|CENTER:218|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|CENTER:80|c
|>|>|>|>|~No.265|
|&attachref(./265_2nd.jpg,nolink,旗艦鹿島出撃いたします、みなさん続いてくださいね!);|>|鹿島(かしま)|>|香取型 2番艦 &nobr{練習巡洋艦};|
|~|>|>|>|~艦船ステータス(初期値/最大値)|
|~|~耐久|36|~火力|13 / 27|
|~|~装甲|9 / 27|~雷装|11 / 24|
|~|~回避|25 / 51|~対空|15 / 46|
|~|~搭載|3|~対潜|13 / 43|
|~|~速力|低速|~索敵|9 / 36|
|~|~射程|中|~運|20 / 69|
|~|>|>|>|~最大消費量|
|~|~燃料|30|~弾薬|15|
|~|~艦載|>|>|~装備|
|~|1|>|>|[[14cm連装砲]]|
|~|1|>|>|[[12.7cm連装高角砲]]|
|~|1|>|>|[[九四式爆雷投射機]]|
|~|>|>|>|COLOR(GRAY):装備不可|
|>|>|>|>|~改造チャート|
|>|>|>|>|''鹿島'' → [[鹿島改]](Lv35) |
|>|>|>|>|~図鑑説明|
|>|>|>|>|LEFT:香取型練習巡洋艦二番艦、妹の鹿島です。平和の海で次代の艦隊を育てるために建造されました。&br;その本来の役目を果たせる時間はあまり長くありませんでしたが、艦隊旗艦や船団護衛、精一杯頑張りました。&br;戦いが終わった後も、未来のために、私、頑張りました! 鹿島のこと、覚えていてくださいね。|
※初期値はLvや近代化改修の補正を除いた時の数値であり、最大値はLv99の時の最大値を指します。
#fold(CV:茅野愛衣、イラストレーター:パセリ (クリックするとセリフ一覧が開きます)){{
CV:茅野愛衣、イラストレーター:パセリ
#shadowheader(2,[[定型ボイス一覧>鹿島/定型ボイス]])
#table_edit(鹿島/定型ボイス)
~
#shadowheader(2,[[時報ボイス一覧>鹿島/時報ボイス]])
#table_edit(鹿島/時報ボイス)
~
#shadowheader(2,[[季節ボイス一覧>鹿島/季節ボイス]])
#table_edit(鹿島/季節ボイス)
~
}}
*ゲームにおいて [#about]
-2015年11月18日のアップデートで新規に実装。
--2015年秋イベント『[[突入!海上輸送作戦]]』の[[E-3>突入!海上輸送作戦#area3]]海域クリア報酬として初登場。
---ちなみにカード色は銀色だが入手画面は水色と、[[風雲]]同様のレアリティ詐欺状態。
--鹿島の実装と合わせて、練習巡洋艦の経験値取得量増加効果に以下の様な変更が行われた。
---「練習巡洋艦旗艦の演習、随伴艦としての演習参加、複数艦参加での経験値取得量が向上」([[原文:https://twitter.com/KanColle_STAFF/status/666064434536714240]])
--2016年10月5日のアップデートで実装された[[6-5>中部海域#area5]]にて、通常海域でのドロップが確認された。
-姉の[[香取]]に続く、2隻目の「''練習巡洋艦''」。
--軽巡とは別艦種として扱われることがあるため出撃や任務では注意が必要。
-2022年05月13日のアップデートで[[大型艦建造]]で建造可能になった。姉に遅れること約6年半。
--香取と同じく最低値から出る。
**運用について [#operation]
-特徴や運用に関しては[[香取]]のページを参照。
**キャラクター設定について [#character]
-艦これが誇る''有明の女王''。(俗称)&br;実装直後から大人気を博し、一月も経たずに金剛型や一航戦や高雄型、ぜかましといった人気艦娘たちの一角に食い込む猛威を見せつけた。
--その秘密は胸囲的なけしからん装甲・・・も確かにあるだろうが、提督に全幅の信頼を寄せるとっても素直な性格こそが理由だろう。
**[[期間限定グラフィック>艦娘カード一覧(期間限定グラフィック)]] [#graphic]
-2015年12月24日のオンメンテナンスでクリスマスグラフィックが公開された。
--月刊コンプティーク1月号で先行公開されたので雑誌限定の書き下ろしかと考えられたが、ゲーム中でも実装された。
対空カットイン発動時の絵面が非常に愉快であると評判。
--同グラフィックは立ち絵限定で、カードイラストはそのまま。
他の限定グラフィック同様、限定期間終了後に図鑑に格納された。
-
#fold(限定イラスト:クリスマスVer.){{
限定イラスト:クリスマスVer.
