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オホーツク海時代歴史

Last-modified: 2019-10-28 (月) 18:05:51

オホーツク海時代歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』樺太2019年9月28日 (土) 03:18‎

1603年(慶長8年)松前藩によって宗谷に利尻・礼文・樺太を司さどる役宅が置かれた。1604年(慶長9年)徳川家康は松前慶広に黒印状を発給。1635年(寛永12年) 松前藩の松前公広が村上掃部左衛門を樺太巡察に派遣し、ウッシャムに至る。1644年(寛永21年) - 江戸幕府が松前藩から提出の所領地図を基に作成した「正保御国絵図」に、樺太が北海道の北の大きな島として記載されている。1679年(延宝7年)松前藩の穴陣屋が久春古丹(大泊郡大泊町楠渓)に設けられる。1685年(貞享2年)樺太は松前藩家臣の知行地として開かれたソウヤ場所に含まれた。1700年(元禄13年)松前藩は樺太を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成し、幕府に提出。1715年(正徳5年)幕府に対し、松前藩主は「十州島、唐太(樺太)、チュプカ諸島、勘察加」は松前藩領と報告。1790年(寛政2年)樺太南端の本斗郡好仁村白主に松前藩が商場を設置、幕府は勤番所を置く。松前藩士高橋清左衛門、東岸の中知床岬(長浜郡知床村)および西岸のライチシカ(久春内郡三浜村来知志)北方のコタンまで踏査。村山兵右衛門、樺太場所を請負う。1792年(寛政4年)最上徳内、樺太西岸のクシュンナイ(久春内郡久春内村)まで調査。1801年(享和元年)中村意積、高橋一貫ら、東岸のナイブツ(栄浜郡栄浜村内淵)、西岸のショウヤ岬(名好郡西柵丹村北宗谷)まで踏査。1808年(文化5年)江戸幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで派遣。1854年(嘉永7年)千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」を加陽・豊島毅が作成。1854年(安政元年)6月12日、目付堀利照・勘定吟味役村垣範正などがクシュンコタンに渡海、西は来知志湖近くのライチシカまで、東はオハコタン(栄浜郡白縫村箱田)まで調査。このとき普請役間宮鉄次郎は東海岸タライカ(敷香郡敷香町多来加)まで、上川侍次郎西海岸のホロコタン(幌渓)まで、松前藩士今井八九郎はナッコ(ラッカ)まで調査。1865年(慶応元年)岡本監輔がガオト岬を調査。1868年(慶応4年)岡本監輔、箱館府の行政官としてクシュンコタン(大泊郡大泊町楠渓)に着任し公議所を置くとともに、島内8ヶ所に出張所を設置し官員を派遣。1911年(明治44年)三井合名会社が樺太国有林の伐採権を得る。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』千島列島2019年9月8日 (日) 08:51

1700年(元禄13年) 松前藩は千島列島を含む蝦夷地の地名を記した松前島郷帳を作成し、幕府に提出。この郷帳には北海道本島からカムチャツカ半島までが記載されている。1715年(正徳5年)幕府に対し、松前藩主は「十州島、唐太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。1854年(嘉永7年)千島列島、全樺太島やカムチャッカ半島までも明記した「改正蝦夷全図」を加陽・豊島毅が作成。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』カムチャツカ半島2019年9月23日 (月) 07:12

「カムチャッカ」と書かれることも多い。日本では、古くは勘察加(かむさすか)と呼んでいた。日本では安東氏や松前藩の領有地として認識されていた。1700年(元禄13年)、幕命により松前藩は勘察加(カムチャツカ半島)を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成。1854年(嘉永7年)加陽・豊島毅などによってカムチャツカ半島を含む全蝦夷地を明記した「改正蝦夷全図」が作成された。

樺太島

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樺太庁

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日本国旗

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