大正義ドラフト

Last-modified: 2022-05-22 (日) 02:41:53

指名・入団した選手において、目覚ましく活躍した選手が多いドラフトのこと。


【目次】


概要

ドラフト会議で指名できる選手のレベルは各年でまちまちであり、不作の年もあれば豊作の年もある。その中の大豊作の年において、ドラフト戦略が成功すれば一軍で活躍できる選手を何人も獲得できる可能性がある。後に指名した選手の成績を振り返って一流クラスの成績を残した選手が多いドラフトを大正義ドラフトと言うようになった。
大正義ドラフトと言われる明確な基準は無いが、長期に渡ってレギュラークラスの成績を残すことができた選手が3人以上、または育成から支配下登録され一軍出場を果たした選手がより多くいれば大正義ドラフトと言えるだろう。


大正義ドラフトの例

名球会入会者は赤字で記する。「契約状況」欄は入団拒否の選手が同期に存在しない場合省略。


1968年 阪急ブレーブス

順位名前守備位置所属契約状況
1山田久志投手富士製鐵釜石*1入団*2
2加藤秀司内野手松下電器入団
3長谷部優投手岸和田高拒否*3
4柳橋明投手日本大学山形高拒否*4
5新井良夫投手埼玉・大宮高入団
6島崎基慈内野手大分商業高入団
7福本豊外野手松下電器入団
8柿本進内野手和歌山・星林高拒否*5
9切通猛外野手東芝入団*6
10三好行夫内野手日本鉱業*7佐賀関拒否
11村上義則投手香川・小豆島高拒否*8
12門田博光外野手クラレ岡山拒否
13石井清一郎外野手大宮工業高入団
14鈴木博投手栃木・小山高拒否*9
15坂出直投手鳥取・倉吉東高拒否*10

大正義ドラフトの代表例でよく挙げられる。1位山田、2位加藤、7位福本の3人が長きに渡り主力として活躍し、いずれも後に名球会入りを果たした
入団拒否されたものの、12位指名の門田もこの翌年に南海ホークス入団*11。歴代3位となる通算本塁打数と通算打点数の成績を残して名球会入りを果たしたため、このドラフトでは実に4人の名球会入会者がいたことになる。
この年は投打ともに大豊作の年であり、他球団を見ても星野仙一山本浩二・田淵幸一・大島康徳・有藤通世・東尾修などがプロ入りをしている*12

なお、入団拒否者が多いのは当時のプロ野球選手が現在ほど安定した職業とは言えなかったためであり、どの球団でも入団拒否者が多かった*13。拒否者が多すぎて戦力補強にならない球団もあったため、救済策として1990年まではドラフト指名されなかった選手をドラフト後に入団させることができるドラフト外入団が認められていた*14


1987年 南海ホークス

順位名前守備位置所属
1吉田豊彦投手本田技研熊本*15
2若井基安内野手日本石油
3柳田聖人内野手延岡工業高校
4大道典良外野手明野高校
5吉永幸一郎捕手東海大工業高
6村田勝喜投手星稜高

1位から6位までまんべんなく戦力となったドラフト。プロ野球選手の平均寿命が7.7年*16の中、吉田は20年間、柳田は14年間、若井は12年間、吉永は16年間、大道に至っては23年間現役生活を続けた。一番短い村田勝喜ですら10年間であり、しかも2ケタ勝利3回を含む通算54勝を挙げている。
他の例ほど派手ではないが、まんべんなく当たったという点ではまさに大正義と言えるだろう。


1996年 福岡ダイエーホークス

順位名前守備位置所属
1井口忠仁*17内野手青山学院大学
2松中信彦内野手新日本製鐵君津*18
3柴原洋外野手九州共立大学
4倉野信次投手青山学院大学
5岡本克道投手東芝
6村上鉄也投手東北福祉大学
7新里紹也内野手沖縄電力

根本マジック」「反則ドラフト」と呼ばれ、ドラフト1位級の野手を3人獲得する離れ業を達成した大正義ドラフト*19
1位井口、2位松中を逆指名制度で獲得。3位柴原は当時中日が1位指名を公言するなど他球団も獲得を検討していたが、「ダイエー以外から指名された場合ローソン*20*21入社」を公言させ、他球団が指名を回避し見事3位で獲得。
井口は後にメジャー挑戦。日本復帰時はロッテに入団、引退までロッテで現役を全うしたが、ダイエー在籍中は盗塁王やシーズン100打点を記録するなど中軸として活躍。松中は打撃タイトルを総なめし平成唯一の『三冠王』を獲得、2006年WBCで4番を務め世界一という大活躍。柴原も後に秋山幸二から背番号1を継ぎ外野手のレギュラーを長年にわたって務めた。倉野と岡本も10年以上選手として在籍、一軍でもそれなりの成績を残すなど、ホークス黄金期の礎を作ったドラフトとも言える。また倉野は現役時代、優勝年に活躍できなかった*22ものの、引退後にホークス投手コーチとして投手育成での貢献度が高いことを含めても獲得して成功だったと言えるだろう。*23