&attachref(./265_Xmas.jpg,nolink,提督さん、メリークリスマス!この季節はなんだか、少し幸せな気持ちになりますね♪今日だけは…少し飲んじゃおう…かな?うふふっ!);
}}
-[[2016年2月14日15時:https://twitter.com/KanColle_STAFF/status/698675271063318528]]のオンメンテナンスで「艦娘バレンタインmode」が公開された。
--他の艦娘のバレンタインmodeは2016/2/10/アップデートで実装されたが、本艦のみバレンタインデー当日の実装だった。
--同グラフィックは立ち絵限定で、カードイラストはそのまま。
他の限定グラフィック同様、限定期間終了後に図鑑に格納された。
-
#fold(限定イラスト:バレンタインVer.){{
限定イラスト:バレンタインVer.
&attachref(./265_Valentine.jpg,nolink,て、提督さん、このチョコレート…よかったらもらってください。あっ…はい!甘いです♪);
}}
//-2016年2月16日から行われていたローソンキャンペーンにおいて、ローソン制服modeを披露した。
//--鹿島が描かれたタペストリーは全国各地で完売が続出し、ユンケルが店頭から消える事態となった。
//(画像はありません)
//ゲーム未実装グラのため他にあわせてコメントアウト
-2017年9月29日のメンテナンスで三越コラボ第三弾として買い物グラフィックが公開された。
--キャミソール姿が色々とけしからん。中破するともっとけしからん事になる。
--同グラフィックは立ち絵限定で、カードイラストはそのまま。
他の限定グラフィック同様、限定期間終了後に図鑑に格納された。
-
#fold(限定イラスト:買い物Ver.){{
限定イラスト:買い物Ver.
&attachref(./265_Mitsukoshi.jpg,nolink,提督さん、秋って良いですよね。私が進水したのも秋なんですよ? うふふ♪);
}}
**その他 [#other]
-余談だが、実装されたメンテナンス直後[[呂500]]が本艦のグラフィックになる不具合が発生した。((何かしらの環境依存だったのか、同時刻にログインした提督でも同現象の有無が分かれた模様。メンテナンス直後にブラウザのキャッシュを削除していなかった場合などに確認された。))
同メンテナンス延長の告知を知らずにログインしたり、終了告知よりも早くログインしたフライング組が遭遇したため、全くの不具合とは言い切れない。((メンテナンス終了前のデバッグ作業中などの可能性がある。))
--結果として呂500を秘書艦にしていた提督にとっては早速のネタバレ祭りとなった。
&color(Silver){そして実装後1時間もせずにケッコンカッコカリされてしまった……};
*小ネタ [#trivia]
-練習艦としても陳腐化が目立ってきた、旧式の装甲巡洋艦「出雲」「磐手」を交替すべく、練習航海専用の艦としてマル3計画の追加分で姉の[[香取]]とともに計画された。香取型練習巡洋艦の2番艦である。
--香取とは計画時期も同じ、命名も同時、加えて建造スケジュールも2~3ヶ月の差でしかなく、香取とは姉妹というより双子に近い存在である。
-香取型練習巡洋艦の艦名は全て「か」から始まる神社から採られている。この艦の艦名は、Jリーグ・鹿島アントラーズの本拠地、茨城県鹿嶋市にある「鹿島神宮」が由来。
#fold(艦名由来詳細){{
艦名由来詳細
-香取の名の由来の香取神宮とは古来(少なくとも奈良時代以前)より、不可分と言って過言では無いくらい深い関係にある。
--中世(江戸時代初期)までこの付近は「香取海」(かとりのうみ)あるいは学術的に「古鬼怒湾」(こきぬわん)とも呼ばれる、内海が扇状に切り込む地形であった。大和朝廷が蝦夷地(現在の東北地方)平定軍を送り込む&color(Silver){%%鎮守府%%};最前線基地を置き、大願成就の為その”扇の要”付近の北側と南側の比較的高台それぞれに遷座したのが鹿島神宮と香取神宮である、とされている。
以降、東国海上交易の要衝に建つ両社は「海夫」(かいふ)と呼ばれる民を、貢物⇔権益保護&color(Silver){のwin-win};で多数支配下に置いてゆく。
このような経緯から、蒸汽船による利根川水系の河川交易が続いていた第二次大戦直前頃までは、両社とも武神としてだけでなく、航海の安全を守る海神・水神としても崇敬を受けてきた。
両社は利根川を挟んで建っており((現在の「川を挟む」地形になったのは、江戸幕府が治水・土木事業で香取海の干拓を進めて以降のこと。これについては[[鬼怒]]の項も参照。))12年に一度の御船祭では神輿を載せた船が利根川を渡り、香取神宮の神職の出迎えを受ける。
