注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
倭・日本(飛鳥末期・奈良時代)
倭・日本とは、日本列島とその周辺諸島を領土とする国家である。
天武天皇の即位後、国号「日本」が定められたと伝わる。その後、日本の正史とも呼べる帝紀、「日本書紀」が記され、
702年には大宝律令が定められたことにより、日本史上はじめて「律令」が誕生した。
皇位継承権の存在した草壁皇子や、文武天皇が早逝したために持統、元明、元正、孝謙と女性天皇が多かったのも同時代の特徴である。
元明天皇が平城京へ遷都したが、おりしも天然痘の大流行によって藤原四子が相次いで病没するなど世情不安であり、
聖武天皇の国分寺建立や東大寺大仏造立など国家鎮護の観念が強い時代でもあった。
その後称徳天皇が没すると、天武系から天智系へ皇統が移動、桓武天皇が長岡京、平安京に遷都して奈良時代は終わった
飛鳥時代末期(乙巳の変・大化の改新~ )
葛城皇子(天智天皇)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 78 | 65 | 90 | 88 | 89 | 梟雄 | 機略 | 詐謀 | 人脈 | 強奪 | |||||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 78 | 65 | 90 | 88 | 89 | 梟雄 | 機略 | 詐謀 | 人脈 | 強奪 | 機知奇策 | 混乱 | 挑発 | 鎮静 | 鼓舞 | 縦横術 | 覇道 |
【カツラギノミコ】
古代日本を代表する最重要人物の一人。天智天皇。
大化の改新を成し遂げた中大兄皇子の名前で知られる。
乙巳の変の後、有間皇子などの勢力を強引に一掃。百済再興を掲げ行動するも、
白村江の戦いで唐・新羅に惨敗。近江大津宮に遷都し帝に即位した。
即位後、様々な政治改革を決行。遣新羅使を派遣して唐を牽制すると共に、
遣唐使も数度派遣して唐との関係改善に努めた。
その死後、嫡子・大友皇子は弟・大海人皇子に壬申の乱で敗北。天智系は光仁天皇まで途絶える。
壬申の乱の背景について諸説あり、強引な遷都が豪族、民衆の不信感につながった説。
弟・大海人皇子の妻・額田王を権力で奪い取ったことが原因との説が存在する。
大海人皇子(天武天皇)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 95 | 80 | 95 | 96 | 95 | 奸雄 | 求心 | 英名 | 振興 | 文化 | |||||||
| 83 | 85 | 92 | 95 | 95 | 奸雄 | 求心 | 英名 | 振興 | 文化 | 虎翼勇戦 | 先従隗始 | 王道 | ||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 92 | 80 | 91 | 90 | 95 | 奸雄 | 求心 | 英名 | 振興 | 文化 | 虎翼勇戦 | 鼓舞 | 突撃 | 斉射 | 奮戦 | 文事武備 | 覇道 |
| 90 | 80 | 91 | 90 | 99 | 奸雄 | 求心 | 英名 | 振興 | 文化 | 虎翼勇戦 | 鼓舞 | 突撃 | 斉射 | 奮戦 | 文事武備 | 覇道 |
【オオアマノミコ】
古代日本を代表する最重要人物の一人。天武天皇。天智天皇の弟。
天智天皇の嫡子・大友皇子を壬申の乱で破り、帝に即位した。
律令制を整備し、仏教を保護。神道を国教に据え、天皇を中心にした中央集権体制を確立。
数々の文化事業を行い、日本文化の礎を築く。 国を二分した壬申の乱では本営から前線の部下たちを指揮。
後方にいながら彼の戦略と人材起用は悉く的中し、 圧倒的不利を覆して瞬く間に勝利を決定づけた。
その非凡な才覚は韓非子の「翼ある虎」に評され、日本の創設者の呼び声も高い。
補足:「天皇」の称号を初めて使った人物と言われている。
中臣鎌足
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 83 | 87 | 86 | 77 | 75 | 機略 | 柱石 | 策士 | 眼力 | 上兵伐謀 | 王道 | ||||||
| 83 | 67 | 86 | 77 | 75 | 機略 | 柱石 | 策士 | 眼力 | 上兵伐謀 | 王道 | ||||||
【ナカトミノカマタリ】
飛鳥時代の政治家。
遣隋使である旻法師、南淵請安らに学び、蘇我入鹿と並んで秀才と評された。
『六韜』を修め、中大兄皇子(天智天皇)の側近として乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺。大化の改新の原動力となった。
