No473 シピオーネ・アフリカーノ/元ネタ解説

Last-modified: 2022-03-03 (木) 18:29:16
所属Regia Marina
艦種・艦型カピターニ・ロマーニ級軽巡洋艦→シャトールノー級軽巡洋艦(1948)→艦隊護衛艦(1954)
正式名称Scipione Africano→S.7(1948.8)→Guichen (D 607)(1948.9)
名前の由来Scipio Africanus 「大スキピオ」としても知られる共和政ローマの軍人、政治家 第二次ポエニ戦争でハンニバルを下したカリスマ的用兵家
→Luc Urbain de Bouëxic, comte de Guichen アメリカ独立戦争時にイギリスと海戦を繰り広げたフランス海軍軍人・提督
起工日1939.9.28
進水日1941.1.12
就役日(竣工日)1943.4.23
除籍日1948.8.8
仏海軍再就役1948.8.
艦隊護衛艦改装1954.
除籍日(その後)1976.6.1(1982.解体)
全長(身長)142.2m→141.8m(1954)
基準排水量(体重)3750英t(3810.2t)
出力Thornycroft式重油専焼缶4基Persons式蒸気タービン4基4軸 110000shp(111525.7PS)
最高速度41.0kt(75.96km/h)→39.0kt(72km/h)
航続距離18.0kt(33.33km/h)/4350海里(8056.2km)→18.0kt(33.33km/h)/3600海里(6700km)
乗員418名→353名(1954)
装備(建造時)135mm45口径Mle1938連装砲4基8門
ブレダ37mm機関砲x8
ブレダ20mm機関砲x8(4x2)
533mm四連装魚雷発射管2基8門
機雷x70
装備(1954)10.5cm65口径SK C/37連装砲3基6門
ボフォース57mm60口径Mle1951対空連装砲5基10門
550mmMleKT50三連装魚雷発射管4基12門
装甲砲塔:6-20mm 司令塔:15mm
建造所Cantiere navale fratelli Orlando, Odero Terni Orlando, Livorno
(オデーロ・テルニ・オルランド社オーランド・ブラザーズ造船所 イタリア共和国トスカーナ州リヴォルノ県リヴォルノ)
  • シピオーネ・アフリカーノはイタリア軽巡「カピターニ・ロマーニ級」の一隻。
    Capitani Romani(ローマの隊長)」から名付けられたうちの一人で、ハンニバルを下したことで知られる「大スキピオ」ことスキピオ・アフリカヌスが名前の由来。
  • 建造計画自体はぎりぎり開戦前の1938年立案で、起工は開戦からひと月弱経過した39年9月末。
    しかし英仏からのイタリア制裁によって建材となる高張力鋼板が不足し、進水は41年1月、就役に至っては43年4月と遅れに遅れてしまった(結局就役から半年も経たずしてイタリアは降伏してしまう)。
  • 就役してまもなく演習に参加。
    しかしすでにこの頃連合国軍によるイタリア侵攻は間近といったところで、シチリア島と半島の狭間のメッシーナ海峡も制海権が危うくなりつつあったため、シピオーネは一大軍港であるタラントに増援として移ることとなった(=「スキュラ作戦」)。
  • 7月にはメッシーナ海峡に到達、同地を通過中にシピオーネに装備されていたイタリアでも数少ない水上捜索レーダー「Gufo」が敵艦を探知した。
    探知されたのはイギリスの高速魚雷艇で、レーダー探知で有利な位置取りに付けることのできたシピオーネはほぼ一方的な戦闘を行った。
    最高航速40ノット超の高速性も功を奏し、英魚雷艇撃破後にはタラントに無事到着できた。
  • タラント到着後、ポンペオ・マーニョら姉妹艦とも合流し、シチリア島からの撤退のための下準備として機雷敷設などを行っていたが、9月に休戦を迎える。
    政府首脳の退避に駆り出されるなどでイタリア沿岸をせわしなく動き回るさなか、イタリアの一方的な枢軸国離脱を受けて敵対行動に出たドイツの海空襲撃を幾度か受けたが、被害は軽く済むにとどまった。
    最終的に実質的な政府首班となったバドリオ元帥を載せてマルタ島に向かい、現地で降伏文書を携えた英戦艦ネルソンと合流、文書調印が行われここにイタリアは正式に連合国に対して無条件降伏した。
    以降シピオーネは連合国側の艦艇となって作戦行動を支援したほか、特使を載せてあちらこちらを駆けずり回った。
  • 1947年のパリ講和会議を経て賠償艦となることが決まったシピオーネは、48年8月にイタリア海軍を退役とされ、一時的に「S.7」の艦名とされた状態でフランスのトゥーロンに回航、同月末にフランス海軍へ移籍した。
  • 名称を「ギシャン」*1に改め、フランスへの金塊輸送任務などに従事。
    1951年からは大規模な改造工事を経て電子兵装と対空火器を強化した姿に生まれ変わった。
    その後も指揮艦機能追加の改修もはさんで大西洋軽巡戦隊の旗艦にまでのぼりつめた。
  • 1961年になると同じくカピターニ・ロマーニ級賠償艦としてフランスにやってきたシャトールノー(旧:アッティリオ・レゴロ)と交代する形で一線を退き、63年に武装解除。
    海軍学校の浮き兵舎に活用されたのち76年に除籍、82年に解体のため売却となった。

*1 米独立戦争時のフランス海軍提督「ギシャン伯リュック・ウルバン・ド・ブエクシック」から