注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
西晋の旧孫呉・旧蜀漢系人物
亡国の遺臣が西晋で苦労したのは、いずれも共通している。
孫呉の遺臣は、多くは江南にそのまま留まったが、孫晧?と共に洛陽に連行されたり、先に西晋に亡命していた孫秀?らを頼りに上洛して仕官する者もいた。
しかし、さまざまな場面で差別され、見下されるのが常だった。
斉万年討伐で、司馬肜に死に追いやられた周処や、八王の乱で孟玖・盧志らの讒言で三族皆殺しにされた陸機・陸雲兄弟の扱いが、それを物語っている。
東晋の時代になると、江南に割拠したことから旧呉系の人物が多く重職に就いたが、やはり上に立つのは北来の名士であり、両者の確執は続いた。
蜀漢の遺臣は、劉禅?と共に洛陽に連行された者の他、羅憲?の推薦などで西晋に仕官した。陳寿?も羅憲の推薦で仕官した一人である。
やはり高官に上ることは難しく、孫呉の遺臣に比べると目立った活躍をした人物も少ないが、陳寿が正史『三國志』の編者として、後世に名を残した。
また、孫呉の遺臣と比較すると、西晋の人士との目立った衝突も見られない。
東晋の時代は、成漢の支配下に入った時期があったため、旧呉系の人物ほど名が知られた人物は出ていないが、『華陽国志』などに記録が残っている。
西晋前期の武将はみんなの新武将/西晋・東晋を参照
西晋後期(賈南風の死後)の武将はみんなの新武将/西晋・東晋/西晋後半を参照
旧孫呉・旧蜀漢系の独立勢力・賊徒はみんなの新武将/西晋・東晋/独立勢力・賊徒(漢族)を参照
東晋の旧孫呉・旧蜀漢系人物はみんなの新武将/西晋・東晋/東晋を参照
旧孫呉系の人物
孫充
【ソンジュウ】
孫晧?の子で孫瑾の弟。
310年、呉興郡の銭璯が反乱を起こし、孫充を呉王に擁立した。しかし、すぐに銭璯に殺された。
周処(子隠)
【シュウショ(シイン)】
呉、西晋の武将、政治家。周魴の子。
父の晩年の子であったため幼くして父親を失う。若い頃は放蕩に耽り仕官もしなかった。郷里では猛虎と蛟龍に並んで「三悪」の一つに数えられた。
それを聞くと猛虎と蛟龍を格闘の末に殺すが、郷里は周処も死んだと思って歓呼しており、悔やんで改心した。
陸機らに会って勉学に打ち込み、孫休時代の末期に仕官し最後は無難督まで出世した。
建業に入城した王渾が宴会で呉臣を嘲った時には、堂々と答えて王渾を恥じ入らせた。
晋代には御史中丞を務め、梁王・司馬肜の違法を厳しく追求した。
しかし司馬肜に恨まれ氐族討伐の際に孤立無援となり、五千の兵で一万の兵を倒し勇戦するが戦死した。
嫌悪武将:司馬肜
周玘(宣佩)
【シュウキ(センハイ)】
西晋の武将・政治家。呉興郡陽羡県の人。周処の長男で周魴の孫。
意志が強く果断で、父の風格があった。しかし文才については及ばなかった。
始め仕官に応じなかったが、刺史の招聘を受け、別駕従事に任官した。
303年、張昌・丘沈・石冰らが反乱を起こし、西晋は鎮圧できなかった。
石冰が揚州に侵攻すると、周玘は王矩と結託して顧秘を盟主とした義勇軍を起こし、陳敏と協力して石冰を討った。
戦後、周玘は軍を解散し、西晋からの恩賞は受け取らなかった。陳敏が反乱を起こすと、またこれを討った。
司馬睿が建業入りすると、倉曹属に任じられた。銭璯が反乱を起こすと、再び義勇軍を動員して鎮圧した。
戦功で行建威将軍・呉興郡太守に昇進した。戦乱で人民は飢えに苦しみ、賊が蔓延っていたが、
周玘は威光と恩恵をもって統治し、人民に敬愛された。
周玘の一族は強盛で、人望も厚かったので、司馬睿に警戒されるようになった。司馬睿は北来の名士を重用し、周玘は干された。
周玘は刁協ら北来の名士を排除して、呉人だけで司馬睿を推戴するクーデターを計画したが、建業に呼び出され、計画が漏れたことを悟った。
周玘は病に倒れ、子の周勰に「我を殺したのは傖子達だ。この仇を討てるのはわが子だけだ」と言い残して憤死した。
嫌悪武将:司馬肜、刁協、王導、王敦
※「傖子」は下品で卑しい連中という意味。呉人の北方人に対する蔑称。北方人の呉人への蔑称は「狢」。
陸機(士衡)
【リクキ(シコウ)】
西晋の政治家。文学者・書家として著名。陸遜の孫、陸抗の子。