余談だが、この年はアトランタオリンピックが開催された後であり、前年ドラフトでは指名凍結されていた選手の指名が可能となったことで社会人チーム所属選手が豊作だった。


1998年 中日ドラゴンズ

順位名前守備位置所属
1福留孝介内野手*24日本生命
2岩瀬仁紀投手NTT東海*25
3小笠原孝投手明治大学
4蔵本英智*26外野手名城大学
5川添將大投手享栄高
6矢口哲朗投手大宮東高
7新井峰秀外野手高麗大学中退

この年のドラフトは1968年と同じく、NPB史上屈指の大豊作ドラフト(主な選手:松坂大輔上原浩治藤川球児など)として知られるが、中でも(1968年の阪急と同じく)後に名球会入りした選手を複数人獲得した中日の成功ぶりが際立っている。

3年前(1995年のドラフト)で7球団が競合し、最終的に抽選によって近鉄が交渉権を獲得した*27ものの、事前に「意中は中日か巨人」*28と宣言し入団拒否した福留*29と、小学校時代から大学・社会人まで一貫して愛知県でプレーしていた岩瀬*30をそれぞれ逆指名で獲得。福留・岩瀬共にルーキーイヤーから新人王クラスの成績を残すと*31、前者は2007年オフにMLB挑戦のためFA宣言して中日を退団するまでに首位打者2回*32・リーグMVPを1回獲得したほか、広いナゴヤドーム本拠地としながらシーズン30本塁打以上を2回にわたり記録。後者も2003年までは不動のセットアッパー*33として、2004年以降は不動の守護神*34として中日投手陣を牽引。2人とも後に名球会入りを果たした
また逆指名の2人ほどの活躍ではないが、小笠原も不安定な面はありながら先発ローテの一員として(時に予想外の活躍もあった)、(蔵本)英智も打撃は非力ながら強肩・俊足で、それぞれ度々チームの勝利に貢献。2000年代中頃~2011年まで(落合博満監督時代)の中日の黄金時代の原動力となったドラフトと言え、川上憲伸(逆指名1位)・正津英志*35(3位)・井端弘和(5位)といった好選手たちを獲得した前年(1997年)のドラフト*36とともに、星野仙一監督や当時のスカウト陣の手腕が高く評価されている。


2001年 西武ライオンズ

順位名前守備位置所属
自由枠細川亨捕手青森大学
2中村剛也内野手大阪桐蔭高
4栗山巧外野手育英高
5竹内和也投手近江高

(※1位・3位は選択権なし)
わずか3人の少数指名(細川はドラフト前に「自由獲得枠制度」で入団)*37ながら、入団した4人中3人が第一線で活躍した*38少数精鋭ドラフト。
正捕手に定着した細川は後にソフトバンクへFA移籍したが、その後も楽天、ロッテと計4球団を渡り歩きつつ2020年まで活躍。
中村はライオンズ一筋でプレーを続け、「おかわり君」の愛称で親しまれるNPBを代表するスラッガーに成長。そして、中村とともに20年間ライオンズ一筋でプレーしている栗山はリードオフマンかつチームリーダーとしてチームの勝利に貢献し続け、2021年には西武の生え抜き選手として初の2000安打達成を果たした。


2010年 福岡ソフトバンクホークス(育成大正義ドラフト)

順位名前守備位置所属
育成1安田圭佑外野手高知ファイティングドッグス
育成2中原大樹内野手鹿児島城西高
育成3伊藤大智郎投手愛知・誉高
育成4千賀滉大投手愛知・蒲郡高
育成5牧原大成内野手熊本・城北高
育成6甲斐拓也捕手大分・楊志館高

育成最下位からの3人が一軍戦力になった激レアドラフト。
千賀と甲斐はエースと正捕手として一軍で活躍、日本代表級の戦力となり、牧原も守備が光るユーティリティプレーヤーとして一軍に定着している。
育成指名される選手とは、即ち本指名で指名されるレベルではない選手ということであり、戦力となる可能性は本指名選手より圧倒的に低い。そのため育成ドラフトで何人指名しようが、1人でも支配下登録されて一軍の試合に出れた程度でも十分成功と言われる。千賀、甲斐と比べると見劣りする牧原ですら育成ドラフト出身者という点では大成功と言っていい部類であり、これら3人を見出したスカウトの眼力が光ったドラフトと言えよう*39
ちなみにこの年本指名では柳田悠岐を2位で指名しているため、ドラフト指名全体を見ても日本代表クラスのエースと正捕手と主砲を輩出する大正義ドラフトとなった。


