No101 長門/元ネタ解説

Last-modified: 2023-08-16 (水) 01:15:04
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型長門型戦艦
正式名称長門(ながと)
名前の由来長門国 旧令制国 (日本国山口県西半分)
起工日1917.8.28
進水日1919.11.9
就役日(竣工日)(1920.11.25)
除籍日1945.9.15
米海軍接収日1945.8.30
その後1946.7.29標的艦として沈没
全長(身長)215.8m→224.94m(1936)
基準排水量(体重)32720英t(33245.1t)→39130英t(39757.9t)(1936)
出力ロ号艦本式重油専焼缶16基ロ号艦本式石炭重油混焼缶6基艦本式蒸気タービン4基4軸 82000shp(83137.3PS)
→ロ号艦本式重油専焼缶10基艦本式蒸気タービン4基4軸 出力は同じ(1936)
最高速度26.4kt(48.89km/h)→25.0kt(46.30km/h)(1936)
航続距離16.0kt(29.63km/h)/5500海里(10186km)
→16.0kt(29.63km/h)/10600海里(19631km)(1936)
乗員1333~1368名
装備(建造時)45口径四一式41cm連装砲4基8門
50口径四一年式14cm単装砲20門
40口径三年式単装高角砲4門
53.3cm魚雷発射管8門
装備(1938)45口径四一式41cm連装砲4基8門
50口径四一年式14cm単装砲18門
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基8門
九六式25mm機銃x20(10x2)
艦載機x3
装備(1944)45口径四一式41cm連装砲4基8門
50口径四一年式14cm単装砲18門
40口径八九式12.7cm連装高角砲4基8門
九六式25mm機銃x82(14x3+10x2+30x1)
艦載機x3
装備(1945)45口径四一式41cm連装砲4基8門
40口径八九式12.7cm連装高角砲6基12門
九六式25mm機銃x128(21x3+10x2+45x1)
艦載機x3
装甲(1937)舷側:76~305mm 甲板:70+127mm 砲塔:228~457mm バーベット:229~305mm 艦橋:178~330mm 隔壁:76~330mm
建造所呉海軍工廠 (現 ジャパン マリンユナイテッド社呉工場) (日本国広島県呉市)
  • 長門型戦艦一番艦にして日本海軍の悲願八八艦隊計画における戦艦一番艦。大正五年度のいわゆる八四艦隊案より予算が計上され建造が開始された。
    建造開始後ジュットランド沖海戦が勃発し、各国にその戦闘結果がもたらされたことで装甲配分の見直し(いわゆるポストジュットランド型)が行われ、長門はそのトップバッターとなる。
  • 世界に先駆けて41cm砲(16.1インチ)を採用し、完成当時は世界最大、最速、最強の戦艦であった。
    しかし八八艦隊計画は完成すれば国家予算の実に四割を艦隊維持費だけで消費する未曾有の規模であり、第一次大戦終戦後の軍縮ムードも相まって世界各国で肥大化する海軍に歯止めをかけようと、ワシントン海軍軍縮条約が成立。批准国では未完成の戦艦はすべて破棄された。
    これにより長門型は八八艦隊計画唯一の成立戦艦となり、書類と砲身からこっそり一の字を削って40cm砲(中身は41cm砲のまま)搭載戦艦となった。
  • 長門型の艦橋はこれまでの戦艦で採用した三脚楼ではなく、マストの周囲に6本の支脚が立つ六脚楼だった。この構造は強度が大きく上昇するが、環境の後ろに空気が吸い込まれるため、第一煙突の排煙を艦橋内部に逆流する事態が起こった。
    その後第一煙突の先端にカバーをつけたが十分な効果がなく、1927年に屈曲煙突を採用したことで解決を見た。1
  • 1932年から小規模な改装を受ける。1934年から36年にかけてボイラー換装、バルジ増設、艦尾延長、水平装甲の多重化などの大規模改装が行われる。
  • 日本海軍秘蔵の大戦艦であり、連合艦隊旗艦を務めた長門は陸奥とともに国民の人気も高かったが、41年夏の大演習で航空機や潜水艦を相手に苦戦を強いられるなど、すでに大艦巨砲主義の終わりを薄々と感じ始めていた。
