No219 瑞鶴/元ネタ解説

Last-modified: 2023-01-17 (火) 21:20:34
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型翔鶴型航空母艦
正式名称瑞鶴
名前の由来瑞鶴 漢成語で「瑞」はめでたい、めでたい鳥とされる「鶴」に冠することでさらにめでたい名前
起工日1938.5.25
進水日1939.11.27
就役日(竣工日)(1941.9.25)
除籍日(除籍理由)1945.8.31(エンガノ岬沖海戦/英Battle of Cape Engaño 1944.10.25沈没)
全長(身長)257.5m
基準排水量(体重)25675英t(26087t)
出力ロ号艦本式重油専焼缶8基艦本式蒸気タービン4基4軸 160000shp(162219.1PS)
最高速度34.2kt(63.33km/h)
航続距離18.0kt(33.33km/h)/9700海里(17964.4km)
乗員1660名
装備(1941)40口径八九式12.7cm連装高角砲8基16門
九六式25mm機銃x36(12x3)
艦載機x72+12
装備(1944)40口径八九式12.7cm連装高角砲8基16門
九六式25mm機銃x96(20x3+36x1)
12cm二八連装噴進砲8基224門
艦載機x72+12
装甲舷側:46~165mm 甲板:25~132mm
建造所川崎造船所社艦船工場→川崎重工業艦船工場 (現 川崎重工業船舶海洋カンパニー神戸工場) (日本国兵庫県神戸市)

帝國海軍が建造した翔鶴型航空母艦二番艦。正規空母で同型艦を持つのは、この翔鶴型だけである。そして翔鶴型は、これまでに得られた空母のノウハウを全て注ぎ込んだ帝國海軍会心の出来だった。
完成当時は世界最高の大型空母として君臨し、米海軍のエセックス級が竣工するまでその座に就いていた。諸元は排水量2万9800トン、出力16万馬力、最大速力34.2ノット、搭載機数72機、補用機12機。

 

1937年度海軍補充計画にて、空母第四号艦として建造が決定。1938年5月25日、川崎重工業神戸造船所にて起工。1939年9月30日に軍艦瑞鶴と命名され、同年11月27日に進水。
1940年11月15日、艤装員長として横川大佐が着任する。1941年8月14日、最終艤装のため呉へ向かっていたところに台風14号が襲来。傾斜27°を記録し、閉め忘れていた舷窓から浸水した。
そして9月25日、竣工を果たした。同時に呉鎮守府第五航空戦隊に編入され、神戸を出港した。内地の各所を回航したあと、11月22日に択捉島単冠湾へ到着。26日に出港し、初陣として真珠湾攻撃を迎えるのだった。
一説によると、瑞鶴の完成を待ってから開戦に踏み切ったとされている。

 

1941年12月8日、瑞鶴は真珠湾攻撃に参加。零戦6機、九九式艦爆25機が第一次攻撃に参加し、地上に駐機していた敵機を32機以上破壊した。
続く第二次攻撃では、零戦隊は母艦上空で援護。九七式艦爆27機が真珠湾を爆撃した。二度に渡る空襲で米艦艇群及び施設は打撃を受け、機能を一時的に喪失。
作戦完了後、すみやかに退却。ハルゼー中将の機動部隊や残存の米艦艇による索敵を振り切り、12月24日に呉へ凱旋帰国を果たした。

 

