シリウスシンボリ(原作)

Last-modified: 2024-03-07 (木) 12:49:14

現在編集中ですよ
いつ完成するのか分からなくなってきました

もうちょっと世評と一致してる資料が出てきてくれたらササッと完成したはずなんですが…

このページの内容を抜粋してWikipediaに転載されていると思しき方へ
このページの内容を一部抜粋して記述するのはおやめください。ここに載せている物はシリウスが当時置かれていた状況を知るために必要だと私が考えている情報を全て載せており、一部だけを抜粋して転載することは彼に対する誤解をさらに招く可能性があります。
また、私が引用した様々なホースマンの意見はそれら全てが絶対的に正しいのではなく、あくまで個々人の見方であり、様々な意見を閲覧する方々の価値観に基づき複合的に見てほしいと思い、関連する物を「これを抜かすと分からないと思われる前後の文脈を含め」全て引用しております。つまり、全てがシリウスを説明するために必要な情報です。
重ねて言います、一部の抜粋はおやめください。
このページで出典としている書籍は全て私が「私物として所持している物」を半年以上かけ調べたものであるため、わずか20分で全てを調べつくすのは物理的に不可能であると判断しております。
もしもこのページで挙げている参考書籍を元に記事を編纂されたり、引用内の抜粋をされたいと思うならば、現在事実とは断定できない事柄(私はそもそも諸説ある過去の事柄を事実と断定するのはどれだけ証拠がそろっても「可能性が高い」としか言えないと思っておりますが)や、不確かな情報についてはその旨をきちんと記述するようにお願い致します。
これまで何十年間もの間、様々な根拠不明の噂で揶揄われていたシリウスのために、何卒慎重な記述を心がけるようお願い申し上げます。
このメッセージが貴方の心に届くことを願っております。


最近このページを引き合いに出して「ミル貝だけじゃなくて、これぐらい当時の一次ソース調べないと」みたいな事いう方がいるようですが、
そのへんのスタンスは人それぞれですし、誤った情報を言ってる訳じゃないならその辺は人それぞれでいいと私は思ってます。
なので、そういう事でこのページを引き合いに出すのは避けて頂けるとありがたいです。

あまりにも多くなってきたので取り合えず大きなデマを纏めます(imgで見かけたもの)

現在判明しているデマ一覧
転厩騒動による皐月賞の回避…デマの可能性(当時の資料あり&これを発言した人の言動の信頼性が危ない&転厩説採用の本に意図的な印象操作を行うような編集がある)
海外遠征に一頭のみでやった…デマ確定(当時の資料あり)
八つ当たりで海外遠征にやった…デマ確定(当時の資料あり)
シリウスは気性が荒い…デマの可能性(当時の資料・複数の関係者の証言より)
シリウスは蹴り癖があった…デマの可能性(当時の資料あり)
シリウスの引退先はシンボリ牧場…デマ確定(資料あり)…引退先は沖田牧場です
シンボリ牧場2代目の言動…週刊誌による過剰報道・言動の捏造の可能性あり(当時の資料の複数比較、関係者の証言より)
シンボリ牧場は閉鎖した…デマ確定(登録番号や各種情報により)
シンボリ牧場がルドルフ引退後成績不振に陥った・美浦で預託できなくなった…デマの可能性(当時のリーディング成績・預託先の割り出しから)

シリウスに関しては残されている資料が非常に少なく、
ネットに飛び交う情報には出典が一切なく当時の記事とは相反する編集者の想像のみで書かれたとしか思えないデマが非常に多く
この馬の馬生にまつわる各種トラブルに対しての当時の状況、関係者に対するデマなどもこの馬の置かれた状況と切っても切り離せないものであるため、そちらも記述しています
※馬齢、レース名に馬齢が入る競走は全て現代換算です
※残されている情報としてルドルフ経由の物も多いため、ルドルフの記述が多く混ざると思います、ご了承ください
※当時の書籍からの写真等はPhotoshopで軽く補正をかけて見やすくしています

直近で追加した情報…オマケに独立ページを作るほどでもないルドルフのこぼれ話などを追加しました。

このページから飛べる別ページ

シリウスに直接かかわらない海外遠征の当時の事情などは 海外遠征 のページに纏めております
シリウスに直接かかわらない、当時のシンボリ牧場・2代目に関しては 牧場 のページに纏めております

はじめに

このページでは当時の各種資料

  • 優駿誌上での「当事者たちの各種談話」「当時の事情について語られている競馬ジャーナリストによる寄稿」
  • シリウスについての記載がある本
  • シンボリ牧場、和田共弘氏に関わった方々への取材が載っている本
  • 岡部騎手や藤沢師など、当時近い立場にいたと思われる人たちの自著

などを出典元としております。
引用文の最後に「 *1 」のような形で参考資料名・引用したページを書いております。(これが無い場合は記載忘れなのでよろしければコメント欄などでお伝えください)
ページ下部の 参考資料 の項目に参考資料一覧を記載しておりますので、よろしければそちらもご覧になって下さい。
また、各種資料の時系列が近しい事柄に対しては、複数の著者・関係者の記述との矛盾がないかの簡易的な検証を行っており、
矛盾が何点か散見される物に対してはその旨を書いております
ので、ご留意ください。

出典元からの引用は

この中に引用文が入ります。

という、四角で囲む形で行っております。

プロフィール

生誕 1982/03/26
死没 2012/04/08(享年30歳)

血統

:モガミ
モガモガ.jpg*2
モガミ.jpg*3

フランス産 和田共弘氏の生産馬である。シャンティーでF・パルメルに調教された*4

と書かれているため、モガミの母馬を海外に預託して生産していた、もしくはシンボリ牧場が海外にいくつか持っていたという牧場で生まれたか、どちらかかと思われます。

父の共弘は競走馬のほかに繁殖牝馬やその産駒を合わせて100頭ぐらいの馬をヨーロッパで所有していたという。*5

他界する直前には、今度はアイルランドに牧場を買うぞ、って盛んに言っていましたね。世界一の馬をつくるんだって。
その情熱は未来へと続く

と仰られていた記録があるため、母馬を預託していた可能性も海外に牧場を持っていた可能性もどちらもありえると思われます。

モガミ産駒の体型的な特徴

シリウスシンボリやメジロラモーヌが代表だが、産駒はそうじて弾力性豊かで、胸囲が広いという特徴を持っている。私のいう、前軀の発達した馬は走るという信念を裏づけている。*6

と野平師が仰ってたあたりがウマ娘のシリウスさんの胸が大きい理由なんですかね…?
文中で名前があがったメジロラモーヌに関しては別ページでも

体型的には、心臓、肺を包んでいる胸囲が広く、弾力性に富んでいた。そしてレースでは絶好のポジションを確保する自在の脚を発揮、直線ではスゴイ破壊力で他馬をねじ伏せた。*7

と書かれてます。

:スイートエプソム

母のスイートエプソムと、姉のスイートアグネスがともに体質的な弱さから未出走のまま繁殖に上がっているように、シリウスも順調に仕上がってくれるか不安をもっていました。*8

という記述があり、母の体はそれほど強くなかったということが伺えます

母父:パーソロン
パーソロン.jpg*9
ルドルフの父でもあり、ルドルフと同じ左後一白なのが目を引きますね。

パーソロンに関しては
ルドルフ産駒が気性難なのはパーソロンのせい?
パーソロンの手術と看護
等の項目でも触れていますのでよろしかったらご覧ください。

ウマ違いに注意!!!!!!

最近見かけたものですが、ルドルフの写真集に収録されているこの画像の後ろの馬はシリウスではありません
シリウス_ウマ違い_消しゴムまぎれ消去.jpg*10
流星の形がパッと見は似ているのですがシリウスは後ろ脚の右側だけが白い「右後一白」ですが
画像の馬は左側の前脚と後ろ脚が白くシリウスではないことが分かります。
そうしてから額を見ると「丸い形から雫が短く落ちているシリウスの星」とは違い、ウマ違いの方の画像は「やや欠けた丸から細い雫が鼻近くまで落ちている流星」であることが分かると思います。

ルドルフと共に歩いてる画像ですと、以下の画像がシリウス本人です。
シリウスとルドルフ_歩く.jpg*11
ウマ違いにお気を付けください。

シリウス_ウマ違い_比較.jpg
比較すると一目瞭然ですね

ちなみにウマ娘関連でシリウスの勝負服が初出となった「ウマ娘 シンデレラグレイ」では勝負服のデザインにもこの右後一白が反映されていることが分かります(塗り忘れでない限りは)。
シリウス_シングレの白斑反映_01.jpg*12
シリウス_シングレの白斑反映_02.jpg*13

気性

性格に関しては世間では「気性難」「気が荒い」と言われてます。
本当の所がどうだったかはまだ掴みかねてるんですが以下はシリウスの気性に関する発言を時系列に並べたものです。

