No6 ビスマルク/元ネタ解説

Last-modified: 2021-09-02 (木) 22:02:38
所属Kriegsmarine
艦種・艦型ビスマルク級戦艦
正式名称Bismarck
名前の由来Otto Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen(1815-1898) プロイセン・ドイツの政治家 プロイセン王国首相、北ドイツ連邦首相、ドイツ帝国首相を歴任。ドイツ統一の中心人物であり「鉄血宰相」と呼ばれる。
愛称Beaver(イギリス)
起工日1936.7.1
進水日1939.2.14
就役日(竣工日)1940.8.24
除籍(除籍理由)1945.1.25(独:Unternehmen Rheinübung/英:Operation Rheinübung(ライン演習作戦)1941.5.27沈没)
全長(身長)250.5m
基準排水量(体重)41700英t(42369.2t)
出力Wagner重油専焼缶12基Brown Boveri式蒸気タービン3基3軸 150170PS(148115.7shp)
最高速度30.8kt(57.04km/h)
航続距離16.0kt(29.63km/h)/9280海里(17186.56km)
乗員指揮官128名 乗組員2092名
装備(建造時)38cm52口径SK C/34連装砲4基8門
15cm55口径SK C/28連装砲6基12門
10.5cm65口径SK C/33連装高角砲8基16門
3.7cmSK C/30機関砲x16(8x2)
2cmC/30機関砲x12(12x1)
艦載機x4
装甲舷側:145~320mm 甲板:50~80+80~120mm 砲塔:130~360mm バーベット:340mm 艦橋:200~350mm 隔壁:45~220mm
建造所Blohm + Voss, Hamburg(ブローム・ウント・フォス社 ドイツ連邦共和国ハンブルク市)
  • ドイツ海軍の技術の粋を集めて建造された超大型戦艦。
    命名は「鉄血宰相」オットー・フォン・ビスマルクにちなむ。
    1936年7月1日、ハンブルグ造船所で起工。1939年2月14日、ヒトラー総統臨席のもと命名が行われ進水。1940年8月20日に竣工した。
    9月15日、ハンブルグを出港したのちゴーテンハーフェンで公試を行った。その後、再びハンブルグ造船所に戻り最終艤装を施して就役する。
    1941年5月5日にはヒトラーとカイデル参謀総長が訪問しに来ている。
     
