注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
オスマン帝国(1299年~1922年)
テュルク系で小アジアの小領主であったオスマン1世を始祖とするイスラム系王朝。憲法での国号は「オスマン国(トルコ語:Devlet-i Osmaniyye)」。
オスマン1世がルーム・セルジューク朝から独立した事により始まり、代を重ねる事に小アジアや
バルカン半島に勢力を拡大、東ローマ帝国等の欧州諸国を圧迫した。
バヤジット1世がアンカラの戦いで大敗した事で一時衰退したが、早期に復活し1453年に至り東ローマ帝国
の首都・コンスタンティノープルを陥落させて東ローマ帝国を滅ぼし、コンスタンティノープルをイスタンブールと
改称、以後は首都として栄えた。
16世紀前半のスレイマン1世の時代が最盛期で勢力範囲は北アフリカやメソポタミア、東ヨーロッパに及びウィーンを
包囲する等、ヨーロッパ側の最大の脅威として君臨した。
しかし1683年の第二次ウィーン包囲の失敗以降辺りから次第に衰退し、ヨーロッパの近代化による強大化に対して
近代化改革を図るが衰退は避けられず第一次世界大戦の敗北と続くトルコ革命により滅亡した。
なお、英語圏で"Ottoman Turks"と呼ばれたことから、「オスマン・トルコ(帝国)」と訳されたこともある。
しかし、実際にはオスマン帝国がトルコを称したことは一度も無い。
バヤズィト1世
オスマン帝国第4代皇帝。「巴耶济德一世」。生涯を軍事遠征に費やし、「雷帝」「雷光」とも呼ばれた。
父親であるムラト1世の暗殺を機に即位し、反対勢力を次々と討伐、粛清しながら勢力を拡大。
その後、東ローマ帝国を影響下に置き、これに反対する十字軍とヨーロッパ諸国の連合部隊と戦い勝利を収めている。
多くの領地を征服し、のちに世界最強の一角と言われるオスマン帝国の軍備の礎を築いたが、
東方から勢力を伸ばすティムールと対立し、アンカラの戦いで激突するも敗北。
捕虜になった数年後に死去した。自害とも、病死とも言う。一説には隻眼だったと言われている。
ムラト2世
オスマン帝国第6代皇帝。
戦上手ではあるが、文化人の気質がありスーフィーに熱心であったことから、一度は子のメフメト2世に一時帝位を譲る。
しかし若年のメフメト2世には官僚も従わず*1、遠征にも失敗したため、イェニチェリの反乱を受けて1446年に復位した。
1448年、コソボの戦いでセルビアをはじめとするキリスト教国の軍と戦って、勝利を収め、東ローマ帝国を次第に圧迫していった。
同年に、ヨハネス8世の後を継いだコンスタンティノス11世ドラガセスの即位を承認し、和平条約を結んだ。
以降崩御までワラキアやアルバニアへの侵攻を進めたが、アルバニアではスカンデルベグの抵抗に遭い1451年2月に崩御した。
次代は先ほどのメフメト2世が復位、彼は前述の件で諸外国から舐められていたが、
後に東ローマ帝国壊滅どころかヨーロッパ諸国を震え上がらせることになるとはごくわずかの知識人以外その予兆に気付くものはいなかった。
メフメト2世
別案
オスマン帝国第7代皇帝。「メフメト」「穆罕默德」とも言われる。
生涯のうち実に30年近くを征服に費やし、「征服の父」と呼ばれた。
東ローマ帝国をはじめ、トレビゾンド帝国やアルバニアなど周辺諸国を屈強なオスマン兵を駆って併合。
オスマン帝国を世界的な大帝国へと押し上げ、対立するヨーロッパ諸国を恐怖のどん底に陥れた。
また、東ローマ帝国の継承者を自認してローマ皇帝を称し、正教会(ギリシャ正教)にも承認させた。
莫大な征服事業と各地の整備をすすめオスマン帝国全盛期の原初を築いたと言われるが、
征服事業からくる財政難や、征服中の敗戦、人種重用などから徐々に反対派閥を増やし、
死後即位した息子・バヤズィト2世によって彼の方針の大部分は否定された。
※オスマン皇帝でローマ皇帝を称した事例は、他にスレイマン1世の例がある。
