|CENTER:218|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|c
|>|>|>|>|~No.215|
|&attachref(./215_2nd.jpg,nolink,陽炎型駆逐艦、野分。参上しました。さあ、司令。いきましょう。);|>|野分(のわき)|>|陽炎型 15番艦 駆逐艦|
|~|>|>|>|~艦船ステータス(初期値/最大値)|
|~|~耐久|16|~火力|10 / 29|
|~|~装甲|6 / 19|~雷装|24 / 69|
|~|~回避|44 / 79|~対空|12 / 44|
|~|~搭載|0|~対潜|24 / 49|
|~|~速力|高速|~索敵|8 / 19|
|~|~射程|短|~運|14 / 49|
|~|>|>|>|~最大消費量|
|~|~燃料|15|~弾薬|20|
|~|>|>|>|~装備|
|~|>|>|>|[[12.7cm連装砲]]|
|~|>|>|>|[[61cm四連装魚雷]]|
|~|>|>|>|COLOR(GRAY):装備不可|
|~|>|>|>|COLOR(GRAY):装備不可|
|>|>|>|>|~改造チャート|
|>|>|>|>|''野分'' → [[野分改]](Lv35)|
|>|>|>|>|~図鑑説明|
|>|>|>|>|LEFT:陽炎型駆逐艦十五番艦、野分です。舞鶴生まれです。舞風と一緒に第四駆逐隊に所属しました。&br;緒戦は那珂さん率いる四水戦と共に南方作戦、そしてミッドウェー、マリアナ、レイテにも参加。&br;できること…全力で頑張りました。|
※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。
#fold(CV:小澤亜李、イラストレーター:コニシ (クリックするとセリフ一覧が開きます)){{
CV:小澤亜李、イラストレーター:コニシ
#shadowheader(2,[[定型ボイス一覧>野分/定型ボイス]])
#table_edit(野分/定型ボイス)
~
#shadowheader(2,[[時報ボイス一覧>野分/時報ボイス]])
#table_edit(野分/時報ボイス)
~
#shadowheader(2,[[季節ボイス一覧>野分/季節ボイス]])
#table_edit(野分/季節ボイス)
~
}}
*ゲームにおいて [#about]
-2014年11月14日のアップデートで新実装。同日から始まった2014年秋イベント『[[発動!渾作戦]]』の[[E-4>発動!渾作戦#area4]]クリア報酬。
--2015年4月28日開始のイベント『[[発令!第十一号作戦]]』にて初めてドロップ配置された。難易度・確率ともにそこそこであり入手チャンスであった。
-2015年6月12日に実装された[[4-5>西方海域#area5]]にて、待望の&color(Blue){通常海域でのドロップが確認された};。
ただし通常海域の中でも屈指の強ボス&道中編成が相手とあってイベント海域深部並みの探索難易度。
勲章のついでと割り切るか、十分な余力を以て臨むかしよう。
&br;
-2013年7月10日実装の[[舞風]]の図鑑台詞内で言及されてから1年と4ヶ月越しの実装となった。
-未改造の金レア駆逐艦としては、[[Z1]]・[[Z3]]・[[時津風]]・[[磯風]]に続いて5番目である。
**キャラクター設定について [#character]
-第四駆逐隊の面々では一番真面目。
-[[舞風]]からの愛称は「のわっち」。のちに[[嵐]]からも「のわっち」と呼ばれていることが明かされた。
--一方で萩風からの呼び名は「野分」。…あれ?
