長門

Last-modified: 2014-08-12 (火) 17:38:14
No.001
私が、战舰長門だ。よろしく頼むぞ。敵战舰との殴り合いなら任せておけ。長門(ながと)長門型 1号舰 战舰
CV佐倉綾音絵師しずまよしのり
舰船属性
耐久80火力82
装甲75雷装0
回避24对空31
搭载12对潜0
速力低速索敌12
射程20
搭载装备
341cm連装砲
314cm単装砲
3零式水上偵察機
3未装备
改造表
長門長門改(Lv30)
图鉴说明
我是作为八八舰队计划第一号舰问世的长门型战舰命名舰,长门。
直到大和型服役为止,我一直在担任着联合舰队的旗舰。
「闻名世界的BIG7」,人们经常这样说呢。
CV:佐倉綾音、イラストレーター:しずまよしのり (点击打开台词一览列表)
台词CV:佐倉綾音、イラストレーター:しずまよしのり
入手/登录我是战舰长门。请多指教咯。想和敌舰干架的话尽管交给我。
入手/登录
(2014年始)
新年了吗,真是令人心潮澎湃啊。
母港/详细阅览什么?
我的脸上有沾了什么东西吗?
最好不要随便摸我的装备啊……。
母港/详细阅览
【X'mas】
这,就是圣诞节吗。嗯……这样啊。
提督,一直以来辛苦了。今天就一起喝一杯吧。
母港/详细阅览
【2014年始】
二〇一四年了吗,真是令人心潮澎湃啊。
结婚(仮)(反白)怎么回事呢?记忆的彼岸,那副光景是?敌人和我方的舰船们,还有那道巨大的光…。我这是累过头了吗…呐,提督。
结婚后母港(反白)没事的……我会和你在一起。
编成战舰长门,出击!
出击战舰长门,出击!
第一战队,出击!
选择远征时好吧。
发现道具好吧。
开战BIG7的力量,可别小看了喔。
航空站开始时
夜战开始舰队,在我长门后面跟上!
攻击等了好久的舰队决战吗。真是令人心潮澎湃啊。
BIG7的力量,可别小看了喔。
[夜战时]全主炮,齐射!开火!!
小破哼,打不动我的。
长门型的装甲可不是摆样子的。
中破CUT IN…敌舰队也挺能干的嘛…
胜利MVP比起担任联合舰队旗舰的荣耀来说不过是小事一桩,先收下…吧。
期间大破
回港作战结束了,舰队回港了喔。
补给谢谢。这样就可以和那些家伙们战斗了呢。
改装/改修/改造谢谢。这样就可以和那些家伙们战斗了呢。
近代化改修吗…对我来说没必要呢。
好吧。
入渠(小破以下)有稍微休整一下的必要呢。
入渠(中破以上)谢谢。这样就可以和那些家伙们战斗了呢。
建造完毕有新的同伴下水了呢,真是期待啊。
显示战绩有司令部来的通知。
击沉(反白)在战斗中…而不是那道光中沉没…是我的夙愿啊…
报时
放置时

在游戏中

  • 作为普通建造和普通海域的掉落中出现的舰娘,长门级以堪称最强战列舰的实力而深为自豪。
    • 当然,若以纯粹的实力而论的话,还是大和级两姐妹要更胜一筹,但是大和级只能作为击破活动地图的奖励而得到。
      自从2013年12月24日,大型建造实装以来,「能够建造获得的最强舰娘」的宝座就让给了大和。
  • 因为有着直到二战结束依旧幸存的事迹获得很高的评价,所以长门号在改造之后达到了相当高的30点的运值。(这里要与陆奥区别开)
  • 长门级的火力最大值强于金刚级的95点,达到了99点。虽然在火力上优势不太明显,但是在对空值、耐久度这2点上长门级完全凌驾于金刚级。
  • 当然,舰娘在与深海舰队精英(譬如Flagship级栖舰)的战斗中常因为遭受炮火直击而大破(一发入魂),或是被近失弹擦中造成耐久度损耗,而损伤的耐久度多少是与入渠修理时间长短成正比的,所以我们不能一味的认为舰船的耐久度越高越好。
    • 因为火力、装甲的初期数值相当之高,所以长门级几乎没有近代化改装的余地。
