搭載艦で得られたものと合わせ、三菱が中心となって製作された艦についてはパーソンズ・インパルス・リアクション式およびそれをベースとしたパーソンズ/三菱&技本式、川崎を中心に製作された艦は海軍技術本部との共同開発型から川崎独自改良型のブラウン・カーチス式を経て熟成され、さらにウェスティングハウス製減速機のノウハウを吸収し、ブラウン・カーチス式を基礎とした標準主機・[[艦本式タービン>改良型艦本式タービン]]へと繋がる。天龍型と江風型のオールギヤード・タービンはこの技術系譜の重要な通過点にあたり、また型式的には艦本式タービンの直系祖先と言える。
--江風型より後の駆逐艦は、大型の一等駆逐艦についてはしばらく三菱が覇権を握り、パーソンズ・インパルス・リアクション式を広範に採用した。従来のパーソンズ式が全反動式、もしくは高圧タービンの第1段落のみ衝動式とするのに対し、全段衝動式の高圧タービンと反動式の低圧タービンを併用することからこの名がある。
---天龍にわずかに遅れて竣工ラッシュを迎えた峯風型は、計画最大速力39ノット、4番艦の島風([[ぜかまし>島風]]の先代)などは公試で40ノット以上を叩き出したが、それを保証したタービンの計画最大回転数は''高圧3,250回転/分・低圧2,750回転/分、推進軸出力は2軸合計で38,500軸馬力''というバケモノじみたものだった。これで故障が頻発しないわけがない。
---続く2代目神風型の中期仕様までは、改良によって同等の計画軸出力を維持しつつタービン回転数の低減が図られ、高圧2,750回転/分・低圧2,250回転/分まで落ちついた。
//さらに''レシプロ式補機の排気圧力を弁装置によって高く保ち、これを低圧タービンへ再供給する出力増強機構''が付与され、使用すると一時的に4万軸馬力を得ることができた。
//信頼性を向上させつつ、緊急時にはより高いパワーが出せる傑作主機となった
//ソース再検討の結果、いったんコメントアウト
これで信頼性はある程度向上したようなのだが・・・&color(Silver){こいつの設計を踏襲した主機を積む夕張のアレコレを知っちゃうと・・・。};
---なお、神風型の後期仕様4隻からは、艦本式タービンへと移行した。これに続くのが[[睦月]]型である。
--小型の二等駆逐艦では、樅(モミ)型での%%グダグダ%%各方式テストを経て、次級の若竹型では川崎製のブラウン・カーチス式が搭載された。
が、軍縮条約の影響を受けた日本海軍の戦略が、航洋性に優れる一等駆逐艦の大量増備を望んだため、二等駆逐艦の系譜はここで途絶える。
---いわゆるハイ・ロー・ミックスのローレンジを担ったのが二等駆逐艦なのだが、%%我らが魚雷バカ%%水雷戦に魂をかける漢たちが、そこそこの性能で妥協するはずがなかった。少なくとも速力においては35ノット以上が要求され、それを実現するための推進軸出力は合計21,500軸馬力が見積もられた。
---樅型のうち、三菱が主機供給を担当した艦のタービン計画最大回転数は、''高圧3,750回転/分・低圧3,000回転/分・・・狂ってやがる・・・''。その信頼性については資料が見当たらない。
公試排水量900トン程度という小さな船体では、タービンの大型化に著しい制約が生じる。段落数が多くなりがちな反動式タービンを含む構成で、段落数を増やさずに出力を稼ぐには、極限まで高回転化するほかに無かったのである。
---一方で川崎が主機を供給した艦のそれは、高圧3,250回転/分・低圧2,270回転/分。やはり高回転だが、三菱のものに比べると幾分スペックが大人しい。もちろん計画出力は同じである。タービン径が比較的大きく、それに伴って動翼端部の周速が高くなりがちというカーチス式の問題点を考慮してなお、1段落あたりの発生出力が大きい衝動タービンのみの構成は、主機の小型化に適しているのだ。
