No129 アドミラル・シェーア/元ネタ解説

Last-modified: 2019-12-30 (月) 21:19:28
所属Reichsmarine→Kriegsmarine(1935)
艦種・艦型ドイッチュラント級装甲艦→重巡洋艦(1940)
正式名称Admiral Scheer
名前の由来Carl Friedrich Heinrich Reinhard Scheer(1863-1928) ドイツ帝国海軍大将 謹厳な態度から「鉄仮面」と呼ばれていた。第一次世界大戦でドイツ大洋艦隊司令官に就任し、ユトランド沖海戦でイギリス艦隊と交戦、数的劣勢ではあったが戦果を挙げた。
起工日1931.6.25
進水日1933.4.1
就役日(竣工日)1934.11.12
除籍日(除籍後)不明(1945.4.10沈没)
全長(身長)186m
基準排水量(体重)11550英t(11735.3t)
出力MAN製9気筒ディーゼルエンジン8基2軸 52050PS(51338.0shp)
最高速度28.5kt(52.78km/h)
航続距離10.0kt(18.52km/h)/21500海里(39818km)
乗員951~1070名
装備28cm52口径SK C/28三連装砲2基6門
15cm55口径SK C/28単装砲8門
8.8cm78口径SK C/31連装高角砲3基6門
3.7cmSK C/30機関砲x8(4x2)
2cmC/30機関砲x10
53.3cm四連装魚雷発射管2基8門
艦載機x2
装甲舷側:60~80mm 甲板:17~45mm 砲塔:105~160mm 艦橋:50~150mm 隔壁:45mm
建造所Kriegsmarinewerft,Wilhelmshaven
(ヴィルヘルムスハーフェン海軍造船所 ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州ヴェルヘルムスハーフェン市)

ドイツ海軍が建造したドイッチュラント級装甲艦二番艦。通商破壊に従事し、10万トン以上もの商船を撃沈したドイツ海軍随一のスコアを持つ。
アメリカ海軍最高のスコアを持つガトー級潜水艦フラッシャーですら(水増し込みで)ようやく10万なのだから、どれほど凄まじい戦果かよく分かる。

 

1931年6月25日、ヴィルヘルムスハーウェン工廠で起工(123番目の建艦)。1933年4月1日に進水し、マリアンヌ夫人の洗礼を受ける。1934年10月1日に公試を行い、同年11月12日に竣工した。
進水式の時、アドミラル・シェーアは「デア・シェーア」と呼ばれた。通常、艦は女性扱いで、リュッツオーやビスマルクには女性を表す「ディ」が付けられた。
しかしシェーアには何故か男性を示す「デア」が付けられた。理由は不明とされ、未だ解明されていない。

 

1935年3月、ケーニヒスベルクの沿岸都市を訪問。5月30日から6月2日にかけてユトランド沖海戦の戦没者を慰霊する式典に参加。
大西洋での砲撃訓練を終えてドイツ本国へ向かう途上の9月19日、大型ハリケーンに巻き込まれる。暴風から逃れるため、急遽クックスハーフェンに避難。

1936年5月31日、キール近郊にあるラボエの海軍記念館の開会式に参加。6月23日からはスウェーデンを訪問し、ストックホルムで王のグスタフ五世が艦に来訪した。
7月23日、スペイン内戦勃発に伴って旗艦ドイッチュラントとともにヴィルヘルムスハーフェンを出撃。同月23日、スペイン国内に取り残されたドイツ人を救助した。
1937年5月21日、共和国軍の駆逐艦と遭遇。発砲は無かったが、緊張の一瞬だった。5月29日、姉のドイッチュラントが共和国政府軍機の攻撃を受けて損傷。
この知らせを聞いたアドミラル・シェーアはすぐにドイッチュラントと合流。医療施設が破壊されていたため、軍医を派遣している。
そして傷ついたドイッチュラントをかばいながら、英領ジブラルタルまで護衛した。この一件はヒトラーを激怒させ、報復を命令。
5月31日、報復としてアドミラル・シェーアは独伊の駆逐艦4隻とともに共和国側のアルメリア市を砲撃。200発以上の砲弾を撃ち込み、市民19名を死亡させた。