  • 「当歳時のシリウスはほとんど記憶にないんです。おとなしくて目立つ方の馬ではなかったということですね。」*14(日高シンボリ牧場・畠山和明場長)(ダービー勝利インタビューで当歳時のシリウスについての発言)
  • 「デビュー前からゲート難のあったシリウス」*15(二本柳調教師の談)(2歳時デビュー前)
  • 「美浦に行ってから、性質が荒っぽくなって、ゲートにも入らず手こずったようです。そのためにデビューが遅れたんです。」*16(千葉場長、桐沢氏の談)(なお、桐沢氏の談話は、他関係者の語る当時資料との矛盾が複数確認できているため 信頼性に疑問がある事 (←のリンク先にて検証を行っております)を記載しておきます。)
  • 「ジェット機の轟音を前にしても平然と干し草を食べていた」*17(密着取材をしていた木村幸治氏)
  • 「馬は初めての事に対してすごく敏感だろ。でもシリウスは飛行機に乗るのは初めてなのに離着陸時にもまったく動揺をみせず、航行中も平気だったんだって」「コクピットからカーゴルームへいくのに階段があるんだけどサ、ボクが降りようとすると首をのり出してじィっと見るんだ。触ったら甘えて鼻ヅラを押し付けてきたヨ。大物だネ、あいつは」*18(シリウスを輸送した機長の話)
  • 「神経が太い」*19(岡部幸雄騎手の会話より)
  • 「今ではそばの騎手たちがたまげます。太めに見えるらしくて、ふだんデレデレした馬なんで、こんなに走るとは思われなかったみたい。」*20(岡部幸雄騎手の会話より)(イギリスでのウォーキング中に)
    この書き方、周りの騎手たちに対しても「デレデレしていたため」そんなに走るタイプと思われてなかった…とも読みとれますね…
  • 「厩舎にもどって馬房にはいったシリウスに声をかけた。日本語で話しかけた。知っているかぎりの馬ことばも使った。オラオラとかいえばシリウスも懐かしく思うのではないかと思ったが、馬房の壁に頭を向けたままだった。なんだかスネているような感じだった*21(武市好古氏の現地取材時の談より)(8月末、シャンティでの事)
  • (帰国後)「戻ってきたシリウスは、性格も走り方もまるで別の馬になってしまったような感じだった。ダービーのころとはまったく別のサラブレッドといっていいくらい。あのころは図太いくらい物ごとに動じない馬だったのに、妙にオドオドするようになっていた。歓声や些細な物音にもビクビクしていた。走り方だって、フットワークが小さくなって、昔の面影なんて皆目残ってなかったよ……」*22(加藤和宏騎手の談)(なお、このインタビューが載っている「悲劇のサラブレッド」は他資料・他関係者の証言と照らし合わせると 信頼性に疑問がある事 を記載しておきます。)
  • (帰国後の牧場にて)「シリウスシンボリは馬房に入っていた。持って来た人参をさし出すと大きいままボリボリと元気よく食べている。フランスで会った時よりもずっと堂々としている。やっぱりわが家が一番落ち着くんだろうな。」*23(優駿でコーナーを連載していた中山さつきさんがシンボリ牧場を訪れた体験談)
  • 回し蹴り事件(帰国後のアレ)
  • 晩年は小さい子供にも顔を預けて甘えるような良いお爺ちゃんになっていたという(馬産地ニュース、シリウスシンボリが死亡

と、密着取材をしていた木村幸治氏岡部騎手の証言など「気性が激しかった」と巷で言われている姿とは全く違う証言が古い資料では何点も飛びだしてきます。
正直この証言を最初読んだ時に、「気性が荒い」と聞いていたシリウスからは全く想像できない姿が見えた事がいまだに不思議でなりません。
そして、下記の様々な項目で当時の資料を挙げて検証すると世間で流布されてるものと全く違う発言・証言が飛び出してくるのを見ると、
「この馬について語る人で当時の優駿をきちんと読んでいた人がいないのでは…?」
「当時の週刊誌などがセンセーショナルな報道してたものを信じる人がほとんどで、熱心なファン以外はそれを信じてしまったのでは?」
という疑惑がぬぐい切れないんですよね…今となっては真実は闇の中ですが…
なぜ近しい関係者・実際に取材していた人から世評と全然違う人物像が見えてくるのかにて当時の資料を比較した推測も行っておりますので、もしよろしければ読んでみてください。

(編集用メモ):「モガミ産駒は気が荒い」という話、おそらく岡部騎手の著書の中でたびたび発言している物が元だと思われますが、岡部騎手は自分が乗ったモガミ産駒の名前を挙げつつ解説していますが、そこにシリウスは含まれておらず、それどころか「デレデレした馬」と表現しています。リストアップなどを行うとわかりやすくなるかもしれません。

気性難に関しては、ミル貝などでソースとして扱われている「サラブレッド怪物伝説」という本の中で、「ゲート難→気性難」と伝言ゲームの結果として変貌してしまっていると推測できる箇所があります。この本に関する簡易的な信頼度検証は 厩務員組合は…? で行っております。

また、「蹴り癖」に関しては蹴り癖リボンをつけている写真が全然出てこない現状では、なかったと考える方が良いと思われます。(余談ですが、蹴り癖ほどではないですが資料などに「蹴ってくる」という証言が残っているのはルドルフの方だったりします(藤沢師・装蹄師))

余談:ルドルフが蹴ってくるという証言

藤沢師

そうそう(笑)。シンボリルドルフが厩舎に入ってきた初日に乗って、見事に振り落とされてしまいました。師匠は「落ちたのは和雄だけだな」と笑っていましたね。シンボリルドルフは元気の良いパワフルな馬で、最初の頃は本当に手の掛かる馬でした。「俺はチャンピオンなんだ」とまるで自覚しているかのような我がままな性格で、たとえば、「馬運車なんかに俺は乗らないぞ!」とばかりに駄々をこねたりするのです。誰かが乗せようとして後ろに回り込もうものなら、羽目板に穴が開くほどの強烈な蹴りで近づいてきた者を威嚇する始末。そうなっちゃうともう誰も寄り付けない。そんなときは、野平師匠と私が2人で手を組んで後ろに回り、馬運車に向けてシンボリルドルフのお尻をグッと押し込むわけです。人を見る賢い馬で、どういうわけか私たちだけは蹴ろうとしないんです。ルドルフの後ろに行って尻尾をつかまえても平気でした。写真を撮るときに立たせたりもしましたよ。ルドルフと信頼関係を築けたことは、師匠と私の大きな自慢でもありました。*24

装蹄師の足立巳一さん(美浦所属)

ルドルフは、前脚の蹄鉄の部分はハイベスト、後は普通の鉄を使っている。つけるときの動作が機敏だよ。わるい馬はこういう動作もにぶいよ。いい馬っていうのは、手がかからないっていうのが、ひとつだね。ただ、蹄壁が薄いんで少し苦労するくらい。それでも、勝負からあがってくるときは一発けとばされたりはするよ。*25

ちなみに引退後のシリウスに会ってきたという方々のブログが以下のサイト様たちになります
白馬の北海道旅行記
Dream In Turf Side
シリウスシンボリと彼の噛み跡
拝啓 シリウスシンボリ殿
北海道・ばんえいと牧場の旅・その2

海外でシリウスを預託されてた調教師がシリウスについて語ったインタビュー

何処に入れるか迷ったけど気性の項目に入れます、ぶっちゃけるとオチはあまり気性には関与しないので読み飛ばしてもいい項目です。

原作のスレで
「シリウスの海外の調教師が『シリウスは気性が荒い』と言っていた記憶がある、ソースは忘れたが」
「自分は逆にシリウスの海外の調教師は『シリウスは気性が穏やか』と言っていた記憶がある、ソースは忘れたが」
と、それぞれ真逆の事を言っているスペちゃんがいたので調べてみました。優駿に載っているものです。これ以外にもソースがあるかもしれませんがシリウス遠征~帰国ぐらいの号をあらかた読んで優駿にはこれ以外載ってなかったと思います(他誌で載ってるのを知ってる方がいたら教えて下さい)。
インタビュアーは山野浩一氏です。

ビアンコーヌ調教師のインタビューでシリウスについて書いてある箇所の抜粋

山野:ところで日本のファンが最も知りたいのはシリウスシンボリのことだと思うのです。シリウスシンボリはヨーロッパの重賞競走を戦える馬とお考えでしょうか。
ビアンコーヌ:来年になれば、シリウスシンボリはヨーロッパで五指に数え上げられる馬になると考えています。
山野:例えばストロベリーロードぐらいの強さはあるということでしょうか。
ビアンコーヌ:そうです。
山野:それは素晴らしい。先ほどおっしゃられた馬の能力に応じて使うという考え方、そしてビアンコーヌさんの実績を考え合わせれば、日本のファンや競馬人に大きな希望となるものです。日本にはシリウスシンボリよりも強いシンボリルドルフという馬がいるのですが、あの馬をごらんになってどう思われますか。
ビアンコーヌ:去年のジャパンCの時に初めて見て、今年も厩舎で拝見しましたが、非常に素晴らしい馬だと思います。ただ、体力的にはシリウスシンボリの方がヨーロッパの競馬に適合できるのではないかとも考えているのです。フィジックな面、身体の組織そのものではシリウスシンボリの方が優れているかもしれない。
山野:私はテレビの画面を通じて見ただけですが、ビアンコーヌさんの所へ行って、シリウスシンボリの体型がすこし変化したように思うのです。ビアンコーヌさんの目でみていかがでしょう。
ビアンコーヌ:確かに体型が変わってきていると思います。というのも私がトレーニングをして、もし体が変わらなければ調教効果がでていないということでしょう。そういう意味で私は効果のでるようにトレーニングをしてきたつもりだし、自信をもって変わったと言える。またそうあって欲しいと考えています。*26

と、以上がシリウスについて語っている全文なのですが、読んでみてお分かりでしょうか…
このインタビューでは「気性のことに関しては一切発言していない」んですよ…
これはもう良いとか悪いとかの話ではなく、人間の記憶がいかに時間と共にあやふやになっていくか、といういい例だと思います。

生涯

出走(予定含む)レース

JRA60周年本を基本に、当時の優駿で色々調べて回避したレースも含めて書いております。(回避原因について諸説あるものは別項で記載)
回避が判明しているものを含めているのはシリウスに脚部不安によるとされている回避が何回あったかを分かりやすくするためです。

ここを押すと表を別タブで開きます
日付開催レース名クラス距離馬場斤量騎手頭数馬番人気着順タイム着差1着(2着)馬
1984/09/16中山新馬戦1600稍重53加藤和宏98211.37.10秒2(タカノミノブ)
1984/09/29中山芙蓉特別OP160052加藤和宏10311位失格 ビンゴチムール
1984/10/27東京いちょう特別OP160052加藤和宏96121.34.80秒0 ロードキルター
1984/11/18東京府中3歳SOP1800稍重53加藤和宏74111.50.10秒0(サクライチモンジ)
1984/12/16中山朝日杯3歳SG11600左前繋靭帯の脚部不安により回避*27
1985/03/30中山若葉賞OP220055岡部幸雄86112.16.20秒3(マロンクシェット)
1985/04/14中山皐月賞G12000・脚部不安により回避(シンボリ牧場発表・優駿・(二本柳師?))説
・転厩騒動のゴタゴタにより回避(桐沢場長・60周年本)説     

