No239 エクセター/元ネタ解説

Last-modified: 2019-05-26 (日) 21:32:44
所属Royal Navy
艦種・艦型ヨーク級重巡洋艦
正式名称HMS Exeter (68)
名前の由来City of Exeter イギリス・イングランド・デヴォン州エクセター市
起工日1928.8.1
進水日1929.7.18
就役日(竣工日)1931.7.27
除籍日(除籍理由)不明(スラバヤ沖(第二次)海戦/Second Battle of the Java Sea 1942.3.1沈没)
全長(身長)193.0m
基準排水量(体重)8250英t(8382t)
出力Admiralty式重油専焼缶8基Parsons式蒸気タービン4基4軸 80000shp(81109.6PS)
最高速度32.25kt(59.72km/h)
航続距離14.0kt(25.93km/h)/10000海里(18520km)
乗員628名
装備(1941)8inch50口径Mk.VIII連装砲3基6門
4inch45口径Mk.XVI連装両用砲4基8門
ヴィッカース2ポンド機関砲x24(2x8+2x4)
エリコン20mm機関砲
21inch三連装魚雷発射管2基6門
装甲舷側:3inch 甲板:1.25~1.5inch 砲塔:1inch バーベット:1inch 隔壁:3.5inch 艦橋:1inch 弾薬庫:2.5~4.375inch
建造所Her Majesty's Naval Base, Devonport,Devon
(王立デボンポート海軍基地 イングランド国南西イングランド地域デヴォン州プリマス市デヴォンポート区)
  • イギリス海軍最後の重巡洋艦として1931年に竣工する。
    以降イギリスは各地へ艦艇を配備する都合から軽巡洋艦の建造へ切り替えていった。
  • エクセターは対空機銃の増設や艦載水上機の機種転換などを受けながら第2次大戦を迎え、カウンティ級重巡洋艦カンバーランドとともに南大西洋方面を受け持つG部隊を結成した。
    1939年10月、宣戦布告の1ヶ月後、ドイツ海軍巡洋艦アドミラル・グラーフ・シュペーが南大西洋で通商破壊を開始したことを受けて、G部隊は捜索に乗り出した。
  • シュペーは補給船アルトマルク号と行動を共にしながら商船を拿捕ないし撃沈し、捕虜をアルトマルク号に詰め込んでおよそ2ヶ月間暴れまわったが、12月ついにラプラタ沖にて補足される。
    この時G部隊のカンバーランドは間が悪く整備中だったため、エクセターはリアンダー級軽巡洋艦アキリーズ、エイジャックスと3隻で待ち伏せていた。
  • 指揮官ハーウッド代将はエイジャックスを旗艦とし、軽巡2隻と重巡1隻で挟み撃ちにすると決めていた。
    シュペーは変則的な巡洋艦であるが、ポケット戦艦の名の通り強力な11インチ砲と魚雷を持ち、8インチ砲と6インチ砲しかない英海軍側は火力では圧倒的に不利だったからである。
  • 1939年12月13日午前6時、本国から敵国戦闘艦との交戦を禁じられていたシュペーはそれを破り戦闘を開始した。
    戦わなければ脱出は追撃を振り切ることは出来ないと考えたからである。
    シュペー艦長ラングスドルフ大佐は軽巡洋艦を撃破して脱出しようとしたが、アキリーズとエイジャックスは巧みな操艦でこれを回避している間、エクセターは後方から回り込んでいった。
    気づいたシュペーは目標を切り替えエクセターに集中砲火を浴びせ、エクセターは前部砲塔2基を損傷したが魚雷を発射してなおも食らいついた。
    ラングスドルフ大佐は魚雷艇隊の指揮経験はあったものの大型艦同士の戦闘経験は不足していた。
    一方ハーウッド代将はイギリス海軍大学校で教鞭をとったこともあるベテラン中のベテランだったため、巧みな戦術でシュペーを翻弄し、損傷させた。
    しかしその間エクセターはボコボコに撃たれた。
    主砲が7発も直撃しているが、沈まずに済んだのはカウンティ級以来の生存性を重視した設計と乗員によるダメージコントロール努力の賜物である。
    日本語文献では「カウンティ級に比べて強化された装甲」が要因として挙げられることも多いが、いずれにしてもシュペーの11インチ砲の前には無力である。エクセター自身が出した報告書では、「ユトランド沖海戦の戦訓により主砲塔と弾薬庫の間が強固な防火設計になっていたこと」が挙げられている。
    さらなる被弾により浸水で電源喪失したエクセターは撤退するも、シュペーに大損害を与えたことで最後は自沈に追い込んだ。
  • エクセターは損傷の修復を済ませると本国へ帰還した。帰国一週間前、シュペーの拿捕した船員などを乗せたアルトマルク号は、駆逐艦コサックの移乗攻撃により捕虜を奪還され、イギリス国内は戦勝ムードで沸き返っていた。
    帰国後船員たちは国王ジョージ6世の晩餐会に招かれ、握手で健闘を讃えられた。
    その後本国で本格的な修理と対空兵装の増設が行われる。
  • 1941年再び南大西洋で船団護衛に従事した。
    しかし1941年末、日本が真珠湾攻撃を行うとともにマレー方面へ進出すると、イギリスはオーストラリア、オランダ、アメリカと共にABDA艦隊を結成、エクセターもその一員となる。
    (実は日本は最後までイギリスに正式な宣戦布告を行っていなかった。後に東京裁判で大問題になる)
  • 1942年2月27日に発生したスラバヤ沖海戦でエクセターは缶室に被弾、速力23ktまで低下し一時撤退したが、その間にABDA艦隊は壊滅的な損害を受けた。
    エクセターは駆逐艦エンカウンター、ポープとともに脱出するべく出撃したが、日本軍の追撃を振り切ることが出来ず撃沈された。
    しかし日本軍は手負いのエクセターに対しアウトレンジからの射撃に固執したため、妙高型4隻合わせて主砲1459発と駆逐艦の主砲279発に加え、魚雷を35本も発射して結局主砲命中は数発、魚雷1発と惨憺たる結果であった。
    それでも戦術的、戦略的にも勝利した日本海軍は「同盟国ドイツの戦艦シュペーの仇討ち」とエクセター撃沈を大々的に発表している。

その後

  • 撃沈されたエクセター及びエンカウンターの乗組員は海上を漂流していたが、午後10時頃日本軍の駆逐艦雷およびによって救助された。
    英海軍はこの救助に深く感謝し、日本側もまた救助にあって冷静沈着・規律をよく守る英海軍を見て感銘を受け、両者はすっかり打ち解けて艦内に軍規を厳守せよと命令が出るほどであった。
    その後捕虜としてオランダの病院船オプテンノールに勾留されたが、この際オランダ側から病院船は捕虜収容所ではないと抗議を受けている。
    (オプテンノールはその後紆余曲折を経て日本側に接収され、第二氷川丸として終戦まで病院船として使われた後、終戦後に舞鶴沖で自沈させられた。当然オランダに怒られ、1978年に見舞金1億円で決着した)