---若竹型向けの川崎製主機は、樅型向け川崎生産分の仕様をほぼそのまま引き継いでいる。
//ついでに2代目神風型と同じ低圧タービンブースト機構も付与されている・・・
//ソース再検証の結果、いったんコメントアウト。
--では、天龍型の後継はどうなったのか。
[[球磨]]型では水雷戦隊旗艦としての性格がより先鋭化し、排水量を増やして耐候性を確保すると同時に速力と加速力も同等以上とすべく、''4基4軸の計画値で9万軸馬力という天龍型どころか[[長門]]型(8万馬力)すら軽く凌駕する出力''を目指した。
当然ながら初期トラブルに見舞われたが、[[多摩]]で試験された新素材製の高圧タービンブレードへの換装など、対応は比較的スムーズに進んでいる。
川崎製の[[大井]]を除いて、パーソンズ/三菱&技本式を採用。高圧タービンの回転数は計画値で最大2,800回転/分程度まで抑えられるとともに、低圧タービンの回転数が2,200回転/分以上まで増速されている。
---三菱&技本式タービンは、パーソンズ・インパルス・リアクション式の基本構成を踏襲しつつ、独立した巡航タービンが備えられたほか、第1段落以降の高圧タービン蒸気経路が前後に分けられ、高負荷時には一部の蒸気を後半へとバイパスしてタービン全体から出力を発揮させ、中負荷以下ではバイパスをやめて蒸気の通過段数を稼ぐのが特徴だった((その設計には、球磨より1年早く起工され、同時期に就役した長門が採用した、ウェスティングハウス/技本式トリプルフロータービンからの影響もあるようだ。))。が、凝った割には運転効率・信頼性ともに芳しくなく、後に信頼性に関しては一応の解決を見たものの、効率向上は[[長良]]型搭載分で実施された改良で以って頭打ちとなった。
後に技本式から原設計のパーソンズ・インパルス・リアクション式へと差し戻した上で再改良を図った川内と那珂では、ボイラーの出力向上と相まって、9万5千以上の軸馬力を達成。
[[川内]]に至っては公試で36ノット以上の高速を叩き出した。&color(Silver){え、地の利補正もあるんじゃないかって?};((甑島近傍にて計測された数値だが、ここで全力公試をおこなった5,500トン型は妙に良い結果を残している。))
---上述のとおり、球磨型5姉妹の中で大井だけは、ライセンスの制約でタービンの形式が異なり、それに伴って各部のカタログ値も違うようである。
ブラウン・カーチス/川崎&技本式を採用したのだが・・・これが三菱&技本式に輪をかけてトラブルを連発。海軍技術本部に対してぶち切れた川崎造船所が、[[鬼怒]]・[[神通]]の機関設計において技本の後身である艦政本部の手出しを許さず、独自の改良ブラウン・カーチス式に拘る事態を招く。
特に蒸気過熱装置も併設された鬼怒は、川内型に先駆けて9万5千軸馬力の大台を突破、公試速力でも長良型中最速の35.454ノットを誇る。一方で神通の公試速力は35.107ノットで、川内と那珂(35.504ノット)に対しては若干劣るものとなった。((ちなみにテストロケーションは那珂ちゃんが館山沖、川崎組は揃って紀伊水道である。))
---結果は面白いやら皮肉なことやら。この後の艦本式タービンは、ブラウン・カーチス式がベースとなっている。
1段落あたりにかかる負荷の低減・分散や低圧タービンの効率向上では、パーソンズ式を下敷きにした三菱の設計に分があったようだが、素材の進化や設計手法の熟成により、高負荷を十分に受け止めることが可能な高圧タービンの製造に目処が立ったことで、コンパクト化が容易な川崎の設計、全衝動構成のブラウン・カーチス式が再評価された結果と考えられる。&color(Silver){%%「カワサキか・・・」とか言わせねえよ?%%};
&br;
