No235 鈴谷/元ネタ解説

Last-modified: 2021-02-10 (水) 12:45:53
所属大日本帝國海軍
艦種・艦型最上型二等巡洋艦(軽巡)→二等巡洋艦(重巡)(1939)
正式名称鈴谷(すずや)
名前の由来鈴谷川・Сусуя 日本国樺太豊栄郡豊北村~大泊郡千歳村(現ロシア連邦サハリン州)
起工日1933.12.11
進水日1934.11.20
就役日(竣工日)(1937.10.31)
除籍日(除籍理由)1944.12.20(サマール沖海戦/Battle off Samar 1942.10.25自沈処分)
全長(身長)200.6m
基準排水量(体重)12000英t(12192.6t)(1943)
出力ロ号艦本式重油専焼缶8基艦本式蒸気タービン4基4軸 152000shp(154108.2PS)
最高速度35.0kt(64.07km/h)
航続距離14.0kt(25.93km/h)/8000海里(14816km)
乗員874名
装備(建造時)60口径三年式15.5cm三連装砲5基15門
40口径八九年式12.7cm連装高角砲4基8門
九五式25mm機銃x8(4x2)
九三式13.2mm機銃x4(2x2)
61cm三連装魚雷発射管4基12門
艦載機x3
装備(1939)50口径三年式20.3cm連装砲5基10門
40口径八九年式12.7cm連装高角砲4基8門
九五式25mm機銃x8(4x2)
九三式13.2mm機銃x4(2x2)
61cm三連装魚雷発射管4基12門
艦載機x3
装甲舷側:100mm 甲板:35~60mm 砲塔:25mm
建造所横須賀海軍工廠 (現 米海軍横須賀基地) (日本国神奈川県横須賀市)
建造

大日本帝國海軍が建造した最上型軽巡洋艦3番艦。先発の2隻と比べて設計に改良が加えられているため改最上型、鈴谷型と呼称される事もある。
1933年12月11日、横須賀工廠にて起工。建造が進められていたが、翌1934年3月12日に友鶴事件が発生。艦の復元性が問題視されるようになり、急遽改善の工事を追加。
進水式を目前に控えた10月26日、横浜高等工業学校の三年生が研究のため鈴谷の見学を希望しており、その許可が下った。彼らは進水式に招待された。

同年11月20日、昭和天皇臨席の下で進水式と命名式が執り行われた。しかしここでハプニングが発生する。海軍大臣、鎮守府長官ら大勢の観衆が見守る中、式は進む。
命名が終わり、キール盤木を取り外す作業に入った時に予想外の事態が発生する。艦の重さで砂袋が押しつぶされ、キール盤木が外れないのである。
このままでは進水が出来ない。慌てて空気ホースを持ってきて削り取り始めるが、鈴谷の巨体は動かない。観衆は今か今かと進水の時を待ちわびる。
特に昭和天皇を待たせたのがまずかった。関係者は顔を青ざめさせながら進捗を窺う。時間にして10分ほど経った頃か。ようやく盤木が外れ、するすると動き始める。
艦首のくす玉を割りながら遂に進水を果たしたのだった。命名式開始から進水完了までの時間は27分だったが、横須賀工廠始まって以来の長丁場であった。
以降、キール盤木には事前に切れ目が入れられるようになったという。進水式に参加した海軍大臣以下高官には昭和天皇より金5000円が下賜せられた。
また、希望者には進水時の鈴谷の写真を購入する事が出来た。鈴谷の進水を祝し、横須賀郵便局では進水式当日から22日まで記念スタンプが押し印された。

何だかんだあったものの、無事に産声を上げた鈴谷。工事も着々と進み、公試も始まった。しかし1935年9月26日、第四艦隊事件が発生。姉の最上と三隈が三陸沖で大型台風に巻き込まれ、
損傷を受けたのである。もっとも、大破した艦と比べれば幾ばくか幸運だったが。この事件を受け1936年夏頃、一旦完成した構造物を撤去する等の大工事を開始。
各艤装品の耐波性向上、補強材の追加、外板の厚さの増加が行われ、荒天下での航海をより安定させた。
1937年10月31日、水崎大佐を初代艦長に据えて竣工。呉鎮守府に編入された。12月1日、姉妹艦とともに第二艦隊第七戦隊に配備。
竣工時の諸元は排水量8500トン、全長200.6m、全幅20.2m、速力35ノット、出力15万2000馬力。艦内神社として樺太神社から分霊を受けた。
鈴谷と熊野に装備された主砲は60口径三年式15.5cm砲と言い、新規に設計されたものだった。最大仰角55度、俯角10度で最大射程2万7400m、最大高度は1万2000mに達した。
設計上は対空戦闘にも使う事が出来、その際の高度は1万8000m。毎分5発の発射速度を誇った。実用テストでも好成績を収め、砲術関係者を喜ばせた。

