イチローのファン

Last-modified: 2024-01-27 (土) 16:38:55

川﨑宗則(ダイエー/ソフトバンク→MLB→ソフトバンク→CPBL・味全→BCリーグ・栃木)のこと。

概要

川﨑はとにかくイチローへの重すぎる愛で知られ、MLBに挑戦したのもメジャーリーグへの憧れや高年俸ではなく、イチローとチームメイトになりたいからである。

 

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川﨑は自著「逆境を笑え 野球小僧の壁に立ち向かう方法」でイチローについても詳しく言及している。しかし、他の項目と比べてもイチローに関係する項目だけは豊かな表現力で生々しくイチローへの思いを綴ってあるため「ホモは文豪」という風潮に拍車をかけている

 

イチロー引退時には全く関係のない立場ながら川﨑の名前もツイッタートレンド入りした。

川﨑のイチローに対する発言で打線組んだ

上述にもある「重すぎる愛」がよく分かる発言。驚くべきはこれらの発言には全てソースがある、という事である…

(右)イチロー選手と同じチームだけを希望しています
(遊)しつこすぎるかな、と思うくらい話しかけた。嫌われるんじゃないかと思ったくらい。
(指)僕はストーカーですよ。アッハッハ!
(一)強いて言うなら、イチロー選手はおにぎりみたいな感じです。毎朝出てきてもOKですよ。
(三)この、世に、生まれて、きてくれた、こと。♪───O(≧∇≦)O────♪
(中)最近はイチローさんのヒット集DVDを見ながら寝ています。気持ちいいですよ。
(左)打てないときのイチローさんがすごくよかった。今までよりもっと好きになりました。
(捕)犬みたいなもんだからしょうがないですよね
(二)幻滅するんじゃないか、と思って会えなかった。会ってもっと好きになった
(投)WBCの時、イチローさんの隣のロッカーの取り合いをゴリとしました。自分は7勝2敗くらいでした。
代打1 (マリナーズ時代の背番号が61だったことから)「逆から読んだらイチローです」 「イチロー、ゲットアウト、マイウェイ!」
代打2 「メジャーでも、3Aでも、どこにいてもイチローさんは見ててくれているし、 僕の妄想の中ではイチローさんとも勝負できる

イチローを追い続けた歴史

以下、先述した川﨑の著書より引用。

1990年年代中盤

当時中学生だった川﨑は友達伝手でイチローの存在を知る。

当時の友達が、教えてくれた。どこにでもいるでしょ、情報屋みたいな友達が……その彼がすごい、すごいって大騒ぎしていた。
4割を打つかもしれないすごい選手がいるって。
イチローって言うんだって。
正直、誰だと思った。だって、知らないよ、鹿児島の田舎もんだから。おれは巨人戦しか見なかったし、ニュースの時間は寝てたから。だいたい、おかしいじゃん、イチローってカタカナだし。
すぐにスポーツニュースを見た。イチロー選手が打って、走る姿を見て、こんなスマートな選手がいるのかって、ビックリした。
あんなに体が細いのに誰よりも強い。誰よりも飛ばすし、誰よりも速い。

まさに、光だった。

そんな中、当時イチローが所属していたオリックスブルーウェーブが川﨑の地元鹿児島で公式戦を行うことになり、川﨑はその試合を見に行った。そしてその試合でイチローの走攻守すべてに魅了され熱烈なファンとなる

そんなとき、鹿児島にイチロー選手が来た。
あれは中学3年生のとき。
1996年4月16日、鹿児島の鴨池球場。ロッテ対オリックスの試合があると聞いて、お母ちゃんにチケットを買ってもらって、友だちと3人で行った。
まず、シートノックを見て、ぶったまげた。
肩、強えなぁ。
試合中、ライトライナーを滑り込みながら捕って、そのままビューンって投げたのも見た。試合が終わって、ファンに追い掛けられたのも見た。ファンがグラウンドに降りてって、イチロー選手のところへ行ったら、イチロー選手、ピューンって逃げた。それもビックリするほど速かった。
ホームランも打った。
おれはちょうど一塁側ベンチのすぐ上の席に座っていた。ヒット2本と、ホームラン。ヒットは伊良部秀輝投手、ホームランは成本年秀投手から打ったらしい*1。でもピッチャーが誰かなんて、関係なかった。イチロー選手は細い体をゴムみたいにしならせて、右中間へ特大のホームランを打ったんだ。

イチロー選手はおれにとっての宇宙じゃなかった。

もっと、もっと近くに見えた、光だった。

1999年~2000年

鹿児島工業高時代に「薩摩のイチロー」と呼ばれた川﨑はダイエーからドラフト4位指名されプロ野球選手になる。背番号はイチローの背番号に因み、1つ後ろの52にする。
2000年は一軍でプレーしなかったのでこの時イチローと会うことは無いまま、2000年オフにイチローがMLBに挑戦する。

