注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
中央アジア
アジア、あるいはユーラシア大陸の中部内陸部。
狭義には現在のカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン。
広義には中華人民共和国の西部(新疆ウイグル自治区・チベット自治区など)、ロシア連邦の南部(南シベリア)、モンゴル、アフガニスタン、
イラン北東部、パキスタン北部、インドのジャム・カシミール地方までが含まれる。このうちモンゴルはモンゴル帝国および四汗国・モンゴル系国家を参照。
なお、狭義の中央アジアにアフガニスタン北部、中国の新疆ウイグル自治区を含めた地域を、トルキスタンと称する。
古代より遊牧民が活動し、他方でシルクロード交通の要衝として交易で栄えていた。
一方で、中国・インド・中東、さらに近代以降は欧米を含めた諸勢力がたびたび侵攻し、支配者はめまぐるしく入れ替わった。
グレコ・バクトリア王国
グレコとはギリシャ人の意味。バクトリアは当時の中央アジアの地域名で、イランの北東の一部、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、およびトルクメニスタンの一部が該当する。
アレクサンドロス大王による征服後、セレウコス朝シリアの支配下となったが、紀元前239年ころ、現地の総督のディオドトス1世が自立して王を称した。
ディオドトス1世以下、ギリシャ人の政権が割拠したので、後世グレコ・バクトリア王国と呼ばれる。『史記』『漢書』に現れる「大夏」と同一であるかどうかは、今に至るまで論争が続いている。
紀元前140年ころ、最後の王のヘリオクレスが、遊牧民族のアシオイ・パシアノイ・トカロイ・サカラウロイの4種族(スキタイ系またはサルマタイ系とされる)の侵入によって滅ぼされた。
『史記』によると、大月氏の属国として大夏が記録されている。また、「トカロイ(トカラ人)=大月氏」説に従うなら、大月氏が滅ぼしたのはグレコ・バクトリア王国であることになる
(大月氏とトカロイを別種族とする説もあり、その場合はトカロイの政権を大月氏が滅ぼした事になる)。
ディオドトス1世
ギリシャ人。バクトリア王国の初代国王。現代中国語では「狄奧多特一世」。
セレウコス朝シリアで、バクトリア・ソグディアナの総督だった。
B.C.250年頃、シリアの内紛に乗じて自立し、王を称した。同じくシリアから自立したアンドラゴラスと同盟し、
インドに勢力を拡大した。古代ローマのストラボンは『地理誌』で「征服した部族の数はアレクサンドロスの時を越えた」
とその勢威を評している。
しかし、遅れてシリアから自立した、パルティア王国によってアンドラゴラスは滅ぼされ、ディオドトス1世は
シリアと講和してパルティアと対峙した。その後まもなく死去し、子のディオドトス2世が後を継いだ。
大月氏
紀元前2世紀前後中央アジアで活躍した民族。「だいげっし」と読む。「おおつきし」「だいげつし」では無い。
出自は諸説あるが、古代中国語で「月」は「トクァル(tokwar)」ないし「トグァル(togwar)」であり、バクトリア語における「トクァル(Toχwar),トゥクァル(tuχwar)」に
一致する事から、トカラ人説が有力である。
中国の春秋戦国時代にモンゴル高原西半を支配した月氏の主力が、天山山脈北方に移動したものをさす(河西地方に残ったものは小月氏)。
匈奴の攻撃を受けて西遷し、大夏(バクトリア?)に侵入し、これを滅ぼした。