なお60周年本に載ってる芹沢氏のコラム(おそらく優駿で連載していた物+αの再編集収録版)内では
「NHK杯を脚部不安で回避」とは書いてありますが皐月賞に関しては一切触れていません。
1985/05/06東京NHK杯G22000挫跖(脚部不安)により回避*28
1985/05/26東京東京優駿(日本ダービー)G1240057加藤和宏2616112.31.00秒5(スダホーク)
1985/07/27アスコットキングジョージVI&QESG112ハロン54.5岡部幸雄12--82:27.6- Petoski
1985/09/01バーデンバーデン大賞G12400不良55岡部幸雄7--42.37.8- Gold and Ivory
1985/09/15ロンシャンプランスドランジュ賞G32000稍重58A.ルグリ6--6-- Romido Cariellor
1985/10/27ロンシャンロワイヤルオーク賞G1310056G.モッセ12--33.22.7- Mersey
1986/04/20ロンシャンエドゥヴィユ賞G32400不良58G.モッセ6--5-- Baby Turk
1986/05/06サンクルーシーシック賞2000稍重55G.モッセ5--3-- Tilt
1986/06/08サンシーロミラノ大賞G12400稍重60G.モッセ9--5-- Tommy Way
1986/08/16ドーヴィルゴントービロン賞G3200054A.ルグリ10--4-- Over the Ocean
1986/09/14ロンシャンフォワ賞G32400稍重56M.フィリッペロン6--2-- Mersey
1986/10/05ロンシャン凱旋門賞G1240059M.フィリッペロン15--14-- Dancing Brave
1986/10/19ロンシャンコンセイユドパリ賞G2240057M.フィリッペロン10--4-- Altayan
1987/03/28サンクルーエドモンブラン賞G31600不良56M.フィリッペロン11--4-- Highest Honor
1987/04/12ロンシャンアルクール賞G22000稍重56M.フィリッペロン13--8-- Grand Pavois
1987/05/02ロンシャンガネー賞G1210058M.フィリッペロン10--7-- Triptych
1987/10/11東京毎日王冠G2180059加藤和宏121381.47.00秒9 ダイナアクトレス
1987/11/01東京天皇賞(秋)G1200058加藤和宏145592.01.41秒7 ニッポーテイオー
1988/08/07函館函館トンネル開通記念OP180058加藤和宏83321.46.30秒3 ボールドノースマン
1988/08/21函館函館記念G3200059加藤和宏144241.59.01秒2 サッカーボーイ
1988/10/09東京毎日王冠G21800稍重59加藤和宏117421.49.40秒2 オグリキャップ
1988/10/31東京天皇賞(秋)G1200058加藤和宏1310572.00.31秒5 タマモクロス

優駿達の蹄跡さんの方が詳しい? そうだね×1

※どっちかの秋天で本来出る予定はなかったとかあったような…優駿調査中

出生~

※シンボリ牧場の育成論である「三元育成」の大まかな移動時期が元です*29
新種牡馬モガミの初年度産駒として産まれる。
北海道門別・シンボリ牧場で生まれ、0歳秋までを門別シンボリ牧場で過ごす。
0歳秋~1歳秋までは岩手シンボリ牧場に移り競走馬としての基本となる教育を受ける。
1歳秋から、千葉シンボリ牧場に移りデビューまでの最後の仕上げとなる教育を受ける。

2歳時デビュー前

1984年、シンボリルドルフが2冠を達成したばかりの頃に野平調教師と共に千葉シンボリ牧場を訪ね、牧場の調教スタッフで元騎手の渡辺実さんに「来年のクラシックで期待する2歳馬がいますか」と尋ねたところ
即座に「いるよ。馬名はシリウスシンボリ。モガミとスイートエプソムの子だよ。ルドルフまでとはいかんかもしれんが、それに近い動きをしているんだ」
ルドルフの調教をつけていた元騎手の手応えである。私は百パーセント信じて、すぐにPOG登録した。

芹澤邦雄氏(週刊ギャロップ初代編集長)の1985/05/26、日本ダービーに寄せた記事より*30

という記事から、2歳時の5月末~6月にはすでに千葉シンボリ牧場では高い評価を受けていたことが伺えます。

競走馬デビュー ~2歳終わりまで

1984年9月16日、鞍上に加藤和宏を迎え新馬戦で勝利。
2走目の芙蓉特別は1位入線するも失格。
下記の転厩騒動について書いたリンク先でも触れていますが、この芙蓉特別の失格に関しては

滅多にない1着失格で勝ちを逃がしたことがあるし*31

と書かれた記録があるので、当時はこの失格がかなり珍しい事例だった事が分かります。

3走目のいちょう特別では出遅れと4角での不利を受けてハナ差2着。
この芙蓉特別といちょう特別を指してどのような報道があったのか、優駿に加藤騎手のファンの方が投稿してきた文章の中にはこのような記述があります。

新聞紙上で、失格騎手だとかハートが問題の騎手だとか言われていることだった。シリウスのレースぶりを1度も眼にすることのなかった私に、1着失格の時や勝てたレースを落としてしまったその時の彼の騎乗ぶりをうんぬんすることはできないが、彼を2流以下に扱う人々の言動がわからなかったし、不思議な感じすらしていた。*32

この投稿の全文の画像が以下になります。
シリウス_失格_画質調整忘れ.jpg*33
現代ではシリウスの2走目・3走目の騎乗がどのようなものであったか伝わっていないため、ことさらにオーナーが騎乗ミスを攻め立てた事ばかりがピックアップされますが、
当時このような報道をする記者がいたほどのレベルだったのだという視点が加わると、また別の見方も出来るのではないかと思われます。

ここで大事なのは加藤騎手ご自身は非常に素晴らしい騎手だということです。
そもそもミスをしたことのない騎手なんてこの世にいないと言っても過言ではないと思いますし(たぶん)
加藤騎手は騎乗に関する腕も素晴らしいですがご家族を大事にする温かい言葉や素晴らしい度胸など、とても良い人柄の方なのだと私は思っています。
ただ問題は2歳時のはじめの頃、馬にレースを通じて様々なことを教えなければならない大事な時期にこのような事が連続して起こってしまった、という事を陣営それぞれがどう捉えたか、という違いだと思われます。

府中3歳Sではクビ差1着。
そして2走目と3走目の騎乗に端を発したトラブルが有名な転厩騒動です。

また、朝日杯3歳Sに出走を予定していましたが、こちらは脚部不安(左前繋靭帯)で回避します。
シリウス_朝日杯回避.jpg*34
※当時の優駿がのどギリギリまで文章を載せているため画像編集で繋いでいます。

3歳

皐月賞の出走回避の原因は…?

転厩騒動の直後の若葉賞では岡部騎手を乗せて1着、皐月賞は諸説により出走できず。(転厩騒動後~ダービーまでの出走予定や回避などが優駿やミル貝やJRA60周年本やニコ百やその他の各本でバラバラなことにご注意ください)

脚部不安で回避
シンボリ牧場
優駿
二本柳師(ダービー後インタビューからの推測)
転厩騒動のゴタゴタで回避
桐沢場長
60周年本

参考記録:
1985年4月号優駿

脚部不安のため今は牧場に帰っているシリウスシンボリの存在も無視できない*35

1985年7月号優駿
「今月の記録室」のダービー記録のコーナー

脚部の不安で重賞には1度も出走できなかったし*36

というように、今まで重賞に出走できなかったのは全て「脚部不安」によるものであるという説明があります。
(優駿はこのインタビューの1年以上後の加藤騎手へのインタビュー(下記画像参照)内でも「シリウスは脚部不安で皐月賞を回避」説を採用して記載しています)

1985年3月31日に行われた第33回日経賞(G2)のインタビューとして日高シンボリ牧場の畠山和明場長が

今年は3歳のシリウスシンボリにもクラシックの夢がかかっているし、楽しみが多いですね。*37

と答えており、シリウスの若葉賞(1985年3月30日)の翌日に開催された日経賞が終わった段階では、回避するような事態が起こる可能性は考えていない、つまり転厩騒動はクラシックには影響しないとも取れる文章が記載されております。

そして優駿の記録室に記載されているダービー後の二本柳師のコメントでは

皐月賞、NHK杯を使わなかったので、中間いろいろと言われましたが、馬の状態は良くなっていました。*38

と、「使えなかった」ではなく「使なかった」と、意図的に出走回避したと捉えた方が良いコメントを残しております。
そしてコメント中にある「いろいろと言われました」というのがまさにこの騒動に纏わる様々な憶測や邪推を指し示していると捉えられなくもないと考えられます。

当時の優駿の皐月~ダービー時期の優駿では下記画像のように脚部不安に関する声が多く

  • 予定していた朝日杯3歳Sを脚部不安で回避していたこと
  • NHK杯に関しても脚部不安(挫跖)で回避していること
  • シリウスの母や姉が体質の弱さを抱え一度も出走できなかったため、若い頃のシリウスは牧場側から体質の強さを疑問視されていたこと
  • ヨーロッパ遠征時の初期調教時に脚部のことを考えながら調教について話していたこと

などから、脚部不安説には一定の信頼はあると考えられます。
シリウス_回避_2.jpg*39
↑ ダービー前の優駿
シリウス_回避_1.jpg*40
↑ はシリウス帰国後の優駿の記載。

ちなみに、3月25日印刷分の優駿1985年4月号の皐月賞出走馬特集ではシリウスがきちんと載っております。
皐月賞の主役たち.jpg*41
足元が枯れすぎ.jpg*42
岡田総帥がすごく不穏なこと言ってますが…総帥の目から見ても脚が不安そうに見える外観だということが分かりますね…

「皐月賞は転厩騒動により回避」と書いている発言の大元の出所は千葉シンボリ牧場場長である桐沢氏の発言だと思われるのですが、彼の発言にはいくつか矛盾が見られるため、下記の項目で簡単な検証を行っております。
桐沢場長の発言の矛盾についての検証については← のリンク先で触れています。
自分の勤めている牧場の公式発表と違うもの(かつその証言が他の牧場スタッフの証言と食い違う)だったり、60周年記念本のシリウスのページ内で大元のコラムに対し意図的な編集(下記に画像を記載)をしている箇所があるため、個人的には2つ目の信憑性がやや劣るかな…という気はしますが実際の所がどうであったかは不明です。

なお、60周年記念本の信頼度を何故下げているのかというと
可能な限り作品の初出掲載時に準じて掲載しています.jpg
このような特定人物に対する印象操作とも捉えられるような原文に無かった追記をしている痕跡があるため、そのような個人への感情がある状態で後世の資料の1つとなるはずの60周年本を編集してしまうのは正確性への観点が抜け落ちてると捉えられても仕方ないと考えられるためです。
60周年本に載っているシリウスのページのコラムは最初の22行目以降は優駿に載っていた野平師と芹沢氏のコーナーに記載されていたものと内容が文章の細部を除けばほぼ同じであり、当時他の媒体に再収録というのは時期が近いため考えにくい事と、あくまで野平師のコーナーでの聞き手が芹沢氏であることで成立している構成であるため他紙での再現は難しいと思われます。

