漆話

Last-modified: 2010-11-04 (木) 00:13:00

 石を落とせ。
たった一言の短い言葉には何の感情の起伏も感じられなかったのだが、源之助のそれを受けたギーシュはそれ故に戦慄した。
目の前に仰向けに倒れるワルドを見る限り、ギーシュの目には生者か死者かの判断がつかぬ。もし前者であったとしても石を落とせば容易に死に至るであろうし、後者であっても死者に鞭打つ行為など、どちらにせよ自らが下手人になどなりたくはないのだ。
というよりも、大体何故自分がこの様な事を?
救いを求める様に視線を彷徨わせる彼が目視したるは、ワルド程凄惨な有様ではなくとも、一目で絶命していると分かるウェールズ皇太子が横たわる姿であった。
今にして思えば、地中にいて出るのを躊躇していた程の轟音が巻き起こっていたにも関わらず、よくよく見るに、レコン・キスタは未だ攻め来たりておらぬ。さすればこの惨状は如何な事であろうか?
考えられる結果は唯一つであった。

「ルイズ……もしかして、子爵がスパイだったと?」

 ここで源之助へと確認を求めない理由は察して余りあろう。
引き攣った顔のままでルイズは答える。

「そうよ」
「もしかして、まだ生きてる?」
「かすかに息はあるみたい」
「……そうかい」

 事実がはっきりしたとはいえ、躊躇は残る。人を直接殺めた経験の無い彼にとって、敵である人物とはいえ、やはり手を下すには抵抗があった。

「…………」

 しかし、虎の視線と外から聞こえる行軍の音が彼の背中を突き刺した。ぞわりと全身が総毛立ち、明確な死の香りが鼻腔を通じ、脳髄を酒精の如く満たす。
振り返れば、満身創痍の源之助がじっとこちらを見ていた。目は口ほどに物を語ると言うが、その最たる例ではなかろうか。自らが事を起こすのを急かすでもなく、ただ黙っているだけだが、その視線から感じる威圧はただ事ではない。
ごくりと唾を飲む音が、行軍が巻き起こす騒音に飲まれて消えた。愚図愚図している暇はないのだ。
熱に浮かされた病人の様な手つきでギーシュは胸に刺した薔薇を取り出だし、錬金の一声を上げた。それにより生み出されたのは赤子の身体ほどもある大きさの石だ。
ごろり、と鈍い音を立てて地に転がったそれを、彼は難儀しながら持ち上げると、ワルドの頭上にまで持っていく。

「ほ、ほんとにやるのかい?」
「…………」

 源之助は黙して答えず。ただギーシュに無表情を向けるばかりであった。これが肯定の意である事は想像に難くない。
ギーシュの震える手とワルドのずた袋の様な顔を、交互に見るルイズは気を取り直したのか、咄嗟に声を上げた。

「ちょ、ちょっと! そこまでしなくてもワルドは再起不能……」
「「あ」」

 言い終える前に、間の抜けた声がギーシュとルイズの口から漏れた。
ぐしゃり。
肉と骨が完全に粉砕された音であった。
突如として声をかけられたギーシュが、その震える手を滑らせたのだ。落とされた石はワルドの顔面にめり込み、それによってびくっ、とワルドはその身体を大きく痙攣させた。
今まさに、ワルドの命の灯が掻き消えた瞬間であった。

「「…………」」

 ギーシュとルイズは放心状態に陥り、口を聞く事すらままならない。これ程までに生々しい死を見たのはこれが初めてではなかったか。斬殺死体よりも遥かに無惨である。
事を見届けた源之助は満足したのか、視線をワルドからウェールズへと向けると、おもむろにデルフリンガーを携えその元へと赴く。

「どうするつもりなんでぇ? 相棒」

 不思議そうに言うデルフリンガーに声を返す事無く、ウェールズの死骸へとひざまずくと、手にした剣をそこで構えた。
放った剣が断ったのは、遺髪であった。
決して長いとは言えぬそれを、片手で器用に懐中より取り出した紙で包み、未だ放心したままのルイズへと彼は差し出した。

「これをお届けになりますよう」
「…………え、あ、そ、そうね」

 夢と現の境をよくよく歩む日だと、頓狂な声を出して答えるルイズは思った。
差し出された物を、おぼつかぬ手つきで受け取ったルイズは、思い出したかの様にウェールズの元へと向かう。髪だけでは足りぬ。
死骸にはめられたルビーをそっと外し、手元の遺髪へと載せる。これもアンリエッタ姫殿下へと届けねばならぬ物だ。
為すべき事は為した。後は帰還するだけである。既に行軍はこの教会の間近へと迫っていた。
小走りでルイズはギーシュの使い魔が作り出したという穴へ駆け出し、源之助はそれに続く。
はっ、とした表情でそれに気付いたギーシュは緩んでいた表情を引き締めると、源之助の後ろへと並ぶ。

「……ギーシュ」

 突如として振り返った源之助に、ギーシュは思わずその身体を硬直させた。一体何事か。

「見事じゃ」
「……あ、あははは……」

 先の石か、それともこの穴の事か。思いもがけぬ源之助の言葉に浮かべるは、曖昧な苦笑いであった。
それ以上何も言わず、源之助が駆けるルイズを追うのを眺めながら、ギーシュは肩を落として呟いた。

「も、もんもらんしぃ……」

 今はただ、国で待っているであろう恋人の姿が恋しかった。