 

1938年4月9日、佐世保を出港。日華事変が続く華南方面で活動する。12月15日、予備艦となり横須賀工廠に入渠。主砲の換装工事を行った。
この工事により大型の20.3cm主砲を装備し、鈴谷は重巡洋艦に艦種を改めた。代わりに優秀な15.5cm砲を下ろす結果となり、砲術関係者から惜しまれた。
この15.5cm砲は後に戦艦大和と武蔵の副砲に転用されている。戦争末期、大和から下ろされた15.5cm砲は呉郊外に配備され、B-29の迎撃任務を担ったが発砲の機会なく終戦を迎えた。
1939年2月、工事完了。排水量が1万2000トンに増加し、出力も432馬力増加したが、速力のみ34.7ノットに低下。

1941年1月23日、呉を出港。第七戦隊はS作戦に参加し、南方に対し示威行動を行う。三亜、バンコク、サンジャックに寄港し、2月20日に台湾の馬公へ入港した事で作戦終了。
7月25日、三亜から出港する陸軍第25軍の船団を護衛。30日、サイゴン沖へ到達し「ふ号作戦」に参加。援蒋ルート切断のため南部インドシナ進駐を支援した。
上陸した陸軍はカンボジアやラオス全域にも展開し、アメリカやイギリスの怒りを買った。翌31日、支援を終えてサイゴン出港。宿毛湾を経由して8月20日に呉へ帰投した。
9月7日より呉工廠で整備を受ける。戦争の足音は次第に大きくなり、11月20日、鈴谷は第七戦隊旗艦として柱島を出港。26日、馬公に到着。現地でマレー攻略部隊に編入される。
三日後、熊野に旗艦の座を譲渡。そして12月4日、馬公を出撃。輸送船団を護衛してマレー東岸に向かった。

 
開戦

1941年12月8日、大東亜戦争が開幕。鈴谷はまず第一次マレー上陸作戦を支援する。翌9日、シンガポールから出撃してきたイギリスのZ部隊を捜索。
18時20分、索敵のため艦載機を飛ばしたが19時30分に三号機がプロコンドル島近海に墜落。10日に軽巡由良によって救助された。カムラン湾を拠点に鈴谷は活動。
ボルネオ、サラワク、ブルネイ、アナンバス、バンカ、パレンバン、バタビア、アンダマン諸島の攻略支援を行い、帝國陸海軍の電撃的侵攻を献身的に援護。
連合軍を一掃して勢力圏を一気に拡大し、最大の目標であった油田地帯の確保にも成功。開戦劈頭の緒戦は日本の戦略的勝利に終わった。

 

1942年4月1日、味方の機動部隊によるセイロン島攻撃に乗じてベンガル湾に進出。姉妹艦熊野とともに通商破壊を開始した。6日、空襲を受けてカルカッタから脱出してきたイギリス商船6隻と遭遇。
鈴谷の艦長を務める木村大佐は人命を尊重する人物であった。輸送船を攻撃し、船員が慌てて脱出しているのを見るや否や大声で「撃っちゃあいかんぞぉ!」と攻撃を抑止。
全員が脱出したのを見届けてから撃沈した。攻撃も船員に被害が及びにくい、船底を高角砲で撃ち抜く方法を取った。こうして鈴谷と熊野は敵船全てを撃沈した。
4月11日、シンガポールへ帰投。そして内地への帰路に着き、4月22日に呉に到着した。27日から5月4日にかけて呉工廠に入渠。ミッドウェー作戦に参加すべく艦隊集結地点の柱島へ回航。
5月22日午前6時30分、ミッドウェー攻略部隊の一員として柱島を出撃。道中の26日にグアムへ寄港し、多くの物資を積載。2日後に出港、ミッドウェー島を目指した。