呉に仕えていたが、滅亡後は弟の陸雲とともに故郷で隠遁し、「弁亡論」を著すなど文学に打ち込む。
晋からの10年に及ぶ仕官の説得に応じ洛陽へ上り、陸雲と並んで「二陸」を得たと称される。
その後は八王の乱に巻き込まれ、司馬倫、司馬冏、司馬穎らに仕える。
司馬穎には特に評価され、軍権を委ねられるも司馬乂に大敗。
陸機の声望を妬んだ司馬穎の側近に讒言され、一族もろとも処刑された。
文学面では「文賦」を著し、潘岳とともに「潘陸」と並び称された。
※潘岳と差別化したい場合は、特技「名声」あたりか。
※元の数字より統率と武力を25ずつ上げました。父の死後に兄弟と共に軍を統率していたことや、勝った司馬乂は名将に値する人物であったこと、旧敵である呉の旧将であったことによる立場の弱さを考慮すると、元の数字は流石に酷評過ぎるのではないか?と思います。代わりに、赤個性の「優柔」は付けても良いかと思います。
陸雲(士龍)
【リクウン(シリュウ)】
西晋の政治家、文学者。陸抗の子。陸機の弟。
6歳で文才を示し、清廉な性格だった。
兄の陸機と名声を等しくし、「二陸」と呼ばれる。
16歳の時に呉に仕え、滅亡後は陸機と隠棲してから洛陽に入る。
浚儀令に任じられると仁政を敷くが、部下の失政の責任をとって去官した。
後に呉王司馬晏に重用され、その元で要職を歴任した。
陸機に陸抗を良く言わなかった吾彦と親交を持たないよう助言する。
しかし陸機が吾彦を誹謗するようになると、逆に兄を諌めた。
陸機が八王の乱の最中に処刑されると、連座して弟の陸耽とともに殺害された。
陸喜(恭仲)
【リクキ(キョウチュウ)】
呉・西晋の政治家。陸瑁?の次男。
陸凱?は亡くなる直前、国家を支える人物として陸抗?らと共に挙げている。
学問と著述を好み、百篇に上る著作を残した。呉では吏部尚書にまで昇進した。
呉の滅亡後は下野し、諸葛亮?の名を借りて『西州清論』を著した。西晋では薛瑩?が呉出身者の第一人者と目されていたが、
陸喜は4、5番目の及第点程度の人物だと評した(一流の人物はそもそも仕官しなかったか、孫晧?に殺されてしまったという意味)。
その後、司馬炎?の詔で、陸喜らは貞操があり忠義の人であると評価され、旧呉出身者の登用が行われた。
陸喜は散騎常侍に任官したが、まもなく死去した。
※陸凱の上書の扱いから、陸抗(226年生まれ)より少し年上と思われる。陸遜の家系が司馬穎に滅ぼされてからは、陸氏の中心は陸瑁の家系に移り、唐代まで官僚を輩出している。
孫拯(顕世)
【ソンジョウ(ケンセイ)】
呉・西晋の政治家。孫丞とも。孫慎の子。
文章の才能があり、『螢火賦』は呉で流行した。孫晧?の時代は、多くの家臣が罰せられたが、
孫拯と顧栄の二人は一度も処分されることは無く、詔で模範として称賛された。
呉の滅亡後、西晋で范陽郡(旧:琢郡)琢県の県令となり、治績を挙げた。
八王の乱では、陸機の司馬となり司馬穎に仕える。孟超が陸機の命令に従わず、
「貉奴(むじな、南方人への侮辱)」と罵倒したので、孟超の誅殺を勧めたが、陸機は従わなかった。
孟超が独断で討ち死にすると、その兄の孟玖は陸機の謀叛と讒言し、司馬穎は陸機・陸雲を三族皆殺しにした。
孫拯も投獄され、かかとの骨が剥き出しになるまで拷問を受けたが、あくまで陸機・陸雲の冤罪を訴え続けた。
そこで孟玖は、獄吏に自供を偽作させ、これを鵜呑みにした司馬穎は孫拯を三族皆殺しにした。
孫拯の門下で、冤罪を訴えた費慈・宰意もまた、孟玖によって殺された。
孫恵(徳施)
【ソンケイ(トクシ)】
呉国富春県の人。孫賁?の曾孫。
代々呉に仕えた。孫恵は西晋に仕えず、学問に励んでいた。
301年、司馬倫が皇帝を簒奪すると、司馬冏・司馬穎・司馬顒が反司馬倫の兵を挙げ、孫恵は司馬冏にはせ参じた。
司馬冏が実権を握ると、堕落して天下の失望を買ったので、孫恵は政権を返上して、封地の斉国に帰るように勧めたが、受け入れられなかった。
そこで病と称して司馬冏の元を去った。果たして司馬冏は破滅した。
続いて司馬穎に招聘され、奮威将軍・白沙督に任じられた。そこでは昔なじみの陸機が前鋒都督に任じられていたが、
孫恵は災いを招くと考え、都督の地位を王粋に譲るように勧めた。陸機は、辞職はむしろ二股を掛けていると疑われるからと断ったが、
