所属 | Norddeutscher Lloyd→大日本帝國海軍(1942) |
---|---|
艦種・艦型 | 客船シャルンホルスト→航空母艦神鷹(1943) |
正式名称 | Scharnhorst→神鷹(しんよう)(1943) |
名前の由来 | Gerhard Johann David von Scharnhorst(1755-1813) プロイセン陸軍中将 参謀本部制度の生みの親であり、後任のグナイゼナウと共にプロイセン軍の軍制改革に多大な影響を及ぼした。 →神鷹 漢成語で神の鷹という意味 |
起工日 | 1934 |
進水日 | 1934.12.14 |
就役日(竣工日) | (1935.4.30) |
日本海軍移籍日 | 1942.6.30 |
除籍日(除籍理由) | 1944.8.10(マリアナ沖海戦/英Battle of the Philippine Sea 1944.6.20沈没) |
全長(身長) | 198.725m→198.34m(1943) |
基準排水量(体重) | 18300英t(18593.7t)→17500英t(17780.8t)(1943) |
出力 | Wagner式重油専焼缶4基 →ロ号艦本式重油専焼缶3基AEG式タービン発電機2基電動モーター2基(ターボ・エレクトリック方式)2軸 26000PS(25644.3shp) |
最高速度 | 21.0kt(38.89km/h) |
航続距離 | 18.0kt(33.33km/h)/8500海里(15742km) |
乗員 | 281名(客船) 834名(空母) |
装備(1943) | 40口径八九式12.7cm連装高角砲4基8門 九六式25mm機銃x42(10x3+12x1) 爆雷投下台1基 艦載機x27+6 |
装甲 | なし |
建造所 | Deutsche Schiff- und Maschinenbau, AG Weser, Bremen (ドイツ船舶・機械製造グループ ウェーザー社 ドイツ連邦共和国ブレーメン州ブレーメン) |
改装 | 呉海軍工廠 (現 ジャパン マリンユナイテッド社呉工場) (日本国広島県呉市) |
- 日本海軍の改造空母。元はドイツの客船「シャルンホルスト」だが、数奇な運命により日本で軍艦として生まれ変わることになった。
なお、書類上は大鷹型航空母艦に分類されているが、設計上の分類としての大鷹型(新田丸級貨客船を改造した大鷹、雲鷹、冲鷹の3隻)との直接的な繋がりは当然ない。この点は瑞鳳型などと同じ、あくまで出自が同じ艦船を同型と分類しただけである。
日本の商船改造空母について
- 厳密にはシャルンホルスト=神鷹は該当しないが、コンセプトや問題点などは共通しているのでここに記す。
- 日本海軍は戦前、漸減迎撃作戦*1を軸に軍備を整えていた。当時はまだ航空機の性能が低く、戦艦に取って代わるほどの主力兵器になり得るとは考えられていなかった空母だが、偵察や漸減攻撃のために日本海軍は少しでも多くの空母を欲した。
しかし、ワシントン海軍軍縮条約によって空母の総排水量などに制限がかかり、無制限に空母を持つことは出来なくなってしまう。続くロンドン海軍軍縮条約ではワシントン軍縮条約で見逃されていた小型空母まで制限対象になるなど、抜け穴も次々と塞がれてしまった。 - そこで日本海軍は、新たな抜け道を思いついた。それは「予め別の軍艦・商船として建造し、必要に応じて空母に改造する」というものである。軍用艦艇でも剣埼型潜水母艦(→祥鳳型空母)や千歳型水上機母艦(→千歳型空母)などが予め空母に改造可能なように設計・建造されたが、民間の商船に対しても空母改造可能な設計の船舶に補助金を出して建造を推し進めていた。