6月4日、ミッドウェー海戦に参加。支援隊として後方に控えていたが、赤城・加賀・蒼龍が被弾炎上の悲報が全軍を駆け巡った。5日深夜に伊168潜が米空母ヨークタウンと駆逐艦ハンマンを沈めて
何とか一矢報いたが、敗勢は濃いままだった。連合艦隊司令部は残存戦力による夜戦を企図し、近藤長官に「攻略部隊の一部を以って、今夜(6日)、ミッドウェー島の陸上航空施設を砲撃破壊せよ」と下令。
近藤長官はこの命令を指揮下の栗田健男率いる第七戦隊に伝達。栗田司令は最上型重巡4隻を率いて、ミッドウェー島に突撃し始めた。旗艦熊野の艦橋では「連合艦隊は空母を喪失して血迷った」と囁かれた。
約9時間、最大戦速で進撃していた鈴谷たちは、ミッドウェー島まで後2時間の距離まで迫った。ところが21時35分、連合艦隊より砲撃中止命令が下り、主力隊と合流するよう命じられる。
第七戦隊の面々は決死的突撃の緊張から解放され、ホッとした。戦隊は反転し、速力を28ノットに落とす。単縦陣を組み、各艦約800mの距離を取りながら夜の海を行く。
23時18分、旗艦熊野が右45度約5000mに浮上中の敵潜水艦を発見。左に回避するため「赤赤」の信号を送ってきた。「赤赤」の意味は「緊急左45度一斉回頭」を意味する。
しかし熊野では更に別の敵潜水艦を発見。再び「赤赤」の信号を送った。熊野は90度回頭と言いたかったのだが、これが混乱を招いた。鈴谷の艦橋では2回の信号を同一の物か別々の物か判断しかねていた。
「45度」なのか「90度」なのか。結局鈴谷は前者だと思い、45度回頭した。その結果、熊野にぐんぐん接近し、あわや衝突の危機に陥った。鈴谷が慌てて速力を落として右に転舵したため激突は回避された。
だが、この動きにより隊列が大きく乱れる。後続の最上と三隈が衝突し、最上が大破してしまった。この惨状を前に、栗田司令は逡巡の末、損傷した最上と三隈を置き去りにする事を決める。
敵の潜水艦が遊弋する夜の海で長居すれば、無事で済んだ鈴谷や熊野にも危害が及ぶからだ。さらに損傷した2隻の護衛をすれば夜明けを迎え、空襲に曝される恐れもあった。
熊野と鈴谷は後ろ髪を引かれる思いで北方に離脱。その後、2隻は予想通り空襲に遭い―――三隈が死を遂げる事となる。

ミッドウェー作戦から戻った鈴谷は6月13日にトラック諸島へ入港。17日に出港し、23日に呉に帰投した。主力空母4隻を全て失った帝國海軍は再編成を実施。
7月14日、鈴谷が所属する第七戦隊は第三艦隊に転属。三日後、熊野や護衛とともに柱島を出港してシンガポールに進出。B作戦(インド洋での通商破壊)を行うべく、西進した。
道中の7月29日午前9時5分、残余のオランダ潜水艦O-23から雷撃を受ける。3本の魚雷が向かってきたが、これを回避。護衛の駆逐艦村雨、五月雨とともに爆雷攻撃を行って追い払った。
翌30日16時40分、メルギーへ入港する。しかし通商破壊を実施する前の8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島に襲来。戦線が形成された事で作戦中止。
鈴谷もソロモン方面に派遣される事になり、8月9日に急ぎメルギーを出港。バリクパパンを経由して東進。主力隊と合流しつつ、8月24日に生起した第二次ソロモン海戦に参加する。
海戦後の9月5日、トラック諸島へ入港。約1ヶ月間の休息を得て、10月11日に出港。機動部隊の支援隊として26日に生起した南太平洋海戦に参加。
この海戦では遂に鈴谷も敵機の標的となる。雷撃機が殺到し、7本の魚雷を放たれるが全て回避。だが安心するのはまだ早い。今度は左右から魚雷を放たれ、被弾は免れない状態となった。
木村艦長は「まっすぐ行け」とだけ指示。回避運動を取らず、直進させた。これは部下に責任が行かないよう、わざと適当な指示を出して全責任を負う木村艦長の配慮だった。
しかしここで思いがけない事が起きる。鈴谷に向かっていた魚雷の1本が早期爆発。もう1本は深度を誤り、鈴谷の艦底をすり抜けて行ったのである。幸運に助けられ、鈴谷は戦場より生還した。
10月30日、トラック諸島へ帰投。だが鈴谷の多忙の日々は終わらない。11月3日、重巡摩耶とともにトラックを出撃し、ショートランドに進出。そして14日の第三次ソロモン海戦に参加。
闇夜に紛れてガダルカナル島に接近し、ヘンダーソン飛行場を砲撃。駐機していた敵機を多数破壊せしめたが、重巡の火力ではこれが精一杯だった。翌15日、ショートランドに帰還。
11月18日から12月2日までカビエンに留まった後、前線の拠点を転々とする。3日にショートランド、5日にラバウル、6日から12日までカビエン、13日からロレンゴウに進出。
翌14日にカビエンまで戻り、現地で年明けを迎える。