果たして陸機・陸雲兄弟は殺され、孫恵は甚だ悔やんだ。また、司馬穎の牙門将・梁俊を裁いて処刑したことから、罪に問われることを恐れ、名前を変えて逃亡した。
304年、司馬越に秦秘之の偽名で国政の意見書を送り、内容が立派だったので司馬越に招聘された。司馬越は参謀として重用し、
また文書や上奏文の起草を任せた。孫恵は命令を受けるとたちどころに文書を書き上げ、文彩も内容もしっかりしているのだった。
司馬睿が甘卓らに周馥討伐を命じると、これに従軍した。しかし、司馬睿の元に留まる気は無かったので、
安豊太守・何鋭を殺してまたも出奔したが、まもなく47歳で死去した。
親愛武将:陸機
陳敏(令通)
【チンビン(レイツウ)】
西晋末の反乱指導者。
廬江の出身で301年に三王が司馬倫を討伐した際、以後も駐留していた三王の軍の
為に洛陽の食料庫が尽きようとしていたが、尚書倉部の令史であった陳敏は揚州
から水運を使って輸送すべきであると進言し、合肥度支となった。
303年に起こった張昌の乱では少数の兵で張昌の部将である石冰の軍を幾度となく
破り、広陵の相となった。
その後、独立する野心を抱いて江東にて反乱を起こして江東各地を占領したが、
最後は討伐軍に敗れて殺害された。
袁甫(公冑)
【エンホ(コウチュウ)】
西晋の政治家。揚州淮南国の人。
学問を好み、華譚と並んで雄弁で知られていた。斉王・司馬冏が実権を握った頃、
側近の何勗に対し「自分なら県令になれる」と売り込んだ。何勗が「地方官よりも、朝廷の重職に就きたくはないのか」
と聞き返すと、「人には向き不向きがあり、最高級の木綿は食べられませんし、最高級の米は織れないようなものです」
と説明した。そこで、淮南国(司馬冏の子・司馬超の封国)大農、郎中令として赴任した。
石珩という者が訊いた、「卿は能弁だが、どうして寿陽(寿春)より西で干魃が絶えず、東はいつも水があるのか分かるか?」
袁甫、「寿陽より東は、みな呉人の土地です。亡国の悲しみや、職を失った怒りや嘆きで陰気が溜まり、雨が絶えません。
寿陽より西は、みな中国の土地です。強国の呉を平定し、美しい宝を手に入れ、志盈心滿(意思と精神が充実しています)。
『春秋公羊伝』によると、魯の僖公が大喜びした結果、京師で旱魃が起きたといいます。強きを抑えて弱きを支え、
みなが親しくなれば、天下は平和になり、災害もおさまりましょう」。周囲の者はその俊敏な受け答えに感嘆した。
のちに陳敏の反乱に加担し、反乱から手を引くよう、華譚に呼びかけられた一人に数えられている。
その後は東晋に仕えず、80余歳で家で亡くなった。
親愛武将:華譚
※姓といい字といい、袁術一族である可能性が高い。『晋書』が袁術に触れないのは、「僭称者・袁術」の一族では外聞が悪いからだろうか。
「志盈心滿」は得意になっている様子を意味する故事成語として、現代中国で使われている。
顧栄(彦先)
【コエイ(ゲンセン)】
呉・西晋の政治家。顧裕(顧穆とも)の子で顧雍の孫。
呉が滅亡すると陸機、陸雲と共に洛陽に移住し、併せて「三俊」と呼ばれた。
八王の乱で中央政界が乱れると禍が及ぶのを避けて江南へ帰郷した。
その頃江南では陳敏が反乱を起こしており、一度はこれに帰属するが、
陳敏の先が短い事を察知すると他の江南豪族を結集してこれを鎮圧した。
司馬睿が建康に逃れてくると、輿望の高い顧栄は召し出され、枢機に参与。
江南の人材を推挙するなど亡命政権である司馬睿が地盤を固めるのに尽力した。
親愛武将:張翰
張翰(季鷹)
【チョウカン(キヨウ)】
西晋の政治家・文人。呉郡呉県の人。張儼の次男。
文章に優れ、仕官に拘らなかったことから、歩兵校尉の阮籍?になぞらえ「江東の歩兵」と評された。
賀循の上洛に勝手について行き、斉王・司馬冏に仕えた。同じく司馬冏に仕えた顧栄は酒浸りで、
張翰に「酒だけが憂いを忘れる事ができる」と内心を吐露している。
秋風が吹く頃、ホームシックに罹り、『首丘賦』を詠んで司馬冏の元を辞した。
まもなく司馬冏は誅殺され、人びとは張翰の先見の明を讃えた。
地元に戻った張翰は、悠々自適の生活を送った。顧栄が死去すると、弔問に訪れて慟哭し、遺品の琴で数曲弾いた後、