また、トレセン内では「レース出走10日前には厩舎に戻ってなくてはならない」という規定がありますが、転厩に関わる日付は、3/20に畠山厩舎に転厩、3/28に二本柳厩舎に戻ったとあり、肝心の皐月賞は4/14、現在の出走登録に照らしあわせれば3回目登録の〆切のレース14日前には既に二本柳厩舎に戻って4日が経過していること、超々ベテランで一流調教師の二本柳師が登録を忘れたなどは考えにくいと思われます。

国会図書館でスポーツニッポンを調べて頂いた内容として、下記のような情報提供を頂きました。

①「シリウス”転厩”騒動厩務員組合に波及 あす調教師会に協議会申し入れ」(85/03/27付)
②和田オーナー転厩”取消し”春闘が無言の圧力!?(85/03/29付)

つまり、厩務員組合に転厩に反対する動きがあったことは事実と思われます。
※なお、記事内の成宮調教師会関東本部長のコメントでは「畠山調教師が骨を折って両者の仲を取り持ったもの」と、調教師会としての動き(=厩務員組合の抗議の影響)は否定。

また、転厩取消し後の時期に、こんな記事もありました。
③「和田オーナー重ねて依頼 シリウス問題再び不協和音 岡部困った!」(85/04/03付)
転厩取り消しはあくまでも畠山師の立場に問題が生じたためとし、和田氏が岡部騎手に対して改めて皐月賞の騎乗を依頼したため、スクラムダイナの依頼とかちあう岡部騎手が困惑しているという記事、
そして④「シリウスさつき賞回避 ごたごた収拾策!?和田オーナーが表明」(85/04/04付)
表明したのは和田氏で、二本柳師は出走への希望を捨てていないコメントが掲載。

「畠山調教師が骨を折って両者の仲を取り持ったもの」というのは木村氏の著作で書かれてる畠山師の「受けられない」という言動と一致するのでこの部分は重なりましたよね…
となると時系列(暫定)では
3/20:畠山厩舎に転厩(二本柳師の元へ戻る前の畠山師の「受けれられない発言」の時期は3/20~3/27の間)
3/27:(報道)①調教師会に協議会申し入れ
3/28:二本柳厩舎に戻る
3/29:(報道)②「春闘が無言の圧力!?」(調教師会としての動き(=厩務員組合の抗議の影響)は成宮調教師会関東本部長が否定。)
3/31:畠山和明場長(日高シンボリ場長)がルドルフの日経賞後に「シリウスシンボリにもクラシックの夢がかかっているし」と発言
4/03:(報道)③「和田オーナー重ねて依頼 シリウス問題再び不協和音 岡部困った!」
4/04:(報道)④「シリウスさつき賞回避 ごたごた収拾策!?和田オーナーが表明」
4/14:皐月賞当日

という感じでしょうか…
スポーツニッポンの取材→執筆→印刷→販売の速さに詳しくないのですがラグは2~4日と見て考えてもやっぱり何を信じればいいのかよく分かりませんね…
あとスポーツニッポンといえばルドルフの遠征3日前の報道で岡部騎手が苦言を呈してた

この事実を、他にさきがけていち早く報じたスポーツ紙は2紙しかなかった。SN紙もその1つだったが、同紙は1面すべてに金赤の極太活字をおどらせた。
<皇帝ルドルフ引退、突如海外遠征断念、ターフに衝撃!五冠馬に何が 来春から種牡馬…>*43

もスポーツニッポンさんの報道だった事を考えると当時のSN紙は速さ最重視と感じられなくもないような…という辺りから「皐月賞はゴタゴタで回避」説はSN紙が元になった可能性はありそうです。



また、上で触れたクラシック出走登録制度に関してはオグリパイセンの影響により改定されているので現在のものと共通かどうかは不明ですが、参考として第1回東京優駿の出走登録について載っている文章を引用しておきます。
第1回の東京優駿の実施日は1932年(昭和7年)4月24日です

 条件
馬は昭和4年生まれの内国産馬で、抽籤馬を除くこと。出馬申込みは第1回昭和5年10月15日正午〆切り50円、第2回昭和6年6月15日正午〆切り50円、第3回昭和7年1月30日正午〆切り100円で、前後3回行なうこと。距離は2400メートル。負担重量牡馬55キロ、牝馬53キロ。ただし以前に勝っている馬は、1勝ごとに1キロ増。賞金は3着まで。*44

この条件をあてはめるなら、第1回申し込み…1歳時の10月、第2回申し込み…2歳時の6月、第3回…3歳時の1月となります。
まぁ…第1回ダービーの頃は皐月賞も菊花賞もまだ無かったので日程調整入ってるような気がしないでもないですが…
あと、シリウスの話からは脱線してしまいますが第1回東京優駿でシンボリ牧場(当時は新堀牧場名義かも)から出馬したレイコウの鞍上は二本柳俊夫調教師のお兄さんの二本柳勇騎手でした。

そして皐月賞後のNHK杯からは加藤騎手とのコンビで復活することに決まりましたが、脚部不安(挫跖)で回避することになります。

ダービー

1コーナーを10番手以内で回れ、というダービー必勝の鉄則(この年は26頭立て)どおり、8、9番手で通過。道中も一度としてギクシャクしたところがなく、4コーナーでは先行集団に躍り出た。重馬場の直線では大外強襲。粘るスダホークを造作もなくかわして3馬身差の圧勝だった。*45
シリウス_ダービー_画質補正忘れてたVer.jpg*46

このダービーのあとに、和田オーナーが騎乗について2点不服点を挙げています。
一点目は仕掛けのタイミングについて、これに関しては加藤騎手もきちんと説明し、野平師も加藤騎手の騎乗を称賛しました。
二点目はガッツポーズについて

ゴールイン後のガッツポーズも気にいらない。ゴールイン直後の止めぎわの良し悪しは、故障につながるところ。うまく手前を変えてやらなければいけないときに、片手を手綱から離してガッツポーズをするとは、プロにあるまじき行為。ああいうハデな競輪選手のようなプレーを喜ぶファンは多いかもしれないが、私は馬のためを思うとゾッとする。岡部騎手はああいうことは絶対にしない。競馬に対する姿勢のキビしさの差だろう」*47

後年まさに岡部騎手がマティリアルのゴール直後にガッツポーズをするんですよね…そしてその後何が起こったかは…

ガッツポーズ.jpg
ちなみにどんなガッツポーズかというと多分これ(60周年記念本の写真より)

ダービー時の2代目は風邪で欠席
これは事実なんですが、これだけで「加藤騎手の騎乗を見たくなかったから来なかったのでは?」とか邪推してる纏め動画を見たことあるんですが、じゃあ誰も応援に来ていなかったのかというとそうではないんですよね

シリウスがゴールした瞬間、畠山*48の表情は一変した。大粒の塊となっていまにも落ちそうな涙がまぶたの奥で光った。すぐそばでは、風邪気味のあるじに代わって応援にきていた和田容子と桐沢正好牧場長とが、全身を喜びに震わせながら固い握手をかわしていた。*49

とあります。
自分が風邪気味だからと言って応援をよこさなかったわけではなく、きちんと自分の代理の人を3人派遣していたんですね。
風邪が本当だったのかどうなのかは今となっては分からないのですが1985年当時で62歳、1985年当時の男性の平均寿命が74歳、実際には2代目が1994年に71歳で亡くなられてしまった事や、海外遠征の際に主治医夫妻を招いて同伴してもらっていた体調面、後年は持病の心臓病がひどくなり常にニトログリセリンを携帯していた等の事を考えると…風邪気味で欠席もやむなしかなと個人的には思います……

それでも根拠のない邪推の方を信じる例
895640752.jpg
こういう、まとめか何かで見た知識だけで確定した事実と断定して平気でデマ吹聴する人がいるから困るんですよね…このページができてからこの発言時点で約6か月経っているというのに…頭●うまPですか…?


シリウス_ダービー優勝レイ_画質補正忘れてたVer.jpg*50
優勝レイを羽織ったシリウス

もしミホシンザンがダービーに出ていたら…?
週刊Gallopの臨時増刊号「日本ダービー80年史」にて行われた小島太騎手、岡部幸雄騎手、柴田政人(ミホシンザンの主戦)騎手の対談企画より

柴田:あの馬(ミホシンザン)は皐月賞を勝ったときに、3冠を取れると思ったよ。これは、ミスターシービー、シンボリルドルフに続いて3年連続で3冠馬が出るとね。正直、皐月賞はあまり状態が良くないのに勝ってくれたから。
小島:強い馬だったもんね。無事ならダービーも間違いなく勝っていたよ。
柴田:ただね、あの馬場だったでしょ。そのときのダービーはシリウスシンボリが勝って、岡部のスクラムダイナが3着で。俺はミホシンザンが出られなくなってメジロジェスターという馬に乗ったけど、本当に重い馬場だった。もし、ミホシンザンで出ていたら、1番人気を背負って、あの馬場で力を出せなかっただろうなと思っている。
岡部:馬場が重くなったから、そう切れる脚がないシリウスが勝てたんだよね。スクラムダイナも人気上位にはなっていたけど、ああいう軽い走りの馬では厳しい馬場だった。
小島:俺のサクラサニーオーも人気していたけど、馬場が悪くてトモが抜けちゃったもんなあ。よく7着にまでこれたと思う。
柴田:あの馬場でミホシンザンを走らせていたら、負けて引き揚げてきて、頭を下げるしかなかっただろうと。そうやって自分を慰めるしかなかった。なかなか人には言えなかったけどね。それで秋には菊花賞をスパッと勝ったんだし、あのダービーを走らせないでよかったと思ったよ。*51

シリウスの脚質について結構貴重な証言が出てます。実際にシリウスに騎乗したことがある岡部騎手が「そう切れる脚がない」と仰ってますね。
キレる脚よりも、長くいい脚を使ってレースをするタイプなのかもしれませんね。

