所属 | 大日本帝國海軍 |
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艦種・艦型 | 川内型二等巡洋艦(軽巡) |
正式名称 | 通(じんつう) |
名前の由来 | 神通川 日本国岐阜県 富山県 |
起工日 | 1922.8.4 |
進水日 | 1923.12.8 |
就役日(竣工日) | (1925.7.31) |
除籍日(除籍後) | 1943.9.10(コロンバンガラ島沖海戦/Battle of Kolombangara 1943.11.2沈没) |
全長(身長) | 162.15m |
基準排水量(体重) | 5195英t(5253.0t) |
出力 | ロ号艦本式重油専焼缶8基ロ号艦本式石炭重油混焼缶4基Brown-Curtis式蒸気タービン4基4軸 90000shp(91248.3PS) |
最高速度 | 35.25kt(65.28km/h) |
航続距離 | 14.0kt(25.93km/h)/5000海里(9260km) |
乗員 | 446名 |
装備(1941) | 50口径三年式14cm単装砲7門 九六式25mm機銃x4(2x2) 九三式13.2mm機銃x4(1x4) 61cm四連装魚雷発射管2基8門 艦載機x1 |
装甲 | 舷側:63.5mm 甲板:28.6mm |
建造所 | 川崎造船所社 (現 川崎重工業船舶海洋カンパニー神戸工場) (日本国兵庫県神戸市) |
- 大正時代に建造された川内型軽巡洋艦の2番艦。1925年就役。
- 1927年8月、島根県美保関沖で行われた夜間無灯火演習中、樅型駆逐艦「蕨」との衝突事故を起こす。蕨はボイラーを粉砕されて爆沈、同時に発生した那珂と樅型駆逐艦「葦」の衝突事故を合わせ、100名以上の死者が出る大惨事となり、責任を取らされた神通艦長が自殺する悲劇も引き起こした。
後に美保関事件の名で知られることになったこの事件は、軍縮条約において総排水量を制限された状況下における「物量の差を練度で補え」という思想に基づいた無謀な猛訓練の代償として今日に知られている。 - 1931年以降、水上機搭載や司令部設備拡張などの近代化改装を受ける。さらに1941年には後部魚雷発射管を4連装2基に換装、酸素魚雷の運用能力も得た。
- 太平洋戦争の開戦後は第二水雷戦隊(二水戦)の旗艦として、主に蘭印方面で活動する。
- 1942年2月にはスラバヤ沖海戦に参加。しかしこの時は15km以上の距離からの遠距離雷撃に終始してまともな戦果を挙げられず、司令官の田中頼三少将は「腰抜け」と酷評されることになった。
- 6月のミッドウェー海戦では上陸・占領を担当する陸戦隊の護衛として参加。しかし海戦自体が空母4隻を失う惨敗に終わり、陸戦隊も出番なく帰還している。
- その後はガダルカナル島の戦いに参加したが、第二次ソロモン海戦にて急降下爆撃を受け中破。
やむなくトラック泊地に帰還して応急修理を受け、その後本土に帰還して本格的な修理に入る。これにより1943年初頭までドック入りを余儀なくされた。 - 修理完了後はガダルカナル島の撤退作戦などに参加したのち、輸送任務などに従事。
- 1943年7月12日夜、コロンバンガラ島への輸送作戦中にアメリカ軍艦隊と遭遇。コロンバンガラ島沖海戦が勃発する。
神通は真っ先に探照灯(サーチライト)を照射するが、これによりアメリカ軍艦隊に居場所を晒し、集中砲火を受けてしまう。
砲撃と雷撃が集中した神通は次々と被弾し炎上。艦橋への直撃弾で二水戦司令官や艦長らが粉々にされ、艦尾への被弾もあって操舵不能に陥る。
それでも砲撃を続けていた神通だが、最終的に魚雷の直撃を受けて大爆発を起こし、真っ二つになって沈没した。艦長や二水戦司令官を含む482名のほとんどが戦死。 - 神通に砲撃が集中しすぎたことにより配下の駆逐艦隊は難を逃れ、雷撃を成功させて駆逐艦1隻沈没、軽巡洋艦3隻大破、駆逐艦2隻大破という大戦果を挙げる。
海戦は日本の勝利に終わり、輸送作戦も無事成功したのだが、二水戦司令部の全滅という大きな代償を支払うことになった。
この数日前に三水戦の司令部も全滅しており、2つの水雷戦隊司令部を立て続けに失った日本軍は四水戦を解体し、二水戦にスライドさせる形で再編成を行っている。 - 武勲艦と評されることもある神通だが、以下のように誇張された部分も多く、近年ではその評価は疑問視されている。(艦そのものが悪いわけではないので注意)
- そもそも神通には明確な撃沈戦果が1隻たりともない。
スラバヤ沖海戦でイギリス軍駆逐艦「エレクトラ」を撃沈したとされる場合もあるが、これは二水戦関係者が戦後になって捏造した戦果であることが発覚している。
実際にはエレクトラに肉薄して砲撃・雷撃を行い撃沈したのは四水戦の駆逐艦「朝雲」および「峯雲」であり、神通は前述のように遠距離からの雷撃に終始してまともに接近すらしなかった。
にもかかわらず、戦後になってから二水戦関係者が「神通が肉薄攻撃して撃沈した。朝雲・峯雲は雷撃の暇もなく撃退された」と虚偽の証言を行い、活躍を誇張したのみならず朝雲と峯雲の戦果を横取りしようとしたのである。 - コロンバンガラ島沖海戦において「沈みながらも最後まで砲撃を続けた」というエピソードがあるが、この説も近年では否定されている。
そもそもこの説の根拠となったのはある雪風乗員の日記なのだが、雪風もその乗員も神通撃沈の際にはその場におらず、実際に神通の生存者救助に当たった駆逐艦や潜水艦の乗員の証言とも食い違っている。 - アメリカの戦史研究家サミュエル・エリオット・モリソン氏が「神通こそ太平洋戦争中、最も激しく戦った日本軍艦である」と評したという逸話も有名だが、実際のモリソン戦史にはそのような一文は存在しない。
この説については木俣滋郎氏の『日本水雷戦史』という著書で又聞きのような形で紹介されたのが広まったというのが通説だが、著作の段階で何らかの誤解や意図的な捏造があったのか、あるいは前述の戦果捏造が発覚したことでモリソン氏が評価を取り下げたのかはイマイチ判然としない。なお、木俣氏のその後の著書ではこの件については触れられていない。
- そもそも神通には明確な撃沈戦果が1隻たりともない。