【まじない】

Last-modified: 2021-01-11 (月) 02:51:43

神は蛇の加護を一身に受ける生き物であった。
その穢れた末裔である人間にもその力は受け継がれている。
しかし、それはかつての祖先の持っていたものと比べれば、あまりに小さい。
否、その祖たる者たちですら、かつての栄光には程遠いものでしかなかった。
 
故に、人はかつての栄光を取り戻さんとするがごとく、技を求めた。
古き言葉と神々の振る舞いに助けを求め、再び蛇の加護を操る術を探った。
そうした無数の努力が積み重なり生まれたものこそ、“まじない”と呼ばれるものである。


 

まじないの基本

まじないとは蛇の加護を様々な形で括り、操る術である。
蛇の加護は様々な形で世界に満ちており、それぞれが異なる名前と性質を持つ。
それを知り、自らの力として縛り、従え、自在に使役する。
まじないとは毒を操ること、薬を扱うことにたとえられる。


まじないは奇跡の模倣であり、それ故に神々の作法を倣うことが多い。
多くの場合、神々の偉業をなぞらえることでその行ないの繰り返しを狙うのである。
無論、真の再現など行なえるはずもない。
だが、その片鱗程度であっても起こすことが出来れば、人の営みには十分である。


まじないの基礎は神人“暗き炎”のカーラーンが打ち立てたものであるとされる。
 

まじない師

まじないを操ることが出来るのはまじない師だけである。
恐るべき恵み、蛇の加護の性質を盗み取り操る術を学ぼうとする、
神秘に魅入られた者たちが至る、最後の姿と言えた。
彼らは皆世界の秘密を求め、そのために家と血のつながりを捨てる。


かつて、まじない師たちは世界を支配する存在だった。
古き時代、鋼が未だ一部の者の特権であった頃、世界は今以上に不条理で満ちていた。
それらを打ち破り人の生活を保つには、まじないが不可欠だった。
それ故に、各地のまじない師たちは土地の統治の権利を手にしやすく、
傲慢で狡猾なものたちであふれていた。


しかし、“眩い王冠”ルーヴィンの末裔たちによる鋼の時代が訪れると、
まじない師たちの地位は少しずつ貶められていった。
偉大なる鋼の鎧はまじないを緩ませ、その刃はまじないを断ち切った。
そうして、多くの悪しきまじない師たちは打ち倒され、古き時代の遺物となった。


現代のまじない師たちは権力者にはならない。
それは以前の失敗を踏まえてということもあるが、多くのまじない師は探求者でもあったからだ。
彼らは新たな真実を知るため、新たな蛇の加護を求めて様々な形でその力の理解を深める道を望んだ。
その上で、領地だの民だのと言ったものは、むしろ重しや不要な足枷であった。
古き因習を捨てたまじない師たちは、秘境に巣を構え、各地をねめ歩くようになる。
そうして、まじないは人々の生活からは遠ざかった。
 
だが、失われたわけではない。
より不可思議で謎めいて不気味な技になり果てた、というだけのことである。
 

まじないの形式

まじないの基本はかつて人が持っていた力を、模倣することである。
即ち、神々の奇跡の模倣である。
それ故に、どのような奇跡を模倣するか、形にするかで源となる力も扱い方も異なる。
まじない師はその手段を正しく理解して、初めてまじない師足り得る。

眼のまじない

蛇の加護を我が目に宿すことで、様々な神秘を導く手法である。
この力は「見る」ということに重きを置いている。
それ故に、「見えている」ものに何らかの力を注ぎ込むか、
「見る」という行為そのものに強大な力を与えることが多い。


遠い未来や過去、あるいは彼方の出来事を知るような術や、
目にしたものに強い災いや加護を与えるような術が多い。
それらはどちらも「見る」ということに根ざした効果であり、
基本的には我が身に毒を通す形で様々な恩恵をあずかる技能と言えた。
それ故に、多用は勿論取り扱いを間違えれば我が身を一瞬で毒にさらすこととなる。


