注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
薩摩藩
島津斉彬
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 60 | 59 | 74 | 98 | 65 | 発明 | 振興 | 眼力 | 親蛮 | 召募 | 先従隗始 | 覇道 | |||||
【シマヅナリアキラ】
江戸時代の大名。薩摩藩11代藩主、島津家28代当主。幕末四賢侯の1人
早くに世子とされたが、藩内の対立や父親・斉興の危惧により、40代まで藩主になれず高崎崩れの一因となる。
老中阿部正弘の覚えめでたく、彼や将軍徳川家慶らの後援を受け、薩摩藩藩主となる。
藩主就任後は洋学研究や富国強兵をつとめ、反射炉や溶鉱炉、ガラスやガス灯などを製造。
またジョン万次郎を保護して造船術を学び、軍艦「昇平丸」や蒸気船「雲行丸」などを建造している。
また西郷隆盛や大久保利通など多くの維新志士を推挙し重用、国策関与では公武合体を推し進めた。
しかし将軍継嗣問題で井伊直弼と対立し、その政争に敗北。抗議のために兵を率いて上洛しようとするが、直前に急死した。
そのあまりにも早い死亡から、対立していた斉興の一派が毒を盛ったのではないかとも囁かれている。
西郷隆盛
※PKにて特典として追加→西郷隆盛?
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 90 | 62 | 69 | 79 | 94 | 任才 | 求心 | 英名 | 威風 | 泰然 | |||||||
【サイゴウタカモリ】
幕末、薩摩藩士。西郷隆永とも。父は西郷九郎。
島津斉彬に用いられ、若年の頃から供として江戸へ登り他藩の博識者と国事を議論したという。
一時期藩政から遠ざけられ辛酸を舐めた時もあったが、やがて藩政を主導し、犬猿の仲となっていた
長州藩との同盟に成功する。明治維新では中心的役割を担い、戊辰戦争の新政府軍司令官として
奔走する一方、王政復古の大号令や江戸城無血開城にも関わった。明治新政府でも重用されるが
明治六年の政変で下野。のち西南戦争を起こした。しかし衆寡敵せず敗れ、自刃した。「維新三傑」の1人。
大久保利通
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 48 | 30 | 92 | 98 | 72 | 王佐 | 振興 | 徴税 | 能吏 | 柱石 | 経世済民 | 王道 | |||||
| 38 | 10 | 92 | 98 | 72 | 虚実 | 策士 | 法律 | 振興 | 論客 | |||||||
| 38 | 10 | 92 | 98 | 72 | 虚実 | 王佐 | 柱石 | 振興 | 論客 | |||||||
【オオクボトシミチ】
幕末、薩摩藩士。父は大久保利世。母方の姓は「皆吉」。
若年の際に藩校で大いに学び、西郷隆盛らと学友であった。
下級藩士の出であったが、その才覚を発揮して出世。
斉彬、久光の両島津有力者にも重用され、京へも同道。公武合体、ひいては倒幕運動に関わる。
明治新政府では大蔵卿、内務卿などを歴任し、明治新政府の新体制構築に多大な功績を残し、
一方で緻密な政治戦略を実行させ、巨大な権力を握っていたことから時には政変などを生んだ。
1878年、紀尾井坂で政治体制に不満を持つ石川県士族に暗殺された。「維新三傑」の1人。
小松清廉
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 64 | 25 | 93 | 90 | 93 | 神眼 | 論客 | 特使 | 嚮導 | 虚弱 | |||||||
| 56 | 25 | 98 | 90 | 81 | 神眼 | 論客 | 特使 | 嚮導 | 虚弱 | |||||||
【コマツキヨカド】
幕末、明治時代の人物。薩摩藩士。肝付氏子孫。「小松帯刀」の名で有名。
肝付氏の四男として生まれ、はじめ肝付兼戈と名乗った。
幼少時から病弱であったが文武につとめ、特に学問にたいして精力的に励んだ。
その後、島津斉彬、島津久光兄弟に取り立てられ、側近として藩政改革や技術革新に取り組む。
1862年には薩摩藩家老となり、大久保利通や西郷隆盛を従えて日本近代化を推進。
坂本龍馬や桂小五郎らと交渉、また独自にイギリスと交渉して藩の軍備増強にもつとめた。
新政府では率先して版籍奉還を推進したが、1870年36歳で早逝。
伊地知正治
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 89 | 76 | 93 | 74 | 50 | ||||||||||||