ちなみに本人はのわっち呼びが気に入らないようで、四コマの嵐・萩風初登場回となる122話では萩風を「第四駆逐隊の良心よ……!!」と抱きしめて泣いていた。
**[[期間限定グラフィック>艦娘カード一覧(期間限定グラフィック)]] [#graphic]
-2018年2月17日、【エンガノ岬決戦】差分modeが実装された。
--タイミングは2018年冬イベント『[[捷号決戦!邀撃、レイテ沖海戦(後篇)]]』開始と同時。
--通常の立ち絵は他の限定グラフィック同様、冬イベント終了後に図鑑に格納されたものの、
通例は併せて格納されるはずの、カード状態に加工されたイラスト及び中破立ち絵は何故か図鑑に格納されていない。
-2020年10月16日、ハロウィンmodeが実装された。
--見た目的には(髪が灰色なのもあり)狼っぽい外見である。(&color(Silver){舞風が狂喜乱舞しそうとTwitterやここでも言われている};)
ふだん真面目な彼女がこの格好に少し困惑している様にも見えるが、同時に実装されたハロウィン台詞を聞く限り嫌いではないようだ。
--季節柄かシャツが長袖になっており、これがベスト型陽炎型制服の冬服なのかもしれない。シャツの裾をスカートに%%INしない%%しまわない着崩しスタイルは相変わらず。
なお、ハロウィンmodeの実装終了と共にいつもの半袖シャツ姿に戻った。&color(Silver){寒そう};
-
#fold(限定グラフィック:ハロウィンmode){{
限定グラフィック:ハロウィンmode
&attachref(./215_Autumn.jpg,nolink,いい、感じですね。野分、これは嫌いじゃないです。);
}}
*小ネタ [#trivia]
#fold(略歴){{
略歴
|CENTER:BGCOLOR(#959595):50|CENTER:BGCOLOR(#c5c5c5):50|BGCOLOR(#c5c5c5):800|c
|1939|11.8|舞鶴海軍工廠にて起工|
|1940|9.17|進水|
|1941|4.28|竣工|
|~|10.31|[[舞風]]と共に嵐・萩風のいる第四駆逐隊に編入|
|~|12.8|太平洋戦争開戦、[[第4水雷戦隊>那珂]]隷下に|
|1942|3.4|チラチャップ沖海戦に参加|
|~|6.5|ミッドウェー海戦に参加|
|~|8.24|第二次ソロモン海戦に参加|
|~|9.3|[[日進]]を護衛してガダルカナル島への輸送作戦に従事|
|~|10.26|南太平洋海戦に参加|
|1943|2.4|ケ号作戦(ガダルカナル島)に参加|
|~|8.6|ベラ湾夜戦で僚艦の嵐・萩風が沈没|
|~|9.15|[[山雲]]が第4駆逐隊に編入|
|~|10.10|舞風と上海~ラバウルの第17師団の輸送護衛に従事|
|~|11.26|舞風、[[潮]]とタンカー護衛に従事|
|1944|2.17|トラック島空襲に遭遇。第4駆逐隊司令・磯久研磨大佐および[[舞風]]を失う|
|~|3.12|松輸送に従事。[[龍田]]の乗組員を救助|
|~|6.18|マリアナ沖海戦に参加|
|~|10.25|レイテ沖海戦に参加、沈没した[[筑摩]]乗組員の救助にあたり、その後殿艦として撤退する|
|~|10.26|日付が変わった直後、軽巡洋艦3、駆逐艦2の砲雷撃を受け沈没。艦長・守屋節司大佐以下272名、前日に救助した[[筑摩]]乗員共々全員戦死((たったひとりの筑摩生存者は、筑摩沈没の現場付近で米軍に救助されている。))|
|1945|1.10|除籍|
}}
#fold(艦長){{{
艦長
