所属 | Kriegsmarine→Marine nationale |
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艦種・艦型 | T22型水雷艇 |
正式名称 | T23→L'Alsacien |
名前の由来 | T23 flottenTorpedoboot(艦隊水雷艇)の23番目 →L'Alsacien フランス語で「アルザス人」の意 |
起工日 | 1940.8.1 |
進水日 | 1941.6.14 |
就役日(竣工日) | 1942.6.14 |
除籍日(除籍後) | 1954.6.9(1946.2.4 フランスへ譲渡) |
全長(身長) | 102.5m |
基準排水量(体重) | 1274英t(1294t) |
出力 | Wagner式水管ボイラー4基Wagner式蒸気タービン2基2軸 32444PS(32000shp) |
最高速度 | 33.5kt(62km/h) |
航続距離 | 19.0kt(35km/h)/2400海里(4400km) |
乗員 | 206名 |
装備(建造時) | 10.5cmSK C/32単装砲4門 3.7cmSK C/30連装対空砲2基4門 2cmC/38機関砲x6(1x4+2x1) 53.3cm三連装魚雷発射管2基6門 爆雷投射機2基 機雷50個 |
装備(1949) | 10.5cmSK C/32単装砲4門 ボフォース40mm機銃2基4門 53.3cm三連装魚雷発射管2基6門 |
装甲 | なし |
建造所 | Schichau-Werke, Elbing (F.シーヒャウ社 旧ドイツ国東プロイセン州エルビング 現ポーランド共和国ヴァルミア=マズールィ県エルブロンク市) |
- T23は二次大戦中にドイツが建造したT22型水雷艇のうちの一隻。
戦間期から二次大戦にかけての水雷艇は、大雑把に言えば小型駆逐艦を指すものとみてよい。
この意味合いでの水雷艇について、詳しくはこちらを参照のこと。 - 1940年8月に東プロイセンのエルビング造船所にて起工、41年6月進水、42年6月竣工。
- 整備などを終えたT23は11月にフランスに移され、以後44年初頭までビスケー湾やドーバー海峡を中心に活動することとなる。
- フランスに展開したT23は、ほかのドイツ水雷艇と共に封鎖突破船(海域封鎖を突破して戦争資源を供給する船舶)の支援や機雷敷設、Uボートの護衛に従事していた。
43年10月初頭のとある夜、ドーバー海峡のブルターニュ沿岸にて輸送船団の護送中だったT23ら第4水雷隊*1は、イギリス駆逐艦隊に遭遇する。
闇夜にまぎれて奇襲を敢行するも魚雷は命中せず、砲撃で相手方を撤退に追い込むにとどまった。 - 同月下旬、封鎖突破船の支援のため出撃した第4水雷隊は再びイギリス艦隊と遭遇*2、今度は軽巡洋艦カリブディスを含む有力な艦隊と対峙することとなった(=「セット=イル沖海戦」)。
戦力的に優勢であったイギリス艦隊であったが、僚艦との情報の錯綜が原因で混乱に陥ってしまう。
その隙を窺って雷撃を行った第4水雷隊は、カリブディス含むイギリス艦2隻の撃沈破という成果を上げるに至り、態勢の立て直しでもたつくイギリス艦隊をよそに無傷撤退に成功した。 - 43年12月、今度は第8駆逐隊*3と共に第4水雷隊は、封鎖突破船との合流のためにブレストを出撃した。
しかし今回もイギリスには情報が筒抜けで、アメリカのB-24リベレーターからの攻撃に加え、イギリス軽巡グラスゴーおよびエンタープライズの迎撃をくらって封鎖突破船は撃破されてしまった。
この頃反撃はおろか航行すら難しくなるレベルの天候となったため、やむなくドイツ側は部隊を二分して撤退することに。
二分したうち、T23の含まれた部隊は無事帰還できたのだが、残念ながらもう一つの部隊はエンタープライズらによってからめとられ、水雷艇1隻を残し全滅してしまった(=「ビスケー湾海戦」、エンタープライズ改のスキル【ビスケー湾ハンティング】の由来)。
- フランスに展開したT23は、ほかのドイツ水雷艇と共に封鎖突破船(海域封鎖を突破して戦争資源を供給する船舶)の支援や機雷敷設、Uボートの護衛に従事していた。
- 命からがら逃げおおせたT23は、44年2月にドーバー海峡を経由して本国に帰還。
4か月ほどの改装を経て、バルト海で機雷敷設を行う第5水雷隊に転属、次いでエストニア沖でも機雷敷設のため第6水雷隊に転属した。- T23のほか、T22、T30、T32の計4隻で構成された第6水雷隊は、同年8月のとある夜に機雷敷設任務に従事していたが、機雷敷設中に誤って触雷してT30が沈没・T32が大破してしまう。
僚艦のT22が大破したT32を曳航するために移動を開始した直後、T22も触雷し沈没。
健常な艦はT23のみとなってしまったが、敵艦接近の報*4を受けて曳航を断念、ひとり身で撤退した*5。 - その後、T23はバルト三国方面沿岸域に砲撃支援のため展開していた重巡プリンツ・オイゲンやアドミラル・シェーア、リュッツォウ(旧名:ドイッチュラント)の護衛兼機雷敷設を行った。
しかし戦況の悪化に伴って活動域は次第に後退、1945年春には東プロイセンやコペンハーゲンからの避難民輸送に従事することとなった。その後、ドイツ敗戦に伴い活動を休止する。
- T23のほか、T22、T30、T32の計4隻で構成された第6水雷隊は、同年8月のとある夜に機雷敷設任務に従事していたが、機雷敷設中に誤って触雷してT30が沈没・T32が大破してしまう。
- 戦後、1945年末に連合国へドイツ海軍の残存艦が賠償としてあてがわれ、T23はイギリスに割り当てられた。
しかしフランスからの抗議を受けてフランスに移譲、独仏因縁の地である「アルザス」地方の人を指す艦名"ラルザシアン"に改名した。
シェルブールにてアメリカ製の兵装を導入し、空母直衛艦や対潜部隊への配属の後、1954年7月に退役・スクラップとなった。