| 89 | 76 | 93 | 74 | 50 | 疾走 | 胆力 | 策士 | 泰然 | 崩壁 | 兵貴神速 | 投石 | 撹乱 | 混乱 | 牽制 | 上兵伐謀2 | 覇道 |
【イジチマサハル】
幕末の武士、薩摩藩士。号は一柳。
3歳で文字を読み神童の誉れ高かったが、病により片目と片足の自由を失った。
薩摩で剣術の奥義を極めた。1859年に精忠組に参加し、その後島津久光の上洛に従い軍奉行に任じられる。
卓越した軍略家として知られ、特に戊辰戦争では自軍の3倍の旧幕府軍兵の籠もる白河城を落とし、母成峠で板垣退助と共に敵を大破し会津若松城を開城に追い込んだ。
戦後は薩摩藩閥の有力者として新政府に入るも征韓論を唱えた西郷隆盛に同調する。しかしそのまま新政府に残り、西南戦争における西郷の敗北を予想している。
要職を歴任し、1886年に病没。
田中雄平
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 33 | 87 | 25 | 12 | 46 | 豪傑 | 猛者 | 癇癪 | 急襲 | 鋒矢強化 | 我道 | |||||||
【タナカユウヘイ】
幕末の薩摩藩士。
通称の田中新兵衛の名で知られ幕末四大人斬りの一人に数えられる。
安政の大獄で粛清に従事した島田左近を暗殺したのを皮切りに土佐藩の武市瑞山の元で岡田以蔵らと共に京都にて暗殺を繰り返した。
しかし姉小路公知の暗殺事件にて関与を疑われて捕縛され、尋問の際に自害した。
親愛武将
武市瑞山 岡田以蔵
有村俊斎
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 56 | 79 | 62 | 55 | 52 | 護衛 | 猛者 | 粗忽 | 癇癪 | 奮戦 | 罵声 | 方円強化 | 覇道 | |||||
【アリムラシュンサイ】
幕末の薩摩藩士~明治時代の政治家。
婿養子となった後の海江田信義の名でも知られる。
西郷隆盛や大久保利通らと共に精忠組を結成し、勤王運動に勤しむ。生麦事件にも関与して英国人チャールス・リチャードソンにとどめを刺している。
戊辰戦争では東海道先鋒総督参謀を務めたが大村益次郎とは常に対立し後に益次郎が暗殺された際は関与も噂されており、明治維新後は奈良県知事や貴族院議員を務めるも大臣になれず終わる要因になったという。
親愛武将 西郷隆盛 大久保利通 島津久光
嫌悪武将 大村益次郎
税所篤
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 59 | 55 | 78 | 86 | 75 | 能吏 | 振興 | 改修 | 調達 | 文化 | 業火 | 撹乱 | 経世済民 | 王道 | ||||
【サイショアツシ】
幕末の薩摩藩士~明治時代の政治家。
西郷隆盛や大久保利通とは幼少時からの付き合いで精忠組に属して島津久光に大久保利通を紹介し奄美に流された西郷の赦免に尽力し、維新成立に活躍した。
明治維新後は奈良県や堺県の知事を始め、各地の県知事を務めて地域振興を行なった。
西郷隆盛、大久保利通と並び薩南の三傑の1人に数えられる。
親愛武将
西郷隆盛 大久保利通 五代友厚 松方正義 吉井友実
川路利良
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1834年 | 1879年(自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 85 | 81 | 83 | 64 | 52 | 猛者 | 規律 | 法律 | 調練 | 察知 | 規略明練 | 鎮静 | 地域巡回 | 王道 | |||
【カワジトシヨシ】
幕末の薩摩藩士、明治時代初期の警察官僚・軍人。
薩摩藩の中では身分の低い準士分であったが西郷隆盛や大久保利通から才覚を評価され、
禁門の変では長州藩の来島又兵衛を狙撃して討ち取る功績を挙げ、戊辰戦争においては
大隊長として上野戦争や会津戦争にて活躍した。
明治維新後はヨーロッパに渡り欧州の警察を視察、帰国後は初代警視総監としてフランスの警察制度を
元に日本の警察制度を整備して「日本警察の父」とも呼ばれた。
西南戦争では臨時の陸軍少将として警察から選抜された抜刀隊を率いて活躍した。
明治十二年に再びヨーロッパに渡るも途中で病を得て帰国し程なくして病死した。
※日本警察を整備した功績が莫大な偉人であるが、下野した恩人の西郷隆盛の暗殺を図った事等で大久保利通と共に出身の鹿児島では人気が低い人物でもある。