 

1943年1月4日、カビエンを出港。トラック諸島へと向かう。そこで瑞鶴と合流し、1月7日に出港。呉へと舳先を向け、5日後に入港。激戦の疲れを癒すべく14日から25日にかけて呉工廠に入渠した。
2月5日、駆逐艦天津風に護衛されて呉を出港。10日、再び前線基地であるトラック諸島に舞い戻った。それからしばらく訓練に従事。3月29日、再度呉に戻る。4月27日、入渠して整備を受ける。
5月2日に出渠すると徳島に回航。北方作戦に備えるため横須賀に向かい、5月21日に到着。アッツ島救援作戦の実行戦力に選ばれ待機していたが、作戦中止。30日に横須賀を出港した。
6月11日、呉を出港。トラックに進出し、南東方面の輸送任務に従事する。7月3日、熊野と護衛の駆逐艦有明、新月、涼風とともにトラックを出港。ラバウルへ第五、二八防空隊を輸送した。
一度トラックに戻った後、7月11日にラバウル進出。6日前に発生したクラ湾夜戦の雪辱を晴らすべく、熊野、鳥海、川内、雪風、浜風、清波、夕暮とともに夜戦部隊を編成。
18日にラバウルを出港し、南下した。翌日には第三十駆逐隊と合流。クラ湾方面で遊弋したが、20日午前0時34分頃よりヘンダーソン飛行場から発進してきたB-25爆撃機や海軍機に襲撃される。
空襲により清波と夕暮が沈没、熊野が損傷した。一方的にぶちのめされた鈴谷らはラバウルに退却した。
10月8日、ラバウルを出港しトラックへと向かった。その4日後、ラバウルは米軍機の空襲を受けており、図らずも虎口から逃れる形となった。10月10日、トラックに到着。
10月17日、二度目のZ作戦に参加。戦艦武蔵に率いられ、神出鬼没な米艦隊と決戦を挑むべくトラックを出港。ところが米艦隊の主力艦はハワイに停泊しており、空振りさせられる。
それでもウェーキ島を空襲しに来るかもしれないと、19日に一旦ブラウン島へ入港。23日、出港してウェーキ島に向かった。索敵の結果、敵空母発見できず。失意のまま26日にトラックへ引き返した。

11月3日、連合軍のタロキナ地区上陸を受けて重巡愛宕等とともにトラックを出港。ラバウルに向かっていたが、艦隊がアドミラルティ沖に差し掛かった4日、偵察のB-24に発見される。
5日早朝にラバウルへ到着するまで触接が続いた。決戦戦力をラバウルに集めており、各方面から艦艇が集っていた。
偵察機から報告を受けたハルゼー中将は早速攻撃の準備に取り掛かるが、太平洋艦隊の主力はギルバート作戦に取られており、手元には重巡以上の艦艇が無かった。
そこでシャーマン少将率いる第38任務部隊を起用。ラバウルに全速で接近し、港内とその北方に展開する日本艦隊を攻撃するよう下令した。
そして第38任務部隊による空襲が始まる。同日午前9時、米軍機が殺到。在泊艦艇や施設に対し爆撃を仕掛けていく。艦載機が引き上げて行くと今度はB-24とP-38が襲来。
攻撃は午前11時頃まで続いた。鈴谷はこの空襲を無傷で乗り切ったが、草鹿司令は重巡洋艦をトラックに突きかえす決定を下し、翌6日に損傷した最上を護衛してトラックに向かった。8日着。
12月3日、ルオット島に進出。カビエンへの輸送作戦のため熊野とともに兵員を乗せて、25日に出港。護衛には駆逐艦谷風が付いた。しかし道中の27日、敵機に発見されて反転離脱。トラックまで引き返す。
29日、気を取り直して再び兵員輸送を開始。護衛に駆逐艦満潮を付けてカビエンに向かった。今度は成功し31日に到着。兵員の揚陸を行った。直後、カビエンは米軍機の襲撃を受けたが、
鈴谷らは素早く復路についていたため難を逃れた。年明けをトラックで過ごす。

