大正義ドラフト

Last-modified: 2024-03-30 (土) 14:53:15

指名・入団した選手において、目覚ましく活躍した選手が多いドラフトのこと。


概要

ドラフト会議で指名できる選手のレベルは各年でまちまちであり、不作の年もあれば豊作の年もある。
その中の大豊作の年において、ドラフト戦略が成功すれば一軍で活躍できる選手を何人も獲得できる可能性がある。後に指名した選手の成績を振り返って一流クラスの成績を残した選手が多いドラフトを「大正義ドラフト」と言うようになった。
明確な判断基準は無いが、長期に渡ってレギュラークラスの成績を残すことができた選手が3人以上、または育成から支配下登録され一軍出場を果たした選手がより多くいれば大正義ドラフトと言えるだろう。


大正義ドラフトの例

名球会入会者は赤字で記する。「契約状況」欄は入団拒否の選手が同期に存在しない場合省略。


1968年 阪急ブレーブス

 順位    名前   守備位置   出身   契約状況
1山田久志投手富士製鐵釜石*1入団*2
2加藤秀司内野手松下電器*3入団
3長谷部優投手岸和田高拒否*4
4柳橋明投手日大山形高拒否*5
5新井良夫投手埼玉・大宮高入団
6島崎基慈内野手大分商業高入団
7福本豊外野手松下電器入団
8柿本進内野手和歌山・星林高拒否*6
9切通猛外野手東芝入団*7
10三好行夫内野手日本鉱業*8佐賀関拒否
11村上義則投手香川・小豆島高拒否*9
12門田博光外野手クラレ岡山拒否
13石井清一郎外野手大宮工業高入団
14鈴木博投手栃木・小山高拒否*10
15坂出直投手鳥取・倉吉東高拒否*11

大正義ドラフトの代表例でよく挙げられる。1位山田、2位加藤、7位福本の3人が長きに渡り主力として活躍し、いずれも後に名球会入りを果たした
入団拒否されたものの、12位指名の門田もこの翌年に南海ホークス入団*12。歴代3位となる通算本塁打数と通算打点数の成績を残して名球会入りを果たしたため、このドラフトでは実に4人の名球会入会者がいたことになる。
この年は投打ともに大豊作の年であり、他球団を見ても星野仙一山本浩二・田淵幸一・大島康徳有藤通世東尾修などがプロ入りをしている。

なお、入団拒否者が多いのは当時のプロ野球選手が現在ほど安定した職業とは言えなかったためであり、どの球団でも入団拒否者が多かった*13*14
拒否者が多すぎて戦力補強にならない球団もあったため、救済策として1990年まではドラフト指名されなかった選手をドラフト後に入団させることができるドラフト外入団が認められていた*15


1989年 近鉄バファローズ

 順位    名前   守備位置   出身   
1野茂英雄投手新日本製鐵堺
2畑山俊二外野手住友金属
3石井浩郎内野手プリンスホテル
4藤立次郎外野手天理高
5平江巌外野手成章高
6入来智投手三菱自動車水島

同年のドラフトは開催前こそ「近年にない不作」と言われていたが、蓋を開けてみれば巨人とダイエーの2球団を除くほとんどの球団が後の主力選手を引き当て*16、後世では前述の1968年・後述の1998年とともに大成功ドラフトとして語り継がれている(主な選手:佐々岡真司潮崎哲也小宮山悟佐々木主浩古田敦也前田智徳新庄剛志など)。
その中でも特筆すべきは、投打の主力を一挙に獲得することに成功した近鉄であろう。

1位では同年のドラフト最大の目玉選手として注目されていた野茂を8球団競合*17の末に引き当てたが、その野茂は新人年に早くも18勝8敗、防御率2.91、287奪三振という驚異的な成績で投手三冠を総なめにし、パ・リーグの投手としては初となる沢村賞を受賞*18
同年から1993年まで4年連続で最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得し、1994年までの在籍5年間で78勝・1204奪三振を記録すると、1995年には日本人として村上雅則以来2人目のメジャーリーガーとしてドジャースに入団、アジア人史上初のMLB新人王受賞、ノーヒットノーランを達成するなど海の向こうでも活躍を続け、日本人メジャーリーガーのパイオニア的存在となった。