桐野利秋
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1839年 | 1877年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 82 | 91 | 74 | 53 | 78 | 一騎 | 猛者 | 屯田 | 調達 | 察知 | 魚鱗強化 | 王道 | |||||
【キリノトシアキ】
幕末の薩摩藩士、明治時代初期の軍人。
薩摩藩の城下士の出自で当初は中村半次郎を名乗った。
剣の達人として知られ、幕末には薩摩藩への軍学教授を行っていた赤松小三郎を幕府内通の疑いで暗殺し、長州藩等に出入りし情報収集を行う密偵の活動を行っている。
戊辰戦争では隊長格に抜擢されて活躍し、維新後は陸軍少将となるが西郷隆盛に同調して下野、西南戦争にて西郷と共に挙兵に加わり戦い、城山にて戦死した。
※「人斬り半次郎」の異名で知られるが、この異名は池波正太郎の小説からで人斬り的な暗殺活動も赤松小三郎を討った程度である。
辺見昌邦
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1849年 | 1877年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 72 | 87 | 36 | 41 | 56 | 果敢 | 督励 | 山戦 | 召募 | 猪突 | 奮戦 | 突撃 | 大喝 | 投石 | 激励 | 鋒矢強化 | 王道 |
【ヘンミマサクニ】
幕末の薩摩藩士、明治時代初期の軍人。通称は十郎太。
戊辰戦争で新政府軍の一員として活躍し明治維新により近衛陸軍大尉となるが、
西郷隆盛の下野に同行し私学校の経営や宮之城郷の区長を務めた。
西南戦争では雷撃隊を率いて各地を転戦して活躍、薩摩軍の中でも自ら陣頭に立ち勇猛果敢な戦振りを見せ、
退く味方は切り捨てるとまで大喝し、その姿を張飛?の再来とまで呼ぶ者もいた。
最後の城山の戦いにて戦死した。
親愛武将 西郷隆武
篠原国幹
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1837年 | 1877年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 84 | 80 | 61 | 47 | 72 | 掃討 | 威風 | 調練 | 短慮 | 直情 | 奮戦 | 大喝 | 三軍強化 | 王道 | |||
【シノハラクニモト】
江戸時代末期の薩摩藩士・明治時代初期の軍人。
戊辰戦争に従軍し寛永寺に篭る彰義隊攻撃の際には正面の黒門口への勇猛な攻撃で知られた。
明治維新により陸軍少将及び近衛長官となり、卓越した軍事演習は明治天皇にも賞賛された。
西郷隆盛の下野に従い、西南戦争では一番大隊隊長として奮戦したが田原坂において狙撃を受け戦死した。
永山盛弘
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1838年 | 1877年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 72 | 70 | 77 | 64 | 70 | 屯田 | 督励 | 慎重 | 泰然 | 調練 | 鎮静 | 業火 | 兵站改革 | 王道 | |||
【ナガヤマモリヒロ】
江戸時代末期の薩摩藩士・明治時代初期の軍人。
戊辰戦争においては白河城攻略や会津戦争で活躍した。
明治維新後は陸軍少佐となり開拓使黒田清隆の元で北海道にて屯田兵の創設に携わっていた。
しかし、樺太・千島交換条約の締結に不満を持ち下野して鹿児島に戻った。
西南戦争においては明治政府側に理解を示しており、決起に反対の立場であったが桐野利秋の
説得により参加を決断し、三番大隊隊長となる。
八代に上陸した政府軍を迎え撃つが壊滅により最後は自害した。
後年、永山が戊辰戦争において西郷の代理人として戦後処理にあたったという逸話から、永山の写真が西郷隆盛のそれと誤認されたことがある。
別府景長
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1847年 | 1877年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 68 | 76 | 59 | 56 | 65 | 召募 | 胆力 | 寡欲 | 突撃 | 長蛇強化 | 王道 | ||||||
【ベップカゲナガ】
江戸時代末期の薩摩藩士・明治時代初期の軍人。通称は晋介。
