注意点
基本的に、新武将は「作成例」ですので、必ずしも一致させなければならないわけではありません。
新武将の能力値や個性の決め方、評価、歴史解釈などは、各人それぞれ異なる代物であり、その正誤も、各人それぞれ異なります。
万人が納得する能力値や個性の絶対値が存在するわけもなく、結果的に水掛け論となって編集合戦を誘発してしまいます。
可能な限り公正な編集を心掛けるべきですが、最終的には各プレイヤーの裁量次第であることをお忘れなきようお願い致します。
また、併用不可能な個性の組み合わせも存在するため、実際に作成可能か確認したうえでの追加・編集をお願いします。
変更を加える際は編集合戦を避けるため、みんなの新武将/明の朱元璋やみんなの能力編集のように能力値の別案を作成するのも良い手段です
なお、以下の条件に当てはまる人物などを登録、作成禁止とします
・2019年4月30日時点で存命中・未誕生の実在の人物(政治家、活動家、芸能人など著名人を含む)
・↑に当てはまる実在の人物を揶揄、模したような創作上の人物
・意思疎通、自主的な会話が不可能な無機物(飛行機、電車、船など)
なお、第三者が記載、投稿した能力値を許可なく改変、削除することも禁止です
あなたの身勝手なその行動が編集合戦を招いています。
あなたが第三者の方の作成した能力値を削除したら、次は第三者の方があなたの作成した能力値を削除して堂々巡りになります
独立勢力・賊徒(漢族)
この項目では、西晋から東晋・五胡十六国時代に掛けて、十六国に当てはまらない、漢族の独立勢力・賊徒を扱う。
265年に西晋が成立すると、290年の司馬炎の死去までは小康状態といえた。しかし、羌(鮮卑とも)の禿髪樹機能の反乱を始め、異民族による反乱は少なくなかった。
司馬炎の死後、八王の乱が起こると、西晋は地方に手が回らなくなり、それが新たな反乱を誘発する結果になった。
以降、漢族による反乱も頻発し、五胡十六国の時代に掛けて各地に群雄が現れることになった。
また、本国との連絡が途絶え、独立勢力化した地方官も少なくなかった。
西晋の武将は西晋などを参照
孫呉・蜀漢の遺臣系は旧孫呉・旧蜀漢系を参照
異民族は異民族(十六国以外)および五胡十六国時代を参照
平州
274年、西晋が幽州から分割した。
崔毖
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
70 | 65 | 52 | 59 | 30 | 割拠 |
【サイヒ】
西晋・東晋・高句麗の武将・政治家。清河郡東武城県の人。崔琰の曾孫。
姉妹の夫に当たる王浚の推挙で東夷校尉となり、のち平州(幽州東部を分割)刺史を兼ねた。
永嘉の乱で河北が大混乱に陥ると、平州で割拠する志を抱いた。
しかし崔毖は人望に欠け、避難民の多くは鮮卑の慕容廆を頼った。
317年6月、晋王・司馬睿に帝位に即くよう、劉琨・段匹磾・劉翰・慕容廆らと連名で勧進した。
この時は司馬睿は辞退した(翌年、愍帝・司馬鄴の訃報を聞き即位)。
崔毖は士民が慕容廆に靡くのに業を煮やし、高句麗・鮮卑段部・鮮卑宇文部と連合して、慕容廆の領土を分け取りしようと企てた。
しかし、慕容廆が敢えて宇文部に贈り物をして連合軍を動揺させ、高句麗と段部は撤退。宇文部と崔毖は大敗した。
崔毖は報復を恐れ、兄の子の崔燾を使者に慕容廆の戦勝を祝賀させたが、ちょうど慕容廆との講和交渉に来た三国の使者と鉢合わせした。
その結果、崔毖の計画は全て慕容廆の知るところとなり、崔毖に降伏するよう迫った。
崔毖は恐怖し、家族を捨てて高句麗に亡命した。その後は高句麗の重臣となり、朝鮮半島における崔氏の祖になったという。
幽州
王浚(彭祖)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
252 | 266 | 314 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
83 | 74 | 71 | 55 | 54 | 使役 | 親烏 | 特使 | 粗忽 | 悪名 | 斉射 | 混乱 | 挑発 | 罵声 | 侵略荒廃 | 割拠 |
