1.馬の散逸状況
こうして各馬は徳川幕臣に配布され散っていった。その後の行方はどうなったのか。捕捉されているいくつかの情報をまとめてみたいと思う。
(情報1)函館大経の弁
まずは一番詳細に述べている函館大経の談話から。
<参考資料>
■北海道開拓記念館調査報告40号(インターネット上においては未公開の資料)
上記の記載内容を引用しているサイト(人文パイプぶろぐ): http://jinbunpaipu.blogspot.com/2018/06/
水戸、尾張、越前、田安等の諸家へ配付し、又一頭を小松宮に献し残り不良の馬一頭を私が貰ひました。
以上の弁からすると
(1)水戸徳川家
(2)尾張徳川家
(3)越前松平家
(4)田安徳川家
(5)宮家小松宮
(6)函館大経
(7)その他諸家
という事になろう。「その他」が入ってしまうためどうしても完全な捕捉は難しいが、これでも相当貴重な情報である事は間違いない。また、このうち函館大経が手に入れた馬は「富士越」という名前の牡馬であるとされている。
(情報2)越前家への引渡し文書
上記のうち(3)の越前松平家については馬を引き渡した際の文書が福井県文書館で発見されている。
その文章とは福井県文書館で検索できる「亜刺比亜御馬聞書之大略」という書物である。ネット上ではこの書物の内容は公開されていないので、中身を確認したいのならば基本的には福井県まで行って閲覧するしかないものとなっている。しかし「白井市郷土史の会」が発行している「たいわ」という年刊誌にもその詳細が記載されているので、そちらでもその内容を確認する事が可能だ。書かれている事は基本的にアラビア馬の飼養方法についてであるが、当該引き渡した馬2頭の名前が記載されており、これが特に貴重な情報であると言えよう。
また、この資料には「小野儀三郎(函館大経)」と「川上次郎右衛門」の名が列記されており、両名が沼津で関与していた事の証左ともなるであろう。
<参考資料>
■広報しろい 923号 https://www.city.shiroi.chiba.jp/material/files/group/1/20210615.pdf
このうち2頭を越前松平家に引き渡した際の古文書が、福井県文書館で発見されました。アラビア馬の付き添いとして小野儀三郎と共に川上次郎右衛門の名が列記されており、2人がアラビア馬の分配に関与したことが分かります。
<参考資料>
■デジタルアーカイブ福井 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=011-1001767-0
亜刺比亜御馬聞書之大略 (中身は閲覧できません)
<参考資料>
■たいわ36号-語り伝える白井の歴史-(インターネット上においては未公開の資料)
亜刺比亜御馬聞書之大略
徳川様亜刺比亜御馬附添
小野義三郎
川上次郎右衛門
桑島傳五郎
御馬俗号並年齢
牡馬をニ王と号し齢七歳色栗毛鼻筋白し丈七寸
牝馬を黛と号し齢五歳色葦毛丈五尺
(情報3)大日本馬種略の記載
大日本馬種略という本があり、それによればその越前に引き渡した馬は何故か家臣の吉田某が私有しており、その後「アマドー」なるフランス人が所有する事となってしまったとの事。
<参考資料>
■大日本馬種略 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/841914/1/27
越前家に残れる三匹は、当時その旧臣吉田某の私有に属せるを聞き同人を聘してその意を尋ね、これを官厩に帰せん事を図りしか、故ありて果たさず惜しむべき。遂に仏人「アマドー」の手に落ちてその至るところを知らず。
(情報4)牧畜雑誌207号による越前の馬の行方
さらに牧畜雑誌207号によれば「越前に送られた馬は明治7~8年頃まで居て、その後雑種の種馬になった」との事である。アマドーに持って行かれたのとは別の馬なのだろうか…?