2006年

その後ダイエー、ソフトバンクの主力選手として成長した川崎は第1回WBC日本代表に選ばれ、イチローと初めてチームメイトになる

そのときが来た。ついに会ってしまうのか。
これが24歳で来るのか、と思った。
よっしゃあ、という感じじゃない。これはもう、やるしかないんだという、想像しただけで吐きそうなほどの緊張感。何しろただの一度も面識はないのに、いきなりのチームメイトだ。
最初に会ったのは、集合場所になっていた福岡のホテルのエレベーターだった。初めてのミーティングに行こうと、エレベーターを待っていた。そのとき、エレベーターから何人かの選手が降りてきた。
そのとき、あれっ、誰がいるんだ、という強烈なオーラを発する人がいた。
イチローさんだ。

ボーって、頭が真っ白になった。こういうとき、人間の頭って、ポーンとどっかに飛んでいくんだということを知った。ふと我に返って、オイ、おれは何をしなきゃいけないんだと考えた。そうだ、挨拶しないといかん。
「はじめまして、イチローさん、ソフトバンクの川崎です。よろしくお願いします」
そうしたらイチローさん、こう言った。
「あーっ、ムネ君でしょ」
その先のことはもう、何も覚えてない。もっと真っ白になった。
ミーティングでは王さんが何かしゃべってたけど、何も聞こえてこなかった。監督には申し訳ないけど、でも、仕方がない。一番前に座っていたイチローさんのことが気になって、しょうがなかった。
イチローさんからいきなり「ムネ君」と呼ばれてしまったのだから、天にも昇る気持ちだった。

事あるごとにイチローの近くに居ようとするものの、同じくイチローのファンである青木宣親今江敏晃もいたせいで独り占めできなかった模様。

2009年

第2回WBC日本代表にイチローと共にまた選ばれる。この大会中大不振で悩むイチローの姿を見て「更に好きになった」という。

2011年

シーズン終了後、FA権を行使してMLB挑戦。FA行使の会見で移籍先はイチローが所属するマリナーズに絞り、マイナー契約でも移籍する意思を表明。そして冒頭に貼られてある画像の発言をし、いよいよイチローへの愛のヤバさが広く知れ渡ることとなる。

2012年

スプリングトレーニングで結果を出し、見事マイナー契約からメジャー契約を勝ち取ってイチローとチームメイトになる。なお、今まで付けていた背番号52は別の選手が付けていたため、逆さまにすると「イチロー」になることから背番号を61にした
実力で夢を叶えた川崎を称賛する声が挙がる一方、よほどイチローとチームメイトになれたのが嬉しかったのか守備練習中にイチローと2ショットになった写真をTシャツにプリントして着る、イチローにケツタッチした手の匂いを嗅ぐ行動を目撃される*2など行動のヤバさに拍車がかかるようになる。
しかしこの年の7月にイチローニューヨーク・ヤンキーストレードされてしまい僅か4ヵ月で離れ離れになってしまう。
川﨑自身もオフにマリナーズから放出され、トロント・ブルージェイズとマイナー契約を結ぶ。

2013年

ブルージェイズでもメジャー契約を勝ち取り、イチローが所属するヤンキースとブルージェイズは同地区で対戦が多く組まれているため別チームながらイチローと会う機会が増える。
そのヤンキースとの試合でイチローが日米通算4000本安打を達成。川崎は達成の瞬間に守備に就いていたためイチローの偉業達成の瞬間を間近で目撃する。イチローへの強すぎる愛が起こした奇跡である。この時、テレビの放送ではイチロー日米通算4000本安打達成のニュースが字幕スーパーで流れたのだが、その字幕スーパーと川崎の顔が被り、川崎があたかもメガネを掛けているように見える画像が話題になる。この日米通算4000本安打目となった打球を川崎はこっそり手に入れようとするも失敗に終わる。
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2017年~2018年初頭

2016年にシカゴ・カブスへ移籍すると、14試合26打席のみではあるがやはりそのムードメーカーぶりからワールドシリーズにも帯同し、108年ぶりのカブス世界一を見届け、地味にイチローも達成していないチャンピオンズリングを頂く快挙を達成するも、FAとなる。のちにマイナー再契約となり、翌2017年オープン戦では結果を残していた。そのオープン戦で古巣マリナーズ戦でクラブハウスに突撃する様子を捕らえられ、「マリナーズのクラブハウスに忍び込んでイチローを調査している」とネタにされた。が、直後に解雇の憂き目に遭い、前述の通り、日本球界に復帰。
しかし、負傷気味の体を押して出場はしたが結局42試合の出場にとどまった。さらには2018年開幕前に自律神経の病気によりソフトバンクを退団、イチローより先に半ば引退状態となる*3
自律神経の病気は相当酷く、川崎自身野球界への復帰すら諦めかけていた時もあった。そんな川崎を野球界へ引き戻したのは他でもないイチローだった。

