1安楽

Last-modified: 2023-12-22 (金) 12:49:18

主に高校野球で使用される個人の投球数の単位。発祥である安樂智大(元楽天)の正式な表記は旧字体の「安樂」だが、一般的には新字体の「安楽」と表記されることが多い。

概要

「1安楽」の球数については範囲の定義によって下記の2つがある。

  1. 232球。1試合の投球数。
  2. 772球。1大会における総投球数。

いずれもアマチュア野球での酷使の基準として使用される。1安楽に近づくほど将来を不安視され、超えると絶望視される。

経緯

済美高校時代

2013年春の選抜において、上甲正典監督率いる済美高校は「やればできるは魔法の合言葉*1」を信条に準優勝を遂げる。新2年生エースの安樂は全5試合中準決勝までの4試合で完投(うち1試合は延長13回完投)。決勝では5回に力尽き7失点するも、6回まで続投したことで同大会の総投球数は772球にまで膨れ上がった。
その後も2年生夏の地方大会にて自己最速の157km/hを記録するなど活躍したが、秋にそれまでの登板過多が祟り右肘を故障。最後の夏には間に合ったものの地方大会3回戦で打ち込まれ敗退、甲子園出場とはならなかった。

楽天入団後

ルーキーイヤーの2015年に初登板初勝利を挙げたものの、その後は古傷をかばって投球を続けたことが仇となり故障を頻発。一時期はストレートの平均球速が130km/h台まで落ち込んでいた*2

センバツ時代の栄光が嘘のように苦闘する姿を野球民は嘆き、高校時代の酷使に対する戒めも込めてこの言葉が使われるようになった。

画像 *3

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安楽以外の例

下記に登場する安楽はすべて2.(1大会の総投球数)の定義で用いられる。1安楽にほぼ相当、あるいはそれ以上の投球数を記録した投手のみを例として挙げる。

安楽以前

大野倫(元巨人→ダイエー)

大野倫(元巨人→ダイエー)
高校球児の連投・酷使が話題となる際に、必ずと言っていいほど一例として名前が挙がるのがこの大野である。

沖縄水産高校時代には2年生の秋からエース兼4番として台頭し、3年の春からダブルヘッダーの練習試合で2試合18イニングを完投するなど獅子奮迅の活躍を見せたが、この頃から右肘に激痛が走り始める。肘をアイシングして休んでいると、「怠けている」と判断したチームメイトに草刈り鎌で襲われて逃げ回ったという、常軌を逸する逸話が残っている。しかしエースに頼る野球部ではチームメイトはもちろん、監督・父兄・OBなどの圧力による酷使が常態化していた。

県大会では医者の警告を受けながら痛み止めの注射を打って登板し、1991年の夏の甲子園に進む。2回戦の時点ですでに本来の制球力を失った状態であったが、6試合全てを完投*4773球(ほぼ1安楽)を投げ2年連続の準優勝に貢献した*5。しかしその代償は右肘の剥離骨折*6、そして投手としての選手生命を絶たれてしまうという極めて大きいものであった。

閉会式の行進にて130度に右肘が曲がったままの大野の姿がマスコミに報道されると、大会の過密日程が原因であるとして高野連に批判が寄せられた。当時はエースの連続完投が美談にこそなれど、一部を除いて問題視されていなかった*7時代であったため、物議を醸すことそのものが極めて異例の事態であった。これを受けて1993年の夏の甲子園からは投手のメディカルチェック導入*8、及び高野連が加盟校に対して複数投手制を奨励する等、高校野球におけるエースの酷使に対して初めて一石が投じられたのであった。

しかし大野の肘が壊れた事実に変わりはなく、進学先の九州共立大学では非凡な打撃センス*9を活かすため外野手に転向。1995年のドラフトで巨人に5位指名され入団するも特筆すべき活躍はできず、2000年のシーズンオフにダイエーへトレードされたのち2002年に引退している。通算24試合, 5安打, 1本塁打。

大野の悲劇を教訓として、沖縄の強豪校は選手のメディカルチェックや複数投手制にいち早く力を入れるようになる。
一例として1999年春の選抜の沖縄尚学高校が挙げられる。同校は準決勝(PL学園戦)でエースの比嘉公也*10が延長12回、200球以上を投球。翌日の決勝(水戸商業戦)は控え投手の照屋正悟が登板し2失点完投の好投を見せ、7-2と快勝。念願の沖縄県勢初の全国制覇を果たしている。