スペイン内戦が沈静化したあと、ドイツ本国に帰投。前マストを改修する工事を受ける。
リトアニアがメーメル市の返還を申し入れ、式典が催される事になった。1939年3月22日、ヒトラーを乗せたドイッチュラントを警護しつつメーメルへ入港した。

 

1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発。開戦時、アドミラル・シェーアは西部方面艦隊旗艦としてヴィルヘルムスハーウェンに停泊していた。
同月4日、シリヒ泊地で投錨し、のんびりと構えていたアドミラル・シェーア。彼女に最初の試練が訪れる。イギリス軍第110飛行中隊所属のブレニムが襲来したのだ。
気象条件が悪かったため、予定していた高高度爆撃を直前で中止。やむなく低空での爆撃を敢行した。超低空で進入したブレニムはドイツ側の不意を突いた。
伝令が「190度に三機、まっすぐシェーアに接近中!」と叫ぶ。「友軍機じゃない!」「英軍だ!ブリストル・ブレニムだ!」、乗員たちは空軍の無能さに苛立ちながら、警報ベルを叩いた。
しかし警報を出すのが遅すぎた。放たれた500ポンド爆弾2発が甲板に激突する。が、爆発せず。弾き返されて海へと落ちた。ここでようやく高角砲が火を噴き、飛び去るブレニムに追いすがった。
後続のブレニムも投弾し、シェーアのすぐ横に落ちた。だが、これも不発。敵機は全部で5機いたが、それ以上は近寄って来なかった。対空砲によって散り散りになり、慌てて爆弾を捨てていった。
対空砲が1機のブレニムを捉え、海中へ叩き落した。残りの4機は高度を上げて雲の中に隠れてしまった。その後、第107飛行中隊の5機が出現し、ヴィルヘルムスハーフェンに停泊する軍艦を狙ったが
既に警報を受けていたため、熾烈な対空砲火を受ける羽目になり、かなりの犠牲を出した。さらにメッサーシュミットMe109も駆けつけ、29機中5機が行方不明、7機が撃墜とイギリス軍を後悔させる結果となった。
以降、イギリス軍は海軍基地への空襲を取りやめ、専門家による問題点の吟味や検討を行った。

1940年2月1日からヴィルヘルムスハーウェン工廠で近代化改修に着手。エンジンのオーバーホールが始まった。このためヴェーザー演習作戦に参加できなかった。2月15日、艦種を重巡洋艦へと変更。
7月31日に工事を終えて出渠。FuMO26レーダーを新たに搭載し、艦橋を塔型から管状マストに改装した。同日中にダンツィヒのグディニアに回航。重要なエンジンの改装はグディニア造船所の技術者と協同で行った。
10月22日、ゴーデンハーフェンを出港し大西洋へ進出。イギリスの補給線を脅かすため通商破壊を始めた。航続距離を伸ばすため、補給艦ノルトマルクを伴った。
アドミラル・シェーアは幸運に恵まれた。電波探信儀を利用して巧みに航行し、偵察機の目から逃れた。敵の勢力圏であるデンマーク海峡を突破する時は、嵐が味方した。高波は視界を奪い、誰にも見つからなかった。
唯一不幸だったのは、その高波に乗員2人がさらわれ落命した事だった。嵐が収まると、そこには狩場が広がっていた。
数日前、ドイツ本国のB部隊がイギリスの通信を傍受。HX84船団が10月27日にハリファックスを出港した事を掴んだ。これを撃滅するため、アドミラル・シェーアは活動していたが、情報が少なすぎた。