そんな野茂1人だけでも十分すぎるレベルの成功と言って良いのだが、もう1人特に成功と言えるのが3位の石井浩郎である。
こちらも新人年に22本塁打を記録すると1994年まで5年連続で20本塁打以上を記録したが、そのハイライトというべく1994年シーズンは打率.316、33本塁打、111打点を記録し、打点王のタイトルを獲得。
同時期に在籍していたラルフ・ブライアントとともに「いてまえ打線」のクリーンアップを担い、他球団の投手陣を恐れさせた。
この他にも4位で「左殺し」と恐れられた藤立次郎を、6位で先発・リリーフとフル回転した入来智をそれぞれ獲得しており、それらを踏まえても十分成功と言える。

一方で野茂は1994年オフに当時の鈴木啓示監督との確執の末に退団。石井も1995年以降は故障から満足に働けなかったことと高額年俸がネックとなって1996年オフに吉岡雄二石毛博史とのトレードで巨人へ放出されるなど、指名選手全員がリーグ優勝の2001年より前に退団しており、他の大正義ドラフトと比べると戦力となった期間は短い。

しかし石井のトレード相手の1人である吉岡が伸び悩んでいた巨人時代から一転して開花し*19タフィ・ローズ中村紀洋とともに次世代の「いてまえ打線」の主軸として活躍したことを考えれば、このドラフトで石井を獲得したことによる恩恵は球団消滅前年の2003年まで14年間続いていたと言える*20


1991年 オリックス・ブルーウェーブ

 順位    名前   守備位置   出身   
1田口壮内野手関西学院大
2萩原淳内野手*21東海大甲府高
3本東洋投手三菱重工長崎
4鈴木一朗
(イチロー)
外野手愛工大名電高
5北川晋投手浪速高
6西芳弘外野手石川・寺井高
7山本大貴投手阿部企業

この年も1989年同様に1位で斎藤隆石井一久・落合英二・若田部健一・高村祐、2位以下でも桧山進次郎・河本育之・三浦大輔・片岡篤史中村紀洋金本知憲と、ドラフト全体を見渡しても歴代屈指の大豊作ドラフトとなったが、とりわけオリックスの大成功振りが他と比べても圧倒的に抜きん出ている。
なにしろ日本人大リーガーを2人輩出したドラフトであり、これだけでも十分大当たりと言えるのだが、このドラフトを大正義たらしめる最大の所以は何と言っても4位・鈴木であろう。
NPBで首位打者7回・最多安打5回、MLBでも首位打者を2回獲得するなど、日本屈指どころか世界でもっとも著名な野球選手の一角まで上り詰めた、説明不要の超大物である。
1位の田口も巧打堅守を武器に外野のレギュラーとして長らくオリックスを牽引した後に海を渡り、2006年のカージナルスと2008年のフィリーズの計二度にわたりワールドシリーズを制覇した。
この2人以外では2位の萩原が2000年の投手転向後からの10年間だけで30試合登板6度を含む270試合を投げ、19年間という息の長い現役生活を送った。
この3人だけで下手なドラフト数年分に匹敵する大成功ドラフトといえるだろう。


1996年 福岡ダイエーホークス

 順位    名前   守備位置   出身   
1井口忠仁*22内野手青山学院大
2松中信彦内野手新日本製鐵君津*23
3柴原洋外野手九州共立大
4倉野信次投手青山学院大
5岡本克道投手東芝
6村上鉄也投手東北福祉大
7新里紹也内野手沖縄電力

根本マジック*24」「反則ドラフト」と呼ばれ、ドラフト1位級の野手を3人獲得する離れ業を達成した大正義と言い切れるのか疑問符が付くドラフト。
1位井口、2位松中を逆指名制度で獲得*25。3位柴原は当時中日が1位指名を公言するなど他球団も獲得を検討していたが、「ダイエー以外から指名された場合ローソン*26*27入社」を公言させ、他球団が指名を回避し見事3位で獲得。
井口は後にメジャー挑戦。日本復帰時はロッテに入団、引退までロッテで現役を全うしたが、ダイエー在籍中は盗塁王やシーズン100打点を記録するなど中軸として活躍。
松中は打撃タイトルを総なめし平成唯一の『三冠王』を獲得、2006年WBCで4番を務め世界一という大活躍。柴原も後に秋山幸二から背番号1を継ぎ外野手のレギュラーを長年にわたって務めた。
倉野と岡本も10年以上選手として在籍、一軍でもそれなりの成績を残すなど、ホークス黄金期の礎を作ったドラフトとも言える。