『漢書』によると、大月氏国は休密翕侯、貴霜(クシャン)翕侯、雙靡翕侯、肸頓翕侯、高附(カーブル?)翕侯(『後漢書』では都密翕侯とする)の
5つの翕侯(諸侯)を置いていた。前漢の武帝は張騫を派遣し、匈奴に対抗する同盟を結ぼうとした。しかし、大月氏はバクトリアに定住して久しく、
匈奴への復仇は考えていなかったので失敗した。
1世紀に、クシャンの出であるクジュラ・カドフィセスに滅ぼされた。
伊存
【イソン】
大月氏の臣。
『魏略』によると、前漢の元寿元年(B.C.2年)に前漢への使者となり、弟子となった博士・景蘆に浮屠経(仏典)を口伝した。
中国への仏教伝来年代は複数説があるが、『魏略』は年代が明記されたものの中では最も古い説である。
伊存の出自は不明だが、インドの叙事詩『ラージャタランギニー』のフシュカ王説、ウディヤーナ(烏仗那)人説、令太子(大月氏王の王太子)の誤字説、
クシャーナ朝のクジュラ・カドフィセスと同一人物説、カドフィセスと同族の別人(族父か族祖父?)説などがある。
クシャーナ朝
中央アジアから北西インドにかけて支配した王朝。大月氏と同族とも、イラン系民族ともいう。
紀元前1世紀頃バクトリアの王侯の一人が大月氏の支配から独立して成立。2世紀のカニシカ1世の時全盛期となり,大乗仏教・ガンダーラ美術が栄えた。クシャナ朝。
中国文献には貴霜国と記されるが、中国への朝貢では引き続き大月氏国を称し続けた。
3世紀にサーサーン朝イラン(ペルシア)の侵攻を受け、バクトリアの領土を失った。
4世紀にグプタ朝が興ると従属し、最後はキダーラ朝に滅ぼされた。
クジュラ・カドフィセス
クシャーナ朝の初代君主。『後漢書』では「丘就卻」。子にヴィマ・タクト。
カドフィセスは貴霜(クシャン)翕侯の出で、大月氏国から自立し、その地位を乗っ取って王を称した。
当時、カーブル周辺はギリシャ人のヘルマエオスが支配していた。当初、カドフィセスはヘルマエオスと同盟しており、
片面にギリシャ文字でカドフィセスの名が、もう片面にヘルマエオスの肖像画が鋳造された貨幣が現存している。
しかし、後に肖像画もカドフィセスのものになったことから、ヘルマエオスを追い落とした物といわれている。
カドフィセスは安息(パルティア)、罽賓(ガンダーラ)に侵攻し、インド・パルティア王国と争った。
80歳で死去したという。
カニシカ1世
クシャーナ朝4代君主。ヴィマ・カドフィセスの子。漢訳仏典では「迦膩色迦」。
プルシャプラ(現:ペジャワール)を都とした。クシャーナ朝全盛期の王で、領土は西北はトルキスタンから、東南は北インド一帯に及んだ。
また、各国の皇帝号や王号を軒並み称し、「シャーヒ・ムローダ・マハーラージャ・ラージャ=アティラージャ(諸王の王)・
デーヴァプトラ(天子)・カイサラ(カエサル)であるカニシカ王」と名乗った。それぞれ、月氏・サカ族・インド・イラン・中国・ローマ帝国の称号を意味する。
さらに、自らの即位をもってカニシカ紀元とし、後継者もカニシカ紀元を使い続けた。
晩年は仏教を保護し、首都に大塔や寺院を建立、第三回(第四回とも)の仏典結集(けつじゅう)を行なった。
仏典では、凶暴なパルティア王と戦って勝利し、9億人を殺したとされ、明らかに誇大な数字が残っている。
このように仏教守護者の一人として知られるが、実際にはヒンドゥー教やゾロアスター教とも関係を維持しており、貨幣にはギリシャ神話の神々も描かれている。
ヴァースデーヴァ1世
クシャーナ朝7代君主。『三国志』では「波調」。
インド化を進め、ヒンドゥー教に改宗した。クリシュナ神の別名であるヴァースデーヴァを名乗ったのもその一環で、