大化の改新後は政権中枢に昇り、政敵を蹴落としながら栄達の道を歩む。
死の直前に天智天皇より藤原の姓と冠位十三階の最高位を賜り、以後続く名門藤原氏繁栄の先駆けとなった。
百済の王子・扶余豊璋が彼であるとの意見も存在する。
阿倍比羅夫
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 73 | 80 | 71 | 72 | 66 | ||||||||||||
| 83 | 80 | 71 | 72 | 66 | 掃討 | 操舵 | 長駆 | 水軍育成 | 王道 | |||||||
【アベノヒラフ】
飛鳥時代の武将。180隻の水軍を率い、蝦夷を服従させ、粛慎と交戦した。
大化の改新後は蝦夷の領国経営に従事。
中大兄皇子(天智天皇)が百済救援を掲げると、その軍事手腕を買われて征新羅将軍に任命。
朝鮮に渡り唐・新羅連合軍と交戦するも白村江の戦いで大敗した。
額田王
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 11 | 2 | 74 | 56 | 93 | 傾国 | 詩想 | 本草学 | 王道 | ||||||||
【ヌカタノオオキミ】
天武天皇の妃、後に天智天皇の妃となる。万葉集の歌人としても有名。
通説では絶世の美女で大海人皇子(天武天皇)に見初められて妻になったとされる。
大海人皇子との間に十市皇女を儲けたが、額田王の姉を妻にしていた中大兄皇子(天智天皇)が
妹である額田王も欲し、離縁して中大兄皇子に寵愛されたというが定かではない。
彼女が読んだ万葉集の和歌はかつての夫である大海人皇子を想って読んだ歌であり、
天智・天武両天皇との三角関係を想定する内容であるとも言われる。
彼女の存在が壬申の乱の火種になったとの説もあるが定かではない。
鸕野讚良(持統天皇)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 62 | 28 | 93 | 92 | 90 | 王佐 | 才媛 | 明鏡 | 文化 | 詩想 | 先従隗始 | 王道 | |||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 71 | 28 | 96 | 98 | 97 | 洞察 | 才媛 | 明鏡 | 文化 | 王佐 | 王佐の才 | 治療 | 鼓舞 | 鎮静 | 牽制 | 先従隗始 | 王道 |
【ウノノサララ、ウノノササラ】
持統天皇。父は天智天皇、夫は天武天皇。
天武天皇が病気がちになると、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていった。
天武天皇の勅令により、皇太子である草壁皇子と共同で政務を執るようになる。
夫と息子が病気により他界すると、孫の軽皇子が幼年であった為、
天皇に即位して天武天皇の政策を引き継ぎ、律令政治を完成させた。
持統天皇は15才の軽皇子に譲位し、日本史上初の太上天皇になる。
譲位後も政務に関わり、大宝律令の制定・施行にも関与するなど、
日本史上重要な役割を果たした。
高市皇子
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 82 | 78 | 76 | 61 | 90 | ||||||||||||
【タケチノミコ】
飛鳥時代の皇族。天武天皇(大海人皇子)の第一皇子。
天武帝の皇子であったが、母の身分が低く、後継者には鸕野讃良皇女の子である
弟の草壁皇子が選ばれた。壬申の乱では父である大海人皇子から軍事を任されて
諸事万端を整えて父の勝利に貢献した。その後吉野の盟約を経て、皇族重鎮として
朝廷を支える。弟の大津皇子、草壁皇子の薨去後も持統天皇を補佐した。子に長屋王。
※ 柿本人麻呂が彼を慕っていたといわれ、立太子された説もある。
村国男依
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 89 | 84 | 80 | 64 | 77 | 封殺 | 督励 | 補佐 | 三軍強化 | 覇道 | |||||||
【ムラクニノオヨリ】
飛鳥時代の武将。天海人皇子(天武天皇)の舎人として古くから仕え、彼が壬申の乱で決起すると
不破道を塞ぎ、大友皇子と東国の連携を絶った。近江大津宮攻防戦では大海人皇子の嫡子・高市皇子を補佐し、
各地の戦場で活躍。鳥籠山で敵将を討取るなど数々の武功をあげる。
近江瀬田橋の最終決戦では大友皇子の配下である帰化人・智尊に苦しめられるも、瀬田橋を突破し大友皇子を敗死させた。
大海人皇子は戦後の論功行賞で最も多く彼に報いたという。優れた武略の持ち主であったと伝わる。