見るだけとはまるで一方的に干渉出来る技術のように思えるが、
これは自らの目を道とする技に近い。
故に、見ている者から見返されてしまうと術が跳ね返ることもある。

言葉のまじない

言葉を口にすることで、蛇の加護に命令を下す型。
最も想像されやすいまじないの在り方――いわゆる「呪文」である。
自らの言葉で世界に命令を下し、望む出来事を行なわせる、支配の技である。


非常に強力な技法であるが、それはつまり取り扱いが難しいということも意味している。
言葉の取り扱い、何に対して力を加えるのか。そうした言葉の性質を理解しなければ、力は意図せぬ形に動き出す。
加えて、言葉のまじないは己さえも縛ってしまう危険性を孕んでいる。
そのために、言葉のまじないは極めて慎重な扱いが求められるのだ。


言葉のまじないに長けたものは、その言葉そのものが毒であり薬である。
ただの語らいの中でまじないを施すことさえ可能であり、そうした場合、
鋼の加護を持つかまじないの力を持たないものは、抗うことも出来ない。

文字のまじない

文字を描く、彫り込むことで加護を定めるまじないの型。
その文字が刻まれている限り、加護が常に力を発揮する特徴を持つ。
そのため、長く効果を及ぼすことが必要なものに、特に使われる。


多くのまじないを込めた道具はこの技法によって作られる。
真に強大なものは儀式を通すが、力を定着させる際には必ず文字を用いる。
刻まれる文字は何よりも強くその物品に根ざす。
それは時に言葉や薬をはるかに超えてその加護を強く強く発揮させるのだ。


いわゆる護符などのほか、境界を作る結界などが広く知られる用法である。
それを応用すれば、微細に刻まれた文字によって、その場そのものに加護を滞留させることも出来る。
そうした領域はまじないしの独壇場となる。さながら、泥沼か落とし穴のように。

音のまじない

響かせた音が蛇の加護を目覚めさせる最も原始的かつ単純なまじないである。

歌のまじない

音のまじないと言葉のまじないを合わせたような技法。

仕草のまじない

特定の所作を以て蛇の加護に指示を出し、その力を行使する型である。
眼のまじないに次いで素早く執り行うことの出来るまじないであり、
問題を解決するために編み出された術が数多く属している。


身振り、手ぶり、手の形……そうしたあれこれが組み合わさって出来ている。
これらは言葉のまじないに近い、命令の動作である。
正しく行なわねば加護は応えてくれぬか、誤った判断の元術者に牙を剥く。
熟達したものは所作からそれとわかることもあるという。


まじない師にとって最も初歩的な術の一つである「人除け」は、
この型の系譜の中でも最重要な術であるとされる。

薬のまじない

ものを混ぜ合わせることで、蛇の加護を招くという最も原始的なまじない。
平たくいえば、それは特別な力を持った薬──毒を作るということである。
あらゆるまじない師が必ず収める技法であり、彼らが日々の糧を得る大きな手段である。


まじないは我が身一つで行なうものではないが、我が身一つが頼りでもある。
加護を得やすい道具を扱いながらも、すべてを御すのは自身に他ならない。
そのために、まじない師は様々な理由で薬と毒用い、己の蛇の加護に近づけていく。
それは時に命さえも縮めるが、些細な問題である。


その応用で、鋼の精製や機材の制作の中にまじないを取り込むことがある。
こうしたものは「交じりのまじない」とも呼ばれ、時に専門の職人を生み出すことがある。

儀式

複数のまじないの型を合わせて行なう、大掛かりなまじない。
一つ一つのまじないでは起こせないような大きな力を扱うことが出来る。
それは同時にいくつもの力の扱い方を熟知し、制御することが求められる。
故に、一般的には儀式は複数名で役割を分けて行われる。


儀式を用いることで、より大きな範囲・細かな命令をまじない師は
蛇の加護に対して下すことが出来るようになる。
ともすれば、神々に匹敵するかと思い上がるほどの力。
それを手にしたが故に、多くのまじない師は古き時代に増長した。


しかし、儀式を執り行うことは多量の蛇の加護=毒を扱うことに他ならない。
それ故に、みだりにこの手段に手を出すまじない師は決して多くない。
熟達するほどに、その恐ろしさを知る故である。

炎のまじない

“昏き炎”カーラーンが下界にて生み出した、新たにして神々の振る舞いに依らない、新たなまじない。
燃え盛る炎、すなわち第二の太陽を求めて作り出されたものである。
極めて強大な力を秘めるために、多くの人が最後の希望に縋ろうとする。
その一方でこの技法は心あるまじない師からは、基本的に忌避されるか秘匿されることが多い。
それは何故か?
 