ギャロップに載ってた競馬新聞が以下の画像になります
シリウス_ダービー_競馬新聞.jpg*52

ダービー後の優駿誌上での感想会

優駿誌上でダービーの振り返りをゲスト3人と共に行っているページで、当時の空気感や状況などの参考になる箇所があるため引用します。

岡田繁幸さん

おもったよりも、ずっとシリウスは強かった、と岡田さんはいった。スダホークで勝てる、というシーンも一瞬はあったのだが、それを三馬身も差し切ってしまうのだから、シリウスの強さには非の打ちようがない。
シリウスの勝利は、あるていどまでは予測されてもいたし、実績のある強い馬が勝ったのだから、結果としてはさほどの意味をもつものではない。しかし、シンボリ牧場がダービーを連覇したという観点に立つと、シリウスの勝利はまったく画期的な意味をもつものになってくる。
なぜなら、これまでの日本の競馬では「強い馬ができた」という発想が支配的だった。しかし、シリウスは「強い馬をつくる」というシンボリ牧場の発想から生まれたダービー馬だった。
つまり、シンボリ牧場は、馬は人間のつくる芸術品だということを改めて教えてくれたわけだから、ぼくたちはこの現実を素直に認めるところから始めなくてはならないだろう。
ぼくは、シリウスシンボリという馬について、超大物という印象のない馬だ、といった。これは、ぼくがシリウスを写真の上で見た印象だから、あるいは間違っているかもしれない。しかし、もしシリウスがぼくの印象通りの馬だったとすると、かれの強さはやはり鍛錬の成果というべきだろう。
鍛錬ということでは、僕も人に負けないくらい勉強もし、工夫もしてやってきたつもりだし、現にいまもやっている。でも、何かが違うようだ。だから、できるものなら、競馬ジャーナリズムはシンボリ牧場の鍛錬の中身を伝えてもらいたい。鍛錬の仕方ではなく、その中身を教えてもらいたい。
もう一度繰り返していう。もし、シリウスが強い馬づくりを目指す日本の競馬界の吉兆の星だというのであれば、ぼくたちは、シンボリ牧場のダービー連続制覇という現実を素直に認めるところから始めなくてはならない。*53


佐藤伝二さん

一ヵ月も以前の段階での予想ということで佐藤さんがもっとも頭を悩ましたのはシリウスシンボリの存在だった。あの馬はたしかに強い。しかし、現在の調整ぶりはどのていどのものなのだろうか?
将来のダービー候補を探して日高の牧場を巡り歩いていた佐藤さんは、静内場外発売所のテレビでダービーを観戦し、シリウスシンボリの強さに改めて驚嘆した。
ああいった前例のないローテーション、いわばハンデを背負ったようなローテーションを克服してダービーを勝つのだから、これは強い馬だ、と佐藤さんはいった。
この馬の勝利には、さまざまな意味があるでしょう。競馬関係者にとっては、ちょっとしたシンボリ・ショックといってもいいかもしれない。偶然に、たまたまああいった強い馬が出た、という見方もあるかもしれないが、わたしとしては、素直に学ぶべき点がおおいのではないか、とおもう。
ジャパンカップにやってきた外国馬たちは、それぞれの個体にあわせて、じつにさまざまなトレーニングがなされていたと聞いているし、やはり、いろいろと学ぶ点もあった、ということだった。
ジャパンカップの目的のひとつに強い馬づくりがあったのなら、そこから何かを学ぼうとするのは当然でしょう。しかし、国内にも学べるものがあるのなら、素直な気持ちでこれを学ぶのも大切なことではないですか。わたしには、シリウスシンボリの勝利というのは、現状の馬づくりに対しての、ひとつのおおきな警鐘のようにもおもえるんですが、どんなものでしょう?*54


森沢邦昭さん

反省はもうひとつある、と森沢さんはいった。ぼくは、シリウスシンボリが勝つのはスポーツの世界ではありえないことだ、どうかことしもダービーがスポーツの世界の出来事でありますように、などといってしまったが、ダービーが終わって冷静に考えたとき、シリウスのたどった過程、そのトレーニング、そしてダービーのレースぶりはまさしくすべてスポーツの世界の出来事そのものであったと痛感せざるをえなかった。
したがって、ぼくの間違いは、日本の競馬がそのトップレベルにおいて、すでに純粋なスポーツの世界に踏み込んでいることを理解していなかった、ということのようだ。しかし、あえていわせてもらえば、競馬ジャーナリズムがシリウスのトレーニングを報道するかわりに、かえって師弟愛などという純日本風の義理・人情の世界にスポットを当ててしまったことは、かえすがえすも残念なことであった。*55

最後の森沢さんのコメントの中にある「競馬ジャーナリズムがシリウスのトレーニングを報道するかわりに、かえって師弟愛などという純日本風の義理・人情の世界にスポットを当ててしまった」というあたりが当時の状況だとすると、
加藤騎手と二本柳調教師の逸話が記録に多く残っていて、代わりとして岡田総帥などが「知りたい」と仰っていたシンボリ牧場の内実・内情などが当時の記録としてほとんど残っていないのはこの辺りが要因と考えてもよいかもしれません。

海外遠征

シリウスの海外遠征に際してよく言われることがあります。
それは「当時の日本競馬は海外遠征のノウハウが少なかった」というものです。
これは事実ではありますがノウハウ自体が無かったわけではありません、よく聞く誤解についていくつか挙げてみようと思います

海外にツテも何もなく、海外の厩舎に適当に放り込んだ

これが多分もっとも大きい誤解だと思います。
そもそも当時は日本からの自費遠征がほとんどなく、日本人で海外の遠征に最も詳しい人のひとりが2代目オーナーだったと言っても過言ではありません。

シリウスの遠征の際に英国で入厩したのがジョン・ウィンター厩舎で、彼と2代目との交友の出発点がスピードシンボリ遠征時です

昭和44年初春、和田は英国競馬界きっての紳士と評判の高いカーネル・ヘイスティングに、当時6歳のスピードシンボリをイギリスで走らせたい、と申し出た。ヘイスティングは「トシをとり過ぎているのが難点だ」と言いながら「どうしても貴殿がその馬を走らせたいなら」と言いかえた。「……J・ウィンターという調教師を紹介しよう。若いが、人間的に申し分のないヤツだ」
その出会いによってスピードシンボリの『キングジョージ』出場はなった。*56

そしてこのJ・ウィンター厩舎に入りながら、シリウスはキングジョージに出走しています。
そしてこの遠征初期には2代目自身がシリウスに同伴しています。決して適当に放り込んだとは言えないでしょう

16年前、スピードシンボリとともに来たとき以来、ニューマーケットで『トモヒロ・ワダ』は伝説となっている。早朝から深夜まで愛馬の前を離れない男。どんな英国の愛馬家にも負けない、ジャパン随一の愛馬家と言われている。その男がまたやってきたというので、再び話題を呼んでいる。今年かぎりで騎手を引退するというイギリスの至宝レスター・ピゴットも和田にあいさつに来たほどだ。*57

とありますので、スピードシンボリの遠征を縁に現地で様々な人と親交を深めた背景が伺えます。
また、パトリック・ビアンコーヌ調教師に関してですが

昭和59年(1984年)3月に欧州競馬視察に出かけた際に購入した馬を親しい調教師ビアンコーヌに預けた*58

という一文がありました。
このビアンコーヌ調教師が祖父なのか孫なのかは不明ですが、遠征前には既に親交があったことがこの文から分かります。
また、凱旋門に挑む際に預けられたバルメール調教師もスピードシンボリを預けた厩舎です。
このように海外で滞在していた3つの厩舎のうち3つともが既に親交があった事から、適当に放り込んだというのは全くの見当違いと言っていいでしょう

ビアンコーヌ調教師.jpg*59バルメール調教師.jpg*60
参考画像たち
当時の資料を紐解けば証拠写真もきちんと出てくるのに何でこのデマを信じてる人多いんですかね…?

日本人スタッフが一切同行しなかった

これはある面では正解である面では不正解です。
シリウスが所属している二本柳厩舎はシリウスの遠征に一切関わっておらず
当然のように調教師も助手も厩務員も海外には渡航しておりません。

しかし、そもそも当時のトレセンやJRAには海外遠征の際に人員の問題をどうするか、ということに対して明確な前例が存在していなかった可能性があります。
前例が存在しなかった推測の根拠として、1984年の優駿に「厩務員の生活や他馬の管理はどうするのか、問題は山積みだ」と記者が当時の状況を記している文章があります。
海外遠征の話などにて該当する全文を引用しております)

では自費遠征の先駆者であるスピードシンボリ、メジロムサシはどうであったか。
スピードシンボリの際には現地の厩舎に預けられ野平師が騎乗、メジロムサシに関してはおそらく後述している日本ホースマンクラブの繋がりにより現地の厩舎に預けられ野平師が騎乗と考えられます。
そしてシリウスとルドルフも同じく現地厩舎に預けられました。(ただしシリウスとルドルフの時代には、2頭とも現地に日本人スタッフが存在した記録はあります)

また、シリウス遠征の翌年となる1986年ギャロップダイナが遠征した際には、社台スタッフ2名と柴崎騎手が調教助手として同行したという記録があります。
ジャックルマロワ前日.jpg*61
こちらの写真は優駿の当時の読者投稿コーナー「オールカマー」に載っていた物です。読者投稿ですが優駿編集部のチェックを受けて掲載であった事、当時フランス遠征に応援しに行く日本人はツアー客以外では非常に少なかったと推測できること、画像を拡大して見ると確かに左が善哉氏、右が共弘氏に見えることからご本人たちである確率は高いと思われます。
やたら仲良さそうですけど巷で噂されてる「犬猿の仲」とは一体…?