「顧彦先、これを褒めて下さるか」といってまた慟哭し、喪主(顧栄の子の顧秘)に挨拶もせず帰って行った。
57歳で死去した。作品は数十編あり、世に流行したという。
親愛武将:顧栄
※西晋の討呉護軍である張翰とは別人。
陳卓
【チンタク】
呉・晋の天文学者。
経歴は不明な点が多いが、呉の太史令を務めていたが、呉の滅亡後に西晋に仕え太史令に昇ったとされる。
当時、星官(星座)について諸説あったものを整理した他、多くの天文書を著した。
西晋末の混乱下で江南に戻ることが出来、東晋からも召されて太史令に任じられたが既に高齢で在任中に死去したという。
陳卓の星官は明末に西洋天文学が入るまで使われたという。
虞聳(世龍)
【グショウ(セイリュウ)】
虞翻の子(六男)。虞汜、虞忠の弟。
呉の時代には越騎校尉を経て廷尉となり、後に西晋に仕えて河間国相となって河間王・司馬顒より厚遇された。
天文学者としても知られ、「穹天論」を残している。
有能な人士を推挙する際は地方の無名の有望な人物を選ぶようにしており、また葬儀や祭祀を盛大に執り行う風潮を嫌
っており弟の虞昺が亡くなった時も質素な物にして一族もこれに従った。
親愛武将:虞察
虞察
【グサツ】
呉の武将。会稽郡余姚県の人。虞汜・虞聳らの族子にあたる。子に虞喜・虞預。
呉で征虜将軍にまでなった。呉の滅亡時は、場所は不明だが城を守っていて、滅亡を知り降伏したという。
西晋で虞聳が河間国相になると、虞聳は無名の人材を優先して登用した。王岐が「有能な人が無名であるはずが無い」と反論したので、
虞聳は虞察への手紙で「誉められるのは名声を為した者ばかり、貶されるのも悪い評価を得た者ばかりだ。私は嘆息せずにはいられない」と嘆いた。
虞察は西晋に仕えること無く死去した。
莞恭
【カンキョウ】
呉の将。呉の滅亡後の282年、帛奉と共に西晋に背き、建業令を殺して揚州を包囲した。
しかし、徐州刺史の嵆喜に鎮圧された。
呉展(士季)
【ゴテン(シキ)】
呉の政治家。下邳郡の人。
広州刺史、呉郡太守を歴任した。悪事をただし、人々を救う能力があった。
呉の滅亡後は本籍に戻り、私邸に引きこもって人との交際を避けた。
『世説新語』によると、ある時、西晋の人が呉の遺臣の蔡洪に、「呉の旧来からの著名人は誰がいるか」と尋ねた。
蔡洪は5人の名を挙げ、その中で「呉府君(呉展)どのは聖王の時代の老賢者で、平和で明るい時代の俊才の如き人物です」と評した。
朱誕(永長)
【シュタン(エイチョウ)】
呉・西晋の政治家。呉郡の人。
賢良に推挙され、孫晧の時代に議郎、建安太守を歴任した。
西晋では淮南内史となった。孫恵が朱誕に送った手紙が伝わっているほか、
陸雲の「与朱光禄書」にある「朱光禄」も朱誕を指しているとされている。
また、『世説新語』で蔡洪に評価された5人の一人で、「朱永長どのは物の理において最上の徳を持ち、
清くすぐれた人を選ぶにおいて高い信望がある人物です」と評されている。
※劉淵に降った朱誕は別人。
親愛武将:孫恵、陸雲
沈矯(仲桓)
【シンキョウ(チュウカン)】
呉の将軍・政治家。呉郡(266年以降、新設の呉興郡)の人。沈憲の子。正史『宋書』を編纂した、梁の沈約の八世の祖。
沈約『宋書』の「自序」によると、節操と気概があることで知られた。呉に仕えて立武校尉・偏将軍となり、列侯に封じられ、
建威将軍・新都太守にまでなった。孫晧の時代、良将としての評判があった。
呉の滅亡後、西晋に鬱林太守、次いで長沙太守に任命されたが拝命せず、在野のまま死去した。
※沈瑩との血縁の有無は不明。
旧蜀漢系の人物
劉恂
【リュウジュン】
劉禅?の六男。西晋の安楽公2代。
蜀漢では新興王に封じられた。蜀漢滅亡後、長兄の劉璿?が落命したため、
後継に立てられた。文立は次兄の劉瑤を後継にするよう主張したが、劉禅は聞く耳を持たなかった。
劉禅の死後、安楽公を嗣ぐが、評判は最悪で、横暴で淫乱無道と評された。何攀・王崇・張寅は、見かねて諫言の手紙を送った。
のち、永嘉の乱で一族は絶滅したが、劉永の孫の劉玄だけが、蜀の地に逃れた。
劉輯
【リュウシュウ】
蜀の安平王劉理?の子。
父の死後に跡を継いだ兄の劉胤とその子である劉承が相次いで亡くなった事で257年に安平王を継いだ。