越前に関する情報が妙に多いのも気になる所である。
<参考資料>
■牧畜雑誌 (207) https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/11209805/1/23
その後に来たのが三世ナポレオンが日本の旧幕府に牝牡26匹の馬を送った。それが来たのは瓦解前でした。碌々種馬にもせず乗り倒し、わずかにその馬が越前あたりに行きましたが明治7~8年頃まで居りました。それが雑種の種馬になった。
(情報5)川上次郎右衛門が持ち帰った
千葉県白井市発行の広報誌「広報しろい923号(令和3年6月15日発行)」には川上次郎右衛門が地元の富塚村(現:白井市)にアラビア馬を持ち去った事を示唆する文章が記載されている。
持ち去った事が露見しないように地元民に箝口令を敷いたとも言われている。その努力が実ったのかどうかはよく分からない。
<参考資料>
■広報しろい923号 https://www.city.shiroi.chiba.jp/material/files/group/1/20210615.pdf
分配後、小野儀三郎は残った1頭をもらい、川上次郎右衛門は明治3(1870)年に富塚村に戻りました。市文化財審議委員だった鈴木普二男氏の祖父は江戸後末期の生まれで、川上次郎右衛門がアラビア馬と思われるはしごを掛けて乗るような背の高い馬で駆け回る姿を見ており、その際は決まって「川上次郎右衛門とおる」と大声で触れ込みしつつ、得意げに馬を操っていたそうです。もしかすると市内でもアラビア馬が駆け回っていたのかもしれません。
(情報6)大隈重信が所有した
どのような経緯でそうなったのかは不明だが、大隈重信がそのうち2頭を飼養していた事が本人の弁によって明らかになっている。
徳川家の誰かから譲り受けたものだと考えるのが普通だろうか。
<参考資料>
■早稲田清話 https://dl.ndl.go.jp/pid/964461/1/109
仏国のナポレオン三世から慶喜将軍に贈った二頭の馬は御維新後には吾輩の築地の屋敷で暫く養い、明治5年に亜米利加馬車の来た時にはそれを輓かせなどし、その後軍人某に所望されて呉れてしまったが、共に白馬の良い馬だった。
(情報7)阿部豊後守が所有した
実業の世界8という書物によれば26頭のうち1頭を阿部豊後守(棚倉城の城主「阿部正外」のこと)という者が所有し、「雲龍」と名付け乗馬に使用していたという。
ただし慶応年間の時点で既に拝領されていたらしく、それが正しければ「明治2年に散逸した馬の1頭」ではなく「御用馬のうちの1頭」なのであろうかとも考えられる。
<参考資料>
■実業の世界8(23)臨時増刊 東北發展號 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/10292832/1/106
那破烈翁三世陛下の賜物
本県の馬格馬種改良のために洋種の輸入を見たのは、旧藩時代からの事である。慶応年間阿部美濃守(*1)閣老の際将軍家から拝領した亜剌伯種の雲龍というのは専ら領主の乗用に供されている間に維新の改革となったので、良種の血液を残さずしまったのは惜しい事である。
(中略)
慶応年間に阿部閣老が拝領した馬というのは当時幕府が本邦産種(*2)を仏国政府に遣ったその謝儀として那破烈翁三世陛下が帝国内厩の良駿26匹を選み、飼司カズヌーフつきそいで幕府に致したものであった。仏帝の意は良種に報ゆるに良種をもってするというのであったが、当時幕府その意を汲まずことごとく姻族重臣等に乗馬として配布してしまったのである。''
*1「美濃守」は誤りで「豊後守」が正しい。
*2「蚕種」の誤り。
(情報8)福山藩にいた
曽我祐準の弁によれば福山藩(広島県)で発見された洋種の栗毛牝馬は当該ナポレオン三世の寄贈馬であるとの事。馬の名前は「花山」といい、これは後に「若紫」と改名された。
<参考資料>
■曽我祐準翁自叙伝 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1214668/1/129
馬匹には少なからず困った。生きものだから飼料はかかるし置き場はなし、それで善良の分を残し他は直に売却した。この数百頭中洋馬が2頭あった。一つは岡山藩、一つは福山藩のであった。 岡山のはただ骨格が大という迄で乗馬には不適当であったが今ひとつの福山の分は例の仏帝ナポレオン三世が徳川将軍に贈った25頭中の1頭で、見事な栗毛の牝馬で珍しい逸物であった。 この馬は馬学上必要というので兵学寮に回したが後年東京で観兵式に余がこの馬に乗りて出たのが叡覧に留まり、御厩に納め花山と命ぜられた。