ジャック・ル・マロワの当日に調教師が応援に駆け付けている写真はありますが、こちらでもトレセンの人員が付随したという記録はありません。
これらの記録を考慮すると、トレセンの日本人スタッフが付いて来なかったというのは当時では普通の事であった可能性があります。

自費遠征で調教師自らが音頭を取り、調教師や各スタッフがアメリカやヨーロッパなどの遠地に現地入りして様々な手配を行うというのは、空白の10年を経て、おそらく1995年のクロフネミステリーの遠征を待たねばなりません。(自費遠征だと1995年香港遠征のフジヤマケンザンがいますが、招待を経ての翌年の自費のようなので、ここでは省かせて頂きます)

クロフネミステリーの遠征を経てタイキブリザードで、そしてタイキシャトルの遠征を成功させた藤沢師が「野平先生に出されて久しい宿題をようやく提出した思いだ」と仰ったように、過去の遠征で先人が味わった苦い経験や教訓を元に現在に至るまでの遠征技術が培われたのだとすると、
過去の出来事が現代の価値観から見て愚かに見えても、手探りで最適解を探していた当時の関係者を一方的に非難することはできないのではないか、と私は個人的に思います。

一方で、シリウスの応援ツアーには二本柳厩舎の人は誰一人として来ませんでした。特に関係者ではない野平祐二調教師や、社台ファームの吉田善哉さん、吉田照哉さん父子の姿*63も応援団の中にいた記録はあるのですが…
現地の日本人スタッフとしては、シンボリ牧場スタッフとしてシリウスの世話を焼いていた榊原哲夫という方の名が優駿紙上で確認でき、
この方がシリウスが渡英する1985年7月13日、日航623便でシリウスの入ったコンテナと共に旅立ち、同年のキングジョージ後の7月29日にフランス、シャンティのビアンコーヌ厩舎へ移動予定と書いてある記述があります。
ただしその後の1985年発行の優駿に載っているシリウスの記事を読んでも榊原氏の名は確認できないため、ビアンコーヌ厩舎にシリウスが移動した後、日本人スタッフがいたかどうかは不明です。

シリウスと2代目.jpg*62
また、海外遠征の最初のうちは2代目がシリウスに同伴していたことも記録に残っています

帯同馬の重要性が分かっていなかった

これに関しては分かっていなかったより薄かった、と考えた方がいいと思います。
なぜならシリウスが本来ルドルフの帯同馬として遠征する予定だったため、最低でも帯同馬はいないよりもいた方がいい、という考えであることは伺えるためです。

また、当時の長期遠征の先駆者であったスピードシンボリが帯同馬なしでもやれてしまったこと(ただしスピードシンボリは長期遠征ではなく、遠征時には2代目と野平騎手がついていましたが…)、
ハクチカラも帯同馬なしでアメリカに約1年遠征して1勝を収めたことから、現代ほど帯同馬の重要性は顧みられなかった可能性は大いにあります。

岡部騎手は帯同馬の理由については自著の中でこう書いています。

この遠征のメインはルドルフだったんだ。それで、慣れない土地に一頭ではさびしいだろうとシリウスを連れて行くことにした。
シリウスについてはダービー制覇後、厩舎とのもめごともあったので、丁度都合がよかったのだろう。*64

牧場側がシリウスを選んだ正確な理由は不明ですが、ルドルフの併せ馬パートナーの一頭がシリウスであったこと(後述する併せ馬に記載)の他に、
ルドルフはシリウスに比べやや神経質であり、シリウスは神経がズ太いという評価をされていたことが理由として考えられるかもしれません

幅3メートルのデコボコの走路には、コブシ大から子供の頭蓋骨大の、尖った石が無数に顔をのぞかせている。円周状の走路の内と外には、まばらに生えた芝生とマロニエの木があるが、その老木の根が、馬場の北から南にかけて30数本、走路に露出している。大きなものは地表から15センチくらい盛り上がって、シリウスのウォーキングの前に立ちはだかっている。
「(シリウスは)こんなひどい場所でも平気で歩きます。神経質なルドルフがもし一頭で来てたら、こうはいきませんよ」
岡部幸雄が不敵に笑う。
「来た当初は、旅の疲れもあって3ハロンで音をあげたんです。今ではそばの騎手たちがたまげます。太めに見えるらしくて、ふだんデレデレした馬なんで、こんなに走るとは思われなかったみたい。神経が太いし、いけるかもしれませんよ」*65

と岡部騎手が評価してるので、神経質なところがあるルドルフが落ち着くように神経が太いシリウスが選ばれたのかもしれませんね、あくまで推測ですが。

また、ルドルフとシリウスはシンボリ牧場内にある、馬房が2頭分しかない特別な厩舎(シンボリ牧場内の特別厩舎参照)に入っていたため、馬房で過ごすときは自然と2頭が近かったため、普段の環境に近いものを再現するために選ばれたのかもしれません、推測ですが。

海外へ

旅立ちの日

シリウスシンボリが英国に発つ日がやってきた。
ここ、千葉県香取郡大栄町にあるシンボリ牧場は、空から垂れおちた霧と雨のカーテンによって乳白色にけぶっている。視界が閉ざされ、30メートル先にある立ち木の輪郭さえ、鮮明にみることができないほどだ。
人が集まってきた。
シリウスの出発を見送る男たちだ。その人垣のなかから声がもれた。
「行く先のイギリスも霧の多いところだよ。こりゃあ、きっと縁起ものの霧だぞ」
かれらのほとんどは、日ごろから何度も牧場に足を運んでいる取材記者たちだった。シリウスを成田空港までは見送る。しかし、あとを追って、シリウスが挑戦するアスコット競馬場までは行かない。
記者たちの、その行動プランを決定したのは、3日前に起きた"事件"だった。それまで英、米、仏遠征の主役とみられていたシンボリルドルフが、突如遠征を断念することになった一件である。
この事実を、他にさきがけていち早く報じたスポーツ紙は2紙しかなかった。SN紙もその1つだったが、同紙は1面すべてに金赤の極太活字をおどらせた。
<皇帝ルドルフ引退、突如海外遠征断念、ターフに衝撃!五冠馬に何が 来春から種牡馬…>
その日まで日ましに高まっていたシンボリ牧場海外遠征を盛り上げるマスコミ各誌紙のキャンペーンは、しぼんでしまった。
急激な、あまりにも急激な撤退劇だったといわねばなるまい。
そこに見ることができるのは、マスコミの電光石火のごとく素早い変わり身のたくみさである。
(ルドルフなら「売れる」が……シリウスなら売れない)
そう読んで、準備していた海外取材をとりやめた新聞、雑誌、テレビはごまんとあった。そのそろいもそろった撤退ぶりは、あたかも近づくパニックを予知して一斉に逃走する、野生動物の特殊な「勘」を思わせた。
しかしシンボリ牧場は、ルドルフを欠きながらでもシリウス1頭だけで、欧州遠征することを決めた。*66

シンボリ牧場の期待を一身に受けたシリウスは、馬房から出された。ルドルフが視線を向ける前を一歩ずつ馬運車に近づいて行った。
5時57分。乗り込み完了。
いよいよ出発だ。馬運車が動き出す。牧場の従業員とその家族が、総出で車をとり囲んで手を振った。霧雨が、少しずつ小粒の雨に変わる。
15分かけて、車は成田空港に入った。
8時53分。シリウスは日本航空623便に積みこまれるコンテナの前に立った。生まれて初めての空の旅が間もなく始まろうとしている。しかも行く先は、16時間かけて飛ぶ英国。サラブレッドのふるさとである。
1歩ずつコンテナに近づく。シリウスは堂々としていた。いならぶ30人ぐらいのカメラマンの前で、一瞬立ちどまった。およそ2秒間ほど、人間たちの群れをぐるりと首を振って見回した。そしてコンテナへ入った。
すべてが静かに、そして順調に運んだ。
午後8時25分、成田空港の滑走路。雨が止んでいる。停泊中のジェット機のエンジン音がすさまじい。思わず耳をふさぎたくなる。しかし機内への積みこみを待つコンテナのなかで、シリウスは平然と干し草をたべていた。*67

 
シリウス_海外挑戦.jpg*68
海外遠征のためにコンテナに乗り込むシリウス(ページ下部分)とそのコンテナを飛行機の貨物室に入れている様子(ページ右上)
この時コンテナに掲げられている祝辞が「 世界への挑戦」なのが何というか…当時の海外競馬との厚い壁を感じさせますね

ハクチカラさんの頃はコンテナをクレーンで吊るして貨物庫に入れたという話を聞きましたがこの頃にはきちんと昇降台で移動出来てるのが分かります。
また、ハクチカラさんやスピードシンボリさんの頃にあった「万が一馬が暴れて航行に支障をきたした場合、機長が射殺してよい」という条件を呑まなくてはならなかった、ということも無くなっていました。
技術の進歩ですね。今の時代からするとウソでしょ…ってエピソードですけども。

こうして貨物室にシリウスが乗り込み、シリウスの世話役の榊原氏がともに乗り込んだ日航623便が1985年7月13日の午後9時半、英ヒースロー空港へ向け旅立ちました。

キングジョージ

シリウスが挑んだ凱旋門賞については語る人がそこそこいるので、あまり話に登らない初戦のキングジョージについて取り上げてみましょう。
ちなみにミル貝の英語版にはこの年のキングジョージのページがあるので英語が読める人はどうぞ

2代目オーナー和田共弘氏がシリウスのキングジョージ挑戦に対してどのような気持ちであったか、その真意は分かりません。
彼が取材陣の前で答えた言葉を引用しておきます。

シリウスより1日遅れてニューマーケットに発つオーナー、和田共弘が口を開く。「日本の代表馬として行くんだから名誉がある。……勝つならいいが、魔術を使うわけにもいかんしね。もっとも魔術にしても、ちゃんとタネがあるんだけれどもね」*69

ヨーロッパの競馬を知り尽くしている和田共弘さんは「勝算がなければ遠征はしない。だが、討ち死にに出かける心境だよ」と出発前にポツリともらされていました。*70


岡部騎手
シリウスの海外初戦のキングジョージ、2戦目のバーデン大賞典では岡部騎手が騎乗しています。
岡部騎手はシリウスがイギリスに着くより前に西ドイツで騎乗していました(その頃はルドルフも遠征する予定だったため)。その経緯を引用します。

7月1日、海外遠征を決めたルドルフとシリウスシンボリに先だって、ボクは成田から西ドイツに向けて出発した。ルドルフ遠征に照準を合わせながら2ヵ月の予定で西独、仏、米の競馬場を渡り歩き、転戦する修行旅行だった。
西独に着くと、すぐにシンボリ牧場ヨーロッパ駐在員の村上氏に会った。もちろん、ボクはドイツ語もフランス語もできないし、ヨーロッパ競馬に通じているわけでもない。だから、ヨーロッパ転戦中はずっと彼といっしょだった。レースの段取りも彼がしてくれた。*71