大伴吹負
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 83 | 76 | 79 | 54 | 80 | 扇動 | 策士 | 再起 | 王道 | ||||||||
【オオトモノフケイ】
飛鳥時代の武将。大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱で決起すると計略で敵を欺き、
わずかな手勢で飛鳥を占拠。この功績から大和方面軍の将軍に任命された。
当初は兵力が集まらず苦しい戦いを強いられ、敗戦も多かったが、美濃から紀阿閉麻呂の援軍が
到着すると攻勢に転じ、大和を手中に収めた。
蘇我赤兄
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 29 | 22 | 76 | 68 | 55 | 教唆 | |||||||||||
【ソガノアカエ】
飛鳥時代の貴族。蘇我馬子の孫、天智天皇の側近。
天智天皇即位前からの側近であり、中大兄皇子の政敵であった有間皇子に
取り入り讒言してこれを滅ぼす大功を立てる。のち
太宰の帥に任命され、藤原鎌足が死去すると天智天皇第一の臣として
重用され、左大臣まで上り詰めた。天智天皇崩御の際に大友皇子の補佐を
託されると、これを承諾して大友皇子を支えるが、壬申の乱で敗れて逃亡し捕えられた。
のち配流され、蘇我氏は衰退の道を歩んだ。
大分稚臣
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 679年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 62 | 78 | 46 | 34 | 59 | 果敢 | 護衛 | 突撃 | 鋒矢強化 | 我道 | |||||||
【オオキダノワカオミ】
飛鳥時代末期の武将。
豊後国大分郡の豪族で壬申の乱勃発の際は大津皇子に従い大津宮を脱出し、
大海人皇子側に合流した。
村国男依率いる近江方面の侵攻軍に加わり、最後の決戦である瀬田大橋での戦いでは
瀬田橋の途中を落とし代わりに縄をつけた板を渡して通った兵士を落とす作戦に出た
近江朝廷側の作戦に対し鎧を重ね着して攻撃を受けながらも突破して仕掛けを破壊し、
自軍を勝利に導く活躍を見せた。
奈良時代
藤原不比等(藤原史)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 37 | 8 | 96 | 97 | 71 | 王佐 | 法律 | 人脈 | 史官 | 先従隗始 | 王道 | ||||||
※おまけ武将(三国志14)準拠版
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 37 | 8 | 96 | 100 | 95 | 洞察 | 王佐 | 人脈 | 史官 | 法律 | 先従隗始 | 王道 | |||||
| 37 | 8 | 97 | 100 | 95 | 洞察 | 王佐 | 人脈 | 史官 | 法律 | 先従隗始 | 王道 | |||||
【フジワラノフヒト】
中臣鎌足の次男。天智天皇の落胤とも。
壬申の乱では近江朝側に所属していたが、のちに
天武天皇に推挙され、持統天皇に重用されることで頭角をあらわした。
皇太子の草壁親王から後事を託された後、その子文武天皇の即位に成功させ、
大宝律令をはじめとする律令制の制定にも関わった。晩年はその強大な勢力を
天皇家に警戒されたが、水面下で着々と藤原氏の権力固めを行い
後の摂関政治に通じる天皇外戚としての権力掌握の原型を作った。
一説には日本書紀成立にも関与していたと言われている。
補足:名前の「不比等」は「史」と表記されているものもある(読みは同じ「ふひと」)
長屋王
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 729年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 45 | 41 | 75 | 79 | 68 | 富豪 | 振興 | 農政 | 浪費 | 高慢 | 経世済民 | 王道 | |||||
【ナガヤオウ】
奈良時代初期の皇族。
天武天皇の長男高市皇子の子。
藤原不比等の死後に皇族の筆頭として舎人親王や新田部親王らと共に朝廷の実権を握り、
民衆への貧窮対策や田地の開墾等の対策に務め、「三世一身法」が成立した。
しかし不比等の子・武智麻呂ら藤原四兄弟らの対立勢力が次第に台頭し、
聖武天皇の夭折した皇太子である基王を呪詛したという疑いにて自害した。
大伴旅人
