No203 クイーン・エリザベス/元ネタ解説

Last-modified: 2021-09-02 (木) 22:01:29
所属Royal Navy
艦種・艦型クイーン・エリザベス級戦艦
正式名称HMS Queen Elizabeth (00)
名前の由来Elizabeth I(1533-1603) イングランドとアイルランドの女王。テューダー朝第5代にして最後の君主。通称は「処女王」「グロリアーナ(栄光ある女人)」「グッド・クイーン・ベス」
愛称Big Lizzie, QE
起工日1912.10.21
進水日1913.10.16
就役日(竣工日)1914.12.22(1914.2)
退役日(除籍後)1946.8(1948.3.19売却後解体)
全長(身長)196.2m
基準排水量(体重)32590英t(33113t)
出力Babcock&Wilcox式石炭重油混焼缶24基Parsons式蒸気タービン2基4軸 75000shp(76040.2PS)
→Admiralty式重油専焼缶8基Parsons式蒸気タービン4基4軸 80000shp(81109.6PS)(1944)
最高速度25.0kt(46.30km/h)→23.5kt(43.52km/h)(1944)
航続距離12.0kt(22.22km/h)/5000海里(9260km)
→12.5kt(23.15km/h)/8600海里(15927.2km)(1944)
乗員1262~1920名
装備(竣工時)15inch42口径連装砲4基8門
6inch50口径砲16門
4inch45口径連装高角砲4基8門
21inch魚雷発射管4門
装備(1937)15inch42口径連装砲4基8門
4.5inch45口径連装両用砲10基20門
ヴィッカース2ポンド機関砲x32(4x8)
12.7mm機関砲x16(4x4)
21inch魚雷発射管4門
偵察機x3
装備(1944)15inch42口径連装砲4基8門
4.5inch45口径連装両用砲10基20門
ヴィッカース2ポンド機関砲x32(4x8)
エリコン20mm機関砲x54(20x2+14x1)
21inch魚雷発射管4門
装甲舷側:4~13inch 甲板:1~3inch 砲塔:11~13inch バーベット:7~10inch 艦橋:3~13inch 隔壁:4~6inch
その他ゲームとの違い魚雷発射管を装備しているが雷装は0
建造所Her Majesty's Naval Base, Portsmouth,Hampshire
(王立ポーツマス海軍基地 イングランド国南東イングランド地域ハンプシャー州ポーツマス市)
  • イギリス海軍が建造したクイーンエリサベス級戦艦1番艦。前級のアイアンデューク級戦艦にあった幾つかの欠陥を改善した設計となっており、第一次世界大戦におけるイギリスの傑作艦だった。
    石炭の代わりに石油を動力とする初の軍艦で、近代艦艇の先駆け的存在でもあった。
    姉妹艦としてウォースパイト、ヴァリアント、バーラム、マレーヤが存在する。戦没したバーラム以外、全員が第二次世界大戦を生き残っている。
    帝國海軍の長門型は、クイーンエリサベスを参考にして建造されており、和製クイーンエリザベスと言えよう。
  • 艦名の由来となったのは、クイーンエリザベス1世(1533~1603)。イングランド王ヘンリー8世とアン・ブーリンとの間に生まれ、1558年に即位。
    1588年、アルマダ海戦でスペインの無敵艦隊を破り、イギリスが海洋国家として道を歩むきっかけを作った偉大な人。一方、生涯に渡って結婚しなかった事から処女女王と呼ばれ、
    イギリスの地名ヴァージニアは彼女に由来している。
  • 0v0<クイーン!!
