No249 ライプツィヒ/元ネタ解説

Last-modified: 2019-05-06 (月) 14:01:40
所属Reichsmarine→Kriegsmarine(1935)
艦種・艦型ライプツィヒ級軽巡洋艦
正式名称Leipzig
名前の由来Leipzig ドイツ連邦共和国ザクセン州ライプツィヒ市
起工日1928.4.28
進水日1929.10.18
就役日(竣工日)1931.10.8
除籍日(除籍)1945.12.20(1946.7.20自沈処分)
全長(身長)177.0m
基準排水量(体重)6310英t(6411.3t)
出力Schulz-Thornycraft式重油専焼缶6基Germania式蒸気タービン4基2軸65585PS(64687.8shp) MAN製7気筒ディーゼルエンジン4基1軸 12400PS(12230.4shp)
最高速度32.0kt(59.26km/h)
航続距離17.0kt(31.48km/h)/6500海里(12038km)
乗員534~850名
装備(竣工時)15cm60口径SK C/25三連装砲3基9門
8.8cm76口径SK C/32高角砲4基4門
3.7cmSK C/30機関砲x8(4x2)
2cmC/30機関砲x14
50cm三連装魚雷発射管4基12門
装備(改装後)15cm60口径SK C/25三連装砲3基9門
8.8cm76口径SK C/32連装高角砲4基8門
3.7cmSK C/30機関砲x8(4x2)
2cmC/30機関砲x14
53.3cm三連装魚雷発射管4基12門
艦載機x2
装甲舷側:76~101mm 甲板:20~50mm 砲塔:50mm バーベット:30mm 艦橋:30~100mm
建造所Kriegsmarinewerft,Wilhelmshaven
(ヴィルヘルムスハーフェン海軍造船所 ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州ヴェルヘルムスハーフェン市)

ドイツ海軍が建造したライプツィヒ級軽巡洋艦一番艦。ドイツ海軍が最後に建造した軽巡洋艦である。頭文字を取ってL級軽巡洋艦とも。二番艦にニュルンベルクがいるが、武装の違いから別級とされる事も。
艦名の由来はザクセン州南部にある都市ライプツィヒから。スラブ語で「西洋菩提樹の地」を意味する。見本市やサッカーで有名。
ケーニヒスベルク級の改良型で、電気溶接が船体の90%以上に渡って使われている。
ベルサイユ条約に則って排水量は6000トンと発表されたが、実際は6710トンあった。諸元は全長177メートル、幅16.2メートル、出力6000馬力、速力32ノット。
船体には軽くフレアーが施され、水線下にはバルジを兼ねた重油タンクが備え付けられた。ケーニヒスベルグ級にあった構造的欠陥を改善するべく煙突を1本にまとめ、第二と第三砲塔を中心線上に装甲を配置・拡大している。これにより三番砲塔の連続使用による上部構造物へのダメージを防いだ。
主砲の旋回、俯仰、砲弾の揚弾及び装填は主に電力で行われたが、補助に人力を必要とした。ヴェルサイユ条約に縛られたドイツ海軍は機雷戦を重要視しており、120個の機雷が搭載可能だった。

再軍備宣言後は航空兵装を追加し、艦橋後部にカタパルトを搭載。その後ろに艦載機回収用のクレーンが増設された。高角砲は8.8cm連装砲3基に換装され、強化。そしてアラド水上機を2機搭載した。
魚雷発射管にも強化が施され、数と位置はそのままに53.3cm三連装発射管に刷新。より強く生まれ変わった。しかし重装備化はトップヘビーを招き、航海能力の低下を強いられた。

 

海軍軍令部総長ハンス・ツェンカー大将の提議を受け、第四次ヴィルヘルム・マルクス中央内閣の国防相グレーナー陸軍中将が建造を決定。
1928年計画の小型巡洋艦Eとして1927年10月25日に発注。エムデンにはAを、ケーニヒスベルク級3隻にB~Dを振ったため、ライプツィヒにはEのコードネームが与えられた。
1928年4月18日、ヴィルヘルムスハーフェン工廠で起工し、1929年10月18日に進水。1931年10月8日に竣工した。ライプツィヒの名を冠する三代目の艦として誕生するに至った。
1934年、軽巡洋艦ケーニヒスベルクとともに、かつての敵国イギリスを訪問しポーツマスに入港。第一次世界大戦後、初めて公式に訪問した艦となった。
同年後半、ヒトラーの再軍備宣言に伴ってライプツィヒは入渠。条約違反の航空兵装を追加した。翌年初頭、ドイッチュラントケルンとともに訓練。訓練中の艦艇をヒトラーが視察した。
1936年に入り、大西洋で訓練していたライプツィヒだったがスペイン内戦が勃発。8月20日からビスケイ湾で哨戒任務と砲撃に従事した。
1937年6月下旬、共和国軍から雷撃を受ける。被害こそ無かったが、ドイッチュラント事件に続いて二度目の共和国軍の攻撃を受けたドイツは憤怒。
これを機にドイツとイタリアの艦艇はスペイン近海から撤退した。本国に戻ったライプツィヒは1938年までバルト海で訓練。1939年3月、メーメルの併合に参加。翌月、大西洋でUボートと訓練。