また倉野は引退後、ホークス投手コーチとして投手育成での貢献度が高いことを含めても獲得して成功だったと言えるだろう。

余談だが、この年はアトランタオリンピックが開催された後であり、前年ドラフトでは指名凍結されていた選手の指名が可能となったことで社会人チーム所属選手が豊作だった(主な選手:谷佳知・小笠原道大和田一浩・大塚晶則・森慎二・礒部公一など)。*28

だが、あまりにも横暴とも言えるドラフトの天罰が下ったのか、1998年から2000年のドラフトの結果は目を覆いたくなるような惨状で*29、逆指名選手は全員期待外れに終わり*30、さらには1998年は相思相愛の新垣渚の抽選を外す*31*32など踏んだり蹴ったりで、主力に成長したのも1999年の川崎宗則だけという有様だった。


1998年 中日ドラゴンズ

 順位    名前   守備位置   出身   
1福留孝介内野手*33日本生命
2岩瀬仁紀投手NTT東海*34
3小笠原孝投手明治大
4蔵本英智*35外野手名城大
5川添將大投手享栄高
6矢口哲朗投手大宮東高
7新井峰秀外野手高麗大中退

この年のドラフトは1968年・1989年と同じく、NPB史上屈指の大豊作ドラフト(主な選手:松坂大輔上原浩治藤川球児小林雅英・金城龍彦・新井貴浩など)として知られるが、中でも(1968年の阪急と同じく)後に名球会入りした選手を複数人獲得した中日の成功ぶりが際立っている。

3年前(1995年のドラフト)で7球団が競合し、最終的に抽選によって近鉄が交渉権を獲得した*36ものの、事前に「意中は中日か巨人」*37と宣言し入団拒否した福留*38と、小学校時代から大学・社会人まで一貫して愛知県でプレーしていた岩瀬*39をそれぞれ逆指名で獲得。

福留・岩瀬共にルーキーイヤーから新人王クラスの成績を残すと*40、前者は2007年オフにMLB挑戦のためFA宣言して中日を退団するまでに首位打者2回*41・リーグMVPを1回獲得したほか、広いナゴヤドームを本拠地としながらシーズン30本塁打以上を2回にわたり記録
後者も2003年までは不動のセットアッパー*42として、2004年以降は不動の守護神*43として中日投手陣を牽引。2人とも後に名球会入りを果たした

また逆指名の2人ほどの活躍ではないが、小笠原も不安定な面はありながら先発ローテの一員として(時に予想外の活躍もあった)、(蔵本)英智も打撃は非力ながら強肩・俊足を武器に代走や守備固めのスペシャリストとして、それぞれ度々チームの勝利に貢献。
2000年代中頃~2011年まで(落合博満監督時代)の中日の黄金時代の原動力となったドラフトと言え、川上憲伸(逆指名1位)・正津英志*44(3位)・井端弘和(5位)といった好選手たちを獲得した前年(1997年)のドラフト*45とともに、星野仙一監督や当時のスカウト陣の手腕が高く評価されている。


2000年 西武ライオンズ

 順位    名前   守備位置   出身   
1大沼幸二投手プリンスホテル
2三井浩二投手新日本製鐵広畑
3帆足和幸投手九州三菱自動車*46
4佐藤友亮外野手慶応義塾大
5中島裕之内野手伊丹北高
6野田浩輔捕手新日本製鐵君津
7水田圭介内野手プリンスホテル
8福井強投手プリンスホテル
(1位・大沼と2位・三井は逆指名制度を適用しての指名)

