No39 ウィチタ/元ネタ解説

Last-modified: 2018-11-18 (日) 02:21:14
所属United States Navy
艦種・艦型重巡洋艦ウィチタ
正式名称USS Wichita (CA-45)
名前の由来City of Wichita アメリカ合衆国カンザス州セジウィック郡ウィチタ市
起工日1935.10.28
進水日1937.11.16
就役日(竣工日)1939.2.16
退役日(除籍後)1947.2.3 1959.3.1除籍(1959.8.14売却後解体)
全長(身長)185.42m
基準排水量(体重)10589英t(10759t)
出力Babcock&Wilcox式重油専焼缶8基Parsons式蒸気タービン4基4軸 100000shp(101387.0PS)
最高速度33.0kt(61.11km/h)
航続距離15.0kt(27.78km/h)/10000海里(18520km)
乗員929名
装備(1945)8inch55口径三連装砲3基9門
5inch38口径Mk.12単装両用砲8門
ボフォース40mm機関砲x32(4x4+2x8)
エリコン20mm機関砲x20
艦載機x4
装甲舷側:6.4inch 甲板:2.25inch 砲塔:8inch 艦橋:6inch
建造所Philadelphia Naval Shipyard, Philadelphia, Pennsylvania
(フィラデルフィア海軍工廠 アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア郡フィラデルフィア市)
勲章Navy Combat Action Ribbon
American Defense Service Medal(Fleet clasp)
American Campaign Medal
Asiatic Pacific Campaign Medal(11 stars)
European-African-Middle Eastern Campaign Medal(2 stars)
World War II Victory Medal
Navy World War II Occupation Medal(ASIA clasp)
Philippine Presidential Unit Citation
Philippine Liberation Medal
  • ニューオーリンズ級の8番艦として計画されていたが、船体に余裕のあるブルックリン級を流用して重巡洋艦化するという、いわば試作タイプとして制作された。
    このため同型艦がいない。
    もともとブルックリン級は日本の最上型軽巡を意識しており、最上型が将来的に重巡へのアップデートを見越していたことを考えると、ウィチタにもそんなに無理なことではなかった。
    三連装8インチ砲3基のほか、それまでの25口径5インチ高角砲から38口径5インチ単装両用砲にパワーアップされたものを8基搭載。
    そのうち2基を主砲の真後ろに直線状に配置するという手法を重巡洋艦として初めて採用し、空いた舷側に40mm機銃と20mm機銃を3割増しで配備した。
    またゲームでは何故かニューオーリンズ級より耐久や装甲が下がっており本人も防御面を気にしているが、
    実際にはニューオーリンズ級どころか、ブルックリン級より砲塔や舷側装甲は厚くなっている。
    重巡洋艦は従来煙突周辺など艦の中央部へ航空機格納庫とカタパルトを設けていたが、ブルックリン級の運用実績も踏まえ水上機の設備は艦尾に置いた。
    後にカタパルトをひとつ下ろして対空機銃を増設している。
  • ドイツの宣戦布告により第二次世界大戦が勃発した当時はまだ就役訓練中だったが、大西洋でパトロールなどに従事する。
    1940年になるとドイツがフランスに侵攻し世界情勢が重大な局面を迎える中、もう一つの戦いが南アメリカで始まった。
    ドイツが巧みなプロパガンダ放送を通じて中南米諸国へ働きかけを行うと、アメリカは危機感を募らせた。
    折しも前年ウルグアイの首都モンテビデオにドイツ軍のポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーが自沈していたこともあり、
    中南米諸国は報復措置として、自国の海上輸送が無差別通商破壊の標的にされることを恐れていた。
    そこでアメリカ軍はプロパガンダとして、見栄えの良い威風堂々たる軍艦を中南米諸国に巡遊させ、航路の安全を守ることをアピールすることを思いつき、
    この任務にうってつけの堂々たる軍艦、すなわち重巡洋艦2隻を指名したのだった。
    それがウィチタとクインシーである。
    かくて2隻は自由と正義を広めて中南米諸国を巡った。
  • 1942年までは大西洋側で船団護送などに従事し、PQ17船団にも参加。43年以降は太平洋戦線に繰り出され、持ち前の対空火器で護衛として力を発揮した。
    レイテ沖海戦では囮となる小沢艦隊を追撃し、空母千代田を撃沈する。水上砲戦で空母が撃沈されたのはこれが最後であった。その後救援に向かってきていた五十鈴等の艦隊を発見、これに攻撃を開始すると、五十鈴他を逃がすため単騎転身して突っ込んでくる駆逐艦初月と交戦。これを撃沈した。
    その後はフィリピン沖で特攻機迎撃などを行っていたが、度重なる作戦により推進軸の一本が破損したため本国で修理を受けるべく帰還。修理完了後沖縄戦に参加し、無事終戦を迎えた。
    ミサイル巡洋艦への改装の候補に挙がったこともあったが実現せず、1959年除籍、スクラップとして売却、解体された。