  • 在稀有度上,长门级达到了仅次于大和武藏的6星美誉,而长门号掉落的场合仅仅限于BOSS点,入手相当困难。
    • 南西诸岛海域:2-4 BOSS点。
    • 北方海域:以3-2为首(进入BOSS点舰种必须全部是驱逐舰)、3-3 、3-4的BOSS均掉落。
    • 西方海域:4-4 BOSS点。
  • 如上所述一样,能够获得长门的地点太少了。当然,不少提督也有着譬如“开放建造是不是太早了点儿?”这样的呼声。
  • 另外,长门级的另一大明显特征就是出击必要的燃料、弹药的消耗量非常之大。
    • 特别是弹药,改造前的长门级比金刚级多消耗18%的弹药,而改造之后更是超越了金刚级整整33%。同时,入渠修理时的钢材消耗量也是非常惊人,真不愧是“Big7”的成员。
      犹如饿狼般的食量,使得长门级吞噬的资源甚至已经到了妨碍提督们正常建造计划的程度,或者迫使穷困的提督们不得不编制其他舰娘进行出击。
      因为有着舰娘改造前的燃料消耗相对更低的设定,所以尝试研究在未改造的状态下尽可能的提升等级这样的方案也是不错的选择,请有计划地利用这一点。
    • 但是,比起金刚二改、比睿二改,长门级的燃料的消费反而要低一些。

小捏他

  • 艦名の由来は、本州の南西端にあり現在の山口県一帯を含む「長門国」。明治以降、数々の有名政治家を輩出した長州藩が存在していた場所でもある。
    • 本州北東端にあり津軽海峡を有する青森県他の旧名「陸奥」と対になっている。
  • 開戦時の連合艦隊旗艦でありいかにもリーダー然とした武人的なキャラクター。
    …のはずの彼女だが、実は一度しか海戦をしたことがない。赤城たち空母に出番を取られてしまった。
  • 公表時にはスペックを偽装され、対外的な最高速度は23ノットと発表されたが、実際の最高速度は26.5ノット。当時の戦艦の速度平均を軽く超えた高速艦だった。
    その他主砲の威力等、スペック上は陸奥共々ビッグ7最強艦。
    • ちなみにスペック偽装がバレたきっかけは関東大震災。救援物資を満載して帝都へ最大戦速で急行する途中でイギリスの軽巡「ディスパッチ」に見つかった。
      が、各国には半ばバレかけていた時期だったので表だった反応は特になかったらしい。
      しかし水面下ではガチで警戒されており、嘘か真か、1930年代にルーズベルト大統領が海軍将校に「日本はいつ占領できるのか?」
      と訊いたところ、その海軍将校は「駄目です。日本には長門がいます」と答えたとかいう話がある。
      • 大艦巨砲主義が幅を利かせていた時代のことだが、それだけの警戒を受けるに足る性能を持っていたことの証左。
        勿論額面通りに聞く話ではないが。特に古今東西軍関係者にとって「無理=対策予算寄越せ」である。
      • ちなみに長門の建造費は大正5年の価値で4390万円、現在換算で大体3000億円強となる。
    • 長門型の操艦は日本海軍の戦艦で一番容易だったという当時の現場評価がある。
      翻って、直進性が低かったため針路保身が難しかった伊勢や直進性が良い代わりに舵の効きが悪く、回頭時の惰性力が大きい大和型の操艦は難しいとされていた。*1
    • なお、計画時に前部マストは三脚型であったが、ある砲術士官の強い要望で(最終的には設計担当の平賀譲中佐と大激論の末に)、より強固な七脚式のものに変更された。
      要望した士官の名は金田秀太郎大佐。あの金田50万トン戦艦計画の生みの親である。
  • 1934-1936年の近代化大改装においてビスマルク級などの条約型新型戦艦に対抗可能な戦闘能力を獲得。誰が呼んだか「最強の旧世代戦艦」。