表に自らの肖像画を、裏にコブウシとシヴァ神を鋳造した金貨が現存している。
自らはヒンドゥー化を進めたが、治世には仏像やジャイナ教の彫像が建立された事が分かっている。
229年、大月氏王として魏に朝貢し、曹叡?に親魏大月氏王に封じられた。
しかし、新興のサーサーン朝イラン帝国に大敗し、まもなく死去した物と見られている。
カニシカ2世
クシャーナ朝8代君主。
活動時期は227-246年頃で、ヴァースデーヴァ1世の跡を継いだと思われる。
サーサーン朝イランによってバクトリアの領土を失い、北インドの地方政権に転落していた。
しかし、バクトリアの一部、ガンダーラやカピチャを回復したのではないかともいわれている。
ヴァーシシカ
クシャーナ朝9代君主。
アトック、マトゥラー、サーンチーなどで碑文が発見されており、インド北部から中部を支配したようだ。
マトゥラー遺跡からは、バラモン教の儀式に用いる柱「ユパ」から帝冠が発掘された。
またサーンチー遺跡からは、「ヴァーシシカの28年」とある菩薩像が発掘されている。
金貨は先代より小さく、品質が落ちており、またそのいくつかはバクトリアを占領した
サーサーン朝のアルダシール1世の金貨と同時に発見されており、両者の関係を推測することができる。
ゴール朝
現在のアフガニスタン中部のゴール地方において12世紀前半に成立した王朝。
第5代君主のアラー・ウッディーンの時代にセルジューク朝の衰退に乗じて勢力を拡大し、
ギヤースッディーンとシハーブッディーンの兄弟の時代に最盛期を迎えて北インドにまで進出した。
しかし兄弟の死後は急激に衰退して1215年にホラズムにより滅ぼされた。
アラーウッディーンの配下武将クトゥブッティーン・アイバクは北インドにて自立し奴隷王朝の祖となった。
ギヤースッディーン・ムハンマド
ゴール朝第6代君主。
従兄弟である先代のシャイフッディーン・ムハンマドを殺害して王位を奪った。
弟のシハーブッディーン・ムハンマドと協力して勢力を拡大、ラホールのカズナ朝を滅ぼし
ホラズムを撃破してホラーサーン地方の支配権を確立する等、ゴール朝の全盛期を築き上げ
その治世においては多くの建設事業が行われた。
シハーブッディーン・ムハンマド
ゴール朝第7代君主。
第6代君主ギヤースッディーン・ムハンマドの弟で兄の存命時はガズナ地方を統治し、
北インド方面に進出しインド側からは「ゴールのムハンマド」を意味するムハンマド・ゴーリーと呼ばれた。
兄の死後にゴール朝の君主を継ぐが西遼やホラズムの台頭により中央アジア方面での勢力は減退し、
インド遠征の途中で敵対するイスマイール派の刺客により暗殺された。
ホラズム朝
1077年にセルジューク朝のマムルークであったアヌシュ・テギンが中央アジアのホラズム地方の総督となり、ホラズム・シャーを
称したのが始まりで13世紀中盤にセルジューク朝の衰退に伴い西遼(カラ・キタイ)に服属した。
第7代君主アラーウッディーン・ムハンマドの時代に西遼の服属から脱して急速に勢力を拡大して最盛期を築くもモンゴル帝国の
侵攻により急速に崩壊し最後の君主であるジャラールッディーンは各地で抵抗を続けるも1231年に殺害された事により滅亡した。
アラーウッディーン・ムハンマド
ホラズム朝第7代君主。
宗主国であった西遼(カラ・キタイ)の支配から脱し、周辺領域への勢力拡大に成功し最大版図を築き上げる。
一方で生母であるテルケン・ハトンの出身部族で軍事の中核であったカンクリ族と不和である等支配体制は不安定であった。