鹿嶋市の隣にある神栖市の息栖(いきす)神社と合わせて「東国三社」といい、この3社を直線で結ぶと、鹿島社~香取社を斜辺(約12km)とする直角二等辺三角形になる。
&color(gray){なお、3番艦の由来の香椎宮、4番艦の由来の橿原神宮は、とても遠い。それぞれ福岡県と奈良県に所在。&br;};
--ちなみに、現在の[[利根川>利根]]河口を南端、[[那珂川>那珂]]河口付近を北端とする、太平洋に面した海岸線を''鹿島灘''(なだ)と呼ぶ。
-鹿嶋市はかつては「茨城県鹿島郡鹿島町」という町で、1995年9月に隣接する大野村と合併して市制を施行した際、旧鹿島町の名称を引き継いだ「鹿島市」とすることを計画していたが、
佐賀県に「鹿島市」が存在しており、重複を避けるために「鹿嶋神宮」(『延喜式神名帳』における表記)にちなみ、異体字の「嶋」を用いて現在の「鹿嶋市」となった。((市制施行の前に、佐賀県の鹿島市長が当時の自治大臣と一緒に現地に乗り込んできて、激烈に抗議したという逸話が残っている。これ以降、埼玉県「狭山市」と「大阪狭山市」、静岡県「伊豆市」と「伊豆の国市」、「広島市」と北海道「北広島市」、京都府「丹波市」と兵庫県「丹波篠山市」など、ヒジョーに紛らわしい市名があちこちにできることになった。東京都「府中市」と広島県「府中市」「府中町」、北海道「釧路市」「釧路町」は、成立が昭和の時代だったために例外となっている。))((この余波で、群馬県「みどり市」や栃木県「さくら市」、山梨県「南アルプス市」など、なんでこうなった的な市名も誕生した。件の鹿嶋市も、改名案の一つに「アントラーズ市」があるという話題が、当時のサンケイスポーツ1面大見出しに載るという珍事が発生した。))
-和風テイストのゲームで要石(かなめいし)というものが登場することがあるが、じつは鹿島神宮社殿群から離れた、森(俗に「神宮の森」と呼称されており、森自体が茨城県の天然記念物に指定されている)の中の小さな祠にある(ちなみに香取神宮にも要石が存在し、一説には2つの要石は地下でつながっているという)。地上部分はほんの一部で、地中深くまで伸び、地中で暴れて地震を起こす大鯰あるいは竜を押さえている(あるいは貫いている・打ち殺した・刺し殺した)という。
-桃井涼太氏の公式4コマでは118話で初登場しているが、その時にも香取との絆を示す例として、前述の要石を挙げている。[[第>古鷹]][[六>加古]][[戦>青葉]][[隊>衣笠]]の面々とも顔見知りとなっているが、[[青葉]]にからかわれたりと、「いじられ系マネージャー的ポジション」という姉と違うキャラ付けがなされている。
}}
-1940年8月、姉の香取と共に昭和15年度の練習艦隊が組まれ、生涯最初で最後の遠洋練習航海を行っている。つまり三女で妹の香椎(未実装)は遠洋航海未経験なのである。
しかし、日本を取り巻く情勢は遠洋航海での表敬訪問を許す段階ではなくなっており、中国大陸沿岸まで進んだところで中止が決まる。これが、帝国海軍練習艦隊最後の遠洋航海となった。
-
#fold(略歴){{
略歴
|CENTER:45|CENTER:BGCOLOR(#F5FFEE):45|BGCOLOR(#F5FFEE):750|c
|~1938|10.6|三菱重工業横浜船渠にて起工|
|~1939|9.25|進水|
|~1940|5.31|竣工、呉鎮守府籍となる|
|~|6.1|練習艦隊に編入|
|~|8.7|香取と共に昭和15年度遠洋航海のため江田島を出港|
|~|8.31|大連発中支方面戦地戦務|
|~|9.8|寺島水道帰着|
|~|9.20|昭和15年度の遠洋航海を中止。同日付で特別役務艦に変更|
|~|11.15|第4艦隊編入、[[天龍]]、[[龍田]]と第18戦隊編成|
|~1941|2.3|高知沖で行われた大規模演習に参加|
|~|2.5|南洋諸島に向け須崎発|
|~|4.13|呉帰着|
|~|5.25|昭和16年度第四艦隊後期訓練のため出発。同6.1 エニウェトク環礁に到着|
|~|12.1|第4艦隊旗艦|
|~|12.8|トラック泊地にて開戦。本艦乗艦の井上成美長官がウェーク島の戦いを指揮|
|~1942|2.20|米機動部隊迎撃のためトラック泊地を出撃するも戦果なく、同23日帰投|
|~|5.1|トラック泊地を出発し、ラバウルに進出。本艦乗艦の井上成美長官がMO作戦を指揮|
|~|7.19|第4艦隊指令を陸に下ろし、7.26 呉に帰投|
|~|9.3|トラック泊地に再進出。以降待機|
|~1943|4.8|内地修理帰投が決定。4.16呉に到着|
|~|5.29|トラック泊地に再進出|
|~|8.?|クェゼリン環礁に移動|
|~|11.8|トラック泊地に戻り、11.10付けで第4艦隊を除隊。旗艦を[[長良]]に引継ぎ内地へ帰投|