年明けを国内で過ごした後、1月8日に呉を出港。14日にトラック諸島へ入港し、ビスマルク諸島攻略作戦ことR作戦に従事する。20日、豪軍が支配するラバウルを空襲。
翌日には東部ニューギニアのラエを空襲し、上陸部隊の支援を行った。23日、ラバウル及びカビエンに対する上陸作戦を支援し、両拠点を制圧。
ビスマルク諸島の主導権は日本の手に渡り、作戦は完遂された。1月29日、トラックへ帰投。パラオを経由して2月13日に横須賀に辿り着いた。
その後、米機動部隊による本土空襲を警戒して三河湾にて待機。自前の航空隊を三河湾に揚陸した。
3月2日、呉に回航。南鳥島襲来の米機動部隊の迎撃を命じられ、6日に出撃するが敵情が不明瞭で攻撃に失敗した。3月24日、スターリング湾に進出。インド洋作戦に参加するため、舳先をインド洋に向けた。
4月5日、コロンボを空襲。9日にはトリンコマリを空襲し、10機の零戦が制空隊として出撃。20機を撃墜するが、2機を喪失した。瑞鶴航空隊は14発中13発命中という、93パーセントの命中率を叩き出し、当時の日本搭乗員の錬度の高さを如実に示した。一連の攻撃はセイロン沖海戦と呼称され、この海戦を以ってイギリス東洋艦隊は半壊。
インド洋の制海権も手中に収まった。次なる攻略目標はポートモレスビー。トラックで準備を整え、5月1日に出港。
5月7日、珊瑚海にて米機動部隊と衝突。米空母ヨークタウン及びレキシントンと対決する。この海戦では9機の零戦が出撃し、29機(不確実3機)を撃墜した。
直掩の10機も24機(不確実2機)を撃墜し、喪失は不時着水1機のみだった。瑞鶴も敵艦載機の猛爆撃を受けたが、全て回避。たまたま近くで発生したスコールに逃げ込み、無傷で乗り切る。
瑞鶴隊及び翔鶴隊は米空母レキシントンを撃沈し、ヨークタウンを中破せしめた。海戦後の5月15日、トラックへ帰投した。
しかし、この海戦で航空隊を消耗した瑞鶴はミッドウェー海戦には参加せず、5月21日に呉へ帰投して内地で待機。機体の補充を待った。
4隻の主力空母を喪失し、ミッドウェー作戦が失敗に終わろうとしている頃、作戦の遂行を諦め切れない山本長官は瑞鶴の投入を検討する。
駆逐艦に迎えに行かせようとしたところで中止が決定し、主力隊や残存の艦艇は引き揚げた。7月12日、大分に帰投。この敗北により主力空母を一挙に失った帝國海軍は7月14日に再編成を行う。
瑞鶴は姉翔鶴ともども栄光の第一航空戦隊へと編入され、わずか2隻のみとなってしまった貴重な正規空母として戦場を駆け巡る事になる。
7月30日から8月12日にかけて呉工廠に入渠し、整備を受ける。同時期、ガダルカナル島に米軍が襲来。ソロモン戦線が形成される。急遽訓練を取りやめ、8月16日に柱島を出港。
前線基地のトラック諸島へ向かっていたが、20日朝にショートランドの偵察機が敵機動部隊を発見。これを迎撃するべく入港を中止し、南下。翌21日、第二戦隊と第十一航空戦隊と合流。
8月23日にガダルカナル島北方へ到達し、敵を求めて遊弋。昼過ぎに敵艦隊発見の報が入り、翔鶴と瑞鶴は零戦10機と九九式艦爆27機を発進。第二次ソロモン海戦が幕を開けた。
午後2時過ぎ、ステワート諸島東南東で米機動部隊を発見し、攻撃。しかし米艦隊はレーダーで日本航空隊の接近を知っており、あらかじめF4Fを53機忍ばせていた。
苛烈な対空砲火と迎撃機の妨害により艦爆17機と零戦3機を喪失、4機が被弾不時着し、母艦に戻れたのは13機に留まった。特に瑞鶴隊の艦爆は全滅と被害が大きかった。
犠牲と引き換えに、エンタープライズに2発の命中弾と2発の至近弾を与え、火災を発生させた。損傷したエンタープライズは真珠湾に回航され、戦線離脱。
続いて第二次攻撃隊も発進したが、日没までに敵を発見できず断念。

 