     
  • 1912年度計画戦艦としてポーツマス工廠に船体を、グラスゴー造船所に機関を発注。1912年10月21日、起工。1913年10月16日に進水し、1914年10月1日にホープ大佐が艦長として着任。
    そして同年12月22日に竣工した。1915年1月19日、就役。
    諸元は全長196m、全幅27.4m、喫水10m、出力7万5000、最大速力25ノット、乗員定数951名、排水量3万3000トン。
  • 既に第一次世界大戦が勃発していたためクイーンエリザベスは2月に地中海艦隊へと編入され、ダーダネルス作戦に参加。オスマン帝国を打倒するべく作戦行動を開始した。
    4月25日、ガリポリを占領するため地中海に進出。しかし5月12日にオスマン帝国軍の駆逐艦に戦艦ゴライアスが撃沈されたため、クイーンエリザベスは安全圏に避難した。
    11月2日からは姉妹艦バーラムとともに本国艦隊に転属、第5戦艦戦隊を新編する。
  • 1916年5月31日から生起したジュットランド沖海戦時、クイーンエリサベスはスカパフローで修理中だったため同級中で唯一参加する事が叶わなかった。
    同年11月28日、艦隊司令長官ビーティー中将の本国艦隊司令着任に伴って戦艦アイアンデュークより旗艦の座を継承する。
  • 1918年1月、ドイツの降伏を以って第一次世界大戦は終結。ロイター航海艦隊司令がクイーンエリサベス艦上で降伏文書に調印した。これより戦間期に入り、束の間の平和を謳歌する事になる。
  • 1919年、大西洋艦隊に転属。1925年には地中海艦隊に戻っている。列強国の航空機発達を鑑みて、1926年より第一次近代化改修を受ける。完工は翌1927年。
    1928年からは本国の近海で各種公試を実施。1930年、対空射撃指揮装置を改修。その後も小規模な改修を繰り返した。
  • 1937年5月20日、スピットヘッドで挙行されたジョージ6世の戴冠記念観艦式に、地中海艦隊司令パウンド大将を乗せて参列。同じく式典に参加していた秩父宮雍仁親王夫妻を艦上に招待し午餐会が催された。
    8月11日、ポーツマス工廠で姉妹艦ウォースパイトに準じた第二次近代化改装に着手。対空兵装の増強、缶の換装、旗艦機能の強化、主砲の最大仰角の引き上げが行われた。
    この工事を行っている時に第二次世界大戦が勃発。クイーンエリサベスは二度目の世界大戦に身を投じる事になった。
     
  • 1940年1月、ロサイス工廠で改修。同年12月10日、ポーツマスで再就役を果たす。翌日、駆逐艦パンジャビ、ジュピター、カシミル、キプリングに護衛されて出港。
    プリマスを経由して、15日にロサイスへ入港した。ここで279及び284型レーダーを搭載。20日に出港し、軽巡ダイドーと駆逐艦ソマリ、ベドウィン、ネーピアに護衛されてスカパフローへと回航された。
    27日に全力公試を行ったが、その時に缶2基が破損。3月1日から13日にかけて修理をし、再び公試と砲撃訓練を行った。
  • こうして準備を整え、3月18日に全力公試が完了。翌日より護衛艦を引き連れて出港。3月20日に戦艦ネルソン等からなる本国艦隊と合流し、初任務としてドイツ戦艦グナイゼナウの捜索に参加した。
    しかし敵艦の捕捉は出来ず、23日にスカパフローへ帰投した。翌日、ネルソンより本国艦隊旗艦の座を継承する。4月1日、旗艦を新鋭艦キングジョージ5世に譲る。
    4月2日からは軍隊輸送船団TC10を護送。ドイツ海軍のポケット戦艦や重巡が船団を食い荒らしており、戦艦まで護衛に駆り出さなくてはならない状況だったのだ。
    クイーンエリザベスは8日まで護衛を続け、レパルスに護衛の任を託すと艦隊から分離。索敵に従事した。11日に哨戒を切り上げ、僚艦と合流しつつ14日にジブラルタルへ入港。