|~1944|1.23|練習艦に復帰|
|~|4.25|練習兼警備艦に変更|
|~|12.20|姉妹艦香椎とともに対潜掃討撃滅部隊旗艦施設の設置工事を開始。翌年1.23完了|
|~1945|2.12|海上護衛総隊に編入。内地と上海間の船団護衛任務に従事|
|~|5.19|対馬西方洋上で大阪商船大進丸に追突し、大進丸が沈没。鹿島も出火し、小破|
|~|8.15|呉で終戦を迎える|
|~|10.5|海軍解体に伴い除籍|
|~|12.1|特別輸送艦に指定|
|~1946|11.12|川南工業香焼島造船所にて解体開始|
|~|11.26|特別輸送艦の指定解除|
|~1947|6.15|解体完了|
}}
**練習艦から第四艦隊旗艦へ [#o3eeb08f]
-国際情勢の悪化による遠洋練習航海の中止により、[[姉>香取]]が第六艦隊(潜水艦を統括する艦隊)旗艦に転用されたのに対して、鹿島は第四艦隊旗艦に転じた。((三女の香椎は南遣艦隊旗艦になった…のだが、小沢治三郎司令長官が「重巡洋艦を旗艦にしたい」と要望(低速の香椎では、南遣艦隊に配備された最上型の第七戦隊や川内率いる特型駆逐艦の第三水雷戦隊を引率するのは困難)したため、開戦直前に鳥海が派遣されて旗艦変更となった。))
#fold(第四艦隊(南洋部隊)について){{
第四艦隊(南洋部隊)について
-第四艦隊(南洋部隊)とは、中部太平洋と南太平洋を管轄とする警備部隊で、主にトラック環礁を根拠地とした。
警備部隊ということで、旗艦鹿島の指揮下に所属するのは、旧式の[[天龍]]型軽巡や[[神風]]型、[[睦月]]型駆逐艦、陸上基地航空隊、根拠地隊(陸上の守備隊)など、連合艦隊主力の第一艦隊や第二艦隊とは比べるべくもない、二線級の戦力であった。
その管轄区域は、パラオ諸島、マリアナ諸島、トラック環礁、マーシャル諸島、ギルバート諸島、ウェーク島と、地図で見るととにかく広い。
さらにラバウルからソロモン諸島まで担当させようとしたのだから、その負担は推して知るべし。
--これではさすがに担当の地域が広くなり過ぎたため、後に[[鳥海]]を旗艦とする第八艦隊(外南洋部隊)が南太平洋・ソロモン諸島担当として新編された。これに伴い、第四艦隊は内南洋部隊に区分されることとなった。
--第四艦隊の負担の大きさを象徴するエピソードとして、ミッドウェー作戦前に連合艦隊司令部の参謀が鹿島の第四艦隊司令部を訪れたときのやりとりがある。
ミッドウェー島を攻略して補給担当はどうするのかと尋ねた第四艦隊参謀に、連合艦隊参謀は「第四艦隊にやって頂く」と言い放ったのだ。
ただでさえ現状の担当地域だけでも補給維持に苦労しているのに冗談じゃない、せめて空母を増援してくれと反発する第四艦隊側に対して、怒った連合艦隊側はもうお前らには頼まんと捨て台詞を残して帰ってしまう。
アテが外れた連合艦隊司令部が頼ろうとしたのは、トラック環礁、マーシャル諸島、ラバウルなどに展開する基地航空部隊の第十一航空艦隊。ちなみに十一航艦への補給を担当しているのは第四艦隊であった。
当時の連合艦隊司令部が、太平洋の島々の補給維持をいかに軽く考えていたかがわかる。そしてMI作戦立案時のずさんさも。
この補給維持に対する意識のずさんさが、後のガダルカナル島攻防戦でさらに酷い事態を招くことになる。
---もっとも、ガダルカナル島への飛行場建設を主導したのは第四艦隊司令部なのだが…。
}}
-史実で旗艦を務めたのが由来の艦隊(海軍において「戦隊」より上位の存在)の名前をボイスで宣言するのは、連合艦隊旗艦大淀、第八艦隊旗艦鳥海に次いで鹿島が三隻目。((大鳳は史実由来ならば「第一機動艦隊」旗艦が正しいのだが、ボイスでは「第一機動部隊」となっている。))&color(Silver){上記の史実を知らないと、「第4艦隊じゃなくて第1艦隊だぞ?」と戸惑う提督もいるかもしれない。};
連合艦隊旗艦はもとより、第四艦隊と似た目的で設立されたのがソロモンで大きな武勲を立てた鳥海の第八艦隊に比べると、任務も戦歴もかなり地味な警備部隊ではあるが、鹿島にとっては名誉の称号なのだろう。
--基本的に鹿島はトラック島に停泊したまま司令部として指揮を執る事が多かった。
なにせ艦隊旗艦なので、ランチは軍楽隊のBGM付きの洋食フルコース、余暇は陸上でテニスと、[[大和ホテル>大和]]に並ぶ優雅な日々だったそうな。
-[[鹿島改]]の時報で登場する[[第>古鷹]][[六>加古]][[戦>青葉]][[隊>衣笠]]は、正式な編制上は第一艦隊所属であるが、軍隊区分((作戦の必要に応じて、書類上の正式な艦隊編制から艦を組み替えて臨時の部隊を作る制度。米海軍のタスクフォースに近い。「兵力部署」ともいう。))により、南洋部隊(第四艦隊)の指揮下に組み込まれた。