1944年10月25日のエンガノ岬沖海戦で空襲に遭い、沈没する。

小ネタ

  • アウトレンジ戦法
    • マリアナ沖海戦で日本軍が採用した戦法。
      日本軍機の航続距離の長さを活かし、敵機の反撃を受けない遠距離から発艦・攻撃を行うとするもの。
      しかし実際には机上の空論にも等しかった。
    • そもそも日本海軍の航空機は航続距離こそ長かったものの、長距離飛行をサポートするオートパイロットや計器類は充分ではなかった。
      このため「何の目印もない大海原のど真ん中から発進し、敵艦隊を発見して攻撃し、母艦まで帰還する」という作戦はパイロットに凄まじい負担を強いるものであった。
      さらにこの時期、日本軍はガダルカナルの戦いなどを経て多くの熟練パイロットを喪失しており、全体の技量が大幅に低下していて、この点でも無理があった。
    • 結局実施されたアウトレンジ作戦だが、アメリカ軍は高性能なレーダーとCICを駆使した強力な防空システムを構築していたこと、最新のレーダーを搭載した偵察機や偵察艦の索敵で事前に入念な準備をしていたこと、F6F戦闘機と十分な練度をもったパイロットが集結していたこと、長距離飛行での日本軍パイロットの疲労などからマリアナの七面鳥撃ちと揶揄されるほど一方的に攻撃され、ほとんどが敵艦隊まで到達することなく撃墜されてしまった。
      (よくVT信管による迎撃をマリアナの七面鳥撃ちと呼ばれることがあるが、VT信管がまだ運用が始まったばかりで数が揃ってないこととそもそも近距離対空火器の射程まで到達した機体が少なかったことから米軍の戦果報告ではVT信管と通常の40mmボフォース対空機関砲の全ての戦果を合計しても19機しか落としていないとされている)
      さらに前述の事情から、自機の位置すら見失った挙句に燃料切れで墜落し、誰に知られるともなく海の藻屑と消えたパイロット・機体も少なくなかった。
    • そもそもこの戦法を提唱した機動部隊の司令官小沢治三郎は「人命より艦を尊重させる、飛行機は弾丸の代わりと考える」とまで発言している。
      瑞鶴の不満もむべなるかな。
    • この作戦には前衛の部隊として瑞鳳、千歳、千代田から64機、本隊の甲部隊の翔鶴、瑞鶴、大鳳から128機、隼鷹飛鷹龍鳳から第二波の第三次攻撃隊49機が出撃している。
      第一波(64機)は戦艦と重巡を1隻ずつ小破の戦果しかあげられず全体の2/3にあたる41機が撃墜された。
      第二波(本隊 128機)は戦艦サウスダコタ、空母バンカーヒルと重巡洋艦ミネアポリスを小破させるに留まり全体の3/4以上にあたる99機が撃墜された。
      第三波は誘導機が敵艦隊の進路変更を逃したため敵艦隊を見つけられず引き返し7機が未帰還となった。その後もう一度50機が第四波として出撃したものの敵艦隊は見つけられなかった。その後グアム島に燃料補給のため飛行中に敵の戦闘機の迎撃を受け26機が撃墜された。
      その後第五波として大鳳、翔鶴、瑞鶴から18機が出撃したものの敵は見つからず帰還(9機が未帰還)。第六波として隼鷹、飛鷹、龍鳳から15機が発艦、敵艦隊を発見したものの戦果はあげられず9機が撃墜された。
      6月19日だけで撃墜と未帰還を合わせて191/214という悲惨な結果となってしまっている
    • 翌日16時に米艦隊に日本艦隊の位置がばれた。距離が米艦載機の航続可能範囲の限界付近であること、帰還が夜になってしまうことを覚悟の上で米海軍攻撃隊216機が出撃した。(アメリカ軍もギリギリのアウトレンジ戦法に近いことをやっていたのである)
      日本艦隊も気づいており迎撃として零戦が出撃したが23機が撃墜された。また、瑞鶴から7機の雷撃機が出撃し3機未帰還・4機不時着で全滅となっている
      結果、飛鷹と逃げ遅れた補給艦2隻を撃沈、瑞鶴、千歳、千代田も損傷した。
      米艦載機もギリギリの出撃は代償が大きく、20機が撃墜され80機が燃料不足での不時着や着艦失敗で失われた。
  • セ連送
    • 日本海軍の通信略号の1つで、「ワレ、戦闘機ノ攻撃ヲ受ク」を意味する。
      主に偵察機が敵戦闘機に捕捉された際に使用した。
    • 偵察機は基本的に戦闘機より鈍足なため、敵機に捕捉・追撃を受ければ被撃墜は避けられなかった。
      このため撃墜されるまでモールス信号の「セ」(・---・)を連送し、連送が途絶えた時点で撃墜されたと判断し、時間経過から敵機の位置を判断したのである。
    • いわばこのセ連送は、死を覚悟した偵察機パイロットからの今生の別れの挨拶にも等しいものであった。
      パイロットたちは文字通りに命懸けで敵機の情報を伝えたのである。