川口知哉(元オリックス)

川口知哉(元オリックス)
1997年春の選抜および夏の甲子園では平安高校のエース兼4番バッターとして、春の大会でベスト8、夏の大会で準優勝に貢献。特に夏の大会では6試合全てを完投し、820球(1.06安楽)を投げ準優勝投手となった。同じ左投手である水戸商業の井川慶、鳥取城北の能見篤史とともに「高校生左腕三羽烏」の1人に数えられ、3人の中でも全国大会での実績、実力に加えビッグマウス*11ぶりから、最も注目を浴びていた*12

同年のドラフトではオリックス・近鉄・ヤクルト・横浜の4球団競合の末、本人の希望していたオリックスに入団。しかし故障や制球難に苦しみ、コーチによるフォーム矯正も上手くいかず、一軍で9試合の登板に終わり2004年に引退。
本人は前述のコーチによるフォーム改造を低迷の理由として挙げている。ただし、甲子園に縁のなかった井川と能見がプロ入り後にエースとして活躍している事実から、甲子園での消耗が遠因との声もある。

斎藤佑樹(元日本ハム)

斎藤佑樹(元日本ハム)
2006年夏の甲子園では早稲田実業のエースとして決勝引き分け再試合を含む7試合をほぼ完投し、948球(1.23安楽に相当。これは一大会の最多記録である。)を投げ優勝投手になった。
 
早稲田大学へ進学後、2年時に左股関節の故障によりフォームが崩れ始め、3年生以降は直球がオジギングファスト化した。それでも大学通算31勝15敗の実績を残し、2010年ドラフトではヤクルト・日本ハム・ロッテ・ソフトバンクの4球団競合の末に日本ハムへ入団。
1, 2年目は先発ローテーション入りを果たしそれなりの成績を残す*13が、3年目以降は度重なる故障*14制球力の悪化によって1年に1,2勝出来れば御の字といった状態に陥る。
結局プロで大成することなく、2021年に現役を引退した。
 
斎藤の在籍時に早大野球部の監督を務めていた應武篤良は週刊誌の取材に対して、斎藤に股関節の硬さという問題があることを知りながらも斎藤を酷使したことを認める発言をしている

島袋洋奨(元ソフトバンク)

島袋洋奨(元ソフトバンク)
2010年春の選抜及び夏の甲子園に興南のエースとして出場。前者は5試合中4完投で689球(0.89安楽)、後者は5試合中3完投で783球(1.01安楽)を投じ*15、春夏連覇投手となった。

その後中央大に進学するも、何かと悪い噂の多い秋田秀幸に監督が交代して歯車が狂う。中1日で318球を投げさせられるなど酷使され案の定故障。一時はプロ入りすら危ぶまれるほど劣化していた。
卒業後はソフトバンクにドラフト5位指名されプロ入りするも全盛期のピッチングを取り戻すことはできず、一軍登板はデビュー年の2試合のみに留まり2017年オフに育成落ち、2019年に戦力外通告を受け引退した。

吉永健太朗(NPB経験なし)

吉永健太朗(NPB経験なし)
2011年夏の甲子園に日大三高のエースとして出場。5試合で766球(ほぼ1安楽)を投じ、優勝投手となった。直後にはアジア選手権にもエースとして出場し、自責点0と圧巻のピッチングを見せ優勝に貢献した。

卒業後は早稲田大学に進学。1年春からベストナインやMVPを獲得する活躍を見せるも、その後は故障などで伸び悩んだため社会人のJR東日本に入社。しかし故障を考慮して打者転向を勧められ、さらに走者として出場した際に大怪我を負ってしまう。これらが原因となり、結局プロに進むことなく引退した。

安楽以降(及び同世代)

今井重太朗(NPB経験無し)

今井重太朗(NPB経験無し)
2014年夏の甲子園において三重高校のエースとして出場。6試合中4完投で814球(1.05安楽)を投げ準優勝に貢献。中部大に進学した後は1年春から登板し15勝を積み重ねるも、3年冬に神経障害で左肘を手術。
最終年はほとんど投げられず、卒業後は愛知郡の和合病院軟式野球部でプレーしている。

吉田輝星(日本ハム→オリックス)

