注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
スキタイ
B.C.8世紀からB.C.3世紀まで、黒海北岸の草原地帯に強大な遊牧国家を建設したイラン系遊牧民族。
騎射に優れ、武器や車馬具を発達させ、動物意匠を愛好した。かまどの女神であるタビティ(ギリシャ神話のヘスティアに相当)を最も敬っていた。
その文化は現在のウクライナからユーラシア内陸地帯、中央アジアに広がり、それらをスキタイ文化と総称することがある。
中央アジアの大月氏も、古代ギリシャ・ローマからはスキタイ人の一派と見られていたようである。
以降の消息ははっきりしないが、サルマタイや東ゴート人の台頭で滅亡、あるいは同化していったとみられている。
アナカルシス
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 53 | 37 | 83 | 63 | 76 | ||||||||||||
紀元前6世紀頃の哲学者。スキタイ人。グニュロスの子でサウクオス王の兄弟。現代中国語では「阿那卡尔西(阿那卡爾西)」。
B.C.589年頃、ギリシャに遊学した。アテナイのソロンを訪問し、「私はあなたを友にするため遠くより来ました」と挨拶した。
ソロン「友は家で作ればよい」、アナカルシス「それなら家に居るあなたが、私と友になる必要があります」。
ソロンは笑って、アナカルシスの友になったという。アナカルシスはギリシャ語が流暢で、外国人では初めてアテナイ市民権を認められた。
スキタイ人はギリシャでは野蛮人とされていたが、アナカルシスは率直で機知に富んだツッコミで評判となった。
たとえば酒を「最初の一杯目は健康のため、二杯目は喜びのため、三杯目は放縦のため、四杯目は狂気のため」と評し、
アテナイの人びとはアナカルシスの彫像を節制のための戒めとしたという。こうした逸話から、古代ギリシャの七賢に数えられることがある。
しかし、ギリシャ神話のキュベレー信仰をスキタイに持ち込もうとしたため、サウクオスに誅殺された。
著書にスキタイとギリシャの法律の比較論や、戦術論があったとされるが、現存しない。
親愛武将:ソロン
アタイアス
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| BC428? | BC339 | 不自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 84 | 40 | 42 | 70 | ||||||||||||
紀元前4世紀のスキタイ王。アテアスとも。
B.C.350年頃、イストロス川(現:ドナウ川)河口からアゾフ海周辺に進出した。
イストロス河畔のイストリアと争い、マケドニアのフィリッポス2世と同盟した。
ところが、イストリア王が急死すると、アタイアスはマケドニアの援軍を帰国させ、同盟を無かった事にしようとした。
フィリッポス2世はビュザンティオンを包囲しており、代償として軍費の負担を要求した。しかしアタイアスは相手にせず、
フィリッポス2世は神像建造を名目にスキタイに侵攻した。緒戦はスキタイ軍が優勢だったが、フィリッポス2世の計略でアタイアスは戦死した。
90歳を超えていたという。2万人がマケドニアの捕虜となり、2万の軍馬と多くの家畜を奪われたという。
サルマタイ
「サルマート」とも。B.C.4世紀からA.D.4世紀に掛けて、ウラル南部から黒海北岸にかけて活動したイラン系遊牧民集団。
以前よりウラル南部には「サウロマタイ」と呼ばれる集団がおり、これと同化したとされている。
ギリシャのストラボンによると、「イアジゲス」「ロクソラニ」「アオルシ(アオルソイ。『後漢書』では「奄蔡」)」「シラキ(シラケス)」の4部族に大別された。
言語や文化はスキタイに似て騎馬に優れたが、スキタイより重武装で鐙・甲冑・槍・馬上用の長剣・鉄製鎖帷子などの武具を使用した。
B.C.3世紀に強盛となり、スキタイをアゾフ海(黒海北東側の内海)沿岸から追い払った。
B.C.1世紀にローマ共和国・帝国と国境を接すると、ローマやパルティアに傭兵を提供したり、ローマと周辺国の抗争に巻き込まれるようになった。
1世紀には「アオルシ」に代わって「アラン(『魏略』では「阿蘭」、『後漢書』では「阿蘭聊」)」部族が強大化した。
4世紀にフン族が侵攻してくると、フン族やゴート族に押し出される形で北イタリアに侵入し、一部はローマ帝国の傭兵としてブリテン島まで派遣された。
この史実から、アーサー王伝説の原型は、ブリテン島に派遣されたサルマタイの傭兵という説がある。
以降はウラル南部とヨーロッパに分散して、他民族に同化していったが、コーカサス地方に留まったアラン部族は6世紀に自立してアラニアを建国。
一時、ハザール王国の傘下となり、ユダヤ教が広まったが、9世紀に東ローマ帝国と同盟するとキリスト教国となった。1239年、モンゴル帝国に滅ぼされた。
キゾ