 

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドを侵攻し第二次世界大戦が勃発する。ライプツィヒはバルト海に進出し、ポーランド海軍の脱出を阻止する。
次に北海へ向かい、他の軽巡洋艦と一緒に防御の機雷を敷設した。この作業は9月末まで続き、以降はバルト海にて訓練を行った。
同年11月7日、練習艦ブレムゼと衝突事故を起こすが軽傷で済む。21日夜、スカゲラク海峡で通商破壊を行うべく、ドイッチュラントとケルン、魚雷艇3隻と行動を共にするが荒天により断念。
27日、ライプツィヒは戦艦グナイゼナウシャルンホルストを護衛する任務に就く。スカゲラクを突破し、2隻の帰還を手助けした。

12月13日、偵察艦隊司令官ギュンター・リュトイェンス中将に率いられたライプツィヒ、ニュルンベルグ、ケルンは北海に進出していた。
リュトイェンスはこの海域が安全であるとは思っておらず、潜水艦を警戒してジグザグ航行に徹していた。彼らの任務は、機雷を敷設し終えた5隻の駆逐艦を迎えに行く事だった。
午前10時45分、英潜水艦サーモンに発見される。ビックフォード少佐は潜望鏡に3隻の巡洋艦を認めた。巡洋艦は安全な場所にいたが、突然変針してサーモンの方へやって来た。
午前11時24分頃、ようやく上空援護のHe-115が2機飛来し対潜警戒を行った。だが時既に遅し。魚雷の発射準備を整えたサーモンはその牙をライプツィヒに剥いた。
ヘリゴランド・バイト付近で魚雷を艦体中央部に受けて大破。15名が死亡し、艦首を切断する大怪我を負った。雷撃を受けたリュトイェンスはニュルベルングとケルンに左へ回頭するよう命じるも、
ニュルンベルグにも魚雷が命中。艦首をもぎ取られた。2時間後、味方の駆逐艦が現れた。かろうじて航行可能だったため護衛艦を伴って退却を始めたが、翌日には英潜水艦アースラに雷撃される。
幸いにも外れたが、流れ弾となって護衛のF9が撃沈されている。命からがらハンブルクへ逃げ込み、キール軍港のドイチェヴェルケ造船所に入渠する。2ヶ月半後、レーダー提督はこう漏らした。
「12月13日のように巡洋艦を駆逐艦ないしはその他軽艦艇の援護に使用する事は、正しくないと判明した」。

 

あまりの損傷の大きさに修理不能と判断され、1940年2月27日に退役が決定してしまった。機関も4つ取り外され、再び戦う事は困難に見えた。
だが同年4月に生起したノルウェー侵攻作戦ことヴェーゼル演習で状況が一変。多くの保有艦艇を喪ったドイツ海軍は急遽、ライプツィヒの再就役を決める。
9月、ダンジグ砲兵隊の訓練艦兼魚雷標的艦となる。12月1日、破損したボイラー室を士官候補生の居室に転用した上で復帰(定員100名)。練習艦として運用される。
損傷が激しくて外洋航海は無理だが、バルト海程度なら航行できたため護衛任務に投入される事があった。6月11日、通商破壊を行うべくソムレアーズ作戦に参加。キール軍港を出撃した。
1941年6月12日、艦隊の中核である重巡リュッツオウをノルウェーまで護衛中、英空軍機の雷撃を受ける。敵機を友軍機と勘違いしていたリュッツオウは内懐へ飛び込まれ、無抵抗のまま大破させられた。
ライプツィヒは、傷付いたリュッツオウを守りながら周辺に目を光らせる。応急修理の結果、自力航行が可能となり退避を始める。
道中、英空軍による空襲が4回も行われたが、何とか切り抜ける。更にドイツ空軍の戦闘機が救援に駆けつけた事で乗員の士気も上がった。しかし結局ノルウェー行きを断念し、出発点のキールへ引き返す。
未だに機会を狙うイギリス軍に警戒しながら、リュッツオウを無事にキール軍港まで送り届けた。改装で増設した対空砲が生還の一因だったと言われている。
軽巡洋艦エムデンと合流したのち、バルバロッサ作戦に参加。ドイツ陸軍北方軍集団を支援するため対地砲撃を行った。続いて西エストニア諸島とバルト諸島の攻略を支援。
ムーン島のソ連軍陣地を砲撃したが、ソビエトの潜水艦Shch-317に妨害されて上手く行かなかった。9月27日、継続戦争のオーゼル島上陸作戦に参加。
同時に、バルト海のソ連軍艦隊の脱出阻止を命じられる。エムデンと協同でロシア沿岸を砲撃し、停泊していた魚雷艇MTB83を撃沈する。10月に入るとキールへ戻った。
10月、バルチックに係留されているソ連艦隊を威圧するためアドミラル・シェーア等と大演習を行う。11月から艦隊に随伴する練習艦となる。