    防御力を中心にかなりの手が加えられ、改装後の主砲塔前盾は457mm*2*3、天蓋229~250ミリは各国の条約型新型戦艦を含めても世界2位*4
  • 垂直防御も、本来の305ミリ装甲内側の弾火薬庫部分に関しては127mm~280mmの傾斜装甲を備えていた。
    しかし、この防御方式では元々薄い主甲帯を撃ち抜いた砲弾が結局内部で爆発することになるため、バイタルパート部である弾火薬庫のみは、装甲帯を貫徹した砲弾が艦内に侵入した場合でも、弾火薬庫内まで砲弾が突入するのを防ぐ事が可能であったが、艦内・水線周辺に被害を受け漏水や浸水が発生する事は防げなかった。
    また、1000kgの砲弾に対する防御しか考慮していなかった長門型の防御では、米戦艦の重量1225kgに達するSHS弾に対しては強化後も不十分な防御となっていた。
    なお、機関部の装甲は新造時と変化しておらず舵取機室にまともな装甲が無い点も改善されておらず垂直防御は305+76㎜*5のままだが、水平防御は中甲板の一部で40~76㎜の装甲*6が追加され、可能な限り水平防御も強化することが試みられていた。*7しかし、主砲塔と弾火薬庫の防御に多くの重量と資源を取られたため、他の部分の防御については十分な強化を行うことが出来なかった。*8
  • なお、日本海軍が戦艦の決戦距離としていた35,000m~20,000mの砲戦距離では、砲弾の6~8割が水平防御に命中する。また、垂直装甲に対しては、対敵姿勢によっては砲弾が傾斜して命中する問題があるため、戦艦同士の戦いでは貫徹力のカタログ値を2割程度は上回らないと貫通できないと見られていた。
    このため、長門型は実戦上で14インチ砲艦や16インチ砲のコロラド級戦艦*9を相手にするには、概ね充分な防御性能を有していたとも考えられる。
  • しかし、米戦艦と比べると舷側装甲の薄い日本戦艦では、例え相手が14インチ砲艦であっても砲戦距離が30,000m~20,000mの場合、舷側装甲を貫徹される危険性がある*10。ただし20,000mでの長門型主砲の貫通力は455mmにも及び、上記の戦闘距離では米戦艦の垂直装甲を貫通できるので、長門型については不利というわけではない。また、米軍の14インチ砲は18,300mで349~356mm程度の貫徹力のため、上記の通り、対敵姿勢によっては、20,000m程度までは貫通できない*11。とはいえ、日本戦艦の35.6cm砲は307mmの貫通力であり、米戦艦の垂直装甲を破れない。
    このため、日本海軍は19,000m以下に急速接近する必要があると考えており、その方法についても熱心に研究を行っていた。*12
  • 逆に米戦艦は水平防御が改装後でも95~146mm程度と薄く、主砲塔天蓋は127mmの艦が多かった。このため、30,000m~20,000mの戦闘で日本戦艦の主砲弾を水平防御に受けたら、大損害を受ける可能性も高いのである。*13
  • 大改装時に船体を延長し、機関も重油専燃になったせいか機関強化がされなかったにもかかわらず、ほとんど速度が落ちなかったという逸話が残っている。*14
    最大速力で2ノット以上の差がある大和とレイテ沖を2時間半にわたって駆け回って落伍しなかったあたり、スペック以上の速度を平然と出せたようだ。
    尤も、大和が第四戦速24ノット、第五戦速26ノットを主用した*15のに対して長門は最大戦速となっているので、大和に同行する為にかなり無理をしている。*16
  • 無論これにもちゃんと根拠はある。長門は当初より連合艦隊旗艦として建造されたため、特に機関の強度等に気を使った設計がされていたことによる。