--第六戦隊は南洋部隊としてグアム島の攻略に参加した後、第一次作戦が失敗したウェーク島攻略の増援に派遣。
その後も井上第四艦隊長官の指揮下でMO作戦の攻略部隊に組み込まれて、珊瑚海海戦に参加している。
ミッドウェー海戦後、前述の通り南洋部隊が内南洋部隊(第四艦隊)と外南洋部隊(第八艦隊)に分離したことにより、第六戦隊は外南洋部隊の配置に転じ、第一次ソロモン海戦に参戦した。((第一次ソロモン海戦時の第八艦隊(詳細は[[鳥海]]のページを参照)が、艦隊運動に難ありとされたのは、主力の第六戦隊が外南洋部隊指揮下に組み込まれて日が浅く、まだ他艦とのすり合わせを行っていなかったためもある。))
--ちなみに、1943年12月から約半年間鹿島の艦長だった山澄忠三郎大佐の次の職が、青葉の艦長だったという縁もある((レイテ沖海戦の舞台裏で被雷大破したり、熊野と日本に帰国しようとして一悶着あった時期の青葉の艦長である))。
-余談ではあるが、鹿島が旗艦を務めていた第四艦隊には、かの有名な「[[宗谷]]」も所属していた。
終戦後には同じく復員輸送任務に就いている。
--宗谷と同じく現存する客船「氷川丸((横浜市の山下公園にて博物館船として公開、国の重要文化財。))」も当時は特設病院船として鹿島の下で第四艦隊所属であった。
**鹿島と井上成美提督 [#inoue]
-鹿島は[[比叡]]と縁のある、最後の海軍大将・井上成美提督が第四艦隊司令長官として将旗を掲げた艦である。
#fold(井上成美提督のエピソード){{
-かつて軍令部の横暴に盾突いてクビになりかけた井上は、今度は航空本部長として軍令部の軍備計画を「明治の頭」とこきおろし、海軍の空軍化を目指す「新軍備計画論」を提案。
さらに海軍の航空兵力整備の遅れから「アメリカと戦争をしてはならない」と強く主張し、その結果、第四艦隊司令長官に「栄転」する形で、海軍省から厄介払いされることとなった。((山本五十六がアメリカ駐在経験から対米戦に反対していたことはよく知られているが、その山本以上に対米戦反対を唱えたのが井上である。彼はイタリアの駐在経験やヒトラーの「我が闘争」を原書で読んだことで、独伊は同盟国としてアテにできず、アメリカと戦争など無理だと反対していたのだ。2人と同じく同盟および対米開戦に反対していた米内光政(第19・24代海軍大臣、第37代内閣総理大臣)を加えた3人で海軍左派トリオや海軍三羽烏と称される。))
-第四艦隊司令長官として鹿島に着任した井上だったが、開戦直後に臨んだウェーク島攻略は[[如月]]轟沈など散々な結果で、いきなり攻略失敗の黒星を付けてしまう。
真珠湾から帰還の途上だった南雲機動部隊から二航戦の応援を得て、どうにか攻略を成功させたものの、開戦前までの歯に衣着せぬ言動への反動もあり、井上の評判に大きく傷がつく。((かつて南雲忠一は、権限拡大を求める軍令部の先鋒として海軍省の井上を恫喝したのに対して、井上は遺書を見せて脅しには屈しない意志を示したエピソードがある。その南雲に井上が助力を求めなければならなくなったのは、運命の皮肉であった。後に、ラバウル攻略でも南雲機動部隊と第四艦隊は共同作戦を行うが、井上が南雲の旗艦赤城に挨拶にくることはなかったという。))
さらに、旗艦鹿島をラバウルに進めて指揮を執った珊瑚海海戦でも[[祥鳳]]沈没にはじまり五航戦の米空母追撃を打ち切り、ポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)の延期を決定。これが連合艦隊司令部をはじめ、連戦連勝に慢心していた海軍部内での一大バッシングにつながる。
後に、鹿島の第四艦隊司令部から大和の連合艦隊司令部に人事異動した参謀が、第四艦隊司令部から提出された報告書類を閲覧したところ、そこには「バカヤロー」などと罵詈雑言の朱書きがされていたという。
-戦術的勝利、戦略的敗北に終わった珊瑚海海戦には、史上初の空母機動部隊同士の戦いとして、直ちに取り入れるべき貴重な戦訓が多々あったが、井上を侮り海戦の内容を分析しないままミッドウェー海戦に臨んだ連合艦隊は、四空母喪失というあまりにも大きな代償を以ってその慢心のツケを払うことになった。
-そしてこの第四艦隊司令長官時代に井上が残してしまった大きな置き土産が、あのガダルカナル島のルンガ飛行場である。
-海軍部内で叩かれ続けた井上は、ついに第四艦隊司令長官から海軍兵学校校長に人事異動。
しかし、左遷されたかに見えた井上は、ここから海軍士官育成の責任者として辣腕を振るうことになるのであった。練習艦で指揮を執った提督が、奇しくも教育者としての適性を発揮するのである。((井上校長の主な業績として、海軍上層部から「戦争で現場は士官が足りないから、教育期間を短縮してさっさと送り出せ」という圧力に抗い続け、兵学校生徒に少しでも丁寧な教育を施そうと職を賭して尽力したことがある。皇族の海軍大佐で軍令部員の高松宮宣仁親王までが「教育を短縮できないか」と問うてきても、逆に高松宮に士官教育の重要性を説く反骨っぷりであった。また軍神・東郷元帥に「罐焚き(機関兵)が何を言うか」と罵られて以来、誰もが尻込みしていた兵科将校の教育と機関科将校の教育を一元化する改革にも取り組み、兵科将校・機関科将校の格差問題を制度上解消させた。))