答えは極めて単純だ。
このまじないは力を払うために才覚や薬、道具以上の犠牲を求める。
炎を燃やすには、薪が必要だ。


「死」に呑まれる瞬間に命が放つ力、その大きさをまじないの太祖は知ってしまった。
「死」に近しい粘度と定着力を持つ命の最後の輝きは、蛇の加護を強烈に縛り、術者の意向をたやすく反映させる。
それは時に神々が持っていた力にさえ匹敵したほどに。
 
この事実に気付いたカーラーンは命の研究にのめり込んだ。
そして、ついに彼女は命を燃やすことであらゆる願いを叶える御技にたどり着く。
それは祝着であるとともに、堕落の極みでもあった。
得るための力が大きければ大きいほど、それに伴う犠牲の数は炎が燃え広がるように膨れていく。
そして、奇跡を望むほどに「死」の穢れもまた招いてしまう。
このまじないは、他のまじないとは比較にならぬほどの力と問題を抱えていた。


炎のまじないの太祖はその力に溺れ、国を傾け、最後には自らを薪に燃え尽きてしまった。
だが、この力を望むものたちは後を絶たなかった。
それにより傲慢なまじない師による悲劇の時代、「焚火の時代」が幕を開ける。


その一方で、命そのものに携わる力は使い方次第では、犠牲を出す以外の形でも扱うことが出来た。
扱い方を間違えば大きな悲劇も生むが、命を救うための手段として、我が身を削り奇跡を起こす手段として伝え、改めるものたちが。
こうした扱い方のみを行使する炎のまじない師は、「白き炎の使い手」と呼ばれた。
対して、太祖からの古き使い方に固執するものたちは、「昏き炎の使い手」と呼ばれた。


「炎」とは力の象徴であり、またその性質を端的に表しているだけであり、炎だけを操るわけではない。
だが、得てしてこの技法に臨むものたちはみな炎を崇める。
それは皮肉にも太祖がかつて求めた“太陽”と人々の関係に似ている。
だが、現実にはそれと似ても似つかぬおぞましい姿であることが多かった。
 

まじないの道具・薬

まじない師はその力を行使するうえで、道具を用いる。
それは自らの力を高めるためであったり、より正確な術を施すためである。


最も広く知られるのは「杖」であろう。
まじない師は皆、様々な霊木や獣の骨などを使い、己だけの杖というものを作る。
杖は指示するための旗であり、力を導く通り道であり、己を律する拠り所でもある。
手にした杖は半身と言っても過言ではなく、それ故にこれを損ねることは我が身を傷つけることに等しい。
故に、まじない師は皆杖に強くこだわり、それを他人に預けることをよしとしない。
それはつまり、まじない師を害するには杖を狙うのが早い、という事でもある。


また、まじない師は独特の衣装を纏う。
それもまた加護を得やすくするという理由があるが、それ以外にも己の在り方を示すことで、
自らのを強く保つという意味も存在している。
まじないは己との戦いである。
蛇の加護に呑まれぬよう己の身体と精神を守ることは基礎中の基礎と言える。


まじない師は薬も作る。それはまじないを強めるものから、まじないを宿すものまで様々だ。
そうしたためか、まじない師の多くはまじないと無関係な薬物にも詳しい。
神秘に依らぬ病や毒にも長じやすく、大半のまじない師は薬屋としても機能する。
皮肉なことに、彼らはそうした形で技を生かし、日々の糧を得ることになるのだ。