蜀の滅亡後は劉禅?らと共に洛陽に移住して奉車都尉に任じられ、郷侯に封じられた。
董元
【トウゲン】
蜀漢・西晋の武将。
西晋の南中都督霍弋の配下で、西晋が交州を得た後に九真太守となった。
呉が交州に侵攻した際に討伐軍を迎撃し、九真にて呉の陶璜に伏兵を仕掛けたが、見破られて敗北した。
さらに陶璜の策略により、配下の勇将であった解系(司馬倫に殺された解系とは別人)を殺害してしまい、程なくして病死した。
解系
【カイケイ】
西晋の武将。董元配下。
勇将で知られ、董元に側仕えしていた。弟の解象は呉に付いていたので、呉軍の陶璜は策をめぐらし、
解象に兄への手紙を出させたり、あるいは自らの馬車に同乗させてこれ見よがしに優遇した。董元らは「解象でさえこのようなのだから、
解系も去るに違いない」と判断し、解系を殺してしまった。
※司馬倫に殺された解系(字は少連)とは別人。
孟幹
【モウカン】
蜀漢・西晋の武将。
西晋の南中都督霍弋の配下の牙門将で、呉が268年に交州に侵攻した際に楊稷・毛炅らと共に交州に派遣されて呉軍と戦ったが、敗れて捕虜となった。
最初は孫皓の命で殺されそうになったが、孟幹は忠実な人物であるという臣下の助言により助命され、さらに孟幹は呉の人々が蜀の側竹の弩を愛好していると知り、
その制作に携わりたいと申し出て建業の兵器製作部局に留めた。
後に逃亡に成功して司馬炎に呉討伐の計を述べ、その恩賞として日南太守となった。
楊稷(文曹)
【ヨウショク(ブンソウ)】
霍弋?配下の牙門将。
264年に霍弋に従い呉に反乱を起こした呂興を救援すべく交州に出陣して活躍し、馬融の死後は交阯太守・綏遠将軍となる。
271年に陶璜率いる大軍を防ぐことが出来ず交阯に籠城、生前の霍弋は百日未満で降伏した者は家族を処刑するが百日以上
持ちこたえて援軍が来なかった場合は自身が責任を取ると語っていたが、糧食が尽きようとした為百日未満で降伏しようとする。
これに対し、霍弋の話を知っていた陶璜は敢えて食料を楊稷側に送り百日過ぎてから降伏させるように仕向けた。
援軍が来ない事で降伏したが、建業に護送される途中で急死した。
毛炅
【モウケイ】
霍弋?配下の牙門将。益州建寧郡の出身。
264年に霍弋に従い呉に反乱を起こした呂興を救援すべく雑号将軍として交州に出陣、呉の大都督修則・交州刺史劉俊を
撃破し討ち取る等の功績を挙げ鬱林太守となった。
271年に陶璜率いる大軍を防ぐことが出来ず楊稷と共に篭城するも最後は降伏、修則の子修允は父の仇として討とうとするも
陶璜は武名を惜しんで押しとどめたが、陶璜を襲撃しようとしたのが発覚し結局は修允に殺害された。
爨谷
【サンコク】
建寧郡の出身。
建寧の豪族である爨氏の出身と思われる。蜀初期の爨習との関係は不明。
264年に呉の呂興が交阯で反乱を起こし魏に降るも殺害された際、交州刺史に任じられた霍弋により交阯太守に推薦された。
しかし程なくして死去したとされる。
馬融
【バユウ】
馬忠(蜀)?の子。
264年に霍弋が交州に出兵した際に従軍し、亡くなった爨谷の後に交阯太守に推薦されるも程なくして亡くなった。
羅襲
【ラシュウ】
羅憲?の子。
西晋の成立により給事中となる。
父の死により私兵を受け継ぎ陵江将軍となるが程なくして亡くなり広漢太守を追贈された。
向条(文豹)
【ショウジョウ(ブンホウ)】
向朗?の子。
博学多才で蜀の時代には景耀年間に御史中丞となっている。
蜀滅亡後の西晋の時代には江陽郡太守、南中軍司馬となった。
文立(広休)
【ブンリツ(コウキュウ)】
蜀・西晋の政治家。
巴郡臨江の出身で譙周?に師事し、譙周門下では顔回になぞらえられた。
蜀では費禕?により大将軍東曹掾となり、後に尚書となる。
蜀滅亡によって西晋に仕えて梁州の別駕従事となり、後に中央に勤務して
太子中庶子となり、数多くの蜀の師弟や旧臣らを推挙し、また忠実清廉な人柄で知られた。
劉禅が安楽公の後継に六男の劉恂に決めた際には反対したが、聞き入れられなかった。
寿良(文淑)
【ジュリョウ(ブンシュク)】
蜀郡成都県の人。祖父と父は犍為太守であった。
若くして学問をよくして名を知られ、蜀においては益州従事・散騎・黄門侍郎となり蜀の滅亡後は西晋に仕えて覇城県令・始平郡太守として良好な政治を行い、元蜀臣で