11月5日、艦長のテオドール・クランケ大佐は艦橋から身を乗り出していた。午前9時40分、獲物を探すため、カタパルトから艦載機アラドが射出された。
ピーチュ中尉の駆るアラドは南西の方角へ飛び去っていった。「船団を発見したら無線せず、情報だけ持ち帰れ。」これが彼に与えられた命令だった。
クランケ大佐は輸送船団が9ノットの速力で航行すると考え、通過が想定される海域に待ち伏せを行っていた。正午頃、ピーチュ中尉の艦載機が戻ってきた。彼は船団を発見していた。同日14時30分頃、アドミラル・シェーアは初めての獲物を発見した。無防備にも単独航行していたイギリスのバナナ運送船モパンであった。まずアドミラルシェーアは停船を呼びかけた。
相手はすぐに従い、乗員はボートへ逃れた。無線すら打たずに。本来なら拿捕するのが普通だが、いつHX84船団が現れるか分からなかったため、早急に沈める必要があった。
16時5分、喫水下に10.5cm砲を撃たれてモパンは沈んだ。だが、かの船の最期には目もくれない。南の方角に本命のHX84船団が出現したからだ。
いよいよイギリスの輸送船団HX84に接近。37隻の大船団だったが、護衛は脆弱な武装商船ジャーヴィスベイだけだった。船団の先頭を行くジャーヴィスベイがモールスで尋ねてきた。
相手との距離は25キロ。主砲のみならず副砲も使えるよう、更に距離を詰める。ジャーヴィスベイはしつこく艦籍を尋ねてくる。どうやらシェーアを味方か何かと勘違いしているようだった。
16時40分、17キロまで距離が縮まったところで砲撃開始。28cm砲の一斉射がジャーヴィスベイに襲い掛かった。ここでようやく敵だと分かった相手は、赤い星弾を上げた。船団の散開命令だ。
船団を分散させるため時間稼ぎの煙幕を張り、果敢にも挑み掛かってきた。戦闘は22分に及んだ。へっぽこな豆鉄砲ではアドミラル・シェーアの脅威にはならず、ジャーヴィスベイは沈没。
逃げ回る兵員輸送船ランギチキと貨物船サン・デメトリオを副砲で撃ち、炎上させる。しかし両船から上がる黒煙が視界を塞ぎ、さらに周囲は宵闇に包まれ始めた。
アドミラル・シェーアは散開した船舶を追って南下。見つけ次第、砲撃を加えたが暗くて見えないのが実情だった。その間にサン・デメトリオは消火に成功し、逃げられた。20時40分、砲撃停止。
アドミラル・シェーアの戦果は前哨戦のモパンを含む貨物船6隻を撃沈、3隻を大破させる程度に留まった。
戦闘後、海面を漂うシャーヴィスベイの生存者65名はスウェーデンの貨物船に救助された他、戦死した船長フェーゲンにはビクトリア十字勲章が授与された。
この被害に衝撃を受けたイギリス海軍は旧型の戦艦を護衛に充てるようになった。船団護衛に戦艦を充てさせ、本国の戦力を減少させる。これはドイツの目論み通りだった。

同月14日、補給艦ノルトマルクから補給を受け通商破壊を続行。24日、サルガッソー海でイギリス定期貨物船ポート・ホバートを撃沈。12月1日にも冷蔵船トリベスマンを撃沈している。14日から翌日にかけてノルトマルクから補給を受ける。
勢いに乗るアドミラルシェーアは赤道を南下し、南半球に進出。12月18日、イギリス冷蔵船デュケーサを拿捕。この船には9000トンもの肉と果物、900トンの卵が積まれており、生鮮食品を補う補給船として同行させる。
アドミラルシェーアの乗員からは「浮いてるデリカテッセン」「ヴィルヘルムスハーフェンの南仕出し店」とあだ名されたとか。
拿捕される寸前、デュケーサは無電を発信。これを聞きつけたイギリス海軍は、暴れまわるアドミラルシェーアを沈めようと空母ハーミスフォーミダブル、そして巡洋艦数隻を差し向けたが一向に足取りが掴めなかった。
一方、アドミラル・シェーアではデュケーサより押収した卵やウイスキー、ワインが振る舞われた。食糧不足に悩まされる事が無くなり、長躯が可能となった。
12月25日、アンダルシアの会合点に到着したアドミラル・シェーアは僚艦と合流。仮装巡洋艦トールや補給船ノルトマルク等とともに新年を迎えた。

 