1218年にオトラル総督イナルチュクがモンゴル帝国の使節を殺害した事を契機にチンギスハン率いる帝国の侵攻を
受ける事になり、帝国の圧倒的な進撃の中で自らはカスピ海の小島に逃れて病に倒れた。
ジャラールッディーン
【ジャラールッディーン】
ホラズム朝第8代君主。漢字では札闌丁。
1219年からのモンゴル帝国の大西征により父ムハンマドはカスピ海の小島に追い詰められて病死したが、その際に後継指名され
国内の残存勢力を糾合してモンゴルに抵抗しパルワーンの戦いでシギ・クトク率いるモンゴル軍を撃破した。
続くインダス河畔の戦いではチンギスハーン率いるモンゴルの大軍に大敗、一騎にてインダス河を渡り追撃を振り切った姿を見てチンギスは勇者と賞賛した。
その後は各地でモンゴル軍への抵抗活動を続けたがクルド人の土民により殺害された。
嫌悪武将:チンギスハン
チムール・メリク
【チムールメリク】
ホラズム朝の武将。漢字では帖木尔灭里。
ティムール・メリクと表記することも。
モンゴル帝国の侵攻の際、ホージェント市の守将を務めており千人の兵で七万のモンゴル軍に抵抗し
フェルトと粘土で覆った船で川岸の敵陣に急襲を仕掛けてモンゴル軍を苦しめた。
最後は落城するが撤退時に群がる三人のモンゴル騎兵に対して残った三本の矢で全て射倒した事で知られる。
その後はジャラールッディーンに合流し最期まで付き従ったという。
イナルチュク
ホラズム朝の武将。ガイル・ハーンとも。
第6代スルタンであるムハンマドの生母であったテルケン・ハトンと同じく遊牧民のカンクリ族出身とされる。
ホラズム支配下にあった中央アジアの都市・オトラルの総督で、1218年にモンゴル帝国の派遣した隊商を迎えるも、
帝国の間諜と思い450人の隊商を殺害、これによりモンゴルのホラズム侵攻を招いた。
イナルチュクは五ヶ月にも渡りオトラルで徹底抗戦したが、最後は捕らえられて両目と両耳に溶かされた銀を流されて殺害されたという。
ソグディアナ
サマルカンド(現:ウズベキスタン領)やタジキスタンのソグド州周辺を根拠地にした勢力。イラン系。
『魏書』『北史』などでは「粟特」と呼ばれた。
ソグド人は農耕・牧畜の習慣もあったが、特にシルクロード貿易で栄え、商人を輩出した。
B.C.8世紀頃より記録に現れ、アケメネス朝ペルシアの支配下にあったが、アレクサンドロス大王に攻め落とされた。
B.C.2世紀頃、康居の支配下に入ったようで、以降は遊牧国家の傘下で貿易を発展させた。
中国でも漢代から敦煌・長安・洛陽などに交易の拠点を構えていた。
統一国家は生まれず、サマルカンド、クシャーニヤ、ブハラ、パイカンドなどに都市国家が分立していた。
唐代には武将・官吏にもソグド人が進出し、安史の乱を起こした安禄山・史思明はソグド人と突厥の混血だった。
ゾロアスター教を信仰し、アラム文字を元にしたソグド文字を持っていた。また、康僧会のように仏僧となる者もいた。
しかし、8世紀にサマルカンドがイスラム帝国の支配下に入ると、イスラム文化に同化していった。唐やウイグルのソグド人も、漢民族に同化していった。
ナナイヴァンダク
4世紀のソグド人の商人。恐らく敦煌に在住していた。名前は「ナナ女神のしもべ」の意味。
1907年に敦煌で発見された手紙によると、ナナイヴァンダクはサマルカンドのナナイスヴァールらに対し、
「4年前に洛陽に派遣した協力者によると、ソグド人もインド人も餓死したそうです。天子は噂によると洛陽を逃げ出し、
宮殿も城も焼かれました。洛陽も鄴ももうだめです。残った秦人(中国人)たちがフン(匈奴)を追い払うことができたのかはわかりません」などと報告した。
