主に高校野球で使用される個人の投球数の単位。なお元ネタとなった安樂智大(現楽天)の正式な表記は旧字体の「安樂」だが、一般的には「安楽」と表記されることが多い。
概要 
1安楽で232球、もしくは772球と定義される。前者は1試合での投球数、後者は1大会における投球数としての意味を持ち、アマチュア野球での酷使の基準として使用される。
1安楽に近づくほど将来を不安視され、1安楽を超えると酷使無双となり、将来が絶望視される。
経緯 
2013年センバツ高校野球において、上甲正典監督(故人)率いる済美高は「やればできるは魔法の合言葉*1」を信条に準優勝。新2年生エースの安樂は全5試合中準決勝までの4試合で完投。決勝では6回をもって降板したものの同大会の9日間で772球を投じた。232球は初戦の広陵戦で延長13回まで縺れた際に記録したもの。
安樂は2年生夏の地方大会において自己最速の157km/hを記録。しかし登板過多により2年秋に右肘を負傷し、プロ入り後の最速は152km/hに留まっている。
安楽以外の例 
大野倫(元巨人) 
高校球児の連投が話題になる際に、必ずと言っていいほど名前が挙がるのが、この大野である。
沖縄水産高時代には2年生の秋からエース兼4番バッターとして台頭し、3年の春からダブルヘッダーの練習試合で2試合18イニングを完投するなど獅子奮迅の活躍を見せたが、このころから右ひじに激痛が走り始める。県大会では医者の警告を受けながら痛み止めの注射を打って登板し、1991年の夏の甲子園本大会に進む。すでに2回戦の時点で本来の制球力がない状態であったが、6試合全てを完投し*2、773球(1.001安楽)を投げ準優勝に貢献*3。しかしその代償は極めて大きく、手術時には右ひじから親指の爪ほどの大きさの骨片が複数摘出されるほどの重傷を負い、投手としての選手生命を絶たれてしまう。
卒業後は非凡な打撃センスが目に留まり、進学先の九州共立大学では外野手に転向。1995年のドラフトでは巨人に5位指名で入団するも、特筆すべき活躍をすることはできず、ダイエーにトレードされたのち引退している。
甲子園大会の閉会式の行進にて130度に右ひじが曲がったままの大野の姿がマスコミに報道されると、大会の過酷な日程が原因であるとして高野連に批判が寄せられた。当時はエースの連続完投が美談にこそなれど全く問題視されていなかった時代であったため、物議を醸したことは極めて異例のことであった。これを受けて1993年の夏の甲子園からは投手のメディカルチェックを試験的に導入し、翌年からは本格導入された。また、同時に高野連は加盟校に対して複数投手制を奨励することとなった。その後もエースによる全試合完投の風潮はなかなか改まらなかったが、高校野球におけるエースの酷使に対して初めて一石を投じる一件となったと言える。
川口知哉(元オリックス) 
1997年春の選抜および夏の甲子園では平安高のエース兼4番バッターとして、春の大会ではベスト8、夏の大会では準優勝に貢献。特に夏の大会では、6試合55投球回をすべてを完投し、820球(1.06安楽)を投げ準優勝投手となった。同じ左投手である井川慶、能見篤史とともに「高校生左腕三羽烏」の1人に数えらえたが、3人の中でも全国大会での実績、実力とビッグマウス*4ぶりから、川口に対する注目度はNo.1であった。
同年のドラフトでは4球団競合*5の末に、本人の希望通りのオリックスに入団。しかし、故障や制球難に苦しみ、コーチによるフォーム矯正も上手くいかず、1軍では9試合の登板に終わり2004年に引退。
後に本人はプロ入り後に低迷した理由として、コーチにフォーム改造を強制されたことが原因とコメントしている。ただし、プロ入り後に故障に苦しんだことと、甲子園本大会に縁のなかった井川と能見がプロ入り後にエースとして活躍しているという事実から、甲子園本大会での消耗が遠因との声もある。
斎藤佑樹(現日本ハム) 
2006年夏の甲子園では早実高のエースとして決勝引き分け再試合を含む7試合をほぼ完投し、16日間で948球(1.23安楽)を投げ優勝投手になった。
ただしこの頃もまだエースによる全試合完投は珍しくなかったので、その時点はまだ大きな問題にはなっていなかった。
しかし早稲田大学へ進学後、2年時に左股関節の故障によりフォームが崩れ始め、3年生以降はオジギングファスト化した。それでも2010年ドラフトでは4球団競合*6の末に日本ハムへ入団したが、カイエン青山と揶揄される状態に。
なお当時早大野球部の監督を務めていた應武篤良は週刊誌の取材に対して斎藤に股関節の硬さという問題があることを知りながらも斎藤を酷使したことを認める発言をしている。
島袋洋奨(元ソフトバンク) 
2010年夏の甲子園において興南高のエースとして12日間で783球(1.01安楽)を投げ春夏連覇投手となった。その後中央大に進学するも、入学後には何かと悪い噂の多い秋田秀幸に監督が交代。中1日で318球を投げさせられるなど酷使され、一時はプロ入りすら危ぶまれるほど劣化していた。
ソフトバンク入団後も精彩を欠き、一軍では1勝もできず2017年オフには育成落ち、2019年に戦力外通告を受け引退した。
今井重太朗 
2014年夏の甲子園において三重高のエースとして全6試合を先発、内4完投で13日間で814球(1.05安楽)を投げ準優勝。中部大に進学した後も1年春から登板し15勝を積み重ねるも、3年冬に神経障害で左肘を手術。
最終年はほとんど投げられず、卒業後は愛知郡の和合病院軟式野球部でプレーしている。
吉田輝星(現日本ハム) 
2018年夏の甲子園において金足農業高のエースとして全6試合中準決勝までの5試合で完投。決勝では5回で降板したものの本大会14日間で881球(1.14安楽)を投げた*7 。
なお吉田は日本ハム入り後故障が頻発しており、高校時代の影響を懸念されている*8。
現状 
2017年センバツからNHKのテレビ中継で投球数が表示されるようになり酷使の実態が可視化されるようになった。
こうした一連の流れの中2018年からは春のセンバツ及び夏の甲子園でタイブレークが導入、2019年夏の甲子園からは決勝前の休養日が導入され、またチームレベルでも継投戦術や特定の投手に依存しないチームづくりが普及の兆しを見せるなどの対策が取られ始めている。
また上述した斎藤、今井、島袋の例に加えて、
- 斎藤と同期の大石達也や福井優也も前評判ほどの結果を残せていないこと。
- 斎藤、大石、福井以降は有原航平がプロ入りするまで早稲田大学からプロ選手を輩出できていなかったこと。
- 島袋以降、高卒ドラフト候補選手の大学経由が激減していること*9。
- 世間的に大学野球の注目度は低く、ほとんど実情が語られないこと。
などから、「大学野球は高校野球以上の聖域と化しているのでは」という疑惑も持たれている。