インテリヤクザ

Last-modified: 2020-11-22 (日) 09:37:26

武闘派ではなく知的なヤクザのこと。その知力を駆使して経済面から組を支える。
外見はヤクザに見えないことも多く、転じて「ドス黒い裏の顔を持っている人物」「怒った時のギャップが大きい人物」などを指す。
金田正一大沢啓二星野仙一■■■■緒方孝市といった「怒りを全面に出し相手を恫喝したり暴行するような武闘派タイプ」は含まない。


野球界のインテリヤクザの一例

  • 牛島和彦(元中日→ロッテ、現野球解説者)
    生徒のガラが悪いことで知られた浪商高等学校(現・大阪体育大学浪商高等学校)出身。「ドカベン」こと香川伸行(元南海/福岡ダイエー)とバッテリーを組み甲子園で旋風を巻き起こしたが、それ以上に「浪商の総番」「練習に来ず、試合だけ出ては結果を残す」「関東・関西・名古屋それぞれで100人斬り達成」などの伝説が有名。もっとも本人は「そこまではしていない」と否定するが、当時の表番長だった赤井英和(元プロボクサー)は「僕なんかより牛島さんの方がやんちゃだった」と語っており、ついたあだ名は「牛島組長」や「くみてふ」。
    普段は薄笑いを交えながら無表情で佇んでいるが目は笑っておらず、審判へ抗議する際や選手に対する怒りをあらわにする時には筋モンも真っ青の鋭い眼光を見せる。
    横浜監督時代の2005年5月28日には、不振で7番から9番に下げられてしまった村田修一に「9番の次の打順は何だ?」と問い掛けたところ「1番です」と返答され、「アホか!次は無いんじゃ!!」と一喝。この試合で決勝ホームランを放った村田はヒーローインタビューで「生死を賭けて打ちました」と答え、牛島も「ずっと9番においておこうか」とまで言わしめた。*1
    しかし恫喝一辺倒ではなく、まだ高卒新人だった中日・中利夫政権時代、当時投手コーチだった稲尾和久が投手陣に「9回フルカウントで何を投げるか」と質問した際に、牛島だけが「自分はわからない」と答え*2、その内容は稲尾が現役時代に実践していた投手理論と一致していたという。まさにインテリヤクザ。
  • 高田繁(元巨人、現在はDeNA親会社のフェロー職)
    牛島を浪商に誘った張本人で、「御大」こと島岡吉郎監督率いる明治大学の出身。巨人の元祖エイトマン*3
    普段は常にニコニコしており温和なおじいちゃんのような雰囲気を醸し出しているが、1976年に「暴れん坊」で有名かつ浪商の先輩でもある張本勲が移籍してきた際、「巨人では俺の方が先輩」と対等な口をきく*4など凄まじいインテリヤクザぶりを発揮。さらには闘将として知られる明治大学の後輩である星野仙一唯一頭の上がらない人物で、「温厚そうだなんてとんでもない、本当の高田さんを知らないだけだよ」とまで言わせている。
    また、あの島岡吉郎御大を在学中怒らせなかった伝説すらある*5
    上記の「温和なおじいちゃん」といった雰囲気に反し、ヤクルト監督時代には負けが込むと人殺しのような眼光を見せることもあり「頭を割って、中を見てみたい」「論ずるに値しない」「ファーストの男」など、キンタマがキュッとなる名言をいくつも残している。
    一方で高田辞めろと少年ファンからヤジを浴びせられ心を折られて監督を辞任したり、DeNAのGMとして最後の仕事となった2018年ドラフト一面会議で報徳学園高・小園海斗(現広島)のくじを外し即戦力外となって退出するなど、インテリヤクザに似つかわしくないネタキャラ的な逸話も持ち合わせている。
  • 関根潤三(元近鉄→巨人、故人)
    1950年代から60年代前半にかけて活躍。特に近鉄パールス時代は投手・打者双方で活躍し元祖二刀流の一人である。引退後は広島と巨人でコーチを務め、監督として大洋・ヤクルトなどの土台作りに貢献。
    晩年は解説者として穏やかな風貌と雰囲気の印象が強かったが、その実「売られたケンカは買う」「言葉より手が先に出る」というタイプ。
    旧制日大三中時代からの親友・根本陸夫をして「関根は本当は絶対怒らせてはいけない奴、あの底恐ろしさはインテリヤクザだよ」と言わしめ、巨人と広島で同僚だった広岡達朗「関根さんは怒らせてはいけない」と語っている。
    引退後のエピソードも多数あり、「広島コーチ時代に衣笠祥雄が反抗的な目をしていたから朝まで素振りに付き合った」「ヤクルト監督時代にマウンドで投手に対し笑顔で『ここで打たれたら怒るよ』と言いながら足を踏み付ける」「テレビ番組で『ここ(頭)を狙ったデッドボール、ありますよね?』と振られ『ありますよ。でも頭はダメ、ここ(頭)から下でないと』あっさり認める」等々、他にも「覚せい剤」発言など、野球ファンを長らく震え上がらせていた。
    2020年4月に死去した際は、その人柄を惜しむ声と等しく、数々の武勇伝も蒸し返されることとなった。
    関根氏の巨人コーチ時代に一年だけ接点のあった上記の高田繁は「本当に温厚でジェントルマン、怒鳴ったりした姿は一度も見たことがない」とコメントした(ソース)。


インテリヤクザの眼光

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関連項目


*1 この話には続きがあり、翌年に吉村裕基が9番に座ることになった際に村田は吉村に同様のことを説いたが吉村は村田と同様の返答をした。そのことを牛島に「あいつアホですわ。1番って言いましたよ」と告げ口した村田だったが逆に「いやーあいつは足速いから1番あり得るぞ。お前はないけどな」とさらなるダメ出しを食らってしまった。
*2 どのような状況でフルカウントになったかによって最後に投げる球も変わってくること、また当時はフォークを完全にマスターしておらず、これという決め球を持っていなかったのも理由の一つだったとのこと。
*3 ちなみに二代目は原辰徳、三代目は仁志敏久
*4 張本が日本ハムから移籍してきたことで不本意ながら左翼手から三塁手へのコンバートを強いられた経緯もあった。さだまさしはグレープ時代の『朝刊』という曲で「高田の背番号も知らないくせに」と歌っている。長嶋監督の解任と高田の引退、そして後年ヤクルト監督になることで、さだがヤクルトファンになることを予見していたのかもしれない。
*5 鉄拳制裁の代名詞でもある島岡に殴られたことがないのは高田と星野だけだった。一例として「風呂の温度は監督の好みの温度にいつも調整されていた(先に高田が入浴していた説も)」という逸話がある。