桐野利秋は従兄弟にあたり、戊辰戦争にて薩摩軍に加わり勇戦した。
明治維新後は近衛陸軍大尉となり征韓論に関連して満州・朝鮮方面の視察を行っている。
西郷隆盛の下野に従い私学校の創設に参加、西南戦争にて部隊長の一人として各地を転戦し、
城山において自害する西郷の介錯をした後、自らも自害した。
村田新八
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1836年 | 1877年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 74 | 64 | 84 | 76 | 74 | 沈着 | 楽奏 | 調達 | 補佐 | 縦横術 | 王道 | ||||||
【ムラタシンハチ】
江戸時代末期の薩摩藩士・明治時代初期の官僚。
幕末期は西郷隆盛と行動を共にしたが、寺田屋騒動にて西郷に連座し喜界島に流された。
西郷の復帰により自身も赦免され、薩長の連携に尽力し戊辰戦争においても隊長格として活躍した。
明治維新後は宮内大丞となり欧米の視察団にも加わったが、西郷の下野により官職を辞して鹿児島に戻り、
私学校の設立と運営に携わった。
西南戦争においては二番大隊を率いて戦い、転戦の末に城山にて自害した。
淵辺高照
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 68 | 82 | 55 | 39 | 56 | 護衛 | 召募 | 怒髪 | 直情 | 奮戦 | 鉄壁 | 斉射 | 大喝 | 鋒矢強化 | 覇道 | |||
【フチノベタカテル】
幕末の薩摩藩士~明治時代の陸軍軍人。通称は群平。
示現流の使い手で軍略に通じ戊辰戦争では長岡城攻略においては刀が鋸状になるまで戦い抜いた。
明治維新後は陸軍軍人となり中佐まで昇るが西郷隆盛の下野に従い帰郷、私学校設立に尽力した。
西南戦争勃発により西郷の護衛部隊の隊長となり、最後は人吉において戦死した。
親愛武将 西郷隆盛 桐野利秋 辺見昌邦 別府景長
野村忍介
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
| 85 | 78 | 79 | 55 | 63 | 山戦 | 地利 | 智嚢 | 急襲 | 撹乱 | 投石 | 鼓舞 | 足止 | 地域巡回 | 王道 | |||
【ノムラオシスケ】
幕末の薩摩藩士~明治時代の陸軍軍人、警察官。
戊辰戦争で活躍し明治維新により陸軍に入り近衛軍大尉となり、次いで鹿児島県警として警察署長となる。
西南戦争の際は自らが部隊を率いて海路を経て若狭から京都に向かい、天皇の勅許を得る策を提示したが受け入れられなかった。
その後は奇兵隊を編成してその指揮官として豊後方面への進出や山岳地帯でのゲリラ活動を行い善戦したが最後は城山にて降伏した。
服役の後は新聞社や学校の設立に尽力している。
西郷従道
明治時代(薩州閥)を参照。
西郷隆廣
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1833年 | 1868年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 46 | 52 | 64 | 60 | 67 | 農政 | 地域振興 | 王道 | |||||||||
【サイゴウタカヒロ】
幕末の薩摩藩士。
通称は吉二郎。西郷隆盛の次弟にあたる。
薩摩藩の御勘定所書役となり、また郷中教育での指導に当たる二才頭として弟の小兵衛や東郷仲五郎(後の東郷平八郎)に習字を教えた。
幕末の激動にて兄の隆盛が不在になる事が多い中で西郷家の家政を担い、兄の隆盛にも信頼されていた。
戊辰戦争に従軍したが、長岡城攻防戦で戦死した。
西郷隆武
| 生年 | 登場 | 没年 |
| 1847年 | 1877年(不自然死) |
| 統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | ||||||||
| 62 | 69 | 68 | 55 | 64 | 沈着 | 投石 | 太学 | 王道 | ||||||||
【サイゴウタカタケ】
幕末の薩摩藩士、明治時代初期の軍人。
通称は小兵衛。西郷隆盛の末弟にあたる。
幕末に御代官所書役助となるが、兄の流罪に連座して謹慎となる。
戊辰戦争に従軍して鳥羽・伏見の戦いや東北戦争に参加し、戦後は官職に就かず東京で学問を学んだ。
兄の下野に同行して鹿児島に戻り西南戦争に参加し薩軍第一大隊第一小隊長となるが、肥後国高瀬での戦闘にて戦死した。
親愛武将 辺見昌邦