|CENTER:BGCOLOR(#959595):55|BGCOLOR(#c5c5c5):150|BGCOLOR(#c5c5c5):290|c
|艤装員長|古閑孫太郎 中佐|1940年11月15日~1941年4月9日|
|第1代|~|1941年4月9日~1943年4月10日|
|>|>|CENTER:BGCOLOR(#959595):以降1943年6月10日まで艦長不在|
|第2代|荒木正臣 少佐|1943年6月10日~1943年7月3日|
|第3代|神田武夫 中佐|1943年7月3日~1943年12月25日|
|第4代|守屋節司 中佐&br;→(&color(Red){少将};)|1943年12月25日~1944年10月26日|
#fold(歴代艦長の略歴){{
''歴代艦長の略歴''
-''艤装員長・初代艦長'':古閑孫太郎中佐(兵49、92/174熊本)
--第40号駆逐艦艤装員・東雲航海長、水雷学校高等科学生、東雲水雷長、[[天龍]]水雷長、水雷学校教官。少佐昇進後野風、[[松風]]艦長。松風艦長時[[旗風]]艦長兼務。[[有明]]、[[叢雲]]艦長。中佐昇進後3度目の勤務となる東雲艦長を経て野分艤装員長・初代艦長。第1掃海隊司令、大佐昇進後第五艦隊第一水雷戦隊所属の第七駆逐隊司令。マリアナ沖海戦後の1944年9月以降は浜名海兵団司令、終戦時は舞鶴防備隊(潜水艦基地隊・突撃隊)司令。終戦時大佐。
-''2代艦長'':荒木正臣少佐(兵56、93/111山口)
--開戦時は砲艦熱海艦長。1943年3月[[磯波]]艦長に着任早々磯波沈没の憂き目に。[[旗風]]艦長を1月ほど務めた後野分艦長となる…も、なぜかわずか1月で潮の神田武夫中佐と交代で[[潮]]艦長となる。潮艦長としてレイテ沖海戦・多号作戦を乗り切り片肺航行となりつつも母港の横須賀にたどり着く。45年2月、浦賀で建造された宵月の艦長となる。終戦時中佐。
-''3代艦長'':神田武夫中佐(兵52、73/236東京)
--柿艦長、筑摩艤装員水雷長、皇族付武官兼比叡乗員。前述の荒木艦長の潮艦長としての前任者である。終戦後に大佐。
-''4代艦長'':守屋節司中佐→大佐&color(maroon){→少将};(兵51、48/255長野)
--水雷学校高等科学生を経て[[羽黒]]、追風、[[神通]]で水雷長、第1号掃海艇長、[[涼風]]艦長の後は長く陸上勤務が続き、1943年末に野分艦長を拝命。レイテ沖海戦直前の1944年10月に大佐昇進。レイテ沖海戦で戦死し少将。
}}
}}}
#fold(詳細な艦歴など){{
詳細な艦歴など
-野分(のわき)とは、秋から初冬にかけて吹き荒ぶ台風の事。秋の季語でもある。
--当時でも、古典の素養のない者にとっては馴染みの薄い言葉であり、しかも「何風」や「某雲」といった一般的駆逐艦名でもない。
なので、配属と決まった水兵は「野分」が果たして特務艦なのか何なのか見当がつかず戸惑った、なんて話も残っている。
野風という名前自体は峯風型におり、戦時中も現役だった上に野分より動いてる期間が長かった(野分は1944年に沈んだが1945年まで野風は活動している。)
--2025年に公開された映画『[[雪風]] YUKIKAZE』の劇中で「のわけ」と読まれてしまいツッコミぐさのひとつにされてしまった。
-明治41年に建造され、大正13年に除籍された初代に続く二代目。
--初代神風型32隻の名を受け継ぐ艦としては最新鋭(つまり最後)の艦である。
-所属は第四水雷戦隊第四駆逐隊、開戦時の旗艦は[[那珂]]。
