赤星憲広が亜細亜大学時代を回顧したときの感想。
転じて、亜大の日本一厳しいと称される野球環境を示す言葉として使われる。
【目次】
概要 
赤星は高卒時点でプロ入り候補にも挙げられるほどの選手だったが、体格の小ささなどもありスカウトには大学で経験を積むことを勧められ、本人にもプロでやっていける自信がなかったため亜細亜大学への進学を選択*1。
当然野球部へと入部したのだが、そこには「軍隊」や「地獄」とも形容される恐ろしく厳しい練習や上下関係が待っており、赤星も一時は逃走を図ったほど*2だった。
しかし、後輩の進学のルートを消したくなかったこと、その厳しすぎる環境に逆に反骨心が芽生えたことなどから赤星は意を決して野球部に戻り、大学野球を4年間全うして社会人・JR東日本へと就職。2000年のドラフト会議で阪神へ入団し鮮烈な活躍を残す事となる。
そんな大学時代の事を回想し、自著で綴った言葉が以下のものである。
- 「なんでこんなところに来てしまったんだと思っていた」
- 「あそこに入って野球を始めた日から終わる日まで、一回もよかったと思ったことはない」
- 「(もし厳しさを知っていたら)進学先に選んだかどうかははなはだ怪しい」
- 「もう1回、あの4年間をやるかと言われたら、絶対に無理」
- 「何億とお金を積まれても無理」
- 「もう思い出したくも無い」
このように、大学での経験がトラウマレベルに深く刻まれている事を明らかにし、今ではタイトルのような文面に変わって広まっている。
亜大の様子 
この厳しさに関しては赤星に限らず、井端弘和など他の多くのOBも「間違いなく日本一厳しい野球部」などと同様の感想を述べている。
よく語られる事例としては
- 練習中の嘔吐は当たり前。
- 高校時代に有望視されていたビッグネームが数日で退部した。
- 他大の野球部に練習風景を見せたらドン引きされた。
- 寮では同部屋の先輩が戻ってくるまで後輩は全員正座して待つ。
- 規律を破った者は部員一人一人に謝罪して回る。
- 後のプロである吉川尚輝(巨人)が練習に参加して直ぐ入学を取り消す*3。
- 同じく後のプロである河村説人(ロッテ)も入学後すぐに肩を壊し前期終了と同時に中退し翌年星嵯大学に入学*4する。
- コミュ力お化けの山崎康晃が「在学中に笑顔を見たことがない」と言われる*5。
- JR東日本の堀井哲也監督(当時)が亜大中退後に母校の二松学舎大付属高校で練習していた小杉陽太*6をスカウトすべく投球を視察した際、「目が死んでないから安心した」と発言する。
- 井端曰く、亜大野球部OBに教員免許持ちが多い理由は「より多くの授業を受ける必要がある上に、教育実習にも行くので練習を回避できるから」*7*8。
などがある。
特殊な例 
亜大野球部でキャプテンを務めた松田宣浩は、他のOBとは真逆の感想を述べている。
ソフトB・松田「熱男」の原点、亜大野球部の強さの秘密を語る - ココカラnext
https://cocokara-next.com/athlete_celeb/nobuhiromatsuda-origin-01/
よく、亜細亜の野球部は厳しいと言われますが、僕は厳しいって思ったことはないですね。人間的に成長させてもらいました。あの4年間が、今を作っている、頑張らせてくれていると思っています。いい時も悪い時もありましたが、チャレンジできる精神力を作ってくれたと感謝しています。4年間、アツい気持ちを持ってやってくることができました。
(中略)
毎年オフに亜細亜出身のプロ野球選手で集まって大学のグランドで練習をしているのですが、そこで後輩たちに何か感じ取ってもらえれば、少しでも大学に恩返しができているのかなと思っています。毎年のように亜細亜出身のプロ野球選手が出てくるのは、先輩たちから受け継いだそういった伝統があるからだと思います。
松田は同大学の部員が不祥事を起こし、 対外試合禁止処分を受けて二部リーグに降格、という非常に苦しい代で主将を務めた結果がこの感想である。