-相対的に小さく軽く、そして速い駆逐艦たちの先陣を切ることを目指した天龍型の残したデータとノウハウは、新型軽巡の開発や、新方式のタービンの信頼性向上に多大な貢献をしたと言えるのではないだろうか。&color(Silver){そーゆー意味では畏怖というより尊敬の対象だと思うよ、天龍ちゃん。};
}}

&br;
#fold(運用史への考察。){{
運用史への考察。
-弱点の凌波性について、もう一度逆に考えると、南洋の島嶼間のように比較的波の穏やかな水域であれば、小柄な船体と加速力を生かして存分に運動できる、ということになる。
--たとえば第三次ソロモン海戦では、ヘンダーソン飛行場を砲撃する鈴谷と[[摩耶]]の護衛として、''夕雲型3隻・朝潮型1隻と同じ戦列に並び、魚雷艇を相手にするという無茶をやり、かつこれを成功させている''が、同飛行場は地図を見る限り、上の条件を見事に満たした海域((ガダルカナル島の北岸、すなわちアイアンボトムサウンドである。現・ホニアラ国際空港。))に面している。
---おそらくは朝潮型以降の水雷戦用駆逐艦が、[[吹雪]]型と比べて排水量を増やす一方、速力では35ノットで妥協していたことも無関係では無い。この頃の天龍は相当に老朽化が進んでいたはずで、もはや速力も計画値の33ノットには届かなくなっていたと考えられるが、初期の天龍と同等かやや高出力ながら2軸推進の大型駆逐艦に対して3軸推進を採用していたことが、新世代の駆逐艦たちにもギリギリ対応できるだけのダッシュ力を天龍に残す結果となった可能性がある。
---もっとも、軸馬力の計画最大値を知ることは比較的容易なのに対し、個艦ごとの公試最大値やそれに達するまでの過渡運転特性、スクリュープロペラの詳細な仕様となると簡単には出てこないため、あくまで推測の域だが・・・。
&br;
-戦歴を調べればわかるとおり、目立つ戦果のほとんどが砲撃によるものである。
一応、第一次ソロモン海戦では全門6射線の魚雷を放った記録が残っているが、命中弾の有無については不明である。
--設計が旧く威力不足ではあったが、信頼性が高く扱いやすい側面も持っていた主砲に対し、雷装の陳腐化はどうしようもないレベルになっていたという事情が第一に考えられるが、そもそも竣工から8年と少しの期間より後は、魚雷戦任務の水雷戦隊旗艦として運用されたことが無いのだ。駆逐艦を率いて出撃する場合はあれど、その任務は魚雷戦ではなかった。この点は天龍戦没以前の龍田も同様だった。
---一方、天龍にいくらかあって、龍田にはあまり無かった要素がある。水上艦艇、特に軍籍のそれに対する砲撃の機会である。
この差には特に、天龍の第一次ソロモン海戦への参加が大きく影響している。主力に続航して砲打撃力の一翼を担うという、計画時の想定からは半ば逸脱した運用だったが、それでも駆逐艦1隻を単独で中破、さらに駆逐艦1隻を共同で大破という戦果を挙げてみせた。
---逆に、天龍には無く龍田にある要素が、天龍没後、錬成部隊ながらも正規の水雷戦隊旗艦へ抜擢され、実際に任務にあたった経験である。
やはり実戦で魚雷を撃つ機会は無かったが、龍田戦没までの第十一水雷戦隊は、日に日に悪化する戦況と限られた資源の下、未だ乏しい対潜戦のノウハウを模索しながら、[[朝霜]]を含む中期生産型以降の夕雲型・秋月型、そして[[島風]]を錬成し、前線へと送り出した。
--天龍型姉妹の艤装の差異や台詞には、こうした史実が反映されている可能性がある。''「砲の天龍」「水雷の龍田」''というわけである。
&br;
-時流を踏まえて天龍型を眺めると、不思議な運命が見えてくる。上の項でも触れられている「駆逐艦の大型化」、そして「巡洋艦というジャンルそのものの変革」は、新たに生み出される水雷戦用艦・艦隊護衛艦の規模を、天龍型に近いものへと変えていったのだ。