また、キングジョージの前に岡部騎手はアスコットのレースに出走しています。それがどういった経緯であったかを引用します

和田は、かれを補佐するスタッフのひとり、英・仏語の何とか話せるM(野沢組社員)を使って、新しい馬を買う電話交渉をはじめた。
和田はその真意を、英国に到着したばかりの私にいわなかった。しかし、和田とMのやりとりを聞いていれば、かれが何を意図しているかは明らかだった。
和田はアスコットの馬場を初体験する騎手岡部幸雄のために、1頭の馬を買い、その馬で『キングジョージ』のレース前日、アスコット馬場の特徴を"学習"させようとしたのである。7月初旬に西ドイツ・ハンブルグでのダービーに乗って以来、レースから遠ざかっている騎手に、勝負勘をとりもどさせようとのねらいもあったはずだ。
のちになって、和田の意図は実を結び、ハーリイという5歳の牡馬がかれのものとなった。のみならず、和田はもう一つのレースに出る馬ドクターチズニーのハンブリー調教師に、岡部を乗せてもらう交渉をし、それにも成功した。
それもこれもすべて、7月27日の第3レース『キングジョージ6世&クイーンエリザベス・ダイヤモンド・ステークス』に出場する、シリウスシンボリの一戦に心を砕いているからに外ならなかった。*72


出走馬たち
※以下のカタカナ名の海外馬のリンクは「優駿達の蹄跡」様へ貼らせて頂いております
当日の1985年7月27日のキングジョージは12頭立て、シリウスは11番人気となり8着でゴールしています。
タイムは2:27.61、1975年にグランディが出した2:26.98に次ぐ歴代2位のタイムでした。
ちなみにこの1975年の記録は2010年にハービンジャーが2:26.78のタイムを出すまで破られませんでした。
勝ち鞍不明の馬について、どうしても分からないのでPedigree Online様を参考にしました。こちらを参考にした馬名と勝ち鞍は緑文字で記載しております。

着順馬名出身国参加時の主な勝ち鞍備考
1ペトスキーイギリスプリンスオブウェールズS(英G2)*73
2オーソーシャープイギリス英1000ギニー(英G1)
英オークス(英G1)
フィリーズマイル(英G3)*74
ネルグウィンS(英G3)
キングジョージから2か月後、英セントレジャーで優勝し
イギリスで9頭目の牝馬三冠馬となる
3レインボークエストアメリカコロネーションC(英G1)
グレートヴォルティジュールS(英G3)*75
同年の凱旋門賞の優勝馬、サクラローレルの父
4ローソサイエティアメリカ愛ダービー(愛G1)
ナショナルS(英G2)*76
アングルシーS(愛G3)
チェスターヴェース(英G3)
5RaftアメリカPrix De La Cote Normande (Fr-G2,2000m)
(仏G2?)
現在この勝ち鞍名で調べても何も出ないのでちょっとよく分かりません…
レインボークエスト所属のアブドーラ厩舎の馬*77
6ストロベリーロードオーストラリアバーデン大賞(独G1)
サンクルー大賞(仏G1)
アルクール賞(仏G3)*78
7InfantryイギリスDee S.(GB-G3)(英G3)*79
8シリウスシンボリ日本日本ダービー(日G1)
9Treiziemeアメリカグランクリテリウム(仏G1)
10Crazyフランス勝ち鞍不明(4歳時に英G2のプリンスオブウェールズステークス(現G1)で2着)
11Princess PatiアイルランドPretty Polly S(愛G2)*80
愛オークス(愛G1)
12Augustアメリカ勝ち鞍不明レインボークエスト所属のアブドーラ厩舎の出したラビット*81

この年のキングジョージに挑んだ海外G1馬は判明しているだけでも6頭、当たり前ですけど凱旋門ほどじゃないにしろプチ地獄ですね。

※このレースに出走しているTreiziemeについて、情報が少ないため探したのですが、育成牧場に載っている戦績(フランスで預託した調教師名がアスコット競馬場発行のキングジョージのPDFと一致)、牝系の情報JBISの情報の3つから同一馬と推定できるため、勝ち鞍がグランクリテリウム(仏G1)と判断しました。

キングジョージのオッズ
英語版のミル貝を参考に(優駿の記録で裏付けが取れたオッズを青色で表示)*82表にすると以下のようになります。
下に行くほど倍率が高いです。

オッズ馬名主な勝ち鞍
4/5オーソーシャープ英1000ギニー(英G1)
英オークス(英G1)
フィリーズマイル(英G3)
ネルグウィンS(英G3)
3/1ローソサイエティ愛ダービー(愛G1)
ナショナルS(英G2)
アングルシーS(愛G3)
チェスターヴェース(英G3)
12/1ペトスキープリンスオブウェールズS(英G2)
レインボークエストコロネーションC(英G1)
グレートヴォルティジュールS(英G3)
ストロベリーロードバーデン大賞(独G1)
サンクルー大賞(仏G1)
アルクール賞(仏G3)
22/1Crazy重賞勝ちなし
2着…プリンスオブウェールズS(英G2)
RaftPrix De La Cote Normande (Fr-G2,2000m)(仏G2?)
33/1InfantryDee S.(GB-G3)(英G3)
66/1Treiziemeグランクリテリウム(仏G1)
100/1シリウスシンボリ日本ダービー(日G1)
Princess PatiPretty Polly S(愛G2)*83
愛オークス(愛G1)
1000/1August重賞勝ち無し

と、現地のブックメーカーが付けた評価を見る感じでは「欧州のG3を勝っている牡馬の方が日本ダービーを勝った馬よりも強かろう」という予想をされていたことが伺えますね。
当時の日本競馬のレベルが現地でどのような評価をされていたのかという一つの目安にはなるかもしれません。

当日のレース模様
優駿紙上で記述されていたため引用します

現地で取材・観戦していた木村幸治氏

パドックにもどる。緑に白だすき、シンボリ牧場の勝負服を着た岡部がすでにまたがっている。
シリウスは、しかし焦れこんでいた。日本で見たこともない昂ぶりようだ。本番の時がやってきてはじめて、自分がこれからやろうとする仕事のただならなさに気付いたのかもしれぬ。
「がんばれよ」
日本人の声に岡部と榊原は目を振り向けた。しかしシリウスは気色ばむばかりだった。
3時22分、12頭*84の馬が2400メートル、おむすび型、途中鋭角的なカーブが2つある馬場に飛び出していった。岡部がノーを繰り返したにもかかわらず乱暴に袋をかぶせられ、ムリやりゲート入りさせられたシリウスが、前に出た。
1711年にオープンしたこの競馬場は、幅が20ないし30メートル。ラチの高さが130ないし150センチ。芝はおよそ8センチと、深くてきれいだがその奥ぶところは穴ぼこばかり。油断もスキもないしたたかな荒れ馬場である。
しかしシリウスは駆けた。5番手を進んだ。最初の大きなコーナーで9番手。
曲がり終え、フラットな2つ目の直線にきてスタンドを見て進むころ最後方に下がった。差はあくばかり。
「もしかしたら、このレースでぶっ壊れるかもしれない」
シンボリ関係者の告白を耳にしている私には、よけいに辛い後退である。
(負けてもいい、無事に帰ってこい。シリウス)
このとき、榊原哲夫は目に涙してそう祈った。
直線に近づき、最後のカーブ。岡部のムチがはげしくしなっている。オーガストを抜いた。クレイジー、トレジェム、プリンセスパティも抜いた。
「すごい馬場だよ。こわくて乗ってられないよ」と、2日前の試走でグチっていた岡部の頬が、私の双眼鏡の円窓のなかで引き攣った。まだ岡部は勝つつもりでいる。さすがだ。急傾斜の上りにかかった。残りは300である。
16年前、スピードシンボリで、この馬場を走った野平祐二が私の30センチ前で観ている。野平の背が、ピリリとこわ張るのが見えた。
(それ行け、シリウス!!)
シリウスの鞍上で、岡部の上体が躍る。
しかし、カーソンのペトスキー、コーゼンのオーソーシャープ、2頭のたたき合いは気の遠くなるほど彼方で、どこか違う世界のできごとのように演じられている。
7頭の群団がまずゴール。ややあって、後続群団のトップでシリウスが飛び込んだ。
優勝馬はイギリス牡3歳のペトスキー。タイムは2分27秒61。彫りの深いコース、しかもタイムの出にくい『キングジョージ』にしては、あわや新記録かと思わせる大レースだった。鞍から下りた岡部に、英国の記者が敗因を聞きにきた。上手な英語で、岡部はひとことこういった。
「He likes soft」(ヤツは軟い馬場が好きなんだ)*85


岡部騎手の著作でのキングジョージの記述

7月27日、イギリスアスコット競馬場で開かれた第35回キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(G1、芝2400m)で、ボクはシリウスシンボリに乗った。12頭立ての8着。本来ならルドルフも来ていたレース。無念の着外だった。
(中略)
キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスに、8着と敗戦した時、英国のジャーナリストが敗因を求めて取材に来た。
「ヒー・ライクス・ソフト(シリウスは優雅な馬場が好きなんだ)」
ボクは答えた。言いわけにも聞こえかねないが、感じたままを話したまでだ。芝が深いイギリスの馬場。その石灰岩質の土はゴツゴツして荒っぽく、デコボコだ。日本ダービーを制したシリウスにも、いきなりこの馬場はきつすぎた。日本の馬場は芝が短く、硬めの土で丹念に整地されている。とても記録の出やすい馬場だ。何もかも至れりつくせりの環境の中で走っている日本の馬の状況に、ボクは疑問を感じた。
(中略)
もしルドルフが出場できていたら何着に入れていただろうと、観戦に来ていた日本の記者に聞かれた。ボクはわからないと答えた。しかし、シリウスには申しわけないがルドルフとシリウスでは格段の差がある。はっきり言ってものが違うという感がある。天と地ほどの差だ。タイプとしても違う。シリウスがプロレスラータイプなら、ルドルフはボクサータイプ。日本から英国へ渡れば急激な環境の変化がある。だから、ハンディはあるが、1着になったペトスキー(カーソン騎乗)、2着のオーソーシャープ(コーゼン騎乗)、レインボークエスト(スウインバーン騎乗)の1着争い。この一角には必ず食いこめたはずとボクは秘かに思っている。*86


実況中継の解説をされていた野平祐二氏(インタビュアー:芹沢邦雄氏)