  • 重巡洋艦と同等の機関に積み替え29ノット級の高速戦艦化する話はあったものの予算不足でボツ。
  • 連合艦隊旗艦・ビッグ7最強の名は伊達ではないのだが、艦隊決戦を念頭に置く日本海軍においては16インチ砲艦である長門型は大和型に次ぐ戦力であったため、戦争前期の機動部隊の随伴艦としても使用してもらえず、戦争中期になっても他の戦艦と共に当ての無い出撃を繰り返すのみであった。肝心の戦場にはほとんど出してもらえず、扶桑とともに標的艦役にされたことすらあった。
    • 長門の唯一と言っていい見せ場は世界最大にして最後の洋上決戦が行われた、レイテ沖海戦時のサマール沖における追撃戦であった。
      この海戦で長門は弾着錯誤を防ぐため0659に砲撃を開始した大和より1分間隔を空け0700に距離32,800mから砲撃を開始し、初弾で護衛空母ホワイトプレーンズに対して夾叉を出した。
      しかし、0705護衛空母ホワイトプレーンズは煙幕を展張し、0706にスコールの中へと逃げ込んだため目標を失った。
      このため、長門は再度大和と共にセントローに対して砲撃を行ったもののこれは近弾に終わった。
      0657より近迫敵空母を攻撃せよと命令を受けた第五、第七戦隊は増速し28ktで進撃を開始。
      0658には直ちにその位置から突撃せよと旗艦大和より命令を受けた第一遊撃部隊の各艦はタフィ3に向けて進撃を開始した。
      この結果28ktで進撃する重巡洋艦部隊が徐々に突出して行き、その後方に金剛、更に遅れて榛名が続き、その後ろを大和と長門の第一戦隊が続行する形となった。
      しかし、0733にホエールより発射された魚雷を回避するために金剛が一時北に進路を取り重巡部隊に更に引き離され遅れて行った。
      0753には大和の至近に現れたホエールから発射された魚雷6本を回避するために、左に緊急転舵して回避を行いながら副砲で反撃を続ける大和に従い長門も北に進路を取り約10分魚雷と並走する事となった。
      北に進路を取った事で孤立したかに思えた第一戦隊だったが、北へ退避中に重巡部隊に追い込まれ南西に退避中のホエールを発見。
      第五戦隊、第七戦隊と共に0800より長門は大和と集中して砲撃を行い命中弾を与えた。
      更に大和は8:30に航行停止に陥ったホエールを追撃し、0834に砲撃を加え0835にホエールが船尾より沈んでいくの確認した後も、他の艦と共に砲撃を加えホエールは0855に漸く転覆し沈んでいった。
      しかし、それ以降第一戦隊が敵艦と遭遇する事は無く、0851に大和より射出された観測機からもタフィ2の発見が報告されたのみであった。
      その後暫く全く敵艦隊を見る事も無く進撃していた第一戦隊であったが、9:11に『逐次集れ 我0900の位置「ヤヒセ43」(スルアン灯台の二三度五六浬付近)』と発信し追撃の中止を決定した。
      この9:11の時点での各艦の位置関係は以下の通り。
      ①タフィ3とそれを追う羽黒、利根は第一戦隊の前方約46.000m
      ②南西に進撃中の金剛は第一戦隊の南東約12,000m
      ③南東に現れたタフィ2を追撃するように指示されていた榛名は第一戦隊の南東18,000mの所を進撃中
      ④0800に突撃命令を受け第一戦隊の西方に位置し並走しながらタフィ3を追っていた矢矧以下の第十戦隊、第二水雷戦隊も魚雷攻撃のため0848より第一戦隊と別行動中。
      上記の通り第一戦隊は孤立した形となっており、戦況が分からない状態となっていたため追撃中止を命じる事となった。