--あらゆる点で天龍型を凌駕する5,500トン型だが、改善されたといっても居住性は劣悪な部類((一番理解しやすいであろう例が、高性能なタービンに大量の蒸気を供給すべくボイラーがずらりと並んだ缶室の直上に、兵員室が配置されている点である・・・。))であり、また加速力に優れている一方で船体が大きい分、駆逐艦に比べれば小回りがきかない。さらに天龍型よりは年式が新しいとはいえ、第二次大戦時には旧式化が進行していた。特に防空能力の不足が顕著だった。加えて、度重なる近代化改装は、彼女らの排水量を7,000トン近くにまで増加させていた。
---これらを代替すべく開発された[[阿賀野]]型は、その用途のほか、予算の都合もあって大型化に制約が生じた結果、「新しい技術、特に[[翔鶴]]型の機関部のそれと、[[古鷹]]型重巡の流れを汲む建造ノウハウを用いて、5,500トン型の設計思想を再解釈する」といった方針で計画され、ミニ重巡とでも表現すべき構造を持っている。確かに高性能かつ高バランスにはまとまったが、砲戦力や索敵力では重巡洋艦に劣り、雷装や運動性能では駆逐艦に劣るという、軽巡洋艦の中途半端な性格はより強調されてしまった。そのうえ要素の詰め込み過ぎで、5,500トン型が持っていた汎用性は失われ、また発展性にも乏しかった。かつての天龍型が突き当たった限界に、公試排水量7,700トン級の新鋭艦が直面することとなった。解決案として計画された改阿賀野型では、さらに排水量が増える見込みだった。
--一方で航洋性や居住性、機能性を追求する過程で次第に大型化が進んだ新型の駆逐艦群は、軽巡の頭数不足も手伝って、艦隊旗艦として運用されるケースが増えていき、これが良好な結果を示した。魚雷戦での好例が、ルンガ沖海戦での[[長波]]である。悠長に索敵機を飛ばす余裕など無い鼠輸送隊や強行輸送船団の護衛隊は、旗艦も含めて駆逐艦やそれに準ずる艦((松型駆逐艦ベースの第一号型輸送艦や、対潜戦力としての海防艦など。))を中心に編成されるのが通例となった。[[秋月]]型などは、もはや天龍型と同規模((公試排水量では天龍の3,948トンに対して秋月が3,470トン。満載状態では3,878トンまで増加した。上にも書かれているとおり、計画最大速力は同じ33ノット。))まで排水量が拡大され、その大きな船体と高出力缶・高効率タービンとの組み合わせが生み出す空間効率と、十分な防空能力を買われて旗艦をよく務め、戦闘任務の際に軽巡がいる場合でさえ、それを差し置いて臨時旗艦となることが多かった。
---諸外国海軍の動向も概ね同様である。
1930年代のイギリス海軍の場合、当初は10,000トン級艦とのハイ・ロー・ミックス運用を意図した3,000~4,000トン級の小型巡洋艦、つまりは天龍型と二アリーな規模の艦が計画されていた。
が、日本の特型駆逐艦などの影響を受けて再検討した結果、「むしろ大型の駆逐艦を作ってそっちに任せたほうがよくない?・・・ロンドン条約の枠的な意味でも」という結論に達する。
この「V型嚮導艦」レポートを具体化したのが、38年より就役が開始されたトライバル級駆逐艦((基準排水量1,870トン、満載排水量2519トン。))であった。
計画名とは裏腹に水雷戦隊の嚮導は主任務ではなかったが、シーレーン防衛において、従来は巡洋艦が担っていた任務の一部を代行できる艦だった。
---アメリカ海軍は、建前上の戦術こそ従来通り、水雷戦隊旗艦は巡洋艦が務めることになっており、旧式化したオマハ級の代替としてアトランタ級軽巡を建造したりもした。
しかし実際の現場ではベンソン級やフレッチャー級など、新鋭の大型駆逐艦が嚮導の任に当たることが多かった。
