No109 メリーランド/元ネタ解説

Last-modified: 2021-04-25 (日) 23:35:14
所属United States Navy
艦種・艦型コロラド級戦艦
正式名称USS Maryland (BB-46)
名前の由来State of Maryland アメリカ合衆国メリーランド州
愛称Mary, Fighting Mary, Old Mary
起工日1917.4.24
進水日1920.3.20
就役日(竣工日)1921.7.21
退役日(除籍後)1947.4.3 (1959.7.8売却後解体)
全長(身長)190.3m
基準排水量(体重)32100英t(32615t)
出力Babcock&Wilcox式重油専焼缶8基Westinghouse式蒸気タービン4基電気モーター4基(ターボ・エレクトリック方式)4軸 28900shp(29300.8PS)
最高速度21.0kt(38.89km/h)
航続距離10.0kt(18.52km/h)/8000海里(14816km)→15.0kt(27.78km/h)/12100海里(22409.2km)(1945)
乗員1080名
装備(竣工時)16inch45口径連装砲4基8門
5inch51口径速射砲18基18門
3inch50口径単装高角砲2基2門
21inch魚雷発射管2門
装備(1941)16inch45口径連装砲4基8門
5inch51口径速射砲10基10門
5inch25口径単装高角砲4基4門
3inch50口径単装高角砲8基8門
ブローニング12.7m機銃x8
21inch魚雷発射管2門
艦載機x4
装備(1944)16inch45口径連装砲4基8門
5inch38口径連装両用砲8基16門
21inch魚雷発射管2門
ボフォース40mm機関砲x44(11x4)
エリコン20mm機関砲x50
艦載機x4
装甲舷側:8~13.5inch 甲板:3.5inch 砲塔:5~18inch バーベット:13inch 艦橋:11.5inch
建造所Newport News Shipbuilding, Newport News, Virginia
(ニューポート・ニューズ造船所 アメリカ合衆国ヴァージニア州ニューポート・ニューズ市)
勲章American Defense Service Medal(Fleet clasp)
American Campaign Medal
Asiatic Pacific Campaign Medal(7 stars)
World War II Victory Medal

アメリカ海軍が建造したコロラド級戦艦二番艦。メリーランドの方が先に就役したため、メリーランド級戦艦とも。
1917年4月24日、ニューポートニューズ造船所にて起工。1920年3月20日に進水し、1921年7月21日に竣工した。
超弩級戦艦として建造されたためビッグセブンの一隻に数えられ、その威容を世界中に示した。竣工後、太平洋艦隊に編入。
1922年7月4日、ボストンで独立記念日の式典に参加。また8月18日からチャールズ国務長官を乗せ、リオデジャネイロへ移動。ブラジル100周年博覧会に出席させた。
翌年、パナマ運河で訓練を受けた後、6月下旬に西海岸側へと進出する。1925年にはオーストラリアとニュージーランドを訪れた。
1928年、ラテンアメリカツアーを楽しむフーバー大統領を乗せて太平洋を航行。その後、翌年まで改装を受けて機銃を換装した。
1940年、活動拠点をハワイに移す。

 

1941年12月8日、帝國海軍機動部隊による真珠湾攻撃が発生。真珠湾に停泊していたメリーランドはその標的となり、日本軍機が殺到。
攻撃時、乗員の多くは海岸で休暇を楽しんでいたり、朝ご飯を食べていた。ただちに対空砲火を行い、オクラホマに接近した1機を撃墜した。
やがてオクラホマは滅多打ちされて転覆。生き残った乗員はメリーランドに移乗し、対空戦闘を手伝った。しかし爆弾2発を喰らって損傷。戦死者4名が出た。
空襲の間隙を縫って、炎上するオクラホマに消防隊を送る。また次なる攻撃に備えて警戒任務に就いている。大本営はメリーランドを撃沈したと発表したが、彼女は無事だった。
12月21日、応急修理を終えてアメリカ本土へ回航。メリーランドは既に老朽艦だったため、修理と同時に大改装を受けた。
1942年2月26日に工事が完了。真珠湾で打撃を受けた艦艇の中で最初に復帰した彼女は、自分に手傷を負わせた大日本帝國を打倒すべく、太平洋を駆け巡る事となる。