年が変わって1941年1月、暗号解読によりハーミスがセントヘレナ島近海で活動していると知り、アドミラル・シェーアは迂回。上手く敵の目を潜り抜けた。
同月19日、ノルウェー貨物船サンデフィヨルドを拿捕。ここでクランケ艦長はアドミラル・シェーアをイギリスの巡洋艦に偽装させる。船体をイギリス艦のように塗り替え、三連装の主砲のうち一つを下げて二連装に見せかけた。
翌日、このトリックに引っかかったオランダ貨物船バーネフェルトとイギリス商船スタンパークを撃沈。
同月25日、アドミラル・シェーアはアンダルシアへ戻される。仮装巡洋艦ピンギンが拿捕した捕鯨船団を回航するための要員を割くよう命令が下ったのだ。
艦長のクランケ大佐は乗員が減る事に難色を示したが、命令には逆らえず、回航要員を派遣した。
アドミラルヒッパーやグナイゼナウ、シャルンホルストが北大西洋で通商破壊を開始したとの情報が入ると、クランケ艦長はインド洋での通商破壊を決意。
北大西洋とインド洋で補給路を脅かし、イギリスを締め上げようという考えであった。アドミラル・シェーアは獲物を求めて喜望峰を突破。2月3日にイギリスの重要海路、インド洋へと入った。

インド洋では既に味方の仮装巡洋艦アトランティスが通商破壊をしており、情報を提供してもらった。アトランティスのロッゲ艦長によると、イギリスの商船は通商破壊を恐れて迂回路を取っているとの事だった。
そこでアドミラル・シェーアは東アフリカのザンジバル島沖で待ち伏せを実施。
2月20日、イギリス貨物船ブリティッシュ・アドヴォケートを拿捕。かの船はフランスへと送られた。翌日、カナダの連絡客船1隻を撃沈、ギリシャの小型商船も撃沈する。23日にはオランダの輸送船を撃沈している。
余談だが、その頃ベルリンではヒトラー総統がアドミラル・シェーアの位置をしつこく尋ねていた。グラーフシュペーの自沈で、大型艦に不信感を抱き始めていたのだ。

かなりの戦果を挙げたが、仕留めた商船が今際に無線で通報。アドミラル・シェーアの位置がイギリス艦隊に知られ、包囲網を張られてしまう。更にアドミラル・シェーアのレーダーも故障し、絶体絶命の危機を迎える。
近くにいたイギリス巡洋艦グラスゴーが艦載機を放って、アドミラル・シェーアを追跡。また巡洋艦6隻と空母ハーミスが追っ手として現れた。
だがアドミラル・シェーアは強かだった。無線傍受でイギリス艦隊の配置を知ると、すぐにインド洋を脱出。快足を活かして包囲網からまんまと抜け出したのだった。しかし二度とインド洋へは戻ってこられなかった。
2月22日、アドミラル・シェーアが挙げた大戦果に喜んだヒトラー総統は、クランケ艦長に騎士十字章を贈る事にした。艦長の首元には急造の勲章が掛けられたとか。
2月26日、大西洋に舞い戻ったアドミラル・シェーアであったが、レーダー故障のまま帰投するのは危険と考え、本国に修理部品の補給を要請する。
3月11日、アンダルシアで要請を受けたU124からレーダー修理用のクオーツを受け取る。お礼にデュケーサの肉と卵をあげたとか。また船体を元の色に戻している。
3月18日、拿捕して補給船に使っていたデュケーサを撃沈。21日にはモザンピーク北方で連絡客船カナディアンクルーザーを撃沈した。
一度レーダーは修理されたが、また故障。盲目の状態ではあったが暴風が吹くデンマーク海峡の突破に成功し、4月1日にキール軍港へと入港した。
11万6000トンの商船を撃沈または拿捕した戦果を称えて、艦長に騎士鉄十字章が、乗員全員に鉄十字章が授与された。
勲章の授与に訪れたレーダー提督にはデュケーサから押収した食料品が振る舞われた。
キール軍港で整備したのち、9月23日に戦艦ティルピッツとともに出撃。エーランド諸島沖に配備され、ソ連軍のバルト艦隊脱出を阻止する。

 