太平洋戦争開戦から解隊まで、第4駆逐隊に所属し続けた唯一の艦である。結成時のメンバーは野分、[[舞風]]、[[萩風]]、[[嵐]]。2015年秋イベントで、第四駆逐隊はついに勢揃いした。
--第4駆逐隊は日露戦争で編成された5つの駆逐隊の1つで由緒ある部隊。二代目司令として日本海海戦に参加した鈴木貫太郎中佐は「鬼貫」の名で恐れられた。日本海海戦では貴下の朝霧、村雨、白雲、朝潮(共に初代)を率いて夜陰にバルチック艦隊に接近し雷撃、敵旗艦を含む戦艦3隻を撃沈した。
---この鬼が昭和20年4月、内閣総理大臣に指名され、日本を終戦に導くのだがそれはまた別の話。
---日露戦争後も、この初代第四駆逐隊の隊員は鈴木を中心に「晴濤会」という集まりを毎年日本海海戦の日である5月27日に開催。思出話や海軍の将来について語り合った。鈴木が首相になった昭和20年も会を企画したが大戦末期の混乱と度重なる空襲で交通網がマヒし、会は開かれなかった。
---この初代四駆の4隻は日露戦争直後に新設の第十三駆逐隊へ異動し、入れ替わりに新鋭駆逐艦が配属された。これが雷、電、曙、朧(共に初代)で、この時に雷電がゴツンこし、歴代が引き継ぐ因縁が始まるのである。
--第四駆逐隊の歴代司令は、佐藤寅治郎大佐が[[神通]]艦長として[[コロンバンガラ島沖海戦>雑学#Kolom]]で、有賀幸作大佐が[[大和]]艦長として[[坊ノ岬沖海戦>雑学#Ten-go]]で、杉浦嘉十大佐が[[羽黒]]艦長としてペナン沖で、磯久研磨大佐は舞風で、高橋亀四郎大佐は[[満潮]]に乗組みスリガオ沖でとそれぞれ最期を遂げられている。
-開戦初期には南方作戦に参加。開戦初日にノルウェー商船を拿捕し、日本海軍の敵船拿捕第1号を飾った。
さらに3月、第四駆逐隊第一小隊の野分と嵐(舞風と萩風らの第二小隊は南雲機動部隊にいた)は有賀幸作司令指揮のもと、商船3隻、油槽船2隻を撃沈し、商船ビントエーハン号を拿捕。
さらに英国駆逐艦ストロングホールド、米砲艦アッシュビルを撃沈するという武勲をあげた。
次いで3月4日には[[愛宕]]と協同でオーストラリア護衛艦ヤラ、油槽船1隻を撃沈し、商船チャーシローアを拿捕。
これら一連の戦闘は「チラチャップ沖海戦」と名付けられた。この時、相方の[[嵐]]が爆雷を投げつけてタンカーを撃沈する珍事も起きている。
-ミッドウェー海戦の際は第四駆逐隊は揃って四水戦から離れ、南雲機動部隊の警戒隊(第十戦隊旗艦長良が指揮)として参加。
[[赤城]]の直衛の任にあたっていたが、図らずも被弾炎上する[[赤城]]の乗員救助と雷撃処分に当たる羽目になってしまった。((南雲中将以下の第一航空艦隊司令部が赤城を退艦して軽巡長良に旗艦を変更した時の経緯については諸説あり、その中には野分が一旦収容して長良に移乗させたというものもある。))
野分の乗員も赤城の乗員も、嗚咽をもらしながら沈みゆく赤城の姿に別れを告げ、黙祷を捧げたという。
-ミッドウェー海戦後は南雲機動部隊が第三艦隊として再建されたことにより、第四駆逐隊は正式に第十戦隊に転属する。実は第四水雷戦隊よりも第十戦隊に所属していた時期のほうが長い。
-ガダルカナル攻防戦の際には外南洋増援部隊に編入され、ドラム缶輸送に従事していた。
--しかし昭和17年12月7日、第三次輸送作戦の際右舷中央部に至近弾が落下。超至近距離のため外板に大破孔が開き、爆風と海水の奔流が前部機械室に突入。機関長以下15名の生命を奪い、野分を航行不能に陥れた。
右舷側にあったはずの復水器やパイプ類は全て左舷側に吹っ飛び、その間に挟まれた犠牲者の手脚が海水に洗われ、夜目にも白くフラフラ動いているのは不気味な光景だったという。