--こうなるといよいよ、水雷戦隊旗艦用という思想に基づく軽巡の価値は危ういものとなった。例外的に[[大淀]]は、潜水艦隊旗艦として計画された結果、独自の地位を獲得した。公試排水量は1万トン超、改装後の古鷹とほぼ同じで、なんちゃって軽巡の[[最上]]型にも迫る。砲の口径では軽巡に分類されるが、船体のほうはフルサイズの重巡と考えて差し支えないレベルである。実際には阿賀野型同等となったが、計画では6機の水偵を運用するはずだった点も、然り。日本の近代軽巡の系譜は事実上重巡へと統合され、重巡では果たせない分野に関しては、駆逐艦がその役を継承したと言える。
---イギリス海軍では旧式化した軽巡を改装、高角砲をガン積みし防空艦としてリユースするケースが流行した。
先述したアメリカ海軍のアトランタ級はこの発想に少なからず影響を受け設計されており、本来は嚮導艦として計画されていながら、結果的には防空巡洋艦として名を馳せることとなった。
---最終的に各国の小~中型軽巡洋艦は、砲の口径に依らない大型巡洋艦と、駆逐艦によって淘汰されていった((この経緯に関しては[[古鷹]]の記事に詳しくまとめられている。))。
それどころか駆逐艦は、戦後の電子兵装やミサイルの発展、特にシステム全体のコンパクト化や機能の複合化と共にさらに爆発的な進化・大規模化を遂げ、現代では大型巡洋艦さえも淘汰し、数の上でも打撃力としても主力の地位に就いてしまった。最近ではサイズと調達・運用両面のコストが肥大化しすぎたために、敵地沿岸部や潜在脅威のある海域での積極的な運用が困難となる有り様で、補完のために米海軍のストリートファイター・コンセプトを始めとした「最前線で攻撃的かつ安価に運用可能なフリゲート以下の小型艦」((あくまでも第一線の戦力として計画されている点が、従来のハイ・ロー・ミックスに基づく小型艦との大きな違いである。各国の設計に概ね共通する仕様として、満載状態で4,000トン以下の排水量、巡航用機関へのディーゼルエンジン採用、高度な情報システムへの組み込みとそれを活かした連携の重視、船体および艤装のモジュール化、ひとつの艤装仕様における機能の限定、適時改装や搭載弾種変更による多用途対応が挙げられる。))が構想される事態となっている。&color(Silver){コルベットですら特型駆逐艦並みの排水量なんだぜ・・・既存艦種と要求性能のほうを再定義したほうがいいんじゃないの?};
---第二次大戦までの長魚雷は訓練時の回収と再使用ができる一方で、実戦時の1発あたりの価格は高く命中率にも難があったことを踏まえると、「最前線で攻撃的かつ安価に運用可能なフリゲート以下の小型艦」という発想は、どことなく運用末期の天龍型を彷彿させる。
現代においてフリゲートと定義される艦のサイズは、満載排水量で3,000~4,000トン程度が主流である。収容力を考慮した商船的な船体を採用しているものが多く、古典的なクルーザー船体に対して全長は短く全幅は広いが、小型ながらもれっきとした近代軽巡の天龍型とそれほど変わらない規模なのだ。
--小ネタの最初にあるとおり、天龍型は水雷戦隊旗艦用軽巡の元祖である。それでは不足として開発されたはずの5,500トン型や、その思想を受け継いだ阿賀野型が進化の袋小路に陥る一方、彼女たちを代替した駆逐艦たちは、元祖に近い規模へと発展的に回帰した。第一次大戦末期から、戦間期を経て、第二次大戦へと至るまでに生じた各種技術の進歩、設計手法の熟成が垣間見える。それと同時に、どこか皮肉な運命を感じるのは、気のせいだろうか。
--天龍型の排水量といえば、竣工から戦没までの間に、大幅な増加が生じた様子が無い。少なくとも、満載状態で5,000トンを超過したという資料は見あたらなかった。
これは5,500トン型のような汎用性・拡張性を持っておらず、大規模な改装の余地が無い上に輪をかけて旧式だったことから、ろくな近代化がおこなわれなかった結果であろう。
成り行きながら竣工時に近い姿のままでいたことが、運動性の維持に寄与したのではないか、という疑問も生じてくる。
