No187 アントニオ・ダ・ノリ/元ネタ解説

Last-modified: 2023-06-16 (金) 21:11:45
所属Regia Marina
艦種・艦型ナヴィガトーリ級駆逐艦
正式名称Antonio da Noli(DN)
名前の由来Antonio de Noli(1415-1497) ジェノヴァ(イタリア)の冒険家、貴族 最初期のアフリカ植民地の知事でもある
起工日1927.7.25
進水日1929.5.21
就役日1929.12.29
除籍日(除籍理由)不明(1943.9.9大破9.10沈没)
全長(身長)107.28m
基準排水量(体重)1900英t(1930.5t)
出力Yarrow式重油専焼缶4基Tosi式蒸気タービン2基2軸 55000PS(54247.6shp)
最高速度38.0kt(70.37km/h)
航続距離15.0kt(27.78km/h)/3800海里(7037.6km)
乗員指揮官15名 乗組員215名
装備120mm50口径M1926連装砲3基6門
ブレダ37mm機関砲x2(2x1)
ブレダ13.2mm機関銃x8
533mm魚雷三連装発射管2基6門
機雷x56
装甲なし
建造所Cantiere navale di Riva Trigoso, Cantieri Navali del Tirreno Riuniti, Riva Trigoso
(リウニーティ造船社リバ・トリゴソ造船所 イタリア共和国リグーリア州ジェノヴァ県リバ・トリゴソ)

ゲーム内では4番艦となっているが艦艇登録順では2番艦。本来の4番艦はGiovanni Da Verazzano(ジョヴァンニ・ダ・ヴェラッツァーノ)である。
*1
イタリア海軍が建造した、ナヴィガトーリ型嚮導駆逐艦。ナヴィガトーリとはイタリア語で航海者を意味し、全艦にイタリアで活躍した航海家の名前がとられている。本艦は航海家アントニオ・ダ・ノリから取られている。
ナヴィガトーリ型は、フランスのシャカル型駆逐艦*2に対抗して建造された艦型と言われている。
船体外部は亜鉛メッキを施した高張力鋼板で構成。機関にはシフト配置を採用している。機雷敷設能力も有しているが、機雷を搭載すると魚雷が載せられなくなる。

 

1927年7月25日、リヴァトリゴーソ造船所にて起工。1929年5月21日に進水し、7月19日に偵察艦と定められる。そして12月29日に竣工した。竣工後、偵察艦隊に編入。
船体の軽量化を図るあまり復元性に問題が表れたため、1930年の改装工事で煙突を低くし、艦橋も三層から二層に減らした。また後方の方位盤は機銃に換装された。
続いて1930年12月1日から翌年3月18日にかけてブラジルを訪問。水上機でイタリアからブラジルへの飛行を目指したイタロ・バルボの支援を行った。

 

未だ復元力に難があったアントニオ・ダ・ノリは追加の工事を受ける事になる。
1932年の改装では魚雷発射管を連装にして復元力を改善。しかしそれでも動揺が大きかったため、ジャイロスタビライザーを搭載する計画があったが実行されず。
そして翌年の工事で40mm単装機関銃2門を追加した。
次にアントニオ・ダ・ノリはスペイン内乱に伴って出動。1936年から1938年まで活動した。同年9月5日、艦種が駆逐艦に変更。
戦争の足音が聞こえ始めてきた1939年6月、アルバニアに進駐する部隊を乗せた船団を護衛。上陸させたイタリア軍部隊はアルバニア軍を瞬殺し、瞬く間に占領。
以降、アルバニアはイタリアの属国兼枢軸国として肩を並べる事になる。
この頃になるとナヴィガトーリ型は旧式になりつつあったため、近代化改装を受ける。艦首をクリッパー型にしてフレアを設け、船体幅を1メートル拡大して復元性を改善。更に燃料タンクを増設した。この時に40mm機銃を国産の37mm機関砲に換装している。
改装工事を受けている間に第二次世界大戦が勃発。イタリアも参戦し、この果てしない戦争にアントニオ・ダ・ノリも巻き込まれていく。