吉田輝星(日本ハム→オリックス)
2018年夏の甲子園における「金農旋風」の立役者。金足農業のエースとして秋田予選の初戦から全試合完投を続け、甲子園では全6試合中準決勝までの5試合で完投。決勝も先発するも5回12失点と滅多打ちに遭い降板。本大会で881球(1.14安楽)を記録した。
決勝の吉田降板後は投手をこなせる三塁手レギュラーであった打川和輝がマウンドを継き、根尾昂(中日)らを擁した大阪桐蔭を相手に3回を1失点と好投を披露。力のある控え投手を擁しながら吉田の連続完投に固執した采配が疑問視された。
日本ハム入団後は伸び悩んでいる上に故障を頻発しており、高校時代の影響を懸念されている。2023年オフにオリックスへトレードされた。

主催側による酷使改善への取り組み

断りのない限り、2000年代以降における対策例を記す。

  • 2004年:春・夏とも全国大会の準々決勝を2試合ずつ・2日に分けての開催。
  • 2013年:夏の甲子園にて準々決勝を1日で4試合一括開催に戻し、準々決勝の次の日を休養日とする日程に見直す*16
  • 2017年:NHKのテレビ中継において投球数表示が導入された(酷使の可視化)*17
  • 2018年:決勝を除いてタイブレーク制が導入された。
  • 2019年:夏の甲子園から決勝前の休養日が導入された。
  • 2020年:球数制限の導入。投手1人につき1週間の投球数上限が500球とされ、2人以上の投手運用が推奨される運びとなった。ただし本球数の妥当性は議論の余地がある*18
  • 2021年:決勝戦でもタイブレーク制が導入された。
  • 2022年:夏は3回戦と準々決勝の間の休養日が追加された。
  • 2023年:タイブレーク開始が13回から10回に変更、夏は気温が高い日に5回裏終了後10分間のクーリングタイムの導入。

関連項目


*1 同校の校歌の一節。2004年春の選抜で福井優也(広島→楽天→BC福島)らを擁して甲子園初出場初優勝を達成した際に一躍有名になった。
*2 2019年オフの手術以降はトレーニング方法や投球スタイルの見直しにより復調傾向にあったが……
*3 2013年春の選抜の初戦、延長13回にもつれ込んだ広陵戦後の一枚。
*4 3回戦以降は4連投。当時は3回戦の後の休養日が存在しなかった。
*5 前大会にも大野は出場しているが、その時は外野手だった。
*6 手術時には右肘から親指の爪ほどの大きさの骨片が複数摘出されるほどであった。
*7 数少ない例として、1991年に本多勝一(当時、朝日新聞の記者)により著された『新版「野球とその害毒」』にて、大野の故障及びプロ野球界を含めた選手の酷使が非難されている。
*8 メディカルチェックに引っかかった例としては、1995年春の選抜に出場した今治西高校の藤井秀悟が挙げられる。彼は準々決勝の神港学園高校戦で左肘内側側副靭帯を損傷したため、ドクターストップをかけられている。
*9 高校通算18本塁打。
*10 後の沖縄尚学高校野球部監督。2006年春の選抜では東浜巨、嶺井博希(いずれも現ソフトバンク)のバッテリーを擁し、監督としても全国制覇を成し遂げている。
*11 甲子園でのインタビューで「次の試合で完全試合を達成します」と発言。プロ入り後も「背番号16ではなくホンマは11が欲しかった(当時の大ベテランだった佐藤義則が着用)」等の発言及び、当時の仰木彬監督に対して「わしはいつになったら一軍で投げさせてくれるんねん」と直訴したこともある。
*12 当時の井川は腰の故障が懸念され評価を落とし、能見は大阪ガスに進むことが決まっていた。その能見も大阪ガス時代は相次ぐ故障で2003年までまともに投げられておらず「幻の投手」扱いされていた。
*13 2年間で11勝(14敗) 。
*14 2012年には右肩間接唇損傷、2020年には右肘靱帯損傷を発症。股関節の故障も含め、いずれも直接引退につながってもおかしくない怪我である。
*15 3回戦以降は中1日の4連投(2連投→中1日→2連投)を経験している。
*16 春の選抜は2015年より。
*17 後に民放でも球数数表示を導入するようになった。
*18 乱打戦や延長戦が無く球数が抑えられた場合は1人が全試合完投する可能性および、本制限を「500球までなら投げさせても良い」と捉えて逆に酷使へ繋がる事態が考えられるため。