この年に廃部となった西武傘下の社会人チーム・プリンスホテルから3人が指名されたドラフト*47
いわゆる「3位帆足だぁ!!」が勃発した年で、西武本スレでは指名当初に罵倒の嵐となったが、蓋を開けてみれば大正義と呼んで差し支えない豊作ドラフトとなった。詳しくは当該項目参照。

2001年 西武ライオンズ

 順位    名前   守備位置   出身   
自由枠細川亨捕手青森大
2中村剛也内野手大阪桐蔭高
4栗山巧外野手育英高
5竹内和也投手近江高
(自由獲得枠の使用により、1・3位は選択権なし*48

指名自体はわずか3人と少数ながら、ドラフト前に『自由獲得枠制度』で入団した細川を含めると、入団した4人中3人が第一線で活躍した*49少数精鋭ドラフト。
正捕手に定着した細川は後にソフトバンクへFA移籍したが、その後も楽天、ロッテと計4球団を渡り歩きつつ2020年まで活躍。
中村・栗山の2名は共にライオンズ一筋で22年間プレーを続け、「おかわり君」こと中村は本塁打王6回・打点王4回と複数回タイトルを獲得するなどNPBを代表するスラッガーに成長。栗山はリードオフマンかつチームリーダーとしてチームの勝利に貢献し続け、2021年には所沢移籍後のライオンズの生え抜き選手として初の2000安打達成を果たした。さらに両者ともFA権を行使した上で残留を表明(=生涯ライオンズ宣言)した背景もあり、球団からは「真獅子の骨と牙」というキャッチフレーズを与えられている。


2010年 福岡ソフトバンクホークス(育成大正義ドラフト)

 順位    名前   守備位置   出身   
1安田圭佑外野手四国リーグ・高知
2中原大樹内野手鹿児島城西高
3伊藤大智郎投手愛知・誉高
4千賀滉大投手愛知・蒲郡高
5牧原大成内野手熊本・城北高
6甲斐拓也捕手大分・楊志館高

育成最下位からの3人が日本代表メンバーにまで成り上がった激レアドラフト。
千賀はエースとして後に育成出身選手初のノーヒットノーランやメジャー移籍を果たし、牧原は走攻守揃うユーティリティプレーヤー、甲斐は強肩が光る正捕手となり全員一軍の主力としてホークス日本一に貢献し日本代表に選出された。
育成指名とは即ち“本指名で指名されるレベルではない選手”ということであり、戦力となる可能性は本指名選手より圧倒的に低い。そのため育成ドラフトで何人指名しようが、1人でも支配下登録されて一軍の試合に出られただけでも十分成功と言われる。千賀、甲斐、牧原の場合は育成ドラフト出身の日本代表を3人も輩出した大成功と言うべきドラフトであり、スカウトの眼力が光ったドラフトと言えよう*50
ちなみにこの年の本指名でも柳田悠岐を2位で指名しており、ドラフト全体を見ても日本代表のエース・正捕手・主砲・ユーティリティプレーヤーを輩出する大正義ドラフトとなった。

2020年 阪神タイガース

 順位    名前   守備位置   出身   
1佐藤輝明内野手近畿大学
2伊藤将司投手JR東日本
3佐藤蓮投手上武大学
4榮枝裕貴捕手立命館大学
5村上頌樹投手東洋大学
6中野拓夢内野手三菱自動車岡崎
7髙寺望夢内野手上田西高
8石井大智投手高知ファイティングドッグス

近年最高クラスの即戦力ドラフトの成功例
ルーキーイヤーの2021年から佐藤輝・伊藤・中野が1軍に定着し、3人揃って新人特別賞を獲得*51。中野はさらに盗塁王も獲得した。
更に2023年にはドラフト5位の村上が覚醒し、同年の最優秀防御率と新人王(更にはMVP)を獲得。すなわち新人王クラスの選手を4名も獲得したというまさに「即戦力」を体現したドラフトとなった。
さらに石井もリリーフとして1軍に定着しており、5名ともに同年のリーグ優勝・日本一に大きく貢献した。