【オウシュン(ホウソ)】
西晋の武将。魏に仕えた王沈の子。
母の趙氏の身分が低いことを理由に、父には認知されなかった。
しかし父の死後、他に男子がいないことから親族によって後継者として認知された。
賈氏の没落後に寧朔将軍・都督幽州諸軍事となって幽州を統治する事になり、
鮮卑族の段務勿塵に娘を嫁がせて幽州での権力基盤を固めた。
八王の乱では司馬越の派閥に属して成都王司馬穎らと争い、懐帝の即位後は
司空となり冀州を巡って石勒と争ったが、次第に驕慢な面が出て皇帝即位に
反対した部下を殺害する等人心を失い、さらに鮮卑ら味方の異民族の支持を失っていった。
最後は石勒の偽装投降に引っかかり、殺害された。
并州
田甄
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
81 | 79 | 53 | 42 | 42 |
【デンシン】
西晋の流民・武将。并州の人。田禋とも。
東嬴公・司馬騰が鄴に駐屯すると、并州から田甄とその弟の田蘭を始め、任祉・祁済・李惲・薄盛らが1万の衆を率いて従い、
食糧を冀州に運び入れた。田甄らは乞活(活きるを乞う)と号した。
307年、司馬騰が汲桑軍に討たれると、田甄は赤橋で汲桑に大勝した。東海王・司馬越は戦功として田甄を汲郡太守に、田蘭を鉅鹿太守に任じた。
田甄は魏郡太守を望んだが、司馬越は許さなかった。王弥が許昌を占領すると、濮陽に駐屯する司馬越に召集されたが、
田甄は太守の件を恨んでいたので応じなかった。司馬越は監軍の劉望を田甄討伐に差し向け、田甄は敗走して任祉・祁済と共に上党に逃亡した。
李惲・薄盛は田蘭の首を手土産に司馬越に投降した。以降の消息は不明。
※「乞活」は流民を指す当時の流行語で、流民などによる武装組織を指しても使われた。
冀州
汲桑
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
307 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
75 | 86 | 45 | 33 | 46 |
【キュウソウ】
西晋の武将。
清河具邱の出身で、二十歳あまりの時点で百鈞を挙げる程の力を持ち、その大声は数里に
わたって聞こえる程であったとされる。
成都王司馬穎に仕え、その死後に同じ司馬穎配下であった公師藩の挙兵に石勒と共に呼応して
公師藩の死後は上党において趙王を自称して西晋と戦い、新蔡王司馬騰を敗死させたが、
苟晞に敗れて戦死した。
親愛武将:司馬穎、石勒
冉魏
冉閔(永曾)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
352 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
86 | 96 | 30 | 5 | 10 | 闘将 | 一騎 | 短慮 | 悪名 | 粗暴 | 天下無双 | 突撃 | 大喝 | 罵声 | 鋒矢強化 | 覇道 | ||
86 | 98 | 30 | 5 | 10 | 闘将 | 一騎 | 短慮 | 悪名 | 粗暴 | 天下無双 | 突撃 | 大喝 | 罵声 | 鋒矢強化 | 覇道 | ||
90 | 99 | 30 | 5 | 10 | 闘将 | 一騎 | 短慮 | 悪名 | 粗暴 | 天下無双 | 突撃 | 大喝 | 罵声 | 鋒矢強化 | 覇道 |
【ゼンビン(エイソ)】
五胡十六国時代の群雄の一人。後趙の将。魏(冉魏)の建国者。父は漢民族の冉良。
後趙の石勒らの虜囚となるが、その勇猛さを買われその甥の石虎の養子となり、石瞻に改名。
石虎旗下の将として後趙を支えるが、石虎没後の後継者争いでは司空の李農らと結び、
石遵や石鑑らを相次いで擁立し政権を掌握。
後、自身の排斥への先制と漢人への苛政に対する報復として石一族を処刑し、異民族系の民衆20万人を虐殺。
姓を冉氏に戻し、自ら皇帝に即位した。