1942年1月、ケルベロス作戦で本国に戻ってきたシャルンホルスト等とともにノルウェーへ進出。2月23日、プリンツ・オイゲン、駆逐艦7隻とともにベルゲンを出港。ナルヴィクを目指したが、道中でプリンツ・オイゲンが雷撃され後部が吹き飛んだ。
ナルヴィクに到着すると、3ヶ月ほど係留され続けた。5月10日、ナルヴィクを出港してボーゲン湾へ停泊。6月4日、第二戦隊へと編入される。7月2日、援ソ船団であるPQ17を撃滅するため出撃。
ところが主力艦に被害が及ぶ事を憂慮したレーダー提督が退却を命じ、6日に反転。会敵する事なく作戦は終わり、PQ17船団はUボートと空軍機の攻撃で壊滅した。
8月16日、ワンダーランド作戦に参加するため出撃。ベア島方面へ駆逐艦を送り出し、自身は単独で航行。流氷や霧、氷山に囲まれながら獲物を探し続けるアドミラル・シェーア。
8月20日、搭載の水上機が三個小型船団を発見したが、クラコフカ島付近で巻き上がる霧や流氷、悪天候に妨害され、射程圏内に収める事が出来なかった。
8月25日、ソ連の基地があるゼラニア岬を砲撃し、気象観測所を破壊。同日中にカラ海でソ連の破氷船アレキサンドル・シビリヤコフと遭遇。カラ海の氷について最新の情報を求めた。
破氷船のカチャラヴァ艦長は、相手がドイツの艦である事を看破。近くにいる船団が退避するまで、時間稼ぎを行った。シビリヤコフはまず、アドミラル・シェーアに艦名を聞いた。
アドミラル・シェーアは信号灯で「日本のシシヤマ」と答えた。日本の艦に化けようとしたが、誰かが星条旗を掲げてしまったため嘘である事がすぐにバレてしまった。
これ以上の時間稼ぎは出来ないと思ったのか、シビリヤコフは勝てないと知りながら、果敢にアドミラル・シェーアへと挑みかかった。そして撃沈され、全乗員が冷たい海に沈んだ。
さらにディクソン港へ艦砲射撃を行い、港湾施設や停泊船に打撃を与えたが、3発の命中弾を喰らった。作戦後の8月30日、ナルヴィクに帰投。
トロンヘイムに停泊中、士官が何者かによって射殺される事件が発生。海岸からの発砲だったという。
9月2日、PQ18船団がムルマンスクを目指して出港。レーダー提督が考案したドッペルシュラーク(二重打撃)作戦の戦力として選ばれた。
アドミラル・シェーアとヒッパーケルンが船団を攻撃し、それをティルピッツが長距離砲撃で支援するという内容であったが、同月13日にヒトラーからの直々の電話で中止となった。
代わりにUボートと航空機による攻撃が行われ、PQ18船団を叩きのめした。前回のPQ17船団同様、またしても水上艦の出番が無かったのだ。

11月6日、護衛の駆逐艦3隻とともにトロンヘイムを出港。無事にドイツ本国に帰還した。12月下旬、エンジンのオーバーホールのため、ヴィルヘルムハーフェンの工廠に入渠。
そこで乗員の大規模な異動が実施され、実質動けなくなってしまった。そして12月31日のバレンツ海海戦の結果に激怒したヒトラーによって、大型艦の出撃が制限されたため通商破壊の戦歴に幕を下ろした。
一度は練習艦に格下げされた。

 

1943年2月26日、ヴィルヘルムスハーフェンが空襲される。午前10時52分に警報が出されたが、風が吹いていたため煙幕が流れてしまい、アドミラル・シェーアは恰好の的にされた。
さっそく爆弾が投じられ、艦体に命中したが不発。乗員が1名死亡しただけで済んだ。今回の空襲はアドミラル・シェーアを狙ったものだった。避難のためシュヴィーネミュンデへと回航された。
3月からは練習艦として活動。一度に最高で500名の士官候補生を乗せて、バルト海で訓練を行った。戦争の表舞台から去ったアドミラル・シェーアは人材の育成に注力していたのだが・・・。

 

アドミラル・シェーアに安息の時は無かった。東部戦線の戦局の悪化し、今やドイツ陸軍はソ連領から叩き出されようとしていた。
1944年7月2日、ティーベ提督率いる第2戦隊に編入されたアドミラル・シェーアは、追い詰められた陸軍や難民を救援するためバルト海へ進出した。11月18日、ソルバメ半島でソ連軍の攻勢にさらされて孤立した陸軍を撤退させるべく艦砲射撃を実施。
敵目標に対し、休み無く砲撃を加え続けた。しかしこの艦砲射撃で出血を強いられたソ連軍は厄介なドイツ艦艇を黙らせるべく、対抗策を練ってきた。
まず沿岸の17cm砲台がアドミラル・シェーアを狙い撃った。対するアドミラル・シェーアは沖合いに移動し、射程距離から脱出。再び艦砲射撃を行った。
一杯食わされたソ連軍は次に雷撃と高高度爆撃で攻撃してきた。特に強力な28cm砲を持つアドミラル・シェーアが狙われたが、急旋回や蛇行によって大編隊からの攻撃をあしらった。
至近弾によって築かれた水柱が幾度となく艦にかぶったが、爆弾も魚雷も全く命中しなかった。艦載のAr196がソ連軍機によって撃墜された以外は、大した損害を受けなかった。