-井上の長官退任の直後、第四艦隊参謀長も矢野志加三少将から鍋島俊策少将に交代している。鍋島少将は、奇しくも鹿島竣工時の初代艦長であった。
一方、矢野少将は海軍兵学校も管轄する海軍省教育局長に就任。元上官である井上校長の活動を支援した。
鹿島の司令部で司令長官と参謀長だった二人の提督は、教育期間を切り詰めよという圧力から兵学校の生徒教育を守ろうとするのであった。
-敗戦後、英語塾を開いて細々と生計を立てていた井上の困窮ぶりをみかねたかつての第四艦隊司令部の参謀長、先任参謀、機関参謀が訪ねてきて、金銭援助を申し出たが井上は頑なに拒み続けた。((「子供(兵学校生徒)が立派に成長して小遣いを持って訪ねて来たのに、それを受け取らぬ親(兵学校長)がどこにいますか」と強引に説得した兵学校校長時代の生徒までいた。))
それでも第四艦隊司令部の幕僚や兵学校校長時代の生徒たちは、井上の喜寿を祝う会を開く。強硬な言動で時には国賊と罵られ、自らが認める「戦下手」ながら部下や生徒からの人望が厚い提督であった。&color(Silver){それが鹿島の「色々言う人はいますが~」という一言につながるのだろう。};
--終戦後に井上が地元・横須賀市長井で近所の子供達に教えていた英語塾だが、その際に井上が請求した月謝は当時の平均的な英語塾のわずか2割ほどであり、食うものにも困っていた状況であったという。
井上の生活状況を知った教え子の父兄や近所の住民から魚や野菜の差し入れをされてもなお、「貧民のような食生活」とまで言われる様子であった。
}}
-海軍兵学校を成績順位179名中2番で卒業した井上は、恩賜の双眼鏡を拝受している。つまり鹿島がイラストで持っている双眼鏡は…?
**船団護衛と復員輸送 [#a1f4bf16]
-1943年11月、鹿島は第四艦隊旗艦の任を解かれ、日本へと帰国する。
-その後約1年、日本本土で練習艦として扱われた。遠洋航海ができず本来の建造目的とは少し違うが、それに近い用途といえる。
#fold(船団護衛){{
船団護衛
-戦争末期になると、それまで軽んじられていた海上輸送路保護を少しでもテコ入れすべく、前年末から対潜装備の強化を行った鹿島は、1945年2月に海上護衛総隊に編入、ここでも第一護衛艦隊・第102戦隊の旗艦任務に就いた。
--1944年の改装により、魚雷発射管を撤去する代わりに、高角砲、機銃、爆雷の増備が行われ、電探も搭載している。
--鹿島改のボイスでは、海上護衛総隊旗艦と名乗るものもあるが、海上護衛総司令部は設立時から陸上にあり、司令長官が旗艦に座乗することはなかった。
-日本本土と中国大陸との航路を護衛する任務に就いた鹿島は、無事に終戦を迎えた。しかし鹿島より先に海上護衛総隊に編入されていた妹の香椎は、より過酷な戦況である東南アジアと日本との航路を護衛する任務で、空襲により撃沈された。
また、さらに先だって長女の香取も米機動部隊のトラック泊地攻撃で無残な最期を遂げており、三姉妹で終戦まで生き残ったのは鹿島のみであった。
--余談だが、鹿島が旗艦時代の殆どを過ごしたトラック泊地を空襲が襲ったのは、鹿島が艦隊を抜け内地へ帰投した、僅か4ヵ月後の出来事であった。運命とは分からないものである。
-終戦が近づく1945年7月下旬から終戦にかけて舞鶴鎮守府から七尾市能登島曲町の七尾湾の箱名入江に係留された。敵機に見つからないようマストや煙突には木の枝で覆うなど艤装を施していた。当時の入り江に住む住民が丸木舟で近づこうとしたら船員に怒鳴られたり、船員は入り江近くの民家にお風呂を借りるなど一定の交流があった。戦争が終わり、鹿島が舞鶴に戻る際に係留するために使われていたロープは地元の旧向田小学校に寄贈され、学校の運動会や地域の社会体育大会の綱引きで使われていたが、1960年代に起きた同小学校の火事によりロープは失われた。
--係留事態が軍による極秘で行われていた関係で、入り江に係留されていた資料などはほとんど残っておらず当時を知る人間の記憶にしかないが、鹿島の船員が入り江を去る際に東郷平八郎の銅像を地元住民に寄贈され、今も大切に保管している様子を北國新聞の記事(2017年8月15日付け朝刊)に写真付きで掲載されている。
--ちなみに、箱名入江のある能登島が所属する自治体は2004年まで「石川県''鹿島郡''能登島町」であった。現在は市町村合併により七尾市の一部となっている。
}}
#fold(復員輸送){{