 
1944~

1944年1月1日、熊野、利根、筑摩で第七戦隊を編成。その頃、アメリカ軍の本格的な反攻作戦が始まり、前線基地のトラックも安全ではなくなりつつあった。古賀司令は新たな防衛線構築のため、
主力隊をパラオへ下がらせる決断を下した。2月1日、戦艦群とともにトラックを脱出。4日に避難先のパラオへ到着した。約二週間後、トラックは米軍機による大空襲に遭い、再起不能となる。
パラオに逃げ延びた鈴谷であったが、ここもあまり安全ではなかった。このため味方の勢力圏の奥深くにあるリンガまで後退する事になり、16日に出港。五日後、リンガに入港し訓練を始めた。
鈴谷が去って約1ヶ月半後、パラオも大空襲に遭っており鈴谷はまた虎口から脱する事に成功した。5月11日、リンガを出港。タウイタウイに回航される。
マリアナ諸島を虎視眈々と狙うアメリカ軍を迎撃する、「あ号作戦」の戦力として待機する。6月13日、タウイタウイ出港。新生機動部隊とともにギマラスを経由してマリアナ諸島に向かった。
出港後から既に米潜水艦の追跡を受けていたが、厳しい燃料事情が邪魔をして積極的な回避運動を取る事が出来なかった。

6月19日、マリアナ沖海戦に参加。第七戦隊も前衛艦隊の護衛としてこの戦闘に参加するが、失態を犯してしまう。前衛の空母から攻撃隊が発艦した後、西方より航空機の編隊が接近した。
本隊から発進してきた航空隊なのだが、瑞鳳が敵機と誤認して対空砲火を上げ始めた。それにつられるかのように周囲の艦も対空砲火を浴びせ、同時に回避運動を行った。
同士討ちである。攻撃された航空隊は慌ててバンク(翼を振って味方である事を示す行為)を行った。これを見て前衛艦隊の栗田司令は射撃中止を命じたが、なかなか要員に伝わらない。
結果、2機が撃墜されるという残念な事態に発展した。唯一戦艦武蔵だけは見張り員が優秀だったため発砲しなかったという。
大した戦果を挙げられないまま虎の子の大型空母を3隻も失い大敗。沖縄の中城湾へ敗走し、マリアナ諸島の失陥が決定的となった。
6月22日、中城湾に到着。そして本土に回航され、25日に呉へ帰投。シンガポールへ届ける陸軍部隊を乗せ、7月8日に出港。16日、シンガポールに着き兵員を揚陸。そのままリンガに回航され、訓練。
9月1日、最後の艦長寺岡大佐が着任。

 

10月17日、アメリカ軍が皇軍の喉元であるフィリピンに上陸。レイテ湾に橋頭堡を築いた。これを迎撃するべく大本営は捷一号作戦を発令。生き残った戦力をかき集め、決死の抵抗を行う。
翌18日、鈴谷はリンガを出発。所属するは主力隊、栗田艦隊。戦艦大和や武蔵が所属する強力な艦隊で、レイテ湾への突入を命じられる。20日、ブルネイに到着し燃料を補給。22日出港。
しかし翌23日、いきなり出鼻を挫かれる事となる。午前5時20分、パラワン水道を通過中、旗艦愛宕より「作戦緊急電発信中の敵潜水艦の感度きわめて大なり」との電令が各艦に走る。
10分後、艦隊は速力を18ノットに上げ、之字運動を開始した。しかし艦隊の前面には米潜デースとダーターが待ち構えていたのである。午前6時30分、魚雷の槍が突き刺さる。
愛宕と摩耶が沈没し、高雄が大破。本格的な戦闘を前に3隻の重巡が失われたのだった。大混乱に陥った栗田艦隊であったが、何とか陣形を建て直し、レイテ湾への突撃を再開した。