      タフィ3を追う利根、羽黒はレイテ湾まで後1時間(約50,000m)まで迫っていたが、0916に先の電文を受信し0920には反転を開始した。
      こうして2時間半にも及んだサマール沖海戦は終わりを告げる事となった。
      敵艦隊を最後まで高速空母から成るハルゼーの機動部隊の一群と誤認していた日本海軍は、この海戦で護衛空母ガンビア・ベイ、駆逐艦ホエール、ジョンストン護衛駆逐艦ロバーツを沈めただけに終わった。
      なお、長門自身の戦果は駆逐艦ホエールの協同撃破のみである。
      尤も、各戦艦の戦果が大和:ホエールの協同撃沈、金剛:駆逐艦ロバーツの協同撃沈、榛名:戦果無しであった事を考えると、長門もそれなりに活躍したと言える。
      また、この海戦時には相手艦隊を高速空母群と誤認していただけでなく、敵艦隊が展張した煙幕、スコールが発生していた事に加え、タフィ3とタフィ2から発艦した航空機と護衛の駆逐艦による攻撃によって0706以降有効な砲撃を行う事が困難な状況にあった点にも留意する必要がある。
  • またレイテからの帰路では米潜水艦「シーライオン」からの雷撃を受けるが当たらず、その流れ弾が浦風を直撃・轟沈、同じく被雷した金剛も沈没している。
  • 大戦末期に重油不足から特殊警備艦(要は軍港に係留して浮き砲台として運用するということ)に艦種変更、横須賀港に係留されていた。
    その姿は「もはや2度と出撃機会はないだろうから」と、副砲や高角砲などの兵装はおろか、航海に必要なマストや煙突などをも撤去された無残な姿だった。
    • 榛名も相当数の兵装が撤去されており、兵装が比較的まともに残っていたのは伊勢日向くらいであった。
      しかし航海用の艤装までも撤去されたのは、当時生き残っていた戦艦4隻のうちでも長門のみである。→戦後撮られたカラー映像(2:00-4:10)
    • 1945年7月18日に米空母「エセックス」「シャングリラ」「ベロー・ウッド」「ランドルフ」搭載機の攻撃を受けて艦橋を破壊され、艦長以下主要乗組員の大半が戦死。
      後任艦長が発令された段階で、修復されることなく終戦を迎えた。
  • 終戦後アメリカが接収、ビキニ環礁にて実施された核実験「オペレーション・クロスロード」に、酒匂とともに標的艦として参加。
    中破判定を受けた状態で、母国を蹂躙した非人道的兵器に対する無言の抗議の如く二度の被爆に耐え、さらにその後4日間は海上に在り続けたが、
    1946年7月28日深夜から29日未明の間に、誰にも看取られることなく静かに眠りにつく。 捕虜になる事を拒んだ武人のように、 人知れず自決したかのような最期だった。
    • 1回目(ABLE:空中爆発)の爆心地(酒匂)に近い戦艦の順番はネヴァダ(本来の爆心地)700m程度・アーカンソー700m程度・長門1500m程度の順。
      2回目(BAKER:水中爆発)では、ネヴァダは爆心から遠く離れた所に居たため沈まなかったが、爆心地近くのアーカンソーは沈没、長門とほぼ同じ距離にいた正規空母「サラトガ」も7時間後に沈没した。
      しかし、長門は爆心地にある程度近い位置にいながら二度の核実験に僅かに傾斜するも耐えた。特にBAKER時には艦首に穴を開けられ、さらに機雷を艦体に括り付けられたという念の入れようである。
      長門沈まずの報を聞いた元艦長夫人は 「幾万もの英霊たちが水底をささえているのですよ」と語ったそうだ。
      • 駆逐艦USSヒューズ(DD-410、No.27)は長門やサラトガと共に爆心地近くにあったが二度の核実験を耐えた。ABLEBAKER…異能生存体?