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 665年 | 731年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 78 | 56 | 75 | 72 | 80 | 督将 | 詩想 | 文化 | 人脈 | 酒乱 | 奮戦 | 激励 | 文事軍備 | 王道 | |||
【オオトモノタビト】
奈良時代の公卿・歌人。
720年に九州の隼人が反乱を起こした際には征隼人持節大将軍として藤原不比等の
死で召還されるまで鎮圧に従事して功績を挙げている。
後に大宰帥として再び九州に下向したが最終的には中央に戻りと従二位大納言となる。
歌人としては「万葉集」や「古今和歌集」に作品を残しており大宰帥時代には
山上憶良・満誓らと交流して筑紫歌壇を形成した。
藤原武智麻呂
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 680年 | 737年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 44 | 36 | 73 | 75 | 71 | 文化 | 人脈 | 太学 | 王道 | ||||||||
【フジワラノムチマロ】
奈良時代初期の公卿。
藤原不比等の長男で藤原南家の祖。
父の死後に藤原氏の筆頭として対立関係にあった皇族の実力者であった長屋王を他の弟達と協力して
「長屋王の変」にて自害に追い込み、武智麻呂を筆頭とする藤原四兄弟による藤原氏中心の政治を主導した。
しかし737年の天然痘の流行にて他の兄弟と共に亡くなった。
藤原房前
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 681年 | 737年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 69 | 58 | 86 | 81 | 63 | 詩想 | 召募 | 慎重 | 法律 | 地域巡回 | 王道 | ||||||
奈良時代初期の公卿。
藤原不比等の次男で藤原北家の祖。
藤原四兄弟の中でも政治的な才覚に秀でて若くして嫡子であった兄の武智麻呂に匹敵する地位であった。
他の兄弟と比べて長屋王とは協調関係に有り、「長屋王の変」においても目立った活動は見られず他の兄弟
とはやや距離を置いていた。737年の天然痘の流行にて兄弟の中では最も早く亡くなった。
藤原宇合
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 694年 | 737年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 72 | 65 | 75 | 74 | 68 | 規律 | 詩想 | 嚮導 | 墨守研究 | 王道 | |||||||
【フジワラノウマカイ】
奈良時代初期の公卿。
藤原不比等の三男で藤原式家の祖。
716年には遣唐副使として唐入りし718年に帰国した。
724年に蝦夷征討に参加し726年の長屋王の変では兵を率いて長屋王の屋敷を包囲する
役割を担う等、軍事面での活動も多く九州に赴任した際は防衛に関する行動方針を
表した「式」を作成した。他の兄弟と共に737年の天然痘の流行で死去。
藤原麻呂
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 695年 | 737年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 58 | 54 | 69 | 71 | 64 | 調達 | 論客 | 楽奏 | 運搬開発 | 王道 | |||||||
【フジワラノマロ】
奈良時代初期の公卿。
藤原不比等の四男で藤原京家の祖。
兄の武智麻呂らが「長屋王の変」で朝廷の実権を握った事により自身も昇進を重ね、
737年には持節大使として大野東人が建言した陸奥国の多賀柵から出羽国の出羽柵
への直通路の開削事業に参加した。同年に他の兄弟と共に737年の天然痘の流行で死去。
橘諸兄
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 684年 | 757年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 48 | 45 | 83 | 81 | 82 | 振興 | 人脈 | 詩想 | 先従隗始 | 王道 | |||||||
【タチバナノモロエ】
奈良時代の皇族・公卿。
敏達天皇五世の孫・葛城王であったが橘姓を与えられて臣下となる。