 

1942年、ライプツィヒは練習艦隊の旗艦に就く。年内は訓練に従事し続けた。
ところが同年12月に生起したバレンツ海海戦の結果に激怒したヒトラーによって最前線から退き、後方で活動するようになる。
1943年3月、旗艦の任を解かれたが8月1日に再び就任した。しかしオーバーホールが必要だったため復帰が大幅に遅れた。髄膜炎で乗員2名が死亡し、さらに遅延が発生。
1944年、廃艦となった巡洋戦艦グナイゼナウから533mm水上魚雷発射管4連装2基8門が移され、雷装が大幅に強化された。その代償として対空砲が減らされてしまっている。
改装を終えて復帰したのは1944年9月だった。前より乗員の数が減らされていた。リハビリとして、アドミラルシェーアとともにゴーテンハーフェン及びシュヴィーネミュンデ間で兵員輸送を行った。

 

半年間の訓練を終えたライプツィヒは10月15日夜、シュヴィーネミュンデで機雷を搭載するため、グディニアを出港。夕暮れのバルト海を航海していた。
ヘラ半島を通過する頃、空が急に雲で覆われ、視界が悪くなった。そこへディーゼルエンジンをプロペラ軸から脱の状態にし、タービンと連結せよとの命令が下る。これは洋上での停止を意味していた。
今夜は非常に暗く、霧も深かった。わずか50メートル先しか見えない程だったという。機関を停止したのは、ソ連の潜水艦が出現したとの報告があったからだった。
ライプツィヒは全て消灯し、海流に流されるままの幽霊船となった。数十人の乗員は不安な面持ちで周囲の暗闇を覗いていた。20時、100人の候補生が見張りの交代を行った。
それから4分後、非常に大きな衝撃が襲った。耳をつんざく音とともに左艦橋が裂け、作業所が跡形もなく潰れた。電力が一気に失われ、非常用電源も役に立たなかった。
指揮所にいた士官の航海日誌には「魚雷が命中」と書かれた。通信装置は軒並み破壊されたが、唯一伝声管のみ生き残った。それを使い、先任士官は指揮所にどなった。「プリンツ・オイゲンが衝突した!」

ヘラ島北方でプリンツ・オイゲンに衝突され、艦橋と煙突の間にオイゲンの艦首がめり込んだ。高角砲員は文字通り潰され、艦首は中央線まで達した。
第三機械室では破壊されたボイラーから噴き出す高圧蒸気で機関要員全員がやけどを負った。士官候補生の居室にも海水が流れ込んだが、交代で丁度無人だったので助かった。
このダメージで竜骨が折れ、航行不能となる。同時に19名の死者を出し、軍艦として再起不能になってしまう。衝突した格好で14時間が経過。ようやく曳航され、何とかゴーテンハーフェンに帰投するが、
もはや浮き砲台になるしかなかった。東部戦線の絶望的状況を鑑み、2月までに砲台として稼動できるよう修理が施された。

迫り来る連合軍に対し砲撃で応戦、ドイツ軍守備隊に火力支援を行った。1945年3月11日、アメリカ第8空軍所属のB-17から爆撃を受けて大破。*1
3月24日、満身創痍のままゴーテンハーフェンの戦いに参加。896発の砲弾を発射し、抵抗。25日、ハンニバル作戦で救出された難民を抱えてアペンラーデに曳航された。
連合軍の激しい空爆から逃れるためデンマークへの退避が決定。わずか6ノットしか出せず、道中でソ連軍機や敵潜水艦に何度も襲撃されたが、4月29日に到着した。そして現地で、5月9日の敗戦を迎えた。
第三帝国が解体される23日まで、ライプツィヒは難民や負傷者の収容所となっていた。6月21日、イギリス軍は北海とバルト海の機雷を掃海するためドイツ人の掃海部隊を編成。
危険な掃海任務をドイツ人に行わせようとした。数少ない大型艦であるライプツィヒは損傷が酷い事から、兵舎として活用された。そしてドイツ本土沿岸に敷設された機雷の掃海に従事する。
6月30日からはソ連軍に接収され、艦長や乗員を使役してソ連兵の宿泊艦となる。

1945年12月20日、除籍。船体はシュヴィーネミュンデに回航された。ソ連軍はライプツィヒを自軍に編入して運用しようと考えたが、損傷の激しさが仇となり断念。

 

1946年7月20日、ライプツィヒは3隻の船に曳航され、ヴィルヘルムスハーフェン沖まで曳航される。そして他の廃艦とともに一列に並べられると、毒ガス弾を搭載した状態で海没処分された。


*1 資料によってはここで戦没したとするものも。