| 生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
| 自然死 |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 85 | 81 | 76 | 49 | 63 | 掃討 | 封殺 | 山戦 | 強奪 | 粗暴 | 突騎 | 急襲 | 攪乱 | 混乱 | 覇道 | ||
2世紀前半のアラン人の首長。
135年、イベリア王・ファラスマン2世の共同軍としてレズギ王国に侵攻。さらにアルメニアやローマ帝国のカッパドキア属州、
アルサケス朝パルティアに侵入して掠奪を行った。パルティア軍を計略で谷に閉じ込め、アディアベネの総督ラフバフトを討ち取った。
パルティア王・ヴォロガセス3世から賠償金を得て、またアラン人の本国が攻撃されたこともあり、撤退したという。
ハンガリー
フニャディ・ヤーノシュ
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 93 | 86 | 84 | 81 | 89 | 地利 | 封殺 | 召募 | 名声 | 輿望 | 八門金鎖 | 連弩 | 文事武備 2 | 割拠 | |||
ハンガリーの軍人、政治家。「匈雅提·亚诺什」。ルーマニアの出身。
貴族の出身であり、若い頃から前線で戦い信望を集め、侯の地位を与えられる。
やがてオスマン帝国に対する防衛を任され、帝国軍の侵攻に対しては連戦連勝を重ねた。
その後はオスマン帝国への遠征を行ったが不振に終わる。またヴァルナの戦いで主君のウラースロー1世を死なせてしまい敗北する。
王の死後は摂政に就任し、ベオグラードの戦いでオスマン軍に勝利した後病没。
ハンガリー国内では対オスマン帝国の英雄とされている。
キニジ・パール
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 82 | 97 | 54 | 57 | 81 | 掃討 | 豪傑 | 猛者 | 強運 | 怪力無比 | 鋒矢強化 5 | 割拠 | |||||
| 92 | 99 | 54 | 57 | 81 | 飛将 | 掃討 | 豪傑 | 猛者 | 胆力 | 怪力無比 | 突撃 | 急襲 | 大喝 | 鯨波 | 鋒矢強化 5 | 割拠 |
ハンガリーの武将。「金吉珍珠」。
マーチャーシュ1世が水車小屋で休んでいるとき、大きな岩を盆代わりにして水を差し出し、これが縁となって彼に仕えたという伝説がある。
二つの大剣を自在に扱う豪傑として知られ、1479年に他民族を加えた混成軍を率いてステファン・バートリの下でオスマン・ワラキア連合軍と戦う。
兵数では不利であったが、巧みな用兵でこれを撃破する。またその後の度重なる遠征軍も全て破った。
ウラースロー2世の代にはマーチャーシュ王の死後に野盗化した直属軍「黒き軍」を討伐した。
晩年は地方官吏として働き、1494年死没。
ハンガリーの歴史の中では最も有名な軍事指導者の一人である。
ルーマニア
ヴラド3世
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 89 | 89 | 73 | 77 | 39 | 威風 | 堅守 | 地利 | 法律 | 悪名 | 龍驤勇戦 | 上兵伐謀 2 | 割拠 | ||||
ワラキア公国の君主。「ヴラド・ツェペシュ」「弗拉德三世」とも。
ヴラド2世の次男として生まれ、父と兄の死後、オスマン帝国の後援を得てワラキア公となった。
その後、ワラキア公国を狙う内外の敵を打倒・粛清し中央集権化を進め、ついにはオスマン帝国からも独立。
激怒したオスマン皇帝メフメト2世の侵攻をゲリラ戦と焦土戦術で度々撃退し、勇名を轟かせた。
しかしオスマンの後援を得た弟ラドゥ美男侯に追い落とされ、ハンガリーの地に十二年間幽閉される。
幽閉から開放された後、ワラキア公位を奪還するが、僅かな手勢でオスマン帝国と戦い討死。暗殺されたとも。
※ 串刺し刑を貴賤を問わず用いて恐れられた。
ある戦いでは大量のオスマン帝国兵の串刺しの林を見たメフメト2世が戦慄し「わたしはどんな人間も恐ろしくないが悪魔は別だ」と述べたとも。
後世吸血鬼ドラキュラのモデルとなった。
アルバニア
スカンデルベグ
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1405年 | 1468年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 97 | 86 | 88 | 67 | 82 | 神威 | 洞察 | 疾走 | 山戦 | 地利 | 変幻要撃 | 割拠 | |||||
中世アルバニア最大の英雄。本名ジェルジ・カストリオティ。
アルバニア貴族の子でオスマン帝国への人質となり帝国の軍人として活躍、アレクサンドロス大王に因んだ
スカンデルベクの名を授けられたがアルバニアに帰国後の1443年にオスマン帝国に反旗を翻した。