関連項目


*1 後の新日鐵釜石。1988年に野球部解散。現在の日本製鉄東日本製鉄所釜石地区。
*2 翌年シーズン中に入団。
*3 現:パナソニック野球部
*4 慶応義塾大学に進学。
*5 日本石油(現ENEOS)に入社。
*6 青山学院大学に進学。
*7 1位指名の山田と同じく、翌年シーズン中に入団。
*8 今日のENEOSの母体となったジャパンエナジー(JOMO)の前身企業の一つ。
*9 大倉工業を経て1970年のドラフト会議で中日から4位指名を受け入団。
*10 日本大学に進学。
*11 明治大学に進学。
*12 その後1989年にトレードでオリックス入りしたため、21年越しに入団が実現したともいえる。
*13 現在と比べて指名人数が多いのも上位指名選手の入団拒否に備えた保険の意味合いがあると思われ、上位である程度の入団が決まると下位は交渉打ち切りや交渉そのものが無かったケースもあった模様。実際に後にヤクルトで活躍した松岡弘は当時のサンケイからドラフト5位で指名されたものの上記の理由で一度は獲得を見送られ、その後の社会人野球での活躍を評価されて一転して入団が決まった事例がある。
*14 この前年には、後に新垣ドラフト拒否騒動の末、自ら命を断つことになる三輪田勝利も近鉄からの1位指名を拒否している。
*15 なおドラフト外入団は有望な選手を進学や就職を理由にドラフト指名を回避させ、ドラフト外で入団させる「囲い込み」が横行したため、練習生制度(現在でいう育成選手制度)と共に廃止された。なお練習生制度を経由してプロ入りした選手として伊東勤松永浩美ら、ドラフト外でプロ入りした選手には大野豊秋山幸二石井忠徳(琢朗)などがいる。
*16 巨人は巨人以外入団拒否の姿勢を表明した元木大介を1位指名するつもりだったが、大学3年までは無双も4年になって評価を下げた大森剛が「高校生より下の指名なんて受けない」「1位指名でなければ巨人にも行かない」などとゴネたため1位指名せざるを得なくなったばかりかこの年唯一の大外れドラフト1位となるなど全く活躍できず、ダイエーはその元木を強行指名したが案の定入団拒否されてしまった。
*17 阪神、ロッテ、ヤクルト、大洋、ダイエー、日本ハム、オリックスとの競合。
*18 1988年まで沢村賞の選考対象はセ・リーグの投手のみだったが、野茂のプロ入り前年である1989年からはパ・リーグの投手も対象となった。ただし同年の受賞者は斎藤雅樹(巨人)である。
*19 伸び悩んでいたと言うよりは、二軍で飼い殺され、一軍に昇格してもベンチで塩漬けにされて出番を与えられなかったと言った方が正しい。同じ一塁手の落合博満は守備・走塁のレベルの高くない選手で高齢でさらに劣化したにもかかわらず試合の行方がほぼ確定した場合を除いて代走・守備固めを出されるケースは皆無で、三塁も長嶋茂雄の公私混同から愚息・長嶋一茂を起用するという愚挙に出て、結果としてこれらが必然的に吉岡の出場機会を奪う形となってしまった。この時のもどかしさは「元・巨人~ジャイアンツを去るということ」のインタビューにおいて赤裸々に語っている。
*20 球団最終年の2004年、吉岡はオープン戦でアキレス腱断裂の重症を負い、チームの本拠地最終戦(9月24日)に復帰するまでシーズンを棒に振った。翌2005年には楽天の創設時のメンバーとして名を連ねた
*21 2000年に投手転向。
*22 2000年末より登録名を「井口資仁」に変更。
*23 現:日本製鉄かずさマジック。
*24 『球界の寝業師』と呼ばれた当時の福岡ダイエーホークス代表取締役専務・根本陸夫氏(故人)が由来。現在のGM職を指す編成責任者としての手腕は確かなものだが、選手獲得のためには囲い込み工作や法外な裏金調達などの常套手段も辞さなかったために批判も多い。また、在籍した西武とダイエーを常勝軍団へと生まれ変わらせたその陰には根本の権謀術数だけではなく親会社の豊富な資金力もあり、西武は球団オーナーであるグループ総帥にして世界一の金持ち・堤義明の全面支援を受け、ダイエーもグループの最高権力者にして「流通王」と崇められた球団オーナー・中内功の功績もあって小売業初の年商1兆円を記録した親会社がその後バブル崩壊や阪神大震災での店舗被災による大損害もあってかなりの経営難に陥ったにも拘らず資金面を支えた。