    翌日には出港し、20日にフリータウンに寄港した。現地で缶の洗浄が行われた。
  • 5月5日、タイガー船団の護衛に就く。翌6日にジブラルタル海峡を通過し、地中海に入る。これより先はイタリア軍が展開する敵の勢力圏であった。
    同月8日、イタリア軍機の空襲に遭い、対空戦闘。右舷艦首付近に爆弾1発が投下され、至近弾となるも損傷は無かった。さらに23時59分には護衛の駆逐艦ニュージーランドスターが触雷。
    先行きを暗くする事態が発生したが、翌日にウォースパイトを始めとする地中海艦隊と無事合流。12日、彼らとともにアレクサンドリアに入港した。ここで第1戦艦戦隊旗艦となる。
  • 5月14日、戦艦バーラムや護衛艦隊とともにクレタ島へと向かう。この島はドイツ軍の空挺降下を受け、押されていたのだ。
    元々クレタ島は兵力・武器ともに不足気味で、舎弟のニュージーランドから師団を引っ張ってきて、どうにか防戦している状況だった。
    19日、ドイツ軍の増援を乗せた独伊船団を迎撃するためローリングス少将指揮の下、作戦を開始。
    独伊船団にかなりの損害を与え、ドイツ軍に海路での増援を諦めさせる事に成功した。ところが22日にドイツ軍がマレメ飛行場を占領すると、増援が空路で続々と送られた。その数は2万2500名。
    マレメ制圧に伴ってドイツ空軍も艦船攻撃に全力を挙げるようになり、地中海艦隊は退却を強いられる。帰還中にも空軍機に襲われ、姉妹艦ウォースパイトが大破。
    軽巡2隻と駆逐艦1隻を喪失し、先の勝利が霧散した。その後、駆逐艦が細々と兵士やクレタ島国王を救助したが、爆撃で更に2隻が沈没。救出されなかった兵は降伏を余儀なくされた。
    やがてクレタ島は陥落し、クイーンエリザベスは苦杯を味わう羽目になった。
     
  • クレタ島撤退作戦を終えたクイーンエリサベスはアレクサンドリア港内に停泊していた。そんな彼女にイタリアの刺客が迫る。
    12月19日午前2時26分、イタリア潜水艦シーレから発進した人間魚雷SLC223が闇夜に紛れて侵入。ゆっくりしていってるクイーンエリサベスに吸着機雷を設置し、起爆させたのだ。
    9名の乗員が死亡し、このダメージでクイーンエリザベスは大破着底。思わぬ痛撃を喰らった格好となった。姉妹艦ヴァリアントも同じ運命を辿った。同時に油槽船も吹き飛ばされている。
    これにより約2年半もの間、戦線離脱を強いられる事となる。幸運だったのは、港湾の浅瀬にいたため完全な沈没を避けられた事だった。1942年2月、どうにか浮揚される。
    戦艦2隻が戦闘不能になり、地中海艦隊は危機に立たされた。しかしそれをイタリア軍のスパイに悟られないよう、ヴァリアントとクイーンエリザベスは健在であるかのように見せかけた。
    水中に沈んでいる部位は酷く損傷していたが、海面より上に出ている部分は無傷だったため、まるで何事も無かったかのように業務を続けた。
    艦内では盛んに招待パーティーが催され、後甲板では軍楽隊が力強く演奏し、機関にはいつも蒸気が焚かれていた。外から見ただけでは、いつでも出港準備が整っているように映った。
    この策略にイタリアはすっかり騙され、これほどの大戦果を挙げておきながらムッソリーニは祝杯を上げる事が出来なかった。
    5月、手負いの女王は再びイタリアの暗殺者に狙われた。クイーンエリザベスを第一目標、水中作戦部隊が練習用に使っている商船を第二目標とし、3隻の人間魚雷が侵入した。
    ところがイギリス軍はしっかり対策を用意していた。侵入を知るや否や、対人殺傷用の爆雷が雨のように落とされ、3隻の乗組員は艇を放棄せざるを得なくなった。そして全員が捕虜となっている。
    そんな椿事に見舞われながらも、6月までアレクサンドリアで応急修理を受けた。