幾度となくオスマン軍を撃破し、オスマン帝国はスカンデルベグの存命中はアルバニアを征服する事が出来なかった。
ポーランド
カジミェシュ3世
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 96 | 91 | 98 | 100 | 99 | 名声 | 文化 | 農政 | 慰撫 | 仁政 | 千方百計 | 精練策数 | 突撃 | 激励 | 混乱 | 治療 | 経世済民 | 王道 |
カジミェシュ3世は、ポーランド王。
カジミェシュ3世は軍事・外交・内政のいずれにおいても大きな成功を収めたため、「カジミェシュ大王」とも称され、
また弱小農民を手厚く保護するなどの善政を敷いた経緯から「カジミェシュ農民王」と称されることもある。
カジミェシュ3世の時代、ポーランド国王の王権は安定し、国家は整備されて大国に成長したのである。
史書においては、カジミェシュ3世のことを、「木造のポーランドに現れて、煉瓦のポーランドを残して去った」と賞賛している。
アウグスト2世
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 61 | 100 | 67 | 42 | 55 | 闘将 | 豪傑 | 猛者 | 文化 | 頑健 | 豪気衝天 | 奮戦 | 突撃 | 急襲 | 激励 | 大喝 | 三軍強化 | 割拠 |
アウグスト2世は、ポーランド・リトアニア共和国の国王、およびザクセン選帝侯。
驚異的な怪力の持ち主であったことから「強健王」「ザクセンのヘラクレス」「鉄腕王」などの異称で呼ばれ、またその異称の所以を証明するために素手で蹄鉄をへし折るのを好んだ。
ザクセン選帝侯としてのアウグスト2世は、芸術と建築のパトロンとして記憶されている。
実際にザクセン選帝侯国の首都ドレスデンを主要な文化的中心地に変え、ヨーロッパ中から芸術家や音楽家を宮廷に招聘した。
ウクライナ
ペトロー・コナシェーヴィチ・サハイダーチヌイ
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1570年 | 1622年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 91 | 85 | 73 | 71 | 78 | 堅守 | 操舵 | 慎重 | 調練 | 文化 | 万馬奔騰 | 三軍強化 | 割拠 | ||||
ウクライナ・コサックの棟梁。
ポーランド配下のウクライナ貴族の出身でコサックの棟梁となり、コサック軍を率いて
度々オスマン帝国やオスマン帝国系の属国に侵攻して破壊と略奪を繰り返して武勇を轟かせた。
1618年にはポーランドと共にロシアに侵攻し諸都市を陥落させ、モスクワを一時包囲する活躍を見せた。
文化面でもウクライナ正教会の保護を行う等の活動を見せたが、オスマン帝国との戦いで戦傷死した。
ボフダン・フメリニツキー
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1595年 | 1657年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 84 | 76 | 87 | 76 | 81 | 疾走 | 扇動 | 論客 | 動員 | 召募 | 叛転必殺 | 縦横術 | 割拠 | ||||
ウクライナ・コサックの棟梁。
当時ポーランドの支配下にあったウクライナのコサック領主の出自で諸国の言語に通じた。
ポーランド貴族との諍いを契機としてウクライナ・コサックを糾合しポーランドへの反乱を起こし、
ポーランド軍を撃破してウクライナの自治を得る事に成功した(フメリニツキーの乱)。
しかし周辺諸国の圧迫もあり勢力は不安定で1654年にロシアとペレヤースラウ条約を結びロシアの
保護下に入る事にあり以降はロシアのウクライナ統合の口実となった。
イヴァン・マゼーパ
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1639年 | 1709年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 80 | 68 | 84 | 83 | 76 | 論客 | 富豪 | 文化 | 築城 | 消沈 | 功狗逆撃 | 文事軍備 | 割拠 | ||||
ウクライナ・コサックの棟梁。
ウクライナ貴族の出身で当初はポーランド王国に仕えてポーランド王ヤン2世の小姓を務め、
王の寵愛を受けて西欧に留学し諸国の言語に通じて外交官も務めた。
その後はウクライナに戻りコサックの指揮官となりロシアに協力し、ロシア皇帝ピョートル1世の
信頼を得て数多くの荘園を与えられヨーロッパ有数の土地所有者となった。
以降はマゼーパ様式と云われる教会を建設し、学校や出版に資金援助する等文化興隆に力を入れたが、
ピョートル1世と次第に対立、スウェーデン王カール12世と手を組み反乱を起こしたが、ポルタヴァの戦いに
敗れ失意のまま病死した。