*25 当時の逆指名制ドラフトにおいては巨額の裏金譲渡が横行しており、同じく井口獲得を目指していた巨人と並んでダイエーもそれが顕著だったと言われている。実際、2000年に山田秋親に裏金付き契約金6億5000万円を提示することで争奪戦を制したことが後になって暴露された。
*26 2002年まで硬式野球部が存在し何人かプロ選手を輩出した。ローソンの当時の親会社がダイエーなので、いわゆる囲い込みである。囲い込みは根本氏が得意としたことの一つで、西武時代にもプリンスホテル(2000年廃部)に野球部を作り、同様の囲い込みを行なっていた。他にも、有望な高校生を九州共立大に進学させる囲い込みもあった(高校生は逆指名の対象ではなかったため)。
*27 但し、あまりの囲い込みの横行度合いにアマ側がキレた話もある。西武時代は明治大学・平田勝男(元阪神)をプリンスホテルに入れて囲い込みをしようとした際に島岡吉郎(当時の明治大学野球部監督。故人)の怒りを買ってしまい、プリンスホテル野球部が廃部になった後の2003年に岡本篤志が指名されるまで、明治大学の選手は西武から指名を受ける事がなかった。他にも関係を悪化させた例として、ダイエーでは1994年に駒澤大学への進学が内定していた城島健司を強行指名し、それと同時にプロ入りは難しいとされていた駒澤大学の本間満を指名することで太田誠(当時の駒澤大学野球部監督)を懐柔させたが、その代償はあまりにも大きく、これを最後に駒澤大学の選手を支配下指名できないでいる(育成指名には2020年の緒方理貢がいる)。
*28 ただし高卒・大卒が不作だったわけではなく、今岡誠岩村明憲黒田博樹森野将彦らがいる。
*29 その前年の1997年のドラフトは永井智浩、篠原貴行、星野順治の3投手が一定の結果を残した。
*30 特に2000年の山村路直・山田秋親の両獲りに成功した際は各メディアが軒並み今ドラフト1番の高評価を付けたが、それとは裏腹に山村は通算2勝、山田は16勝(ダイエー・ソフトバンク在籍時は15勝)に終わる。他にも1998年の松修康は1勝、1999年の田中総司・広田庄司はともに0勝に終わる。
*31 強行指名されたオリックスへの入団拒否悲劇を経て2002年に自由獲得枠で晴れて入団。
*32 外れ1位で獲得した吉本亮は通算1本塁打(それもヤクルト移籍後)に終わる。
*33 当時は遊撃手だったが、守備難から後に外野手に転向。
*34 NTT東海硬式野球部は、後にNTT西日本名古屋野球クラブとなるが2002年に解散。
*35 結婚及び改姓(婿養子のため)により、2004年から登録名を「英智」に変更。
*36 この時、当たりクジを引いた当時の近鉄監督・佐々木恭介が「ヨッシャー!」と絶叫したことで知られる。結局福留は事前の表明通り入団拒否したものの、2002年の大ブレイクは同年から中日の打撃コーチに就任した佐々木による打撃フォーム改造指導(および山田久志監督による外野コンバート)の賜物とされており、今でも佐々木を慕っている。
*37 福留は少年時代、地元の鹿児島県大崎町に近い宮崎県串間市で行われていた中日の春季キャンプを頻繁に見に行っていたが、その際に若手だった立浪和義からグラブやバットなどをもらったことが縁で立浪に憧れ、彼と同じPL学園高校に進学していた。また、当時はセ・パ両リーグの格差が現代以上に大きく、田舎では巨人戦(及び巨人が所属するセ・リーグの試合)程度しかテレビ中継されていなかった。九州とはいえ、福留がPL学園に入団する前(1992年まで)のダイエーはまだ福岡に移転してきたばかりで弱く、鹿児島~福岡間の交通の便も現代ほど良くなかった(九州新幹線は未開業)のである。このこともあって、福留は「(立浪のいる)中日か、(地元でテレビに映る機会が多い)巨人以外なら日本生命に進む」と宣言していた。