また本格的に野球をやってみようと思わせてくれたのは、やっぱりイチローさんでした。イチローさんはオフになると、ほっともっとフィールド神戸で自主トレをしていたんですが、マネージャーさんが「来てみる?」と声をかけてくれたんです。その頃はまだ電車にも乗れない状態だったので悩みましたが、とにかくイチローさんに会いたいという気持ちが強くて、思い切って新幹線に飛び乗りました。無事に神戸に到着でき、「あっ、行けたわ!」って感じでした。

自主トレに参加させてもらう前から、ちょっとずつはトレーニングみたいなことができるようにはなっていたけど、まだ本格的なトレーニングをするのはちょっとキツい感じでした。まだ体は痩せていたし、自主トレに参加するというより、イチローさんに会いに行ったというのが正直なところです。

球場に行ってイチローさんの姿を見つけ、すぐさま挨拶に行ったんですけど、「よく来てくれたな。ありがとう!」的な言葉をかけてくれたように記憶しています。ただそれ以上に、彼の表情を見ただけでホッとして、僕はワンワン泣いていました。イチローさんは厳しい表情をする時もあるんですが、その時の笑顔は本当に優しくて、僕を包み込んでくれているように感じられたし、すごく気持ち良かったのを覚えています。とにかくイチローさんの笑顔が仏様のように見えましたね。感情が一気に込み上げてしまいました。

ただあれだけ野球を愛しているイチローさんの前で「野球をやめました」なんて言えなかったし、言いたくもなかったんです。でもそんな思いを突き抜けて、野球選手ではなく、川﨑宗則というひとりの人間として会いに行けたことがすごく良かったです。イチローさんは、まだ普通にトレーニングできそうにない僕を、快く「一緒に練習しようよ」と受け入れてくれたんです。それもすごくうれしかったですね。僕も「やりましょう! 守ります!」っていう感じで、気持ち良く一緒に練習させてもらいました。

練習中もずっとイチローさんに感動させられっぱなしでした。一緒にキャッチボールをすれば、「相変わらずイチローの球は痛えな」と思っていましたし、バッティングを見ていても「やっぱりこの人はすげえや」と唸っていました。

そんなイチローさんの姿を目の当たりにして、中学時代に感じていたことを思い出していました。「この人のおかげで、僕は野球が心底好きになり、野球選手になれたんだ」と。野球をやめてからはもうイチローさんに会うことはないだろうと思っていたので、改めて一緒の時間を過ごし、「また野球をやってみたい」と思えるようになっていました。

2018年暮れ~2019年頭

長らく消息不明状態だったが、阪神を戦力外になった西岡剛(現BC栃木)がトライアウトを受けるための練習相手になったことがニュースとなり、ファンを安堵させる。また、前述の通りイチローの自主トレに参加する。

2019年

イチローが正式に引退を表明する。その一方で川崎は台湾の味全ドラゴンズに選手兼任コーチとして現役復帰することとなり、この時初めて引退したイチローに対して言及した。
https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/526963/

「台湾野球目いっぱい楽しむ」 現役復帰表明の元ソフトバンク川崎氏

イチロー氏引退悲しくない!? 一緒に「ご飯いけるんでね」

川崎氏は3月に現役を引退したイチロー氏にも言及した。開場3時間前の午前6時から並んでいた高雄市在住の女性ファンから「イチロー選手が引退して泣きましたか? どんな思いでしたか」と質問。川崎氏はイチロー氏への憧れや2006年WBC以来の親交を振り返り、「すごく仲良くさせてもらっている、大好きな大尊敬する先輩」と形容。「日本で彼が引退試合をした時には皆さんすごく悲しんだと思う。もうプレーが見られないから。ただ僕はご飯いけるんでね。悲しくないですよ」とニヤニヤしていた。

なお、上記記事を読んだ川崎の素性を知る多くのネット民には、これまでのイチローに対する発言を踏まえられて「ただ僕は(イチローさんと一緒に)ご飯(食べに)いけるんでね」という意味の所を「ただ僕は(イチローさんの事を思うだけで)ご飯いける(食べられる)んでね」と誤解されてしまった模様。

関連項目


*1 この試合は6-8でオリックスが敗戦。ロッテは伊良部-成本の継投だった。
*2 ケツではなくグローブ、また匂いを嗅いだあと舐めているなどの意見もある。
*3 厳密に言うと引退ではなく自由契約。