だが、漢族のみの国家のため勢力基盤は脆弱で、前燕の慕容恪に敗北し処刑された。
盧諶(子諒)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
285 | 351 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
56 | 38 | 81 | 84 | 81 | 詩想 | 沈着 | 文化 |
【ロシン(シリョウ)】
西晋・鮮卑段部・後趙・冉魏に仕えた政治家。范陽郡涿県の人。盧志の長男。
老荘思想を好み、鍾繇に倣った書法を得意とした。
司馬炎の娘・滎陽公主と婚約するが、結婚前に死別した。
永嘉の乱で洛陽が漢(前趙)によって陥落すると、父と共に劉琨(妻が盧諶の母のおば)のもとに逃れようとした。
しかし、漢の劉粲に捕らえられた。劉琨は鮮卑の拓跋猗盧の騎馬を借り、盧諶を救出した。
劉琨の主簿となり、親愛された。劉琨が敗れて段匹磾を頼るとこれに従うが、段匹磾が王敦の差し金で劉琨を殺すと段末波を頼った。
盧諶は東晋に、劉琨の名誉回復を上奏し、認められた。段末波の死後、跡を継いだ段遼のもとを辞して東晋に帰順しようとしたが、
後趙の石虎に降った。後趙で侍中・中書監などを歴任し、石虎の寵臣・申扁にも遠慮しなかった。
しかし内心は異民族の王朝に仕えることを屈辱としていたので、子供たちには「吾が没したら,ただ晋の司空従事中郎だったと覚えていて欲しい」といった。
冉閔が魏を興すとこれに従ったが、後趙残党の石祗が拠る襄国包囲で大敗し、戦死した。
親愛武将:鍾繇、劉琨、崔悦
※東晋への帰順を試みずに、直接後趙に降伏したという説もある。
崔悦は後趙まで行動を共にし、衛瓘に倣った書法を得意とした。
司隷(司州)
280年、西晋は司州と改称した。
李矩(世迴)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
325 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
88 | 86 | 75 | 42 | 73 | 堅守 | 求心 | 屯田 | 築城 | 胆力 | 不撓不屈 | 突撃 | 激励 | 鉄壁 | 治療 | 工法改革4 | 王道 |
【リク(セイカイ)】
西晋から五胡十六国時代の人物。平陽の出身。
勇猛剛毅にして権謀を有し功業を打ち立てる志を有していた。
民から慕われ推戴され塢主となり滎陽に駐屯した。
華北から前趙の大将軍石勒が大軍を率いて襲来すると、
李矩は老人や弱っている者を山に避難させ牛馬を解き放ち、
伏兵を設けて敵軍を待ち受けこれを大破し石勒を撤退させた。
その後も異民族からの攻撃を撃退し郭黙の救援を成功させるなど大いに活躍。
漢(前趙)で洛陽を守備していた趙固を帰順させ、一時的に洛陽を回復。東晋に都督司州諸軍事・司州刺史に任じられた。
しかし後趙に降伏するものが現れ、李矩はこれを止める事が出来ず、
南方へと逃れようとしたがその道中で兵士は散り散りになってしまい100人余りだけが従った。
東晋へ向かう道中、李矩は落馬し命を落とした。
※顔グラは牽弘などをすすめる
趙固
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
319 | 自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
78 | 79 | 54 | 36 | 51 | 我道 |
【チョウコ】
漢(前趙)・西晋・東晋の武将。
匈奴の漢で安北将軍となり、309年、西晋の洛陽包囲戦で後詰めとなった。
曹武・淳于定を撃破するが、弘農太守・垣延(エンエン)の夜襲を受けて敗走した。
安北大将軍に昇進後、河内包囲戦に参戦。さらに311年4月、王桑と共に彭城を攻め、徐州刺史・裴盾を討った。
王弥が石勒に謀殺されると、趙固と王桑は石勒の襲撃を恐れ、漢の首都・平陽に逃走しようとした。
食糧が不足して士卒は喰らい合い、掠奪しながら行軍したが、鄴で劉演(劉琨の甥)に阻まれた。
