所属 | Военно-морской флот СССР |
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艦種・艦型 | 第14系列(К型)潜水艦 |
正式名称 | К-21 |
起工日 | 1937.12.10 |
進水日 | 1939.8.16 |
就役日(竣工日) | 1940.11.30 |
除籍日(除籍後) | 1954.9.11(1982.ムルマンスクで博物館船に) |
全長(身長) | 97.65m |
基準排水量(体重) | 1490英t(1513t) |
出力 | 浮上時:9ДКР式ディーゼルエンジン2基2軸 8517PS(8400shp) 潜水時:ПГ11式電気モーター2基2軸 2433PS(2400shp) |
最高速度 | 水上:22.5kt(41.67km/h) 水中:10kt(18.52km/h) |
航続距離 | 11.0kt(20.37km/h)/14000海里(25944km) |
乗員 | 指揮官10名 乗組員57名 |
装備 | 100mmБ-24ПЛ単装砲2基2門 45mm21-К単装機関砲x2 7.62mm単装機関砲x2 53.3cm魚雷発射管10門(艦首:6門 艦尾:2門 外付後部:2門) 機雷x20 |
建造所 | Адмиралтейские верфи, Петербург/Санкт Петербург (アドミラルティ造船社(現 統一造船会社アドミラルティ造船所) 旧ソビエト連邦レニングラード 現ロシア連邦北西連邦管区サンクトペテルブルク連邦市サンクトペテルブルク) |
- K-21はソ連海軍が第二次大戦中に運用したK型(К型)潜水艦の1隻。
前級はS型(С型)潜水艦。- K型は長期間の哨戒・通商破壊が可能なように各種機能・性能も強化されたが、軽量化を企図して船殻を薄い高張力鋼にして溶接も用いたため、船体強度不足が弱点でもあった。
1936年から10年間で都合62隻を整備予定であったが、第二次大戦の影響からそのほとんどが中止され、12隻のみが完成、7隻が戦争を生き残った。K-21も生き残ったうちの1隻であった。
- K型は長期間の哨戒・通商破壊が可能なように各種機能・性能も強化されたが、軽量化を企図して船殻を薄い高張力鋼にして溶接も用いたため、船体強度不足が弱点でもあった。
- K-21は1937年12月にレニングラードにて起工、39年8月に進水し、41年2月に就役した。当初はバルチック艦隊配属であったが、9月に北方艦隊に転属した。
就役後は海峡に機雷を敷設し独輸送船を撃沈したり、砲撃で漁船や商船に攻撃を仕掛けるなどしていた。
- 1942年6月末には連合国軍からソ連へ向かう輸送船団「PQ17船団」の護衛任務を行う旨が伝達される。
その後、独戦艦ティルピッツや重巡*1アドミラル・シェーアなどがPQ17の迎撃に向かっている報告を受け、K-21は独艦隊の捜索を開始した。
7月5日夕刻、K-21は潜水艦の攻撃に備えたジグザグ航行を行う独艦隊に遭遇した。
すぐさま攻撃を仕掛けることとし、K-21は後部4門の魚雷発射管から敵艦隊旗艦ティルピッツへ向けて魚雷を発射した。
命中を確認できなかったものの艦内で魚雷の炸裂音らしきものが聞こえたため、魚雷命中と判断、そのまま撤退した。
この戦果は、ソ連潜水艦が敵大型艦を雷撃した初の事例であることとともに新聞などに載せられ、ソ連で大いに喧伝された。- しかし戦後双方の情報のすり合わせを行ったところ、ティルピッツに魚雷は命中していないことがわかった(魚雷の最大射程外からの攻撃のため、失敗はある意味当然ともいえた)。
また、ドイツ軍はそもそも魚雷が艦隊に迫っていたこと自体に気づいてすらいなかった。
K-21艦内で聞こえた魚雷の炸裂音と思しき音も、魚雷が海底に着底した際の音なのか水兵の聴覚異常によるものなのか判然としていない。 - この時ドイツ艦隊は高速で航行しており、音響探知ができない状況であったうえに、潜水艦の存在に気づいていなかったため、爆雷も投下していない。
- ちなみに、戦後ソ連で出版されたPQ17船団題材の歴史小説『Реквием каравану PQ-17』(『PQ17船団へのレクイエム』、著:V・S・ピクーリ)では、
K-21はティルピッツに魚雷を命中させたものとして描かれており、同作はのちにロシアでTVドラマ化もされた*2。
- ちなみに、戦後ソ連で出版されたPQ17船団題材の歴史小説『Реквием каравану PQ-17』(『PQ17船団へのレクイエム』、著:V・S・ピクーリ)では、
- しかし戦後双方の情報のすり合わせを行ったところ、ティルピッツに魚雷は命中していないことがわかった(魚雷の最大射程外からの攻撃のため、失敗はある意味当然ともいえた)。
- ティルピッツ襲撃後もK-21は活動をつづけ、ノルウェーの漁船やドイツの商船を砲撃ないし機雷で撃沈する戦果を挙げ、終戦に至る。
- 戦後十年弱ののち海軍を除籍。除籍後も20年近く練習艦として活躍し、1981年春にムルマンスクへ移動して現地で博物館船へ改造された。
満潮時には艦体が海水に浸かる台座に据え付けられ、1983年に開館。
およそ10年おきに改修工事を行いながらも、今なおその姿をとどめている。