  • 5月19日、通商破壊作戦ライン演習に参加するため出港。そして24日のデンマーク海峡海戦でプリンス・オブ・ウェールズ及びフッドと交戦。激しい砲撃戦の末、一斉射でフッドに砲弾をブチ込んだ。
    その結果、火薬庫に引火しフッドは轟沈。続いて後続のプリンス・オブ・ウェールズと砲撃戦をし、3発の命中弾を受けて2000トンの浸水被害を出す。
    しかしビスマルクも反撃し、プリンス・オブ・ウェールズを中破させた。形勢不利と見たプリンス・オブ・ウェールズは煙幕を張って離脱したため、実質ビスマルクの勝利であった。
  • この戦果を持って、ビスマルクはフランスへ凱旋するはずだった。ところがフッド撃沈の事実はイギリス海軍の逆鱗に触れた。怒髪天を衝き、復讐の狂人と化した彼らはビスマルクただ一隻の追撃に50隻近い戦力を差し向ける。
    この時招集されたのは空母ヴィクトリアスの他、ジブラルタルからH部隊の空母アークロイヤルと巡洋戦艦レナウン、軽巡洋艦シェフィールド、商船護衛中に引っこ抜かれた戦艦ロドニー、中破したプリンス・オブ・ウェールズも重巡ノーフォークおよびサフォークに護衛されビスマルクの位置を置い続けた。
  • 例えるならば、長門を沈め、武蔵を傷物にした手負いの戦艦アイオワを、大和を旗艦とした決戦戦艦群に一二五航戦、二水戦を総出で差し向けて、血眼になって追い回すとでも表現しようか。
  • なおサフォークの搭載していた水上レーダーはほんの数日前取り付けられたばかりで、ほぼぶっつけ本番でこのレーダーを用いて追撃している。
    この他プリンス・オブ・ウェールズによる砲撃の損害でビスマルクは燃料が漏れており、その航跡は海上における大きな目印となった。
  • 単身だったビスマルクは抵抗するものの、イギリス艦艇の猛攻にさらされた。
    まずヴィクトリアスからの攻撃部隊がビスマルクを狙ったが、これは軽度の損害で済んだ。ヴィクトリアスの攻撃部隊は訓練成績も悪く昼間の着艦訓練すらまともに出来ないほどであったが、
    この時ビスマルクに魚雷一発を命中させて全機無事に帰還、更に着艦時悪天候と管制装置が故障していたにも関わらず全機無事に着艦してのけた。
    ビスマルクは巧みな操艦で一時イギリス艦隊のレーダーを振り切ることに成功したが、本国に無線連絡をしたのを検知されてイギリスは再びビスマルクの位置を掴んだ。
    艦隊での追撃では間に合わないと判断したイギリス軍は空母アークロイヤルによる航空攻撃を敢行する。
    ところがこの航空攻撃の第一陣は先行していた軽巡洋艦シェフィールドをビスマルクと誤認して攻撃してしまい失敗する。
    しかしこの誤認は怪我の功名であった。アークロイヤル艦載機の魚雷は磁気信管をセットしていたがシェフィールドに対して全く反応しなかったのである。
    怒り狂ったシェフィールド艦長から魚雷の不備を指摘されたアークロイヤルは魚雷の信管を直接接触型に切り替え第二次攻撃部隊を発進させた。
    今度こそビスマルクを捉えた攻撃隊は魚雷を命中させ、これにより快速を誇ったビスマルクは速力が7ktにまで低下してしまう。
    それでもビスマルクは触接していた軽巡洋艦シェフィールドを主砲で追い払い、更に逃走を続けた。
    今度は駆逐艦コサックら第四駆逐隊が触接し、再三に渡って魚雷攻撃を敢行。ビスマルクはこれを全て回避して反撃で追い払ったが、更に燃料と弾薬を消耗した。
    しかしコサックたちは探知されないギリギリの距離で触接しながらビスマルクの位置を報告し、運命の日を迎えることになる。
  • 1941年5月7日午前8時47分、傷ついたビスマルクの前に現れたのは英国海軍最強の火力を持つ世界七大戦艦ロドニーと、新鋭キング・ジョージ5世であった。
    両艦は距離22000mから砲撃を開始したが、15分後ロドニーの16インチ砲弾が1番砲塔と2番砲塔の間に命中し、2つの砲塔が一度に旋回不能になってしまう。
    更にキングジョージ5世からの砲撃で3番砲塔も旋回不能に陥り、ビスマルクはその火力の殆どを失ってしまった。
    これを好機と見たロドニーは艦首をビスマルクへ向け突撃、艦首水中魚雷を発射しながら距離2700mまで接近し主砲340発、副砲716発を発射してビスマルクを文字通り袋叩きにし、全ての主砲塔を完全に破壊した。
    もはや復旧不可能となったビスマルクは総員退艦命令が発せられ、注水作業が行われ、重巡ドーセットシャーの魚雷攻撃と合わせて沈没した。
  • ビスマルクによるフッド撃沈で一度は湧いたドイツ国内であったが、その喪失はドイツ海軍に多大な影響を与えた。
    以降は大型艦による通商破壊は行われず、標的にされるシャルンホルストグナイゼナウはツェルベルス作戦によりドイツ国内へ退避させることに成功したものの、戦略的にはますます水上艦艇は身動きが取れなくなり、度重なる作戦失敗と損害報告はヒトラーを苛立たせ海軍への不信を高める一方となっていくのだった。
     
    余談だが、ビスマルク追撃に加わったプリンス・オブ・ウェールズは後に帝國海軍航空隊によって葬られた。
    その際に大日本帝國は「ビスマルクの仇を取った」と喧伝したという。