いったん劉琨に帰順したが、再度漢に帰順し、途中で逃走しようとした王桑を討った。
漢が洛陽を陥落させると、荊州刺史・河南郡太守となり、洛陽を守備した。
317年8月、東晋の衛将軍・華薈を臨潁で討った。しかし、長史・周振と対立し、周振は劉聡に讒言の上奏を送った。
劉聡が劉暢に東晋の李矩討伐を命じた際、趙固も殺すよう密命を下した。しかし、李矩軍が劉暢軍を破って趙固誅殺の文書を手に入れると、
李矩は趙固に文書を送った。趙固は周振を殺し、李矩に帰順した。つまり、この時点で洛陽は東晋が回復した。
漢の皇太子・劉粲が洛陽奪還の兵を起こすと、趙固・李矩は漢に囚われた司馬鄴(愍帝)奪還を宣言した。
このことが、漢の司馬鄴処刑を早める結果になった。
司馬鄴の死後、劉粲と激戦になったが、李矩の援軍を得て撃退した。
趙固の死後、洛陽は再び漢(前趙)の手に落ちた。
雍州
侯子光
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
337 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
57 | 35 | 66 | 50 | 72 | 扇動 |
【コウシコウ】
五胡十六国時代の人物。雍州安定郡の人。
20歳にして容姿は美しかった。
337年頃、仏太子を自称した。そして、自らは大秦国から来た、小秦国王になるべき存在と称した。
姓名を李子楊と改めると、鄠県の爰赤眉の客人となった。爰赤眉は、李子楊の妖異な様と、僅かな霊験を見て信奉するようになり、
二人の娘を妻として嫁がせた。
李子楊は杜南山(現在の終南山)で数千人を集め、大黄帝に即位し、龍興と改元した。
そして爰赤眉・樊経を左右丞相に、竺龍・厳諶を左右大司馬に、謝楽子を大将軍に任じた。
前趙は鎮西将軍の石広を派遣して、李子楊一党を討ち取った。李子楊の首から血は流れず、十日以上顔色は生前と変わりなかったという。
益州
趙廞(和叔)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
301 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
60 | 74 | 43 | 55 | 40 | 強奪 | 浪費 |
【チョウキン(ワシュク)】
西晋の政治家。巴西郡安漢県の人(本人の出生地は趙国)。
祖父は張魯に仕え、張魯に従って曹操に降った。
趙廞は司馬倫に評価され、武陵太守、揚烈将軍などを歴任した。
296年、益州刺史となった。折しも、斉万年の反乱の影響で流民が流入し、
趙廞は流民の李特・李庠兄弟を自らの尖兵としていた。しかし耿滕は流民による掠奪を告発し、
その結果、趙廞は大長秋として朝廷に呼び戻され、耿滕が後任の益州刺史に任命された。
しかし趙廞は命令に従わず、300年12月、赴任して来た耿滕を殺し、大都督・大将軍・益州牧を自称し、劉氏(劉備)のように自立を企てた。
ところが、長史の杜淑と張粲の進言から、李庠を疑うようになり、国号を漢とするよう進言したことを罪として李庠を誅殺した。
李特らに対しては「罪は兄弟には及ばない」としたが、果たして李特らに挙兵され、敗走するところを従者の朱竺に殺された。
親愛武将:司馬倫
※字は『華陽国志』より。「叔和」とする記事もあるが、誤記か。
荊州
張昌
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
304 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
81 | 85 | 66 | 33 | 43 |
【チョウショウ】
西晋末の反乱指導者。
荊州義陽郡の蛮族の出身で、最初は平氏県の役人を務めた。
303年の益州での李流の反乱の際に討伐の為に討伐の為に流民からなる兵団を組織したが、
実際には江夏郡にて反乱を起こして李辰と改名した。
その後は丘沈を劉尼と名を改めさせて漢王朝の末裔を自称させ、自らは相国を自称、