<参考資料>
■牧畜雑誌(281) https://dl.ndl.go.jp/pid/11209879/1/26
明治初年、備後国福山藩に存せし一頭は之を兵部省に致し、後に宮内庁へ移され若紫号と称えらたり
(情報9)静岡にいた
「先年仏国より厚意を以旧政府へ差送りたる亜刺亜馬の義に付大蔵省より掛合」という書類によれば静岡で当該散逸馬が発見され、沼津兵学寮で引き取ったとの事である。引き取ったのは牡牝2頭であり、これは母馬とその子馬であるとの事。
<参考資料>
■先年仏国より厚意を以旧政府へ差送りたる亜刺亜馬の義に付大蔵省より掛合
アジア歴史資料センター https://www.jacar.go.jp/ (左記サイトで書類名を検索)
壬申(注:明治5年)四月五日 第四百四拾五号 先年仏国より厚意ヲ以亜刺此亜馬数頭旧政府ヘ差贈り候処当節右馬諸方へ散布いたし別段繁殖ノ姿も相見ヘ不申最初献馬之趣意トハ大ニ齟齬いたし候趣同国公使より度々苦情申立候儀も有之然ル所右馬之内旧静岡県ニ存在之分有之趣ニ付答省ヘ差出し方之義此程御達候処右ハ沼津兵学寮ヘ御引渡相成候趣過日御省中川中録出頭之上委細御陳ニ付其筋ヘ献馬之主意一ト通り掛り之者ヨリ申聞等省ヘ引渡し方之義共打合ニ及候所別段差支之筋ニも無之趣ニ有之依つき当今交接実掛之時機ニ付沼津表ヘ御達之上牡牝弐匹至急当省ヘ御
(情報10)巴黎号の行方
26頭の中には「巴黎」(パリス)と呼ばれる牝馬がいた。巴黎についてはこの散逸の時において「散逸されなかった。なんでか知らないが竹橋の厩舎にいた」という情報が下記の書物において確認できる。
<参考資料>
■開港と生糸貿易 中 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1266200/1/252
政府瓦解の際その馬は四散して行方知れずなりしにこの巴黎号のみは不思議にも竹橋の厩舎に遣りたるため明治政府の手に収容せられ、爾来駒場牧場より駒場農学校、東京農林学校を経て農科大学改称の後も依然同校内に久しく馴養せられ、骨格完全の誉れ高かり。
(情報11)田安家の馬の詳細
「新稿一橋徳川家記」という書物には(4)の徳川田安家(徳川家達)が一橋邸にアラビア馬2頭を贈呈した事が記載されている。そのアラビア馬「七歳の牝馬栗毛」と「当歳の牡馬白栗毛」はおそらく散逸時に田安家に配布された馬なのであろう。
<参考資料>
■新稿一橋徳川家記 https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/12257301/1/338
(明治2年5月)十七日徳川家達よりアラビヤ馬(牝七才栗毛・牡当才白栗毛)各壱疋を贈らる。(番頭・用人日記、駿府様御用留)
以上が散逸した馬についての諸情報である。
かように馬はバラバラとなり、馬匹改良の夢は江戸幕府と共に散ったのである。
2.フランス公使よりの尋問と回答
明治4年にフランス公使より「贈った馬はどうなった?」という質問が投げつけられたようだ。
文書が現存していないため詳しい質問の内容は不明である。(お怒りの様子は容易に想像可能だが)
「仏国政府旧幕府ヘ差送ノアラヒア馬散逸ニ付取聚収方伺」という資料がある。これは「どのような回答をしようか」という政府内の打合せの書類である。この書類から考えるに以下のような回答を行ったのではないかなと推測される。
(1)雉子橋御厩に何頭か存在している。
(2)他に私有となっている馬も存在するが、現在の持ち主から接収するのは甚だ不条理と考える。
(3)幸いにも仏国で有名な牧師カズノブがおり、牧や馬に関する事は彼に質問している。
<参考資料>
アジア歴史資料センター
仏国政府旧幕府ヘ差送ノアラヒア馬散逸ニ付取聚収方伺 (資料センターのサイトには行かず左の資料名を直接ググって下さい)
※「聚」=「集」
3.仏人カズノブ
以降フランスからの質問は無くなったようで、とりあえず理解はして貰えたようである。この頃の欧州人はスキあらば港を奪取したいと目論んでいる連中であったので、とりあえずふっかけてみた次第であったのかもしれない。外交にスキを見せてはいけないのだ。
そして突然に現れた謎の仏人カズノブ。彼は一体誰ヌーヴなのか…。
次章は彼についてまとめてみたいと思う。