これは、永嘉の乱で漢(前趙)による洛陽陥落を報告したものという(ただし、天子(皇帝)・司馬熾は漢に捕らえられ、殺されている)。
また、ナナイヴァンダクは死期を予感し、親類のタクシクヴァンダクに遺産の大部分を相続させるよう要請している。
大宛
中国、漢代の西域の一国。イラン系とみられ、B.C.2世紀頃より中央アジアのシル川流域フェルガナ盆地(現:ウズベキスタン)にあった。
名馬といわれた汗血馬(かんけつば)の産地として知られ、漢の武帝はこれを得るために遠征を行なった。転じて西域諸国を指すこともある。
5世紀からは、フェルガナの音写とみられる「破洛那」「鏺汗」「抜汗那」などと表記されるようになった。
南北朝時代にはエフタルの、隋唐の時代にはテュルク系の西突厥の勢力下にあった。
9世紀にはイスラム教が流入した。
毋寡
【ブカ】
大宛の王。
前漢の武帝(劉徹)は大宛と国交を結ぶと、汗血馬を気にいり、千金と金製の馬で買い付けようとした。
しかし大宛は足元を見て断り、さらに前漢の使者が暴言を吐いたので、兵を出して攻め殺し、金品を掠奪した。
武帝は激怒し、B.C.104年、李広利を派兵して大宛を攻撃したが、李広利は惨敗した。
B.C.102年、前漢は6万の大軍と十分な兵糧を用意して再度大宛を攻撃し、李広利は水源を遮断して包囲した。
大宛の貴族たちは、「こうなったのは王が漢の使者を殺したからだ」と相談し、毋寡を殺してしまった。
そして、毋寡の首と良馬数十頭、その他の馬三千頭の条件で前漢と手打ちした。
煎靡
【センビ】
大宛の貴族で、勇将として知られた。
煎靡が前漢の李広利の捕虜となると、大宛の有力者は大いに恐れ、王の毋寡を殺して前漢と講和した。
藍庾
【ランユ】
大宛の王。子に摩之。
西晋の司馬炎?は285年、楊顥を使者として藍庾を大宛王に封じた。
藍庾の死後、摩之が後を継ぎ、西晋に汗血馬を朝貢した。
突厥
552年、柔然から自立したテュルク(トルコ)系遊牧国家。「突厥」表記はTürükの音写説が有力。
『周書』では元は匈奴から分かれたとする。
牧畜・狩猟を生業とする一方、製鉄技術を発達させた。またソグド人など多くの民族を服属させ、交易で栄えた。
東は遼海(渤海?)、西はアラル海、北はバイカル湖、南はゴビ砂漠まで広がる大国となった。
582年、隋に敗れ東西に分裂し、隋に代わった唐によって東西とも征服され、属国となった(羈縻支配)。
682年、東突厥は唐から自立したが、まもなく唐と父子の契りを結んで名目上従属し、シルクロード交易で栄えた。
8世紀半ば、東突厥は回紇(ウイグル)・葛邏禄(カルルク)・抜悉蜜(バシュミル)に、西突厥は葛邏禄・回紇によって滅ぼされた。
※広義のトルコ民族を「テュルク」、現存するトルコ共和国を「トルコ」と書き分けることがある。
現代中国語でも、テュルクは「突厥」、トルコは「土耳其」の字を当てる(日本でのトルコの当て字は「土耳古」)。
阿史那土門
【アシナトメン】
突厥の初代可汗。吐務の子。「土門」は万人長の意味で、実名は不明。
突厥の部族長となり、柔然の土門となった。
546年、鉄勒の柔然侵攻に際して迎撃し、5万余の家族を降伏させた。
土門は褒賞として柔然との通婚を求めたが、柔然可汗の阿那瓌は激怒し、使者に「鍛鉄奴隷ごときが、何故そのような発言をするのか」
と返事をさせた。土門は怒って使者を斬り、柔然から自立して西魏に従属し、長楽公主を娶った。
552年、柔然に大勝して阿那瓌を自害させ、伊利可汗と号して突厥可汗国を建てた。
同年死去し、科羅が後を継いだ。