- アメリカやイギリスでも短期間での航空戦力増加を求めてこうした商船改造空母は存在したが、これらは主に船団護衛用の護衛空母として就役した(ボーグ級などが典型例。なおカサブランカ級などは新規設計で最初から護衛空母として建造されたので改造空母ではない)。
一方、日本海軍ではこうした商船改造空母も正規空母*2と同様に艦隊戦力として運用しようと考えていた。 - しかし、これらの商船改造空母には大きな問題があった。大きさと速度である。
根本的に空母というものは、滑走路(飛行甲板)が船体の長さまでしか取れないという絶対的制約が存在する。そのため、発艦時には空母自身が風上に向けて全速力で航行し、これによって生み出す風と航空機の滑走で生み出す風を合わせて(合成風力)揚力を確保しないと飛行機が飛び立てないので、飛行甲板を長く取ることが出来て合成風力も生み出しやすい大型・高速な空母ほど航空機の運用能力に関しては絶対的に有利なのである。
商船改造空母は船体の構造や機関の都合上、必然的に小型・鈍足のものが多かった(飛鷹型は例外)。そして急速に進化する当時の航空機は大型化・大重量化が進んでいたため、商船改造空母ではこれらの新型機をまともに運用できないという、空母として致命的な問題を抱えてしまったのだ。- ゲーム的に例えれば「飛行機の重量や翼の面積で必要ポイントが決まり、『飛行機の速度』『空母の速度』『滑走路の長さ』でポイントを稼ぐ。必要ポイントは飛行機が軽くて翼が大きいほど少なくて済み、飛行機や空母は早いほど、滑走路は長いほど高ポイント。ポイントが足りれば離陸(発艦)成功、足りなければ海にダイナミック入水」といった感じ。小型・鈍足な商船改造空母は『空母の速度』『滑走路の長さ』の2点で致命的にポイントが稼げないのだ。
ちなみにボーグ級などの連合軍護衛空母は日本の商船改造空母より小型だったが、こちらは日本が開発に失敗した油圧カタパルトを装備している。このため『飛行機の速度』を引き上げて無理矢理ポイントを稼ぐことが出来たので、FM-2やTBFなどの一線級の機体を運用出来た。……のだが、シーファイアやSB2Cなど高翼面荷重の機体や安定性に問題のある機体など正規空母用の機体でも何でも運用できたと言うわけでもない。
- ゲーム的に例えれば「飛行機の重量や翼の面積で必要ポイントが決まり、『飛行機の速度』『空母の速度』『滑走路の長さ』でポイントを稼ぐ。必要ポイントは飛行機が軽くて翼が大きいほど少なくて済み、飛行機や空母は早いほど、滑走路は長いほど高ポイント。ポイントが足りれば離陸(発艦)成功、足りなければ海にダイナミック入水」といった感じ。小型・鈍足な商船改造空母は『空母の速度』『滑走路の長さ』の2点で致命的にポイントが稼げないのだ。
- 結局これらの商船改造空母は飛鷹型を除き、航空機用の輸送艦程度にしか使うことは出来なかった。
大戦後期には連合軍に倣ってこれらの改造空母を船団護衛に転用したが、対潜装備やノウハウの不足から全く戦果を挙げることなく、逆に次々と連合軍潜水艦部隊の餌食にされてしまった。
神鷹(シャルンホルスト)について
- 繰り返しになるが、元はドイツで建造された大型客船「シャルンホルスト級」の1番船「シャルンホルスト」。1935/4/30竣工。
当時最新鋭の大型客船として世界中の注目を集め、日本でもこれに対抗すべく新田丸級貨客船が建造された。 - 1939年、極東航路に投入されていたシャルンホルストは航海の途中、神戸港に寄港する。次の目的地であるシンガポールを目指して8/16に出港したが、直後に第2次世界大戦が勃発し、神戸港に帰還。本国までの多くの拠点がイギリスに抑えられていたため帰国もままならなくなったシャルンホルストはそのまま神戸港に抑留されることになってしまった(乗客・乗員はソ連を経由して帰国)。
- その後、日本もまた太平洋戦争に突入。しかし1942年6月のミッドウェー海戦で空母4隻を失う惨敗を喫し、早急な空母戦力の再建を迫られることになる。