彼女らの奮闘でソルバメ半島のドイツ軍は見事退却に成功。ソ連軍に地団駄を踏ませた。作戦後、燃料補給のためゴーテンハーフェンに入港。
その後、グディニアの港で停泊しているアドミラル・シェーアに、数人の兵隊がもじもじしながら近づいてきた。
甲板の見張り員が
「何か用か?」と聞くと、
「あなた方はソルベマにいたのではないか」と兵士。
「もちろんそうだが」と答えると、兵士は無言でハシゴを登って甲板に足を踏み入れた。
「ありがとう」
「ありがとう」
と、周囲の兵士から一斉に感謝の言葉が届けられた。彼らはソルベマから撤退してきた兵隊で、アドミラル・シェーアの支援のおかげで退却に成功していたのだ。
彼らから支援の効果を聞いた乗組員は喜んだ。ヒトラーに役立たずと罵られて以来、練習艦として浮いている事しか出来なかった水上艦が、ようやく役に立てたのだから。

 

1945年1月、西方へ脱出する軍人や避難民が集うピラウの港町へ寄港。海軍や民間の船舶が彼らを脱出させていたが、小さな港に過ぎないピラウでは大勢の避難民を収容できず、脱出に手間取っていた。
そこにソ連軍の魔手が迫る。最後の脱出口であるピラウを防衛するため、アドミラルシェーアはリュッツオーとともに艦砲射撃を実施。ピラウの町を飛び越えて、接近するソ連軍を吹き飛ばした。
混乱するソ連軍にドイツ陸軍が突撃し、孤立していたケーニヒスベルク市街への連絡を一時的に回復させた。このため数千人の難民が脱出に成功。
2月2日から5日にかけて、サンビア半島の海岸線より砲撃を実施。ソ連軍の合流地点に砲弾の雨を降らせた。9日から翌10日までフロンボルク沖のソ連軍に対して砲撃を行っている。
19日、難民を避難させるためコニッヒスベルグを砲撃。20日午前5時より2時間の砲撃を行い、ピラウ・ケーニヒスベルク間の脱出路を切り開いた。
3月8日、800名の民間人と200名の負傷した兵士を乗せてバルト海を脱出。彼らをキールへ送り届ける予定だったが、機雷源に阻まれたためシュヴィーネミュンデで一旦降ろした。
これまでの砲撃任務で酷使され続けた船体は限界に近づいていたが、それでもコルベルク郊外に展開していたソ連軍に砲撃を加えた。
この場所ではソ連軍が避難民を砲撃していたがアドミラル・シェーアの反撃を受けて3回沈黙させられている。
この戦闘で残っていた弾薬は全て使い果たした。難民を再び乗せると、キールを目指して出港。
機雷を突破し、3月18日にキールへ辿り着き、さっそく酷使した船体の修理が始められた。修理中、殆どの乗員は陸に上がった。
だがキールとて安全な場所ではなかった。連日爆撃が行われており、偵察機も頻繁に飛んできた。このためイギリス軍が、係留されているアドミラル・シェーアを見つけ出すのに時間は掛からなかった。

そして1945年4月9日午後10時、キール造船所で300機以上のイギリス軍機の爆撃を受ける。最初は幸運に恵まれていた。爆弾の嵐がキールを襲ったが、1発も命中しなかったのである。
しかし遂に運が尽きた。集束弾が至近距離で爆発し、全舷側鋼板を引き裂いた。艦は急速に一方へ傾き、転覆。あっけない最期を迎えてしまった。
乗組員の大半は陸の防空壕にいて無事であったが、艦内に留まって対空戦闘をした者や、重要な機材を守っていた32名が戦死した。
転覆した船体は修復されず、そのまま終戦を迎えた。アドミラル・シェーアの亡骸は1948年に埋め立てられ、今はその姿を確認する事が出来ない。