復員輸送
-鹿島は損傷もなく健在であったため、同じく終戦を迎えた[[鳳翔]]・[[葛城]]らと共に特別輸送艦として復員輸送を行った。
その後、1946年11月12日から翌1947年6月15日にかけて川南工業香焼島造船所(長崎市、現・三菱重工業長崎造船所香焼工場)((第四艦隊時代、麾下にいた[[宗谷]]の生まれ故郷である))にて解体された。尚、書類上は解体が始まった後の11月26日まで特別輸送艦であった。((要検証。11/22まで輸送任務を行っていたという情報もある。))
--最後の鹿島艦長として復員輸送を行った横田稔大佐は、[[伊26]]潜水艦長として、アメリカ本土砲撃・空母[[サラトガ>Saratoga]]撃破・軽巡ジュノー撃沈の戦歴を持つ人物である。
--尚、鹿島に搭載されていた内火艇の一隻は1952年に海上警備隊(海上自衛隊の前身)に移管され「雑船内火艇公称鹿島1号」として1956年まで使用されていた。
--「実際に復員輸送に就いた艦」としては、[[雪風]]・[[鳳翔]]・[[響]]・[[酒匂]]・[[葛城]]に続いて鹿島が6隻目の実装になる。そのため、復員輸送艦だけで艦隊を組むことも可能になった。(([[北上]]は主機械損壊で航行不能のため、鹿児島湾内で復員輸送支援の工作艦として使用されている。))((終戦時残存艦は他にも[[長門]]・[[隼鷹]]・[[潮]]などがいたが、いずれも損傷が激しかったりなどの理由で復員輸送は行っていない。))
復員輸送艦になったことがある艦は、駆逐艦[[神風]]・[[竹]]、海防艦[[占守]]・[[国後]]・[[択捉]]・[[対馬]]が後に実装されている。復員輸送艦だけで空母機動連合艦隊も組めるようになった。
-1989年、元乗組員が中心となり呉海軍墓地に碑が建立された。他の艦船や部隊は慰霊碑であるが、最後まで無傷で任務を全うしたことから「有終之碑」と刻まれている。
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**歴代「鹿島」 [#kashimaOther]
-練習巡洋艦の「鹿島」は日本の艦艇としては二代目にあたる。
#fold(初代:「香取型準弩級戦艦」2番艦「鹿島」){{
初代:「香取型準弩級戦艦」2番艦「鹿島」
-初代は「香取型準弩級戦艦」の2番艦として1906年に竣工。ここからも分かるように、先代においても「香取」は姉であった。
--初代姉妹はそろって英国製であるが、「香取」がヴィッカース製なのに対し「鹿島」はアームストロング製で、運用上共通化する点以外の設計は両者に丸投げしていたので、砲をはじめ細部はかなり異なっていた。
竣工は日露戦争後の1906年となったが、建造当時は日露戦争で消耗した戦力を増強すべく大いに期待された。しかし・・・・
同年に竣工したドレッドノートに端を発する「ドレッドノートショック」の煽りを受けあっという間に陳腐化。1923年に香取共々軍縮条約により解体されてしまった。
--ちなみに解体から遡ること2年前の1921年3月、皇太子(後の昭和天皇)ヨーロッパ巡遊に伴う遣欧艦隊に同行し、御召艦の香取と共にイギリスへの「里帰り」を果たしている。
なおこの時代の鹿島の写真は、二代目鹿島の写真共々三代目かしまの上部構造物最後端に収められた実習員講堂に展示されている。
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#fold(三代目:海上自衛隊練習艦「かしま(TV-3508)」){{
三代目:海上自衛隊練習艦「かしま(TV-3508)」
-三代目は海上自衛隊の練習艦「かしま(TV-3508)」であり、1995年に就役、現役である。生まれは日立造船舞鶴(旧舞鶴海軍工廠・現JMU)。
--長らく遠洋練習航海に従事してきた練習艦「かとり(TV-3501)」を代替するため、当初は1994年就役で計画されていた。しかし湾岸戦争が始まり、日本政府は多国籍軍に多額の支援金を捻出することを決定。その煽りで練習艦建造計画は1年延期されることになった。((この時、日本は世界最大の90億ドルに及ぶ支援金を捻出したが、人的、物的支援を拒んだため、日本に対するクウェート政府からの評価は散々なものであった。この時の経験が自衛隊をPKOはじめ世界に展開する切っ掛けとなり、今に至っている。))
---そのため1994年の遠洋練習航海は「[[ながつき>長月]]」が祝砲用空砲を装備して旗艦を担当している。
--「かとり」の後継として実習の効率をより上げるため、船型や機関配置の変更・レーダーの多重化・搭載艇の改良・電源の強化など、実習現場からの意見も取り入れた様々な改良が施された。