九卿まで出世した文立の死後はその後継として李密に推薦され門侍郎兼梁益二州給事中・梁州刺史となる。最終的には散騎常侍・大長秋まで昇った。
また張華の命令で陳寿とともに諸葛亮の事跡を纏めていたが、陳寿が纏めていたのとは異なる内容だったという。
親愛武将:李密 寿良
王化(伯遠)
【オウカ(ハクエン)】
蜀漢・西晋の政治家。益州広漢郡郪県の人。王彭の長男。王商?の孫。
『華陽国志』によると、王化・王振・王岱・王崇の四兄弟は、いずれも若年より名声があった。
『毛詩』『三礼』『春秋公羊伝』を修めた。蜀漢で広漢郡の功曹となり、尚書郎にまで昇進した。
西晋で改めて孝廉に推挙され、涼州酒泉郡楽涫県令に赴任した。
任地は辺境に近く、ちょうど胡の反乱(樹機能らを指す?)に巻き込まれていたが、王化は領民と城を堅守した。
楽涫は孤立しており、戦いは7年に及んだが、胡が油断した隙に出撃し、兵糧を奪うことに成功した。
守り切った功績で関内侯となり、朱提太守、梓潼太守を歴任した。
人柄は謹厳実直かつ誠実で、異民族からも漢民族からも評価された。72歳で死去した。
王崇(幼遠)
【オウスウ(ヨウエン)】
益州広漢郡郪県の人。王彭の四男。王商の孫。
学識に秀でて雅びやかで粋な性格で蜀においては史官である東観郎であった。
蜀滅亡後は互いに親しい関係にあった寿良・李密・陳寿・李驤・杜烈と共に西晋に仕え、彼らは次第に疎遠になっていったが、
王崇のみは温厚寛大な性格で彼らと親しい関係を続けた。
西晋では上庸太守・蜀郡太守を務め、劉禅の死後に安楽公を継いだ劉恂の放蕩な振る舞いに文立と共に諌める文書を送っている。
親愛武将:陳寿、李密、寿良、李驤
李驤(叔龍)
【リジョウ(シュクリュウ)】
李福の子。
譙周の門下で陳寿?とは学友であった。
蜀滅亡後、陳寿や李密、寿良らと共に西晋に仕官して尚書郎・建平太守となる。
後に病の為に一時職を辞めて故郷に戻るも故郷に近い広漢太守に復帰している。
しかし友人であった陳寿とは関係が悪くなり、陳寿が李驤の仕官活動を妨害したという事で最後は在野にて終わった。
王長文(徳睿)
【オウチョウブン(トクエイ)】
広漢郡郪県の人。犍為郡太守の王顒の子。
若くして能と学識で知られていたが官職に就かず、後に梁州別駕となるも庶民の服を着て逃げ出している。
太康年間に蜀で飢饉が起きた際は貧しい生活の為に官倉の食料を多く借りたが返さなかった。
後に成都王司馬穎に仕えて光源県令となり次いで梁王司馬肜の下で従事中郎となり、賈氏一門の討伐に功績を挙げて関内侯に封ぜられた。
司馬勝之(興先)
【シバショウシ(コウセン)】
広漢綿竹の人。
質素清潔で利益や名誉には関心が無かった。
蜀においては尚書左選郎、秘書郎を歴任し西晋においては別駕従事として招かれ、清廉さを評価されて
散騎侍郎となり、宗室扱いとして礼遇された。最後は漢嘉太守に任命されたが病気にて固辞し65歳で亡くなった。
費立(建熙)
【ヒリュウ(ケンキ)】
費詩の子。益州犍為郡南安県の人。
若くして学問をよくし冷静沈着であったが、蜀の滅亡後はあらぬ噂を立てられ仕官できずに不遇の身であった。
しかし西晋に仕えた何攀の弁護により仕官し、関内侯、散騎常侍となる。
梁益寧の三州の人物を分け隔てなく正しく品評した為に畏敬しない者は居なかったが、312年に胡人の反乱にて子の費并や梁州都督の呂淑と共に戦死した。
費立の死後、犍為郡の費氏で名声・官位を得たのは費詩・費立の子孫であったという。
楊宗
【ヨウソウ】
益州巴郡の人。
蜀末期は尚書郎で263年の魏の侵攻の際には羅憲の参軍として永安に駐屯し、蜀滅亡の隙を
突いて侵攻した呉軍を羅憲と共に迎え撃った。その際に敵軍の囲みを突破して魏の陳騫に援軍を求めている。
その後は武陵太守となった羅憲の補佐を務め、羅憲が中央に召還された後は後任の武陵太守となり、呉領の武陵蛮を呼応
させる事に成功させている。酒好きとしても知られ、司馬炎が巴東の監軍を唐彬と楊宗のどちらかに任せようかとの時に酒好き
を知り見送ったという逸話がある。
親愛武将:羅憲
何攀(恵興)
【カハン(ケイコウ)】
蜀・西晋の政治家。
益州刺史・皇甫晏から「王佐の才である」と評価された。