737年の天然痘の流行で藤原四兄弟らが死亡した事により政治を主導し、
疫病にて荒廃した国土の復興に務めて「墾田永年私財法」等が成立した。
晩年は藤原仲麻呂が台頭しさらに聖武上皇への呪詛の疑いにて失脚した。
大野東人
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 742年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 87 | 76 | 74 | 76 | 75 | 掃討 | 長駆 | 召募 | 築城 | 屯田 | 文事武備 | 王道 | |||||
【オオノノアズマビト】
奈良時代初期の公卿・武将。
幾度となく蝦夷征討に参加して功績を挙げており多賀柵(後の多賀城)を築き、
陸奥鎮守府将軍として蝦夷開拓に従事、737年には陸奥国の多賀柵と出羽国の出羽柵を
繋ぐ連絡通路を築き上げている。
740年の九州で起きた藤原広嗣の乱では持節大将軍として討伐に功績を挙げ、最後は中央にて参議にまで昇った。
吉備真備
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 695年 | 775年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 58 | 92 | 86 | 77 | 明鏡 | 学者 | 法律 | 築城 | 特使 | 明察秋毫 | 文事軍備 | 王道 | ||||
【キビノマキビ】
奈良時代の貴族・学者。
備中国の出身で716年に阿部仲麻呂や玄昉らと共に遣唐使として派遣され、数多くの学問を学び
735年に帰国しその際に多くの書や舶来品を持ち帰る。
朝廷においても重用されて阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)の学問の師も務め、752年に再び遣唐使として派遣された。
帰国後は権勢を伸ばした藤原仲麻呂と折り合いがつかず九州に派遣され、新羅の来寇に備えて築城等の防衛体制の強化に努めた。
藤原仲麻呂の乱の討伐に功績があり中央に復帰し、右大臣にまで登った。
「六韜三略」の兵法を唐で学んで持ち帰り諸葛亮の「八陳」や孫子の「九地」を教授する等、日本における兵学の祖とも言われる。
玄昉
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 746年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 25 | 17 | 78 | 82 | 63 | 文化 | 調達 | 嚮導 | 高慢 | 治療 | 太学 | 礼教 | |||||
【ゲンボウ】
奈良時代の僧。
716年に阿部仲麻呂や吉備真備と共に入唐して智周に法相を学び、
唐の皇帝・玄宗にも評価されて紫の袈裟の下賜を受けている。
735年に帰国して多くの仏像や書物を持ち帰って法相宗を日本に伝え、
聖武天皇の生母である藤原宮子の病気を祈祷により回復させた功績により
天皇の信任を受けて僧正に任じられた。
性格に問題があったと言われ藤原広嗣の乱の一要因となり、後に藤原仲麻呂
が台頭した際には失脚して紫観世音寺別当に左遷されて生涯を終えた。
恵美押勝(藤原仲麻呂)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 33 | 21 | 87 | 69 | 60 | ||||||||||||
| 68 | 52 | 87 | 85 | 65 | 能吏 | 法律 | 文化 | 人脈 | 消沈 | 才気煥発 | 先従隗始 | 王道 | ||||
【エミノオシカツ(フジワラノナカマロ)】
奈良時代の貴族。藤原氏藤原南家の出身。藤原不比等の孫。
橘諸兄のもとで出世し、独自の派閥を築いた後彼との政争に勝利して
権力を蓄えた。のちに大伴古麻呂や橘奈良麻呂ら反対勢力を失墜させ、
皇族以外で初めてとなる太師の座についた。政治においては養老律令を初め
徳治政策、唐風政策を推し進めたが、自らを後押しする光明皇太后の死後は
孝謙上皇と対立、最終的に乱を起こすが、敗れて処断された。
淡海三船
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 722年 | 785年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 56 | 58 | 82 | 80 | 76 | 文化 | 法律 | 詩想 | 振興 | 地域巡回 | 王道 | ||||||
【オウミノミフネ】
奈良時代の貴族。
元は弘文天皇の曾孫である皇族で御船王と名乗るが臣籍降下し