  • なお、「この光景を見たアメリカの調査団が長門のことを"Old Navy Never Die"(海の古強者は死なず)と評した」という話が広く伝わっている。
    しかし、実際はクロスロード作戦で標的艦となったが最後まで沈まなかった米戦艦「ニューヨーク」のことを"Old Sailors Never Die"と評したという逸話と混同されたものである。
    • ただし、その言葉は長門の艦橋に書き残されたと言われているが、ニューヨークの文字が書かれたところは左舷。別々の逸話の可能性もある。
  • また、沈没状態とはいえ船体の現存する唯一のビッグ7で、同地の貴重な観光資源。ただし核実験の影響を鑑み接触禁止。
    • もっともこちらの資料によるとそもそもそう簡単には到達できないらしい。現実世界においても、彼女に会うためには米帝プレイと運、そして高い司令部レベル潜水経験が必要なようである。
  • なお、クロスロード作戦の1回目の実験の直後に発表された水着が「ビキニ」である。その大胆さが周囲に与える破壊力を原爆にたとえたものだという。
    「水爆実験になぞらえて」と説明されることがあるが、これは誤り。ビキニ環礁での最初の水爆実験は1954年であり、このときは日本の遠洋漁船「第五福竜丸」が被曝している。
  • 新造時や開戦時は戦艦らしいプロポーションを誇るが、一時期妙な煙突配置に改装されたことがある。通称「長靴」。しかし、これはこれで当時の子供達に人気があったらしい。
    • これは、当時2本あった煙突の設計が悪かったため、前部煙突の排煙が艦橋方向に逆流してしまったことが理由。階級が上の人ほど煙でススまみれになるという異常事態だったそうな。
    • また、終戦直前には特殊警備艦へと艦種が変更され副砲・対空兵装撤去、後部マスト・煙突が切り落とされバランスの悪い見た目になっている。
  • 大戦中、大和の存在は極秘であったため、当時の国民にとって帝国海軍の象徴は長門だった。
    • 当時の軍オタ少年は戦艦長門派と空母赤城派が2大勢力で、これに水雷戦隊派が絡む展開。
    • 「陸奥と長門は日本の誇り」とカルタ*17に詠まれる程広く国民に親しまれ、一般家庭に写真が飾られるなど人気が高かった。
  • 金剛型と同じく主砲が連装4基で容姿が多少似ている。開戦時の見分け方は金剛型が煙突が2本で三番砲塔と四番砲塔の間に航空艤装があり離れていて、
    長門型は煙突が1本で後艦橋と三番砲塔の間に航空艤装があり、三番砲塔と四番砲塔が背負い式で隣り合ってること。
    ただ、竣工時や先述の長靴状態の長門は後期の金剛と同じく二本煙突だったりするので注意。
  • 長門と陸奥の改装後の手っ取り早い見分け方は、副砲の不自然な穴があるかないか。改装時に副砲が20門から18門に減っているのだが、改装の予算の都合か
    なにやら明らかに副砲がついていた穴があってむずがゆい見た目をしているのが長門、ないのが陸奥。
    具体的には改装後の長門の側面前部に副砲が上3つ、下4つ並んでいるが、4つ並んだ手前に砲のあった跡のような穴があったら長門の方である。
  • その容姿のせいか、艦これの話題で対魔忍or対魔艦という言葉が出たらほぼ確実に長門のことを指す。元ネタの名前は赤城の方が近いのに 雪風なんてそのまま
  • 艦これ起動時や読み込み時に表示される艦影(通称ぷかぷか丸)は形状から恐らく改装後の長門型だと思われる。
  • ちなみに連合艦隊司令部は長門から陸奥、大和と変わり、後に大淀(艦これ未実装)から、遂に昭和19年9月には慶応大学構内へと移る。
  • なお、角状のヘアバンドは、長門型戦艦の前艦橋上部にあった旗旒信号用の張り出しを模したもの。前艦橋の下後部の旗旒甲板からこの突起まで信号旗用ロープが張ってあり、状況に応じた旗を掲揚していた。