王濬が益州刺史として赴任してくるとその属官となり、呉討伐の準備を補佐。
労働力と木材の確保で的確な進言を行い、軍船建造の監督役を任された。
洛陽へ赴き司馬炎に呉討伐の策略を述べて、荊州の羊祜?とも戦略を練った。
呉討伐が実行されると王濬の副官として従軍して建業を陥れた。
中央に召されると、楊駿が専権して国政が乱れた際にこれを討伐した。
その後も揚州刺史、大司農を歴任したが晩年は朝廷の混乱を厭い隠棲した。
親愛:王濬、裴秀
張微(建興)
【チョウビ(ケンコウ)】
西晋の武将。
蜀漢の左車騎将軍・張翼?の子。
若年時より学問に打ち込み、河間王司馬顒の命で益州の広漢太守となった。
302年に益州にて李特が反乱を起こした際には鎮圧に従事して一時は山上を通って李特の陣営に切り込むも広漢を包囲された末に陥落により殺害された。
子の張存は張微の菩提を弔う名目にて助命された。
杜軫(超宗)
【トシン(チョウソウ)】
蜀、西晋の政治家。
譙周?に師事して広く経書に通じ、郡の功曹史に就いた。
蜀が滅ぼされると西晋に仕えて建寧の県令に任じられた。
ここで善政を行い、異動の際は異民族が群れをなして見送りに現れ、多くの金品を贈ってきたが杜軫は一切受け取らなかった。
次に池陽の県令となり、ここでも雍州11郡の中で最も良い統治を行った。
これらの功績から中央に召されて尚書郎に任じられると多くの政策立案が採用された。
その後、犍為太守として出向し、ここでも善政を敷いたが、病により51歳で亡くなった。
諸葛京(行宗)
【ショカツケイ(ギョウソウ)】
西晋の政治家。諸葛瞻の子。諸葛尚の弟。
蜀滅亡時はまだ若く、諸葛顕(諸葛喬の孫)らと共に河東に移住させられた。
その後、晋代に諸葛亮と諸葛瞻が讃えられると、それに伴って官吏として登用される。
郿の令として赴任すると、祖父や父には及ばないが心を尽くして職務に当たっていると評判を得る。
その後、江州刺史にまで昇った。
補足:生年は兄の諸葛尚の245年より少し後に設定。
李毅(允剛)
【リキ(インゴウ)】
西晋の武将。
広漢郡三台の出身で、蜀に仕えた李朝の孫にあたる。
王濬?によって見いだされて主簿となり、274年に張弘が益州刺史皇甫晏を殺害した際は王濬に張弘の討伐を進言し、その功積によって州の主簿・別駕となった。
呉征伐では王濬の参軍として従軍、戦後に関内侯・雲南太守となり、王濬の死後は南夷校尉となった。
306年に犍為で反乱が起きた際は寧州刺史として討伐にあたったが、反乱軍に寧州を包囲され、援軍も来ない中で程なく城中にて死去した。父の遺志を継いだ17歳の娘の李秀が3年の籠城の末に守り抜いた。
親愛武将:王濬
羅尚(敬之)
【ラショウ(ケイシ)】
西晋の武将。羅憲の甥。
父が幼少の頃に死去した為、羅憲の元で育てられた。
西晋に仕えて荊州刺史・王戎配下の参軍となり、呉征伐にも参加した。
後に梁州刺史となり、304年に趙廞が反乱を起こした際には鎮圧を願い出て
仮節・平西将軍・益州刺史・西戎校尉として益州に向かい、趙廞の敗死後は
益州をめぐって李特と争った末に討ち果たした。
その後は李特の弟・李流と争い、李流の死後は李特の子・李雄と争うが310年に死去した。
文章に巧みであったが、貪欲な性格で決断力に乏しいとされ、蜀の人々には悪しき者を愛し、正しき者を嫌うと嫌われていた。
羅宇
【ラウ】
羅尚の子。
『十六国春秋』によると、父の死後、涪城で譙登が成(成漢)に抗戦を続けていた。
しかし羅宇と参佐は、私怨から譙登を救援せず、食糧を補給しようとしなかった。
西晋が羅尚の後任の益州刺史として派遣した皮素は怒り、二人を罰しようとした。
羅宇らは刺客を用いて皮素を闇討ちにしたが、羅宇もまた、建平都尉の暴重に殺された。
孤立無援の譙登はとうとう降伏し、成は益州の大半を手中に収めた。
嫌悪武将:譙登
呂祥
【リョショウ】
永昌郡不韋県の人。呂凱?の子。
蜀漢に仕え、その滅亡後魏・西晋に仕えた。太康年間(280-289)、司馬炎に宝石を献上した。
西晋では永昌太守・南夷校尉となった。
南夷校尉の後任は広漢の李毅なので、没年は300年前後か。
子孫も代々永昌太守となり、成漢の李雄が巴蜀を支配しても屈しなかった。
董栄