&br;
-まとめると、派手な活躍こそ多くないが、老朽艦としては相当にハードな運用が為され、なんとかそれに応えてみせるほどの底力を持っていた艦だと言える。
装備やスペックに関しては紛れも無い旧式となっていた上に、日米開戦から戦没まではたったの1年だったが、それでも''運用史ならば、軽巡の世界水準を軽く超えている''と言えるかもしれない。
第一次大戦終結直後に竣工した艦が、大したアップデートを受けることも無く、実戦による乗員錬度向上の機会も多くは無く、専ら旧式扱いされる中で、しかし次世代の海を所狭しと駆け巡り、成果を残した。
彼女と彼らの奮闘、その凄みは、決して軽視できるものではないはずだ。&color(Silver){あれ? なんだか天龍ちゃんが怖く見える・・・。};
}}

&br;
-その名の由来は長野県諏訪湖に発し愛知県と静岡県を経て遠州灘に至る天竜川。
古来より「暴れ天龍」「大天龍」の名前を持つ暴れ川として有名。日本最大級のダム建設など河川改修の結果少しは穏やかになったものの、未だに難儀な大河である。
--「天龍」の艦名は2代目。初代は1885年(明治18年)に就役し、日清戦争などに参加した巡洋艦であった。同型艦なし。
1906年に除籍、海兵団の練習船として使われた後、1911年に廃船。
--3代目として海上自衛隊の訓練支援艦「てんりゅう」が2000年に就役。ネタどころかガチで''「対空射撃の先生」''として転生してしまった。
ただし訓練支援艦の命名基準は「名所旧跡のうち峡谷の名」であり、河川の天竜川自体ではなく天竜峡(長野県飯田市にある天竜川の峡谷)から取られている事に留意されたい。
---護衛艦の防空シミュレーションや実射訓練に際して、無線操縦の標的機を射出・制御し、最後に着水させて回収、あるいは「処分」することが任務。
さりげないが、今の同僚の「くろべ」とともに日本じゃ極めて希少な無人固定翼機搭載艦である。&color(Silver){%%ロケットおっぱい? いいえ、ターボジェット機です。%%};
---健脚と対艦攻撃力が自慢の2代目とは対照的に、着水機回収時におこなわれる、特別な減速機とクラッチを活かした器用な微速航行と、''FCS付きの76mm速射砲による対空射撃''を得意としている。
&color(Blue){Q:囮を操縦するのが仕事の支援艦自身が、艦砲を積んで対空射撃。どういうこと?};
&color(Red){A:もしも実弾の命中で制御不能に陥った無人機が危険なコースを取ったとき、これを速やかに撃墜する必要があるからです。};割と洒落にならない理由である。&color(Silver){てんりゅうちゃんのドローンが怖い。};
当然、地上施設や民間船舶に対しての安全は訓練海域選定の段階からきちんと確保されているのだが、一方で支援対象の僚艦、あるいは自艦に対して無人機が突っ込んでくる事態のほうは、幾分現実味があるのだ・・・。お仕事、お疲れ様です。
-艦内神社の分祀元については不詳。&br;廃艦となった巡洋艦千歳(水上機母艦[[千歳]]の先代)の艦内神社を昭和4年に奉遷したという[http://kannaijinja.geo.jp/tenryu/ 新聞記事がある]が、その千歳の艦内神社が詳細不明である。
--「艦内神社は愛媛県今治市の大山祇(おおやまづみ)神社」という記載が各地で見られる。天龍で大山祇神社を祀っていたのは確かなようだが、天龍乗員は艦内神社とみなしていなかったらしく、上述の新聞記事には「(天龍では)守護神を祀っていなかった」という記載がある。
---大山祇神社の主神の「オオヤマツミ」は本来山の神であるが、ここ大山祇神社では海の神としての色も強く、一方で古くから武運長久を祈りに多くの武将や政治関係者の尊崇を集めた、武の神でもある。