*38 当然、中日や巨人も指名していた。その後は両者共に外れ1位で原俊介(捕手・東海大相模高)を指名するも、競合で逃した中日は、その外れで後の正二塁手となる荒木雅博を指名した。さらには2位(逆指名)で門倉健を、4位で渡辺博幸を指名しており、こちらも十分当たりドラフトである(逆に原俊介は致命的な守備難が災いし大成しなかったが、巨人は2位で仁志敏久、3位で清水隆行を指名しておりこちらも当たりドラフトと言える)。なお、中日は2位を門倉、3位を捕手の藤井優志で決めていたため、福留や原をクジで当てていた場合、荒木は4位指名以降でなければ獲れなかった。
*39 星野監督がスカウト陣に対し「地元の逸材を見逃したら許さない」と発破をかけていたところ、当時スカウトを務めていた近藤真市(岩瀬の代名詞である背番号13はかつて彼が着用していた)が「4回くらいまでいい投球をするピッチャーはいます」と岩瀬を推薦。星野は「1イニングでもしっかり抑えられれば十分」と岩瀬の獲得を決断した。
*40 福留は主に遊撃手として132試合に出場して.284、16本塁打、52打点。岩瀬はリリーフとして65試合登板(リーグ最多登板)、10勝2敗1S、防御率1.57。なお新人王は20勝4敗、防御率2.09(最多勝、最優秀防御率、最優秀投手、沢村賞)を記録した上原。
*41 2002年と2006年。
*42 当時は宣銅烈(1999)、エディ・ギャラード(2000-2003途中)、大塚晶則(2003途中-終了)が抑えを務めていた。
*43 2022年現在で歴代最多の407セーブ(2位の高津臣吾に100セーブ以上の差をつけダントツトップ)をマークした。
*44 NTT北陸からドラフト3位で中日に入団(1998-2004)→西武(2005-2009)。1998年は新人王こそ同僚の川上に奪われたものの、入団から4年連続で40試合以上に登板し、「その活躍は新人王級」と高く評価されていた。優勝した1999年には岩瀬や前田幸長、中山裕章、落合英二、サムソン・リーとともに、守護神の宣につなぐ強力中継ぎ陣を形成した。
*45 またこの3人以外にも、1999年に二番手捕手を担いその後も息長く活躍した鈴木郁洋(→近鉄・オリックス)を4位で、2004・2006年のリーグ優勝時に代打の切り札として活躍した高橋光信(→阪神)を6位で獲得している。
*46 現:KMGホールディングス。
*47 それによる特例措置により、7位・水田と8位・福井は高卒社会人2年目で指名されている。
*48 同年のドラフトから、大学生・社会人の選手を計2名までドラフト会議前に獲得できる『自由獲得枠制度』(かつての『逆指名制度』)が導入。これによる戦力の突出を防止する為、自由枠を使用した球団は第1・3巡目の指名権(2名分使用した場合は加えて第2巡目も)が無くなるという形が採られた。その後、入団前の金銭授受など不正の温床になるとの懸念から、2004年には枠が1名分に縮小され『希望入団枠制度』に改称されたものの、根本的な解決には至らず、その西武が引き起こした木村雄太らを巡る裏金問題が元で2006年を最後に廃止されている。
*49 なお、この中で唯一一軍公式戦出場なしに終わった竹内は2004年に自主退団(戦力外通告ではない)しており、その後は旭中央クラブ(現:横浜中央クラブ)を経て地元京都のクラブチーム・京都城陽ファイアーバーズ(移籍当時は「京都ファイアーバーズ」)に選手兼任監督(後に監督専任)として所属。
*50 この年に限らず、ホークスの育成選手はよく当たる一方で支配下指名選手が泣かず飛ばすということが珍しくなく、「育成指名が本番」と揶揄されることもある。例としてここで挙がっている2010年も、本指名は2位の柳田以外は全員一軍に定着出来ず、2017年に1位の山下斐紹が楽天にトレードされ、4位の星野大地と5位の坂田将人が戦力外通告を受けたのを最後に全員ソフトバンクを去っている。
*51 新人王は栗林良吏(広島)。