--大破した野分は僚艦の嵐が曳航、[[長波]]が護衛してトラック島へと送還された。
敵機が来襲するたびに曳航索を解くのだが、機関も電源も補機類も使用不能の野分に抵抗の術はなく、苦し紛れに陸戦用の小銃で敵機を撃つという辛酸を嘗めた。
-トラック島で2ヶ月に渡る応急修理の末どうにか動けるようになった野分は、同じく損傷した[[白露]]とともに内地へ帰還しようとしたが、
白露は途中で応急処置箇所から浸水が始まったためサイパンへ緊急寄港、右舷機関しか使えない野分は単独で内地へ帰る羽目になった。
5ヶ月に及ぶ大修理の末修繕なった野分は同じく修理完了した白露のほか、[[長良]]や[[曙]]や[[初風]]とともに[[武蔵]]を護衛してトラックへと戻った。
-[[トラック島空襲>雑学#Hailstone]]の際の第4215船団の悲劇は、[[舞風]]の史実ですでに知っている提督も多いだろう。
トラック島を脱出しようとした船団は米空襲部隊の襲撃に引っかかり、数波に渡る集中攻撃を浴びることとなった。
特設巡洋艦赤城丸((日本郵船から徴用された貨物船で7,390トン。元々はウェーク島への輸送任務でトラック島まで来ていた(その途上で米潜水艦の奇襲を受け[[涼月]]が大破している。)がクェゼリン諸島陥落でそれが不可能となり、物資要員を降ろしたうえで引き揚げの民間人617名を乗船させ本土に帰還する事になった。しかしこの空襲で撃沈され、犠牲者565名という大惨事になった。))は爆発沈没、練習巡洋艦[[香取]]、そして[[舞風]]は被弾し航行不能に陥った。
その中にあって、野分は航跡自画器の航跡が判読不能になるほどの回避を続け、ただひとり無傷で行動可能であった。
--戦闘中、[[舞風]]座乗の駆逐隊司令磯久大佐より「舞風被弾、機械室浸水ノタメ航行不能、直チニ横付ケセヨ、ワレ野分ニテ指揮ヲ執ル」と携帯無線機での通信があったが、あまりの空襲の激しさに野分も自身の身を守るのに精一杯で、この命令を果たすことが出来なかった。
この時舞風乗員を救けられなかったことを、野分の佐藤清夫中尉(当時)は50年後に至っても最大の悲しみとして悔やみ続けている。
--香取と舞風が行動不能に陥った時点で航空攻撃は中止された。
スプルーアンス提督率いる戦艦ニュージャージー、[[アイオワ>Iowa]]、重巡2隻、駆逐艦4隻からなる米艦隊の射撃目標とするためである。
この行動の目的については「戦艦部隊の戦意高揚のため」つまりリアルキラ付けとも、「米海軍力の強大さを日本に見せつけるため」とも言われるが、水上部隊を追撃に向かわせるのはさほど珍しいことではない。
米戦艦部隊は船団の前に躍り出てきた特設駆潜艇第十五昭南丸((捕鯨船改造、330トン。船団を救うための囮になろうとしたか、たまたま運悪く通りかかったのか、乗員全員が戦死しているためその意図は不明だが、どの道どうにかなるはずがなかった。))を一撃のもとに爆発四散させると、瀕死の船団へと襲いかかった。
この光景を佐藤中尉は「身の毛がよだったのは筆者一人ではなく、盛んに発砲している光景と発砲のオレンジ色の閃光に対する何とも形容の出来ない恐怖は、半世紀たった今でも脳裏に焼き付いている」と回想する。
--香取と舞風が八つ裂きにされる中、野分は限界一杯の全速力を出しつつ激しく転舵を繰り返し、戦艦ニュージャージーのレーダー射撃をかいくぐって脱出に成功した。((戦艦の射程外に出たとはいえ、航空機を出せば駆逐艦一隻などわけもなく圧殺できるはずだったが、スプルーアンス提督はそれをしなかった。米資料には「野分の対空砲火が激烈かつ正確だったため」とあるが、佐藤氏はそれに加えて「野分が目撃したトラック空襲の様子と米海軍力の強大さを日本上層部に伝えさせるため」、また「攻撃を見事かわし切った野分に対するスプルーアンス提督の“武士の情け”」ではないかと推測している。))