【トウエイ】
西晋初期の益州刺史。『華陽国志』の童策と同一人物か。
268年、王富が諸葛瞻?を騙り数百の兵を集めたが、大事になる前に誅殺した。
また、譙周?を学問の理想とすべきと考え、州内の学校に譙周の肖像画を描かせ、
李通(魏の将軍?とは別人)に命じて譙周を讃える頌辞を書かせた。
詳細は不明だが、董允?の一族だろうか。
親愛:譙周
王富
【オウフ】
蜀漢の兵士。西晋の時代の268年、罪を犯して逃亡するが、その途上で容姿の似た諸葛瞻?になりすまし、
数百の兵で反晋復漢を掲げて挙兵した。しかし李高に捕らえられ、益州刺史・董栄の元に送られ処刑された。
李高(閭術)
【リコウ(リョジュツ)】
巴西郡西充国県の出身。
西晋に仕えて268年の時点では江原方略吏であり同年に諸葛瞻を騙り臨邛で挙兵した王富が江原に侵攻した際に撃破して捕えた。
晋の呉征討では牙門将として何攀らと共に王濬の軍に従い孫晧を捕らえるのに功績があり県侯に封じられた。
後に金城郡太守・雁門郡太守となっている。
張奕(希祖)
【チョウエキ(キソ)】
張嶷?の孫。西晋に仕え、梁州刺史、南蛮校尉、長水校尉を歴任した。
八王の乱では范陽王・司馬虓の配下。司馬虓は張奕を勝手に荊州刺史に任命し、
荊州を乗っ取ろうとした。しかし本来の荊州刺史の劉弘によって討たれた。
鄧良
【トウリョウ】
鄧芝の子。
蜀においては景耀年間に尚書左選郎となり、蜀滅亡時は駙馬都尉で譙周・張紹と共に玉璽を鄧艾に届けた。
蜀滅亡後は西晋の広漢太守となる。鄧良は男の兄弟がおらず、老母の世話のため辞職を願い出たが、許されなかった。
何随(季業)
【カズイ(キギョウ)】
蜀漢・西晋の政治家。蜀郡郫県の人。何双の子で何宗?の孫。子に何観。
『華陽国志』によると、名声と徳行で知られた。蜀漢で安漢県令となった。
蜀漢滅亡後、孝廉に推挙され、さらに河間王・司馬顒に招聘されたが、いずれも受けなかった。
質素な生活を送り、昼は畑を耕し、夜は学問に励んだ。多くの人が贈り物を贈ろうとしたが、決して受け取らなかった。
太康年間(280-289)、西晋に仕え、江陽太守となった。住民はその政治を評価した。
71歳で死去した。その後、「何江陽」が正直で謙譲な人を指す代名詞になったという。
譙登(慎明)
【ショウトウ(シンメイ)】
巴西郡西充国の人。譙賢の子で譙周?の孫。
公正誠実で忠義の士だった。
西晋に仕え、隠平太守となった。郡の五官掾は豪族の意向を受け、住民を漢人・羌人問わず
抑圧していたので譙登によって誅殺された。
301年、李特らが反乱を起こし、その配下の馬脱に父・譙賢は殺された。譙登は荊州刺史・劉弘に援軍を要請したが、
救援は得られなかった。劉弘の上奏で揚烈将軍・梓潼内史(相)に任命されると、流民を募兵して自衛し、益州刺史・羅尚に救援を要請したが、これも失敗した。
309年、父の仇である馬脱を討ち、その肝を食べた。310年、成(成漢)の李驤が梓潼の涪城を攻めた。
羅尚の子・羅宇は譙登を嫌い、兵糧の援助を拒否した。新任の益州刺史・皮素は羅宇を処罰しようとしたが、
却って羅宇に殺され、羅宇もまた配下に殺された。西晋側の混乱で、譙登は孤立無援になった。
311年1月、涪城は陥落した。成の李雄は譙登を取り立てようとしたが、泣いて投降を拒んだので殺された。
陳瑞
【チンズイ】
犍為郡の民間人、宗教者。
五斗米道をアレンジした、五斗米の代わりに酒一斗と魚一尾を納めさせる天師道の教祖で、
蜀の地で多くの信者があった。清潔を尊び、親や妻子の葬儀にも遺体に近づくことを許さない掟を定めていた。
益州刺史の王濬?はこの風習を「不孝」と非難し、陳瑞を誅殺し、信者の巴郡太守・唐定らを解雇した。
※陳瑞個人が悪事を企てていた記録は無く、王濬が墓地の松柏を押収して、
呉征討の軍船建造の資材に充てるための布石だったと見られている。
李興
【リコウ】
西晋の政治家。
蜀臣でもあった李密の三男で西晋に仕えて益州刺史羅尚の下で州の別駕従事
となったが、李特の反乱の際に荊州刺史の劉弘に救援の使者として赴き、
劉弘に請われて参軍となった。
文筆の才に秀でており劉弘が隆中の旧諸葛亮宅を訪れた際、事跡を称える碑文
を建立したがその碑文を書いている。
親愛武将:劉弘