周辺各地に侵攻したが陶侃率いる晋軍に敗れ、最後は捕えられて処刑された。
丘沈
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
28 | 25 | 37 | 51 | 58 |
【キュウチン】
西晋末の反乱指導者。
元は荊州山都の県吏であったが、張昌の反乱に参加し張昌から天子の気があると
されて劉尼と改名して漢王朝の末裔として祭り上げられた。
その後は張昌と共に捕えられたが消息は不明。
杜曾
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
319 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
86 | 93 | 52 | 33 | 47 | 疾走 | 操舵 | 水戦 |
【トソ】
西晋の武将。
新野の出身で若い頃から驍勇としてその名を轟かせており、甲冑を着て
水中を自在に泳ぐ事ができ、戦場においてその武勇は冠たるものであった。
最初は新野王司馬歆に仕えていたが、永嘉の乱後は同じ司馬歆である胡亢
の配下となり、楚王を称した胡亢の元で竟陵太守となるも後に胡亢を殺害、
襄陽付近に割拠し、愍帝政権の荊州刺史・第五猗を盟主に推戴した。
313年には陶侃の軍を騎兵で破った。
その後も東晋と争って幾度なく敵を撃破したが、周訪に敗れた末に殺害された。
親愛武将:第五猗
※東晋と敵対したため賊徒扱いされているが、愍帝政権には正式な臣下扱いされていた可能性が高い。
王如
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
315 | 不自然死 |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
82 | 83 | 33 | 24 | 46 |
【オウジョ】
西晋末の反乱指導者。
京兆尹新豐県の出身で、州の武吏であったが戦乱により流浪して宛に流れ着き、
310年に流民を故郷に帰還させる詔が出た際に反発して流民の若者を集めて反乱を
起こし、西晋の討伐軍を破った。
後に石勒が勢力を拡大してきた際に降伏して石勒と義兄弟となるが、作物の不作によって
配下の多くが東晋に降伏した為にやむなく自らも帰順した。
王敦の配下を経てその從弟である王棱の配下となるが、王敦に唆されて王棱を殺害し、
自らも処刑された。
杜弢(景文)
生年 | 登場 | 没年 | 死因 |
315? | 不自然死? |
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 個性 | 戦法 | 政策 | 主義 | |||||||||
73 | 79 | 51 | 53 | 74 |
【トトウ(ケイブン)】
蜀郡成都国の人。杜眕の子、杜植の孫。
祖父の代に西晋に帰順した。益州刺史・羅尚によって秀才に推挙され、のちに招聘され別駕となった。
斉万年の反乱が起きると、益州に反乱を避けた流民が流入し、地元民と一触即発の事態となった。
301年、羅尚は流民を本籍に帰そうとしたが、杜弢は1年延期を主張した。羅尚は同意しなかったので、
杜弢は推挙を返上して辞職した。果たして、流民の李特らが益州を席巻した。さらに、玉突き式に益州から
荊州・湘州(荊州南部を分割)への流民が発生した。
杜弢は南平太守の応詹に身を寄せたが、益州流民の李驤(巴氐の李驤とは別人)が荊州で県令を殺し、数百の兵を集めると、
応詹・杜弢はこれを鎮圧した。湘州刺史・荀眺が馮素の讒言で流民を誅殺しようとすると、杜弢は流民たちに推されて
反乱を起こし、梁益二州牧・平難将軍・湘州刺史を自称した。
315年、司馬睿が王敦・陶侃を派兵すると、劣勢となり帰順を申し出たが許されなかった。杜弢はかつての上司の応詹に取りなしを頼み、
司馬睿は許したが、晋軍は功績目当てに杜弢の攻撃を止めず、杜弢も反撃したため破約となった。
最後は陶侃に敗走し、逃走中に死去した。