    • ちなみに同じ高さの甲板に測距儀が置かれているのだが、(普通は測距儀の位置は固定されているのに対し)なんと艦橋主柱を中心とするレールの上を測距儀そのものが移動しながら旋回する
      測距儀が縦に二段重ねになっていたり変な例は数あれど、測距儀そのものが移動するのは長門型を始めとする八八艦隊計画戦艦くらいのものである。
  • 真珠湾攻撃の際の暗号電文を打電したのは彼女であるがその電文は「ニイタカヤマノボレ1208」と色々バレバレな暗号?電文だった。天然なのかもしれない
    この電文に一番驚いたのは米軍の暗号解読部門だったとか。
    ちなみに陸軍は「ヒノデハヤマガタ」と一応は日時がわからないようにしていた
    • んなわけない。新高山登レ1208は海軍D暗号により暗号化されたのち、柱島中継で東通放送系で送信された
    • 直接電文を発信したのは千葉県の船橋送信所である。
      日本の暗号事情
      • 余談だがアメリカが日本の暗号解読で相当苦戦したのは、鹿児島出身者同士の鹿児島弁での国際電話だったという伝説がある
        • ベルリン駐在武官の野村直邦中将が潜水艦U-511で帰朝する際、外務省と駐独日本大使館の間でスケジュールの打合せをするのに米軍に盗聴されるのを覚悟の上で国際電話を使用した。盗聴されてもわからないようにするために、鹿児島出身職員同士で会話をした。
          当然米軍に盗聴されたが、早口の鹿児島弁だったため、そもそも日本語かどうかすら判別ができなかった。米軍自身が暗号にインディアンのナバホ族同士の会話を使用していた*18こともあり、アジアの諸言語まで検証した。
          2ヶ月後、米陸軍情報部に勤める鹿児島出身の日系人が「翻訳」して、ようやく内容がわかった。
        • 解読に時間がかかったためか、U-511は無事に日本に到着した後で、帝国海軍籍に入って呂500潜水艦と改称した。
        • ちなみにこの方法による最初の通信は5月の野村中将が出発する1週間前のことで、東京からの「モ タタケナー」(もう発ったかな)という問い合わせに対しドイツからは「モ イッキタツモス」(もうすぐ発ちます)と答えるなどしたという。こうした国際電話による連絡は、連合軍の爆撃により中継局が破壊されるまでの1か月ほど続けられた。
  • 戦後、第二復員省(旧海軍省)へ船を借りに来た捕鯨業者に渡されたリストのトップに長門の名前があった。
    • 当然ながら戦艦が捕鯨母船に適するはずもない。捕鯨業者は「港でスロープの付いた軍艦を見かけた」という情報を聞いて、「それなら捕鯨ができる。名前がわからないけどそれを借りに行こう」と交渉を持ちかけたのだ。
      結果、名前がわからないため第二復員省からGHQへ「横須賀軍港にいる艦船全部」のリストが渡され、そのトップに長門の名前があったのだ。
      • 実際に捕鯨船として借りたのは、当たりをつけていた第一号型輸送艦(第9号、第19号など 排水量1500トン)であった。
      • ……が、2014/6/6のアップデートで実装された大鯨の入手方法が後半海域でのドロップ限定であったことから、長門を編成に組み込んで掘りに出掛ける提督も出現。まさかの捕鯨戦艦長門実現である。
  • さらに時は流れて21世紀。ひゅうが型に続く新しいヘリ空母ヘリコプター護衛艦「22DDH」が建造された。
    この艦名の選定時、一時は有力候補として「ながと」が浮上したが、最終的には2度の大戦を潜り抜け、半世紀活躍し続けた巡洋艦「出雲」から「いずも」と命名されることとなり*19、およそ70年ぶりの長門復活は幻となった。
    • なお「ながと」の名は山口県警の警備艇に名づけされてるほか、民間では「ながと丸」と言う名の船も数多く存在する。