連続8時間に渡る激闘で弾丸は演習弾すら撃ち尽くし、燃料は欠乏、船体には無数の機銃掃射の弾痕が残っていたとのこと。この戦闘での野分の戦死者は1名だった。
無線も故障したためか横須賀と連絡が取れず、横須賀に帰還した際には「幽霊が帰ってきた」と驚かれたという。
-なお、この時の第四駆逐隊は萩風と嵐がソロモン方面ですでに失われていたため、朝潮型の[[山雲]]が転属してきていた。その山雲はトラック空襲直前に別の輸送船を護衛して出港しており、難を逃れている。
-その後東松二号船団に加わる。
護衛艦艇9隻、輸送船12隻、航空機の支援もつくという、この時期にしては異例の大船団だったが、その実、護衛艦艇も輸送船も全くの寄せ集めで、新鋭駆逐艦は野分だけ、あとは旧式巡洋艦[[龍田]]、旧式駆逐艦[[卯月]]その他に海防艦、掃海艇の混成で、訓練も泥縄という有り様であった。
--案の定、強風と波浪で船団隊形の維持が精一杯という状況下、潜水艦サンドランスの雷撃を受け、旗艦龍田と輸送船国陽丸が同時に被雷。
国陽丸は爆発轟沈し、龍田もしばらくは持ちこたえたものの、翌日午後に力尽き沈んでしまった。
野分は龍田生存者を救出し、航空機と協力して敵潜水艦を制圧、多量の重油流出を認めて撃沈確実と判断した
(だが敵潜水艦サンドランスは16時間、投下爆雷102発の猛攻に耐え奇跡的に脱出した)。
その後、野分は沈んだ龍田に代わって第十一水雷戦隊司令部を乗せ船団の指揮を執り、無事に目的地へとたどり着いた。
-舞風を失った第四駆逐隊は欠員補充として[[満潮]]((山雲と同じく朝潮型。もともと陽炎型のみの駆逐隊だった第四駆逐隊は、舞風の沈没と満潮の転入によって朝潮型の方が多くなってしまうことに。))を加え、野分、山雲との3隻編成となり、第三次渾作戦に輸送部隊として参加する予定だった。しかし米軍のマリアナ諸島攻略開始に伴い作戦は中止になり、代わりにあ号作戦が発動されマリアナ沖海戦に参加する。
--奇しくも、史実では参戦できなかった渾作戦の名を冠したイベントで艦娘として実装されることとなった。
-最期は[[レイテ沖海戦>雑学#Leyte]]。この頃[[朝雲]]((朝雲もまた朝潮型である。))を加えて4隻編成となっていた第四駆逐隊はレイテ湾に突入する西村艦隊に所属する事となるが、野分のみ[[時雨]]と入れ替わりで栗田艦隊に派出する事に。
--入れ替わった理由は航続力の問題。レイテ沖海戦で栗田艦隊が最終集結地点のブルネイに到着したとき、居る筈の油送船がおらず、補給が1日遅れてしまう。このため栗田艦隊は艦隊を二手に分け、主力が敵に発見されるまで時間の余裕があるが大回りになるパラワン水道ルートを、もうひとつの部隊は低速で航続力に難のある艦で部隊を組み、最短だが敵に発見されやすく大部隊での行動に難のあるスリガオ海峡ルートを進む事になる。
このため航続力のある陽炎型、夕雲型が栗田艦隊に集められる事になり、野分が白露型の時雨と入れ替わる理由となった。そしてこの時編成された別動隊こそ、通称西村艦隊と呼称される第一遊撃部隊第三部隊である。
--サマール沖海戦で被弾落伍した[[筑摩]]の生存者100余名を救助後、本隊から遅れて退却していたのだが、その途上ハルゼー提督指揮下の米戦艦部隊に捕捉される。奇しくもトラック空襲の時と同じニュージャージーとアイオワを基幹とする部隊だった。