--[[「女王陛下のキス」>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%97%E3%81%BE_(%E7%B7%B4%E7%BF%92%E8%89%A6)#.E8.89.A6.E6.AD.B4]]のエピソードが語り草になっている(詳しくはググるべし)2000年の「アメリカ独立記念日洋上式典」、
そして戦後最大級の観艦式と呼ばれる、2005年の「トラファルガーの海戦200周年記念国際観艦式」などといった世界の観艦式に、日本代表として参加することも多い。
--2014年の遠洋練習航海では、かつての激戦地であったガタルカナル島ホニアラ港に、日本の艦艇として実に71年ぶりに入港した。
そこで「かしま」は現地でボランティアにより収集された、ソロモン諸島戦没者の御遺骨137柱を艦内に迎え、彼らの故郷である日本本土へ無事送り届けるという任務を、海軍を継承した海上自衛隊として初めて実施した。
--2015年には明治以来の日本海軍の歴史を通じて、日本国所属の艦として初めて南米・マゼラン海峡の通過に成功している。
--なお三代目の「かしま」は二代目までと違い、上述の通り「かとり(1998年除籍)」の更新のために建造されたため、姉妹艦は居ない。
--「かしま(TV-3508)」は「かとり(TV-3501)」から艦番号が飛んでいるが、これは間に護衛艦を艦種変更した練習艦がいるため(TV-3502~TV-3507は[[いそなみ>磯波]],[[しきなみ>敷波]],[[てるづき>照月]],[[もがみ>最上]],[[やまぐも>山雲]],[[まきぐも>巻雲]])。
第一線を退いたばかりの艦を順次練習艦とすることにより、進歩していく兵装や管制システム等へ対応した教育や訓練が行えるという利点があるからで、かしまの後に続く練習艦も全て艦種変更組である。
そのため、海上自衛隊で当初から純然たる練習艦として建造されたのは「かとり」と「かしま」しかいない。
かしまは当然ながら長期間航海(遠洋練習航海)を行うことを前提に造られた艦であるため、乗組員の間からは「居住性はかなり高い」といった評価も受けているらしい。
--2024年度の遠洋航海から、海自としては初めて[[しまかぜ>島風]]と共にスターリンク衛星による艦内でのインターネット接続が可能になった。とは言え日本国内では民間船舶でもまだ試験運用の段階なので、今次航海での運用結果を調査した後に目標として3年間でおよそ九割の艦艇でのネット環境を整備していく予定。
--練習艦として遠洋練習航海の任務を毎年行っており、1年のうち約5ヶ月は海外にいるため、案外お目にかかる機会は少ない。
呉を母港としている「練習艦隊」に所属するので、呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)から見れる場合もある。遠洋練習航海が行われていない11月~翌4月までがチャンスあり。
なお11月~1月辺りは呉港岸壁にいる時間よりもJMUでドック入り(修理というよりは半年分の連続航海からの疲労回復?)している時間の方が長いらしい。その場合、宮原という呉港を臨む高台の辺りに大和の艦橋及び三角マストを模して建てた石碑があるのだが、その辺りから双眼鏡(7倍くらいあればよい)を使えばよく見えるだろう。
(余談)また練習艦「かしま」艦尾付近にはオランダ坂があるが、一部の乗組員の間には「かしま坂」という愛称が付けられて親しまれているという。
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**その他 [#sonota]
-リボンは恐らく、国際信号旗のUとYと思われる。UYの2字信号の意味は「本船は演習中(練習中)である。避けられたし」である。
--海保の巡視船艇はよく掲揚しているので目にした提督方もおられると思うが、その代表例としてAKBダンスで有名になったPC217「[[いそなみ>磯波]]」が、上記のダンス中に掲揚しているのがわかる。こちらの方が目にした提督方は多いと思われる。
-戦史研究家の佐藤和正氏は満州から引き揚げる際、復員輸送任務中の鹿島に乗艦しており、その時の印象を『戦艦入門』のあとがきでこう書いている
「私が軍艦に興味をもった原点は、終戦の翌年、満州から引き揚げてくるとき、コロ島から乗った「鹿島」の乗艦体験である」
「14歳の少年だった私は、「鹿島」がなぜか小太りの上品な若妻といった印象を受けたものだった。
船が一般に女性名詞で呼ばれているからというわけでなく、軍艦にしては物静かで、おっとりした艦容からそういう印象になったのだと思う」
&color(Silver){若妻…ふむ};
*この艦娘についてのコメント [#comment]
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#pcomment(鹿島/コメント4,reply,15)