  • それから曳航される事になったが、イギリス本国に帰るにはイタリアの目の前を通らなければならず、危険な綱渡りになるのは明白だった。
    このため遠回りになるが安全なスエズ運河を通る航路が選択された。アフリカを周り、アメリカの下へと回航され、ボストン工廠で修理。修理には時間がかかり、全てが終わったのは1943年6月だった。
    出渠後、本国艦隊に転属。
     
  • 1944年、今度はインド洋艦隊に編入されて対日戦に参加。1942年4月のセイロン沖海戦以来、インド洋の制海権は帝國海軍が保持し、イギリス東洋艦隊は南アフリカまで後退していたが
    帝國海軍の勢力が衰えたため、ようやく増援を出す事が出来たのだ。トリンコマリに回航後、サマーヴィル東洋艦隊司令が座乗し、第69任務部隊の旗艦となる。
    3月21日、トリンコマリを出港し、ディプロマット作戦に参加。これは攻撃のための作戦ではなく、英米による軍事演習であった。これからは英米が共同で東南アジアの日本軍を攻撃するので、前もって連携の下準備を行ったのである。
  • 4月16日、トリンコマリを出港。19日、艦隊を率いてコックピット作戦に参加する。この作戦はアメリカの要請によるもので、同時にインド洋における連合軍初の反撃となった。
    攻撃目標は日本占領下にあるサバン島の港湾施設と油田に定められた。まず空母イラストリアスサラトガから艦載機が飛び立ち、港湾を空襲。
    この空襲は完全な不意打ちとなり、日本側は殆ど対処する事が出来なかった。戦果として停泊中の特設運送船国津丸を大破着底させた。
    兵舎や無電基地、発電所も甚大な被害を受け、駆逐艦と海防艦が炎上。12機の米軍機が対空砲による被弾を受けたが、撃墜されたのは1機のみであった。
    サバンが攻撃を受けた事により、同時期にインパール作戦を行っていたビルマの日本軍は更に物資が欠乏。間接的に英印軍を支援した。
  • 5月17日、トランサム作戦に参加。次なる標的はスラバヤ港であった。再びイラストリアスとサラトガから艦載機が発進し、港内を空襲。飛行場を爆撃し、駐機していた航空機と格納庫を破壊。
    ウオノコロモ製油所が大破した。在泊艦艇にも相当な被害を与えたが、対空砲で3機が撃墜され、若干の捕虜を出す。作戦は成功し、日本軍は航空隊温存のためインド洋方面から航空機を引き抜いた。
  • 7月22日、新編成の第62任務部隊の旗艦となる。
    指揮下に姉妹艦ヴァリアントとレナウン、仏戦艦リシュリュー、空母イラストリアスヴィクトリアス、重巡カンバーランド、セイロン、ケニヤ、ナイジェリア、フェーベ、ガンビア、トロンプ、駆逐艦クォリティー、クリックマッチ、レースホース、レイダー、ラピッド、リレントレス、ロザーハム、ロケット、ローバックが入り、総勢21隻が追随。
    同日中にトリンコマリを出港し、クリムゾン作戦に参加。25日早朝にスマトラ島北部のサバンを砲撃し、軍事施設と油田に甚大な被害を与えた。空母から発艦した艦載機が日本軍機を撃退し、
    安全を確保した上で、クイーンエリザベスは駆逐艦4隻をサバン港へと突入させた。しかし未だ健在だった日本軍陣地から反撃を受け、3隻が被弾した。
    艦載機による空襲も行われ、ルホンガとコタラジャにも攻撃を加えている。
  • 1945年2月8日、東洋艦隊が太平洋艦隊に改名したため、第63任務部隊に転属。サンフィッシュ作戦に従事し、11日に再度サバンを砲撃。一週間後にトリンコマリへ帰投した。
    これがクイーンエリザベス最後の作戦行動となった。終戦直前の8月10日に退役し、このまま終戦を迎えた。クイーンエリザベスは二度の世界大戦を生き残った。
    1946年8月、除籍。1948年3月19日に売却され、7月7日にダルムールにて解体された。