関連項目


*1 後の新日鐵釜石。1988年に野球部解散。現在の日本製鉄東日本製鉄所釜石地区。
*2 翌年シーズン中に入団。
*3 慶応義塾大学に進学。
*4 日本石油(現ENEOS)に入社。
*5 青山学院大学に進学。
*6 1位指名の山田と同じく、翌年シーズン中に入団。
*7 今日のENEOSの母体となったジャパンエナジー(JOMO)の前身企業の一つ。
*8 大倉工業を経て1970年のドラフト会議で中日から4位指名を受け入団。
*9 日本大学に進学。
*10 明治大学に進学。
*11 その後1989年にトレードでオリックス入りしたため、21年越しに入団が実現したともいえる。
*12 巨人に1位指名された島野修は選手としては活躍出来なかったが、その後阪急(オリックス)ブレーブスのブレービーやオリックス・ブルーウェーブのネッピーといった球団マスコットのスーツアクターとして18年間活躍し、プロ野球におけるマスコット文化の礎を築いた。
*13 現在と比べて指名人数が多いのも上位指名選手の入団拒否に備えた保険の意味合いがあると思われ、上位である程度の入団が決まると下位は交渉打ち切りとなったケースもあった模様。
*14 なおドラフト外入団は有望な選手を進学や就職を理由にドラフト指名を回避させ、ドラフト外で入団させる「囲い込み」が横行したため、練習生制度(現在でいう育成選手制度)と共に廃止された。なお練習生制度を経由してプロ入りした選手として伊東勤ら、ドラフト外でプロ入りした選手には大野豊秋山幸二石井忠徳(琢朗)などがいる。
*15 後のHonda熊本硬式野球部。
*16 ただし2020年の数字。
*17 2000年末より登録名を「井口資仁」に変更。現千葉ロッテ監督。
*18 現在は日本製鉄かずさマジック。
*19 『球界の寝業師』と呼ばれた当時の福岡ダイエーホークス代表取締役専務・根本陸夫氏(故人)が由来。現在のGM職を指す編成責任者としての手腕は確かなもので、賛否両論こそ起こしたものの選手獲得にありとあらゆる手を駆使し主にライオンズとホークスを常勝軍団へと生まれ変わらせた。球団ファンの間ではチームを再建し黄金時代を到来させた立役者として、今なお称えられる人物。
*20 2002年まで硬式野球部が存在し何人かプロ選手を輩出した。ローソンの当時の親会社がダイエーなので、いわゆる囲い込みである。囲い込みは根本氏が得意としたことの一つで、西武時代にもプリンスホテル(2000年廃部)に野球部を作り、同様の囲い込みを行なっていた。他にも、有望な高校生を九州共立大に進学させる囲い込みもあった(高校生は逆指名の対象ではなかったため)。
*21 但し、あまりの囲い込みの横行度合いにアマ側がキレた話もある。一例として、明治大学・平田勝男(現阪神二軍監督)をプリンスホテルに入れて囲い込みをしようとした際に島岡吉郎(当時の明治大学野球部監督。故人)の怒りを買ってしまい、プリンスホテル野球部が廃部になった後の2003年に岡本篤志が指名されるまで、明治大学から西武の指名はなかった。
*22 倉野の現役時代、ダイエーは1999年・2000年・2003年とリーグ優勝を果たしているが、倉野自身はいずれの年も1桁登板に終わっており、自身がキャリアハイを記録した2004年にはチームは(レギュラーシーズンは1位で終えたものの)優勝を逃している。ちなみに岡本は1999年と2000年は故障で低迷していたものの、2003年には中継ぎエースとして優勝・日本一に貢献している。
*23 残る2人のうち、7位指名の新里は沖縄の社会人チーム出身者としては安仁屋宗八以来でドラフト制度導入後では初のプロ入りであり、98年の一時期ではあるが守備固めとしてシーズンの半数に出場した。同期入団選手のうち、唯一一軍出場がなかった6位指名の村上は引退後、宮城県で介護の仕事を経て楽天の球団職員として在籍している。
*24 当時は遊撃手だったが、守備難から後に外野手に転向。
*25 NTT東海硬式野球部は、後にNTT西日本名古屋野球クラブとなるが2002年に解散。
*26 結婚及び改姓(婿養子のため)により、2004年から登録名を「英智」に変更。
*27 この時、当たりクジを引いた当時の近鉄監督・佐々木恭介が「ヨッシャー!」と絶叫したことで知られる。結局福留は事前の表明通り入団拒否したものの、2002年の大ブレイクは同年から中日の打撃コーチに就任した佐々木による打撃フォーム改造指導(および山田久志監督による外野コンバート)の賜物とされており、今でも佐々木を慕っている。