臣籍降下し淡海真人姓を名乗った。
地方官を歴任し恵美押勝の乱の際には鎮圧に功績があった。
文人としては石上宅嗣と並び「文人の首」と評される程に高名を博し、
漢詩に秀でて最古の漢詩集である「懐風藻」の選者とされ、
神武天皇から元正天皇までの漢風諡号を選定したという。
阿部内親王(孝謙天皇 称徳天皇)
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 3 | 2 | 50 | 73 | 55 | ||||||||||||
| 3 | 2 | 30 | 33 | 35 | 文化 | 高慢 | 悪名 | 強欲 | 消沈 | 侵略荒廃 | 我道 | |||||
【アベナイシンノウ】
奈良時代の皇族。聖武天皇の息女。のちの孝謙天皇、称徳天皇。
聖武天皇の譲位により即位し、その後は藤原仲麻呂、藤原豊成、道鏡、
吉備真備、藤原永手ら数多くの人材を推挙するも、対立が絶えなかった。
橘奈良麻呂、藤原仲麻呂の乱などの際は機敏な対処を行い、淳仁天皇を廃して重祚した。
政策は概ね父である聖武天皇を踏襲し、仏教重視の政策を取った。
770年に崩御し、彼女の死によって天武天皇系の皇族は断絶した。
※ その治世から、毀誉褒貶が耐えない。また言霊信仰に近いものを持っていたと言われ、特に冷遇した人物に卑しい言葉を与える事が多かった。
弓削道鏡
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 3 | 14 | 68 | 56 | 42 | 太学 | 礼教 | ||||||||||
【ユゲノドウキョウ】
法王。日本的な思想を否定する孝謙天皇に寵愛され頭角を表す。
彼女の意を汲み神託を悪用し、天皇の位を望むが和気清麿らに阻まれた。
天皇との姦通説や巨根説で有名で、巨根説では今なお大和男子の羨望を集める。
その生涯は秦の宦官「嫪毐」と結び付けられることが多い。
最近では天寿を全うしたことから反説として実務的な政治家といわれることもある。
※天皇の位を求める話については道鏡だけでなく、称徳天皇との共謀という話もある。理由としては、
- 習宜阿曾麻呂が最初に神託を持ち込んだが、これには弓削浄人(道鏡の実弟で、阿曾麻呂の上司)がからんでいた。しかも浄人が着てから、この話が始まった。
- 和気清麿が神託を嘘だと伝えた際に、孝謙天皇が彼を左遷させた。
- 自分の代で天武系が途切れることを恐れ、その間自分に近しい道鏡に天皇をやってもらおうと考えた。なお、さらにその後は他戸親王(天武系の血が入ってる)に継がせる予定だった。
- 道鏡が皇位簒奪の首謀者とすれば、僧尼令の規定に従って還俗させた上で大逆罪として処罰されるべきところ、下野薬師寺への左遷処分で済まされている(国家転覆案件にしては刑罰が見合っていない)。
阿倍仲麻呂
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 16 | 23 | 89 | 87 | 76 | ||||||||||||
| 16 | 23 | 86 | 83 | 76 | 能吏 | 詩想 | 特使 | 激励 | 太学 | 王道 | ||||||
【アベノナカマロ】
阿倍比羅夫の孫。
717年の第九次遣唐使にて吉備真備らとともに唐に渡り、長安に留学する。
その後科挙に受験、合格すると晁衡(チョウコウ)の名を与えられ玄宗に仕える。
唐王朝内では玄宗の側近まで上り詰め、また杜甫、李白、王維といった高名な詩人とも交流を深めている。
玄宗も重宝していたためかなかなか帰国許可は下りず、752年の第12次遣唐使にてようやく帰国を認められた。
しかし船が難破して帰国は叶わず、長安へ戻り唐の官吏として生涯を閉じた。
破斯清道
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 8 | 19 | 42 | 48 | 48 | ||||||||||||
【ハシノキヨミチ】
奈良時代の官吏で、式部省大学寮に勤務した員外大属。
1966年に発掘された木簡で、「○○清道」が天平神護元年(765年)の某月24日に宿直していた人物として明らかになった。
さらに2016年、赤外線による調査で、氏が「破斯」であることが判明。ペルシアを意味する「波斯」と同音であることから、
ペルシア(滅亡したサーサーン朝イラン?)出身者が日本に仕えていたと話題になった。
一方で、ペルシアは無関係で、土師浄道の別名とする説もある。いずれにしても、員外大属の位階は従八位上なので、下級役人であったようだ。
※『続日本紀』によると、天平8年(736年)、波斯人の李密翳が位を授けられたとあるので、ペルシアからの来日があったのは確実。