そこで目に留まったのが、3年近く放置されていたシャルンホルストだった。日本政府は無駄に浮き続けるしかないシャルンホルストの譲渡をドイツ政府に申し入れ、戦後に代金を支払う条件で交渉に成功する。 - 日本海軍は早速シャルンホルストを呉に回航し、空母改造に着手。もともと日本の船ではなかったものの、幸い前述の新田丸級貨客船がシャルンホルスト級と酷似していたため、これをベースに改造を行うことになった。また、改造時には111号艦(大和型戦艦4番艦。建造中止・解体済)の資材が流用された。
- 空母への改造は12/15に完了し、ここで正式に神鷹と名を改める。
しかし、実戦投入はまだ先の話になってしまった。シャルンホルスト級に使用されていたワグナー式ボイラーが当時の日本の技術力ではまともに運用・整備が出来ず、これを国産のボイラーに入れ替える工事が必要になってしまったのだ。
その後も不具合が続出し、まともに任務に入れたのは1944年に入ってからのことである。 - 神鷹はシーレーン防衛のための海上護衛総隊に所属し、船団護衛の任務に従事。主にシンガポールと本土を結ぶ「ヒ船団」の護衛を担当した。
しかし、この頃には戦局は相当悪化しており、アメリカ軍の潜水艦による活動は活発の一途をたどっていた。もとより対潜ノウハウの不足していた日本軍は対抗しきれず、護衛も虚しくシーレーンは次々と食い破られ、多くの輸送船が海の藻屑へと変えられてしまう。
神鷹も何度か敵潜水艦撃沈を報告はしているが、いずれも対応するアメリカ軍潜水艦の損害記録がなく、誤認とみられる。 - そして1944年11月、神鷹はレイテ島への増援部隊をマニラに送り届けるヒ81船団に参加。この船団は精鋭の陸軍第23師団を輸送し、大型タンカーや陸軍特殊船などの高性能船舶を集めた有力な輸送船団で、神鷹は対潜哨戒機として九七式艦攻を搭載して護衛にあたった。
- しかし、アメリカ軍は暗号解読などによりヒ81船団の動向を察知し、複数の潜水艦部隊(ウルフパック)による猛攻を仕掛ける。
まずは11/15に陸軍揚陸艦「あきつ丸」が潜水艦「クイーンフィッシュ」の雷撃を受け、轟沈。船団は退避したものの11/17に再び発見され、対潜哨戒機が着艦せざるを得なくなった日没を狙った潜水艦「ピクーダ」の魚雷が陸軍揚陸艦「摩耶山丸」の脇腹を食い破り、これも轟沈する。 - そして同日夜、今度は護衛たる神鷹が潜水艦「スペードフィッシュ」に狙われてしまった。午後11時頃、スペードフィッシュの放った魚雷4本が神鷹を直撃。航空燃料に引火して炎上し、30分後に沈没した。
間の悪いことに、破壊された燃料タンクからガソリンが海面に広がって炎上してしまい、海に投げ出された生存者を無慈悲に焼き尽くした。夜間だったこともあり、1,160名の乗員の中で生き残れたのはわずか60名に過ぎなかった。
1945/1/10、除籍。- 神鷹含む3隻の沈没により、6,000人以上が戦死。輸送中の第23師団は司令部要員多数を含む大半の兵力がレイテ到着前に失われ、大幅に戦力が低下。立て直す間もなく翌年1月のアメリカ軍上陸を迎え、苦しい戦いを強いられることになる。
小ネタ
- シャルンホルスト級には2番艦「グナイゼナウ」、3番艦「ポツダム」もおり、どちらもドイツで航空母艦へ改造される計画があった。こちらは神鷹への改装工事より遥かに大規模なものとなり、グラーフ・ツェッペリンを小型化したような艦形になる予定だった。艦名はグナイゼナウが「ヤーデ」、ポツダムが「エルベ」になり、改装工事も始まろうとしていたが、グナイゼナウは1942年12月3日に、グラーフ・ツェッペリンの工事を優先させるために中止。ポツダムは12月1日から改装工事を始めたが、大型艦建造中止命令を受けて1943年2月2日に中止となった。