*28 福留は少年時代、地元の鹿児島県大崎町に近い宮崎県串間市で行われていた中日の春季キャンプを頻繁に見に行っていたが、その際に若手だった立浪和義からグラブやバットなどをもらったことが縁で立浪に憧れ、彼と同じPL学園高校に進学していた。また、当時はセ・パ両リーグの格差が現代以上に大きく、田舎では巨人戦(及び巨人が所属するセ・リーグの試合)程度しかテレビ中継されていなかった。九州とはいえ、福留がPL学園に入団する前(1992年まで)のダイエーはまだ福岡に移転してきたばかりで弱く、鹿児島~福岡間の交通の便も現代ほど良くなかった(九州新幹線は未開業)のである。このこともあって、福留は「(立浪のいる)中日か、(地元でテレビに映る機会が多い)巨人以外なら日本生命に進む」と宣言していた。
*29 当然、中日や巨人も指名していた。その後は両者共に外れ1位で原俊介(捕手・東海大相模高)を指名するも、競合で逃した中日は、その外れで後の正二塁手となる荒木雅博を指名した。さらには2位(逆指名)で門倉健を、4位で渡辺博幸を指名しており、こちらも十分当たりドラフトである(逆に原俊介は致命的な守備難が災いし大成しなかったが、巨人は2位で仁志敏久、3位で清水隆行を指名しておりこちらも当たりドラフトと言える)。なお、中日は2位を門倉、3位を捕手の藤井優志で決めていたため、福留や原をクジで当てていた場合、荒木は4位指名以降でなければ獲れなかった。
*30 星野監督がスカウト陣に対し「地元の逸材を見逃したら許さない」と発破をかけていたところ、当時スカウトを務めていた近藤真市(岩瀬の代名詞である背番号13はかつて彼が着用していた)が「4回くらいまでいい投球をするピッチャーはいます」と岩瀬を推薦。星野は「1イニングでもしっかり抑えられれば十分」と岩瀬の獲得を決断した。
*31 福留は主に遊撃手として132試合に出場して.284、16本塁打、52打点。岩瀬はリリーフとして65試合登板(リーグ最多登板)、10勝2敗1S、防御率1.57。なお新人王は20勝4敗、防御率2.09(最多勝、最優秀防御率、最優秀投手、沢村賞)を記録した上原。
*32 2002年と2006年。
*33 当時は宣銅烈(1999)、エディ・ギャラード(2000-2003途中)、大塚晶則(2003途中-終了)が抑えを務めていた。
*34 2022年現在で歴代最多の407セーブ(2位の高津臣吾(現ヤクルト監督)に100セーブ以上の差をつけダントツトップ)をマークした。
*35 NTT北陸からドラフト3位で中日に入団(1998-2004)→西武(2005-2009)。1998年は新人王こそ同僚の川上に奪われたものの、入団から4年連続で40試合以上に登板し、「その活躍は新人王級」と高く評価されていた。優勝した1999年には岩瀬や前田幸長、中山裕章、落合英二、サムソン・リーとともに、守護神の宣につなぐ強力中継ぎ陣を形成した。
*36 またこの3人以外にも、1999年に二番手捕手を担いその後も息長く活躍した鈴木郁洋(→近鉄・オリックス)を4位で、2004年・2006年のリーグ優勝時に代打の切り札として活躍した高橋光信(→阪神)を6位で獲得している。
*37 同年のドラフトから、大学生・社会人の選手を2名までドラフト会議前に獲得できる「自由獲得枠制度」(かつての逆指名制度)が導入された。
*38 なお、この中で唯一一軍公式戦出場なしに終わった竹内は2004年に自主退団(戦力外通告ではない)しており、その後は旭中央クラブ(現・横浜中央クラブ)を経て地元京都のクラブチーム・京都城陽ファイアーバーズ(移籍当時は「京都ファイアーバーズ」)に入団し、2021年現在は選手兼任監督として現役を続行している。
*39 この年に限らず、ホークスの育成選手はよく当たりその後も大竹耕太郎や周東佑京など多くの1軍戦力を輩出している。年度によっては本命のはずの本指名の選手より育成選手の方が活躍している事すらあり、育成指名が本番と揶揄されることもある。例としてここで挙がっている2010年も、本指名は柳田以外は全員一軍に定着出来ず、2017年に1位の山下斐紹が楽天にトレードされ、4位の星野大地と5位の坂田将人が戦力外通告を受けたのを最後に全員ソフトバンクを去っている。