そして軽巡3隻と駆逐艦2隻のレーダー射撃の集中砲火を浴び大破、最後に駆逐艦の発射した魚雷が命中し、撃沈された。
魚雷は弾火薬庫を誘爆させたらしく、野分大爆発の火炎は3万メートル先からもはっきり見えたという。ハルゼー提督が生涯で唯一目撃した「海戦」がこれであった。
野分の乗員、そして救助された筑摩の乗員も全員が戦死を遂げた。
轟沈時のセリフはこれが元ネタ。
---なお、筑摩の沈没地点で取り残されていた筑摩4番主砲塔砲員1人が米軍に救助されている。
最初は救助活動を開始した野分へ向かって泳いでいたものの、「戦死を覚悟して入隊したのだから、ここで死ぬのが本望ではないか」と思い直して力泳をやめ、背を向けたのだった。
しかし皮肉にもこの覚悟が生還に繋がったのである。両艦合わせてたった1人の生き残りだった。
---もともと筑摩救援には[[雪風]]が向かっていたのだが、水平線の彼方に遠ざかりつつある土壇場になって、[[大和]]の指示により雪風は原隊復帰、野分が代わりに救援に向かうことになった。
この交代命令に加え、交代するために要した時間のロスによって((交代命令を出した将校は、戦闘後激しい後悔に襲われている。「時間を無駄にするのに何故交代させてしまったのか・・・。野分乗員の遺族に何と言ったらよいか・・・」と述べており、詰まるところレイテの激戦で疲労が溜まった場面での判断ミスで、本人にもよく判らないらしい。当時の状況としては、雪風所属の第十七駆逐隊は損傷離脱した浜風を除き雪風、磯風、浦風の3隻が健在であり、一方野分は第四駆逐隊から1隻だけ分派されていたいわば「他所の子」。隊単位で戦闘を行う駆逐隊の性質上、第十七駆逐隊のコンビネーションをわざわざ崩すよりは、指揮系統が違い身軽な野分を派遣しようと思い直したのではないか……とも。))、両艦の運命の明暗は完全に分かれることとなったのであった。
-野分はスプルーアンス提督、ハルゼー提督の両方に直接相まみえるという稀有な戦歴を持つこととなった。
-呉の長迫公園に建立されている「巡洋艦[[阿賀野]]慰霊碑」の周りの欄干には「野分」の名も刻まれている。
-彼女の生涯については、野分乗員(通信士、のち航海長兼分隊長)佐藤清夫大尉の著した『駆逐艦「野分」物語』(光人社NF文庫)という本がある。
野分に通信士として乗組み、トラック大空襲を目の当たりにした著者が米軍資料をも駆使して書き上げた、野分と[[舞風]]に捧げる鎮魂の書である。
-桃井涼太氏の公式4コマ7話で舞風が初登場してからずっと野分の消息を気にしていたが、野分自身の初登場は74話でのこと。舞風が歓喜したのは言うまでもないが、[[那珂]]が二人の再会を祝して(?)舞風、野分の3人で「四水戦のポーズ」を披露している。80話でも[[山雲]]と[[朝雲]]を加えた5人で再度「四水戦のポーズ」を披露しているが、両方とも舞風はノリノリでポーズをとっていたのに対し、野分はかなり恥ずかしそうにしていた。
--その後122話で四駆の同僚[[嵐]]と[[萩風]]が登場。同話では舞風と嵐に「のわっち」と言われており、四駆勢で野分が長女(※進水順では嵐が長女、萩風が次女、野分は三女で末っ子が舞風である)なのだが、その中ではいじられキャラという扱いになっている。
**参考資料・書籍 [#m0d12bd0]
-'''駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記''' 佐藤清夫 光人社NF文庫
}}
*この艦娘についてのコメント [#comment]
#fold(過去ログ){{
#ls(./)
}}
#pcomment(野分/コメント2,reply,15)