 

ナヴィガトリ型は旧式だった故に主力艦隊には随伴せず、地中海で船団護衛に従事した。そしてマルタ島を拠点とするイギリス海軍と干戈を交えた。
1940年7月9日、カラブリア沖海戦に参加。・・・するはずが機関の故障で引き返し、参加できなかった。
8月31日、姉妹艦とともに対潜掃討。ヴィヴァルディが体当たりで英潜水艦オズワルドを沈めるのを目撃した。
10月7日夜から8日にかけて、僚艦ヴィヴァルディとともに機雷敷設を行う。約2ヶ月後に英駆逐艦ハイペリオンが引っかかり、撃沈している。
1941年1月22日、輸送船団を護衛してトリポリまで送り届ける。実は道中で英潜水艦に雷撃されていたが、誰も気づかなかった。3月5日、駆逐艦フォルゴーレと独伊合同の輸送隊をリビアまで護衛。
同年4月、イギリス軍の襲撃で壊滅した船団の生存者を救助。5月26日、トリポリへ向かう船団を護衛するためナポリを抜錨。道中で空襲を受けたが船団を守り切った。
同年8月29日から9月2日にかけて、僚艦のアヴィエーレ等とともにトリポリ行きの輸送船団を護衛。以降もナポリとトリポリを往来する輸送船団の護衛任務に就く。彼女たちの献身的な働きは北アフリカ戦線を支えた。
9月16日夕方、タラント発トリポリ行きの船団を護衛。道中で英潜水艦の襲撃を受け、輸送船の1隻が沈没。すかさず救助を行い、682人を助けた。
地球の裏側で大東亜戦争が勃発した直後の12月15日、第一次シルテ湾海戦に参加。翌年1月22日、船団護衛中に2機の雷撃機に襲われ、貨物船一隻が犠牲となった。
1942年4月11日、霧による視界不良で汽船と衝突。アントニオ・ダ・ノリは無事だったが衝突された汽船は全治数ヶ月の大怪我を負った。
12月2日、味方の船団から救援要請を傍受したアントニオ・ダ・ノリは現場へ急行。しかし時既に遅く、イギリス海軍の巡洋艦や駆逐艦に蹂躙された後だった。この惨状を撮影したのち、救助活動を行った。
1943年2月、シシリー島近海に機雷を敷設。同月28日、敵潜水艦の雷撃を受ける。何とか回避には成功したものの姉妹艦のニコロ・ゼーノに衝突し、両者ともに大破。しばらくの修理を余儀なくされる。

 

姉妹艦が次々に散っていく中、アントニオ・ダ・ノリは戦場に踏みとどまり続けていた。1943年9月8日、イタリアが連合国に降伏。この時点で姉妹艦12隻中、7隻が既に戦没していた。
生き残っていたイタリア艦艇は投降するべく連合軍の港を目指したが、それを妨害しようとドイツ海軍が襲いかかる。
アントニオ・ダ・ノリは姉妹艦とともに出撃し、サルディニア=コルシカ間のドイツ船団を攻撃。その後、連合軍の港へ向かったがその途上の9月10日、コルシカ島のドイツ陸上砲台から砲撃を受ける。
やむなくドイツ砲台と交戦し巡視船1隻を仕留めるが、回避運動の際に触雷。これが致命傷となり船体が二つに折れて、ボニファチオ沖で沈没してしまった。生存者は僅か39名だった。
一説によるとイタリアの国王はアントニオ・ダ・ノリに乗艦して国外へ逃亡しようとしていたらしい。


*1 4番という数字はナヴィガトーリ級を進水順にならべると4番目になることからではないかと推測される。
*2 フランス初の大型駆逐艦。全6隻。全長126.78m、排水量2400t、35kt。130mm砲5門、75mm砲2門、55cm魚雷6門装備