 

6月5日に生起したミッドウェー海戦では、第四戦艦部隊に配属されてハワイ北西を哨戒。11月上旬からはフィジー方面に進出、日本軍の攻撃を警戒した。
ガダルカナル島争奪戦を制し、帝國海軍を後退させたアメリカ海軍は日本の勢力圏に楔を打ち込むべく、西進を開始した。
1943年2月、メリーランドはコロラドとともにニューヘブリディーズ諸島に進出。同島の暑さは乗員を悩ませた。その後、エピリトゥサント島に拠点を移したが、やはり暑さと雨に悩まされている。
8月、オーバーホールのためニューヘブリディーズ諸島を去り、真珠湾に向かった。そして5週間のオーバーホールを受けた。1943年11月にカルヴァニック作戦を発令。
その実行戦力に選ばれたメリーランドは同月13日から12月8日までタラワ攻略を支援。上陸した米兵に大損害を与えた日本軍砲台を破壊するべく砲撃。流れ弾で弾薬庫をも破壊した。
また彼女の放った艦載機が海兵隊の上陸支援を行った。この際に日本側の反撃を受け、機体が損傷。パイロットも負傷した。
作戦終了後、サンフランシスコにてオーバーホールを受ける。
1944年1月28日、帝國海軍の潜水艦基地であるクェゼリンの攻略支援を実施。31日に艦砲射撃を行い、日本軍の砲台を破壊した。そして無事占領に成功する。
同年6月14日、マリアナ諸島攻略のため対地砲撃支援を敢行。沿岸砲台、弾薬庫、小型ボート、貯蔵タンクを破壊せしめた。
しかしマリアナ諸島は帝國陸海軍の重要拠点だけあって抵抗が激しく、6月18日に航空攻撃を受ける。この時は対空砲で撃墜したが、
サイパン砲撃中の6月22日に一式陸攻から雷撃を受けて艦首右舷を損傷。2名の乗員が死亡した。艦首の狭い場所に命中したため、爆発が貫通して艦首がちぎれる寸前だった。駆逐艦2隻に護衛されて真珠湾に後退。(艦首を保護するため、後進で真珠湾まで戻ったらしい)
真珠湾では一度艦首を切り離し、損傷の酷かった下部は廃棄。新しい下部を作り、無事だった上部と組み合わせて船体に結合した。この修理はわずか一か月で完了した。
修理を終えて戦線復帰すると、9月6日のペリリュー島攻略を支援。そして皇軍の喉元であるフィリピンを奪還するため、レイテ沖で帝國海軍と決戦。
10月25日、メリーランドはスリガオ海峡海戦に参加し、主砲48発を発射した。この決戦に勝利し、帝國海軍を撃退したアメリカはフィリピンに部隊を上陸させる。
その上陸をレイテ湾で支援していた11月29日、メリーランドに特攻機が突入し大破。医務室が破壊され、31名の犠牲者が出た。満身創痍のメリーランドは修理のため一度真珠湾に引き返す。
1945年3月、日本本土侵攻の足がかりにすべく沖縄攻略戦が始まる。帝國陸海軍は攻略を阻止するため、これでもかと言うくらい特攻機を飛ばして抵抗。
メリーランドの護衛兼レーダーピケットを担当していた駆逐艦が特攻機の突入で撃沈され、更に4月7日、メリーランドにまた特攻機が突入し大破。10名が死亡した。
頭を悩ませる特攻機に対抗するべく、修理を兼ねて4月14日に最前線から退く。同じように後退する輸送船の護衛を務め、アメリカ本土へ回航。修理とともに対空兵装を強化した。
8月に工事が完了したが、間もなく日本は降伏。せっかくの対空兵装を使う事は無かった。

 

1959年3月1日、除籍。7月8日に売却解体された。帝國海軍の攻撃で何度も傷付いたが、それでも敵に向かっていく姿から、ファイティングメリーの渾名が付けられていた。

 

余談だが、有名な架空戦記である「紺碧の艦隊」では真珠湾攻撃の際に帝國海軍によって鹵獲され、妹のウェストバージニアともども夜露死苦的な当て字の艦名をつけられている。
メリーランドと聞いて一部の諸兄はそちらを思い浮かべるであろう。