  • 1941年12月8日、真珠湾攻撃を持って日本は太平洋戦争へ突入する。長門は陸奥らと空母機動部隊の退却支援に出撃したが、それ以降出撃する機会はまったくなかった。
    42年には完成した戦艦大和に連合艦隊旗艦を譲り、ミッドウェー海戦では主力として出撃したものの空母機動部隊壊滅により交戦することなく、駆逐艦から救助した加賀の乗員を乗せ本土へ転進。
    その後は本土に残され、大和と陸奥がトラック島に出撃したものの交戦機会もなく、燃料タンク代わりにされて帰ってきた。
  • 1943年6月8日、柱島泊地で陸奥と錨地替えを予定していたところ、予定時刻の1時間前に突如目前で陸奥が爆沈した。
  • 8月にトラック島へ進出、いよいよ決戦かと乗組員は沸き返ったが、アメリカ軍は空母機動部隊による空襲でヒットアンドアウェイを繰り返し、日本軍はその主力部隊を捉えられず悶々とした日が続く。
    10月には敵の機動部隊の無線符号から襲撃有りと考え、旗艦武蔵以下長門も出撃した。
    いわゆる「Z一号作戦」であるが、この出撃はものの見事に空振りに終わってしまった。アメリカ軍の空母機動部隊は真珠湾に戻って、もっと効率的な艦隊行動のため再編中だったのである。
    「連合艦隊の大散歩」と呼ばれたこの空振りでトラック島の燃料はムダに消費され、長門は失意のままトラック島に戻った。
  • 1944年に入り、黄海海戦、日本海海戦と帝国海軍の栄光ある第一艦隊は解散、空母部隊を主軸とする第一機動艦隊の編成が決まり、長門は大和型とともに第二艦隊第一戦隊所属となった。
    マリアナ沖海戦ではこの新編成で戦いに挑んだものの、航空隊は大損害を受け、早々に機動艦隊としての機能を失ってしまう。
  • 続くレイテ沖海戦では栗田艦隊率いる大和武蔵と並び出撃したが、航空攻撃により武蔵は沈没。転進後再突入した栗田艦隊はアメリカ軍護衛空母部隊を捉え、長門は護衛空母セント・ローに向けて主砲を発射するが命中せず、駆逐艦ヒーアマンの放った魚雷回避のため16kmも離されてしまい、活躍することはなかった。
    11月、レイテ沖の大敗を受け連合艦隊主力はブルネイから日本へ戻ったが、その道中で金剛が潜水艦に撃沈される。
    月末に古巣横須賀に帰り着いた長門は、護衛してくれた浜風や雪風、磯風らが新造巨大空母信濃の艤装工事のため回航を護衛していくのを総出で見送ったが、信濃が戻ることはなかった。
  • 1945年、もはや大型艦が外洋で作戦行動を行うほどの燃料もなくなった日本海軍は大和を沖縄に出撃させた後、残存艦艇を警備艦とし、副砲や機銃は陸上の各基地に持ち去られ、対空偽装や迷彩が施された。
    またこの時、海軍大臣米内光政は長門や鳳翔などをソ連に売って燃料等をを貰おうと画策していたがこれは実現しなかった。
    45年7月18日、横須賀空襲により艦橋が破壊され、艦長以下艦橋要員の大半が戦死、長門は修理されることもなく放置され終戦を迎えた。
  • アメリカ軍に接収され調査が行われたが損傷が激しく、標的艦として扱うことが決定したもののボイラーはなんとか動いても速力が出ず、エニウェトクで一度修理してからビキニ環礁へ向かった。
    1947年、同地で戦艦ネバダ、空母サラトガ、重巡洋艦プリンツ・オイゲンペンサコーラ、軽巡洋艦酒匂などと共に2度の原爆実験ののち、4日後の夜半誰にも見られないうちにひっそりと沈んだ。
  • 長門は水深12mほどの地点に沈んでいるため、ダイビングスポットとして人気がある。

小ネタ

  • 現マルハニチロが、終戦当時食糧難から外洋捕鯨のため大型船舶を探していたところ、横須賀でクジラを引っ張り上げるのに都合のいいスリップウェイ(艦尾がなだらかに水中に没する形状)の船を見つけた。
    ダメ元で元海軍省(当時の復員省)の扉を叩き事情を説明したところ、思いの外好意的で「なんでも使うと良いから好きな船を選べ」とリストを提示されたが、その一番上に書かれていたのが戦艦長門で仰天したという。
    (結局目的の船は海軍の第一号(一等)輸送艦で、復員省に快諾され第9号と第19号が乗組員ごと貸し出された。初出港の時は大漁旗と軍旗を両方掲げ軍艦マーチを鳴らして出港していったとか)