バヤズィト2世
オスマン帝国第8代皇帝。メフメト2世の子。「巴耶済德二世」。
信心深いムスリムで、父の国際化・中央集権政策に反対した。
父の死後、弟・ジェムと後継を争い、勝利。ジェムはマムルーク朝に亡命し、さらにロードス島の聖ヨハネ騎士団に逃れた。
父の外征で財政が疲弊していたため、積極的な外征は少なく、減税で人心掌握を図った。
一方で海軍の増強に力を入れ、西欧の技術を積極的に取り入れ、ピーリー・レイースなどの海賊を海軍に登用した。
イスラム法による統制を強め、偶像崇拝を嫌い、王宮が有していた絵画を売却あるいは破棄した。このため多くの文化財が失われた。
他方、レコンキスタでイベリア半島を追われたユダヤ教徒の技術者を迎え入れたり、レオナルド・ダ・ヴィンチと
金角湾、ボスポラス海峡への架橋について書簡をやりとりした記録が残っている(架橋は行われず)。
コルクト、アフメト、セリム(セリム1世)の3人の息子がおり、次男のアフメトが後継者と目されていた。
しかし1512年、3男のセリムのクーデターにより帝位を追われ、まもなく死去した。一説にはセリムに毒殺されたともいう。
スレイマン1世
オスマン帝国第10代皇帝。
第9代皇帝セリム1世の子で1520年に父が崩御した事で即位した。
父と同じく対外遠征を行い1526年にモハーチの戦いでハンガリー王を討ち、ハンガリーを支配下に置き
1529年には第一次ウィーン包囲を行い、陥落こそならなかったが西欧に脅威を与えた。
東方においてはアゼルバイジャンやイラクの領有に成功し、海上でも海軍育成に成功して地中海やインド洋
方面の制海権を握りオスマン帝国の最盛期を築き上げ、内政面では法律の整備や文化の興隆に務めている。
しかし晩年期は度重なる遠征による財政の疲弊や後継者争い等不穏な状況も多く、東欧への遠征の途中で病死した
後は次第に陰りを見せるようになる。
バルバロス・ハイレッディン・パシャ
オスマン帝国の提督。
当初は兄のウルージと共にチュニジアのジェルバ島を本拠地にバルバリア海賊として活動し、
ヨーロッパの船舶を幾度となく襲撃して恐れられ、さらに1516年には北アフリカのアルジェを占拠した。
兄の死後は戦力と「バルバロッサ」の渾名を継承し、オスマン帝国に仕えてオスマン海軍の中核として活躍、
1538年のプレウェザの海戦においても勝利に貢献した。
ミマール・スィナン
オスマン帝国の軍人・建築家。
アルメニア人の石職人の家に生まれたとされ、オスマン帝国に仕えてイスラム教に改宗した。
当初はイェニチェリの工兵として活動し出世を重ねて建築技術を学んだ。
1539年に帝国内の建築事業の責任者となりモスク等の数多くの建築物を築き上げ、オスマン帝国最盛期
におけるオスマン建築の発展を主導した。
マルコチョール・バリ・ベイ
オスマン帝国の軍人。
マルコチョールの一族は代々オスマン帝国の非正規の軽騎兵部隊である「アキンジ」を率いており、
マルコチョール自身もアキンジの指揮官として奇襲攻撃や強奪等の任務に従事した。
1526年のモハーチの戦いでは河川に短時間で橋を掛ける等の功績を挙げ、1542年にはハンガリーの
ブダン州の総督となり亡くなるまで務めた。
ソコルル・メフメト・パシャ
オスマン帝国の軍人・政治家。
ボスニアのキリスト教徒の生まれであったが少年時にデウシルメによりイスラムに改宗し軍人となり、
戦功を重ねて海軍司令や地方総督を歴任した後に宰相となり、1565年に大宰相となる。
翌1566年のハンガリーのシゲトヴァール包囲戦でスレイマン1世が陣没した際、死を秘匿しながら指揮を執り
シゲトヴァール陥落を達成した。
スレイマン1世の跡を継いだセリム2世とその子であるムラト3世は暗愚である為、ソコルルが帝国の政治と軍事を主導し
キプロスの占領に成功、1571年にはレパントの海戦で壊滅的な被害を受けたオスマン海軍の再建に成功する等、優れた
指導力を発揮したがサファヴィー朝への遠征にて敵方の刺客に暗殺された。