10月24日、シブヤン海で任務部隊艦載機による空襲を受ける。敵は栗田艦隊が中核であると知っていたため、苛烈な攻撃を加えてきた。航空攻撃が5回に渡って行われ、妙高が大破。
大和、清霜、長門、利根等が被弾し、攻撃を一手に引き受けていた戦艦武蔵は瀕死の状態となっていた。味方機の援護が無い栗田艦隊は嬲られ続け、一旦突入を断念。
15時30分に反転し、西方へ退却を始めた。体勢を立て直した後、再び東進してサンベルナルジノ海峡を突破しようと試みた。この退却は意外な事に幸運をもたらした。
栗田艦隊を攻撃していたハルゼーは相手の退却を見て、大打撃を与えたと認識。北東より接近していた小沢艦隊に矛先を向けた。見事、囮艦隊に釣られた格好となった。
上空の敵機は全ていなくなり、サンベルナルジノ海峡を固めていた敵がいなくなった。空襲がピタリと止んだため、栗田艦隊はシブヤン海の中央で反転し、突撃を開始した。
一方、連合艦隊は栗田艦隊の退却を知り、既に突撃を再開しているとも知らずに18時13分、「天佑を確信し全軍突撃せよ」と電報を打った。

10月25日午前0時30分、栗田艦隊は最も危険なサンベルナルジノ海峡を突破した。敵機も敵潜水艦の姿も無い。総員戦闘配置のまま、サマール島に沿って南東に針路を取る。
午前5時10分、志摩艦隊から「戦場を離脱、後図を策す」との連絡があり、南方からの突入が失敗に終わった事が知らされる。
夜明けが迫る午前6時43分、水線上に数本のマストを確認。さらに接近すると、その正体は3隻の敵空母である事が判明。この敵をハルゼーの機動部隊と考え、栗田艦隊は突撃を開始。
こちらに気がついた敵空母も盛んに艦載機を放って迎撃を試みる。スプレイグ少将率いる小規模機動部隊と栗田艦隊の戦闘、サマール沖海戦が始まった。
しかし空母と言っても商船を改装しただけで、戦艦大和を擁する栗田艦隊相手では分が悪かった。スプレイグ少将が取った行動は、退避しつつスコールへ逃げ込む事だった。
砲火を浴びながらスコールの中へと逃げ込み、何とか発進させた数機の航空機で栗田艦隊を攻撃した。また敵の駆逐艦ジョンストンが10本の魚雷を放ち、熊野の艦首を大破させる。
戦線離脱を強いられる熊野に代わり、鈴谷は第七戦隊の旗艦を引き継ぐ。午前10時50分、南東方面よりスタンプ隊約80機が増援として現れ、鈴谷、島海、筑摩に攻撃を浴びせる。
左舷中央室付近に至近弾を受け、魚雷に引火し炎上。航行不能となる。船体が右に7度傾いたという。正午、第七戦隊旗艦の座を利根に譲渡したあと、低速のまま陣形の定位置に向け占位運動。
この時、大和の艦橋から、鈴谷の右発射管室より火の手が上がっているのが目撃されたという。そうこうしているうちに左舷の魚雷2本が引火。
その影響で高角砲弾が一斉に爆発し、もはや手が付けられなくなった。30分後、炎をまといながら沈没していった。乗員87名が死亡、564名が行方不明となり、寺岡艦長以下415名が駆逐艦沖波に救助された。
時同じくして最上は死亡し、唯一レイテ沖海戦を生き残った熊野も約1ヶ月後に死亡。こうして最上型は全滅した。笑えないよ!

 

1944年12月20日、除籍。

 

小ネタ

  • 鈴谷型の設計を改修した改鈴谷型重巡洋艦が存在している。1941年の戦時建造計画で2隻の建造が予定され、第300号艦第301号艦の仮称を与えられて1942年4月と6月に起工。
    ところがミッドウェーの敗戦で空母の増産が必要となり、第301号艦は建造中止。姉の第300号艦は工事が続行されたが、1943年5月に進水工事中止。
    一応、伊吹という艦名が与えられ空母への改装が始まったが、終戦までに完成せず戦後に解体された。