  • 遺構はあまり残っていなかった長門だが、終戦時の接収作業を指揮した将校がフルサイズの軍艦旗を独自にアメリカに持ち帰っており、巡り巡って日本のTV番組「開運!なんでも鑑定団」に出品された(放送は2005/09/27)。
    同番組の司会を務めるタレントの石坂浩二氏はこの品を私財で買い取り*20、呉市海事歴史科学館に寄贈(寄贈式典の様子)。現在、同館の収蔵品となっている。

关于这只舰娘的评论

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掉落报告至出击掉落内的评论栏进行,感谢配合。


*1 実用上は何の問題も無かった。
*2 2011年発行の「歴史群像シリーズ 帝国海軍の礎 八八艦隊計画」ではVC305+VC152=457mmとVC203mm+VC305mm=508㎜説と両論併記されている。
*3 508mmの場合でも重ね貼りになるため耐弾性能は一枚板の508mmより落ちる事に加え、砲塔前楯のように-傾斜している部分については、そこに落角が付く砲弾が直撃した場合額面上の耐弾性能は期待できないため、どの道SHS弾を使用する米16インチ砲への対応防御としては十分ではない。
*4 1位はもちろん大和
*5 艦内配置の76mmの部分に関しては、弾片防御のために約25mmのHT鋼を三枚貼りしたものであるため、間違ってもVCやNVNCといった装甲と同じものであると勘違いしてはいけない。
*6 弾片防御用のHT鋼
*7 そもそも35,000t程度の艦に十分な防御を施す事は実質不可能であるため、ポストジェットランド型とは言っても大落角砲弾に対する認識が浅いまま建造された長門型は、元々水平防御よりバイタルパート部の舷側防御を重視した形ともなっており、防御構造自体が古い事もあって後から強化をするにしても限界があった。
*8 長門型の装甲配置については「図解 日本帝国海軍全艦船1868-1945 戦艦・巡洋戦艦 」 著者:石橋 孝夫 出版:並木書房 2007年 を参照
*9 ノースカロライナ級以降の米新型戦艦はより威力を増した大重量弾SHSを使用できるため、改装後の長門型でもバイタルパート部に砲弾が突入する可能性が高く非常に危険であった。
*10 大和型を除く
*11 ただし米16インチ砲は同距離で412~448mmの貫徹力を持つため、日本戦艦の垂直防御は不足していた
*12 ここで提示されている貫徹力とは落角などを考慮せず、砲弾が舷側に真横から当たるというあり得ない仮定を元に算出されているものであるため、あくまで目安程度にしかならないものであるという事には注意が必要。
*13 日本の14インチ砲の場合25,000mの時点で100mm程度の貫徹力しか無く、日本戦艦の水平防御が総じて米戦艦以上に低く、改装後も主に弾火薬庫のみが強化されただけで終わっているため、元々主甲板、弾火薬庫、機関室等の装甲が厚い米戦艦相手ではどの道日本戦艦の方が不利ではある。
*14 実戦に近い燃料2/3搭載時の過負荷全力運転では、新造時の長門型で25.5~25.9ノット。改装後は同条件で25.3~25.8ノットと誤差の範囲
*15 合計で18時間10分が24~26ノット。なお最大戦速は1分間、それ以上の「一杯」は9分間のみである
*16 榛名が26kt、羽黒が28ktであった事から実際には26kt以下だった可能性もある
*17 講談社の「少年倶楽部」1930年新春号附録の新案物識りかるた。この中には「鎮守府 横須賀 呉佐世保」という札もあったりする
*18 これを「コードトーカー」という
*19 名前が見送られた原因として、大戦時の連合艦隊旗艦であったこと、帝国海軍の象徴だったことによるネームバリューの大きさがあげられる。近隣諸国に配慮したという説もあるが、そもそも「出雲」は日中戦争の上海派遣艦隊の旗艦を務めた艦である。
*20 評価額は1000万円