もちろん海軍関係者の崇敬も高く、現在でも海保、海自両幹部の公式参拝が設定されている数少ない神社のひとつである。
天竜川とは一見何も関係ないが、近代巡洋艦の先駆けとなった天龍の武運長久と海上守護を祈願するには、適したチョイスだったともいえる。
}}}
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**天龍・艦これの天龍ちゃん [#saff2df1]
-ゲーム内のステータスにも現れている旧式さにもかかわらず、自信に満ち溢れたその台詞と、相棒があまりにドSなオーラを放っているため、二次創作ではビッグマウスで中身はヘタレのキャラとして扱われる事が多く、妹はおろか他の艦や提督からもよく弄られている。
--そしてどうやら[[下戸>家具#xa2f7e85]]であるらしいことも判明した。
-一方で、純粋に漢らしい・勇ましいとも受け取れることや、史実でいくつかの武勲を立てていること、旧式艦が知恵と勇気で活躍するというシチュエーションが持つ魅力などのためか、かっこいい方向性で表現されている天龍も数多い。&color(Silver){「おっぱいのついたイケメン」艦娘の代表格。};
-また序盤から[[相棒>龍田]]と共に遠征要員として起用されることが多く、編成される駆逐艦は多くが幼女なため、ネタで幼稚園の引率の先生として描かれていることもある。
そこまでは行かなくとも、根は優しく面倒見の良い姉御肌として描写されているケースはとても多い。
ちなみに一緒に描かれている駆逐艦は[[あ>暁]][[の>響]][[4>雷]][[人>電]]が多い。おかげで史実であの4人の指揮を務めていたはずの[[彼女>阿武隈]]の影が薄くなってしまっている…。
--ただし[[相方>龍田]]の方は、天龍なき後にあの3人の指揮を務めることになった。「あの3人」となっているのは、あちらも[[1人>暁]]が戦没してしまったため。
-最近はこうした二次創作の傾向が、公式にも影響している節がある。
人気は軽巡どころか艦これ全体の中でもかなり高い方だが、性能云々の問題で実際の出撃での使用率はお察しである……。&color(Silver){あえてこだわって前線に出したら、ネタプレイどころか史実再現になるってどうなんだろう。};
--この性格設定が生まれたのは、田中Pがキャラクター像を軽く伝えて担当イラストレーターにイラストを発注した所、想定より強そうなイラストが上がり、「この個性もアリ」と言う判断の元当初の性格設定を書き換えたからとの事。
強いイメージも「''本人が『自分は強い』と思い込んでいるのも良いだろう''」と考えたからだとか((Febri vol.19インタビューより。))。
-龍田や第六駆逐隊以外では、ビッグマウスと眼帯、斬撃武器持ちということで[[木曾改二]]と並べられることが多い&color(Silver){が、史実的な絡みは殆どない。};
&color(Silver){%%ついでに木曾改二は実力が伴っているのでヘタレ扱いされることもあまりない。%%};
--その他、史実の縁で三川艦隊+夕張、涼風と絡むパターンも散見される。
もし[[朝潮]]、[[夕雲]]、[[巻雲]]、そして[[風雲]]と並べて登場させる同人作家がいたならば、相当にコアな%%おっぱい星人%%天龍ファンであると見て、まず間違いないだろう。
磯波、朝潮とのエピソードはちょっとした感動を呼ぶかもしれない。&color(Silver){地味だのprprだの、あんまり弄りが過ぎるならオレが黙っちゃいないぜ?(パキポキ};
-『ノーブ&color(Silver){&size(10){ゲフンゲフン};};

*コメント [#comment]
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