芹沢:レースまでの和田共弘オーナーのコメントは「絶好調」でしたし、野平さんも中継放送のパドック解説では「日本ダービーを勝ったとき以上の状態にみえる」と力説していました。ところが、シリウスが馬場に出て返し馬をしたときに…。
野平:アレレッ…と思ったんですよ。フットワークにいつもの伸びがみられなかったんで、ちょっと気になると放送でいったわけなんです。あの時点ですでにシリウスはハードな馬場を拒否、戦意を喪失していたのかもしれません。
芹沢:そういえば、シリウスがアスコット競馬場で馬場みせを行ったさい、岡部騎手は「堅い馬場を気にしているようだ」と語っています。
野平:放送ではやわらかく表現したので、少し気になる程度といいましたが、内心はこれは絶対におかしい、ヤバイという感じだったんです。
芹沢:レースの晩、シリウスの応援ツアー主催の残念会に招待を受けた和田オーナーは「絶好調で負けたのですから実力負け、完敗です」と語ったそうですね。出発前は、シンボリ牧場の関係者は一様に「シリウスは力強い走りっぷりをするので、ルドルフよりもヨーロッパの馬場が向いている」といっていましたが、実際はその逆でした。
野平:しかし、ニューマーケットの追い切りでは2勝している古馬を軽くアオってみせたくらい走ったのですからね。その馬がアスコットの馬場に泣いたというのも、決定的な敗因とは言えないでしょうね。
芹沢:それにしても、いまさらながらニューマーケットの追い切りでも、アスコットでのレースでもネをあげなかったスピードシンボリという馬は偉大ですね。スタジオから中継した盛山アナウンサーが「スピードシンボリは偉かったですね」とゲストに相づちを求めたところ、某ゲスト氏は「野平さんには悪いんですけど、あの年のキングジョージのレベルは低かったですからね」とやって、スタジオ内がシラケきってしまいました。
野平:あの方はパークトップ*87の強さと、国内でのスピードシンボリの強さをまったく知らないのではないですか。あの女傑パークトップを相手に五分の勝負を挑んだのですからね。直線一度はハナに立ったのですよ。今回でいえば、直線の二度目の坂あたりでシリウスシンボリが先頭に立って、そこから一番人気の二冠牝馬のオーソーシャープが一気に交わす——というような展開になるのですから、見ている日本のファンは興奮すると思います。
芹沢:残念ながら今回は、見せ場は一つもありませんでした。
野平:追い切りの翌日にシリウスシンボリの馬体をみたときは「これはすごい、大変身だ。これなら好戦できるのではないか」とサンケイスポーツ紙に書いたのですが、あのときは身びいきも少しはあったにせよ、本気でそう思ったんです。ムダ肉がとれて、ズングリした体型がいかにもサラブレッドらしい流線形になっていましたし、とくに首さしの線が素晴らしくよく見えたんです。ところが、スタートしてすぐに白旗をかかげたような走りっぷりでしたからね。日本の馬の精神的なモロさを暴露してしまいました。
芹沢:状態がよかったのに、なぜ辛抱できなかったのでしょうか?
野平:そこなんです。もう最後の100メートルあたりではシリウスは躓いたくらいヨレヨレでした。あそこまでモロさを出してしまうと、もうデキがいいとか悪いとかいう問題ではありません。強い馬というのは、デキの良し悪しで、そうレースの結果が変わるものではない、というのが私の持論なんです。意識的にろくな調教もしないでレースに出て、オープン馬がコロリと負けるとなると話は別ですけど、ふつう、今回は追い切りの動きがよかったから走るはずだ、逆に動きが重かったから期待できない―—といっても、結果は大差ないものなんです。要は能力。あとはガマンするかしないかの問題なんです。相撲だって野球だって、少々調子が悪くても、実力があればそれなりのことはするでしょう。サラブレッドも根本的にはそれと同じです。
芹沢:シリウスにはガマンする精神的な強さがまだ身についていなかったというわけですね。
野平:それに比べて向こうの有力馬はいかなる条件下でも、能力を出しきってみせるという強じんな精神力を持っているんでしょうね。シリウスがあれだけ大きな差をつけられるというのは、そうとしか考えられません。
芹沢:スピードシンボリにはそうした精神力の強さがあった?
野平:そうです。日本人の記者が今回、シリウスを預かったウインター調教師にスピードシンボリと比較してどうか——という質問をしたら、「シリウスはまだ子供。スピードシンボリは完成していた。スピードシンボリの方が間違いなく上位だ」と断言したそうです。かりにも日本ダービーを楽勝してきた馬をつかまえて、まだ子供というんですからね。結果はともかく、レース前にこういいきれるあたりは、いかにも本場のプロいう感じです。*88


優駿に記事を書いておられる武市好古氏の記述

この直線(最終直線)は前日異例の本馬場調教を許されたシリウスを撮影した時にコース内を歩いて知ったのだが信じられないほどの上り坂になっている。芝も深いし土もゴツゴツしている。並みのパワーでは通用しないコースだ。それにこの日は馬場も固くてシリウス向きではなかった。タイムが史上2位の2分27秒61という流れの速いレースだったのも不運だった。岡部も文句なしの好騎乗だったのだが。
しかし、シリウスシンボリは8着という成績以上によくやった。3歳馬の遠征、初コースで大レース挑戦と大きなハンデを背負ってのレースだったのだ。ぼくはシリウスよくやったぞとほめてやりたい気持なのである。そしてロンシャンならいいレースだぞとひそかに期待しているのだ。


英国の馬場事情
欧州は馬場がゴツゴツしている、日本と全然違うというのはよく聞きます。
行ったことがなく想像がつかないので、一体どういう馬場なのかを優駿紙上で書かれていた記事から引用しようと思います。
レース前の調教模様なども引用するので時系列が前後してることがあります。

日本が連日30度を越す猛暑*89におそわれていたこの夏、ニューマーケットの朝は10度前後(昼間でも20度くらい)、長袖セーターが必要なほど涼しかった。天候は気まぐれ、夕闇がおとずれるのは午後9時半。低い湿度。気候だけをみても、日本と大きな違いがある。
共同調教場を日本のトレセンと比べても、大きな差を発見できる。
自然そのものの丘陵地に、芝、ダート、ウッドチップなど長さ2000メートルの直線走路を何本も配置した舞台は、雄大の一語につきる。景色が変化に富み、美しい。調教される馬に、景色を楽しむ趣味があるか否かはともかくとして、馬を飽かせない効果はあるに違いない。
草と土。これがくせものだ。
見た目には優しい。草丈は深い。洗練された足場にみえる。実際には、むしろ"剛毅"だ。石灰岩質の土台は異様に硬い。穴ぼこだらけ。芝を走る馬に一瞬たりとも気を抜かせない厳しさを、緑のじゅうたんの下に隠しもっている。
草.jpg粘土かな?.jpg
土台の荒々しさは、シリウスが身をあずけているJ・ウインター厩舎の調教馬場でなお、驚かされた。
挫石をさそいそうな尖った石が露出し、転倒をわざとまねくためにあるようなマロニエの根が、固い土の馬場のあちこちに突き出している。
なんとそこでシリウスは、ウインターの馬たちと毎朝、ダクをやった。
これとほぼ同じ環境で『キングジョージ』の圧倒的一番人気馬、もっか6連勝のオーソーシャープはつくられてきた。"氏より育ち"とはよくいったものだ。スティーヴ・コーゼンにあやつられ、この馬は"淑女"と思えないヘラクレスのような走りをする。
日本でなら荒武者にみえるシリウスが、オーソーシャープに比べると繊細な"少女"にみえる。*90

だいたい坂がスゴイですからね。ちょうどゴールポストの真下で4コーナーを見たんだけど、ずっと昇り坂がつづいてる。ゴールまでずっと上がりきっちゃってる。ほんと、スゴイですよ。弱い馬では勝てない。
全くの直線コースは別にして直線は600メートルぐらいなんだけど、ご承知のように、むこうの芝生は太くて長い。たとえていえば、あのニラレバ炒めのニラがいっぱい生えてるようなもんだからね。とにかくパワーがなくてはダメ。
それに、直線がスゴイ坂ときているから、あざやかな追い込みなんていうのは決まりっこない。追い込もうったって追い込みきれるもんじゃないですよ。いってみれば「バテ合戦」のようなもんだからね。どれがいちばん伸びるか、というよりも、どれがいちばんバテないかっていうレース。
だから、レース見てても、人気のある馬が好位につけて早目に先頭に立ってそのまま、というレースが圧倒的に多い。見ていて面白味のあるレースっていうのは少ないんじゃないかな。*91

ウインターが提供してくれた馬主専用、美しい西洋芝のガーデンがある2LDK一戸建ての宿舎で、和田共弘は語った。
「シリウスはよくでき上がっています。それにしても、ニューマーケットの丘は、石灰岩質でできた土台が硬い。石がゴロゴロしているし、穴だらけ。こんなとこで無鉄砲にやったらシリウス君、いっぺんで壊れちまう。だから今のところウッドチップのところだけでやらしてるよ。ひどいもんだ。それに比べたらフランスのシャンティはいい。やっぱり馬をつくるには、あそこでなくちゃだめですね」*92


※下の文中に出てくる「ヒース」(heath)は英和辞典で検索かけたら「荒れ地」という意味と返ってきました。

シリウス_ウインター厩舎.jpg
シリウスとウインター厩舎の馬たちは、小さな馬場から移動を開始する。国道ぞいに設けられた歩道。そこは他の都市や町なら、人間のためのものだ。ニューマーケットの、厩舎と調教場を結ぶ地点にある歩道は違う。人よりも馬たちが主役だ。すぐわきの道を、車が高速で通り過ぎる。しかし馬たちは平然と舗装路の上を、カッパカッパと歩く。隊列をくみながら。
同じころ、和田共弘は欧州に来てから買い求めたグレーのベンツに乗りこむ。馬たちが傾斜角およそ3~4度のヒースをかけ上ってくるのに先がけて、現場へ急ぎ、双眼鏡を手に、はるか彼方を注視するためだ。
草でおおわれた調教場は視野が広い。さまざまの厩舎が、第1陣、第2陣と分けてそれぞれ20数頭の馬を送り出してくるので馬がはんらんする。注意を怠ると、目標の馬を見失ってしまう。
シリウス_隊列.jpg
和田とともにロングヒルと呼ばれる丘の上に立ち、岡部とシリウスが駆けてくるのを待った。ゴツゴツと硬いといわれるように、確かにヒースの土は靴底の下から、セメントの上に立ったような感触をつたえてきた。
人差し指で草を分け、その下にある白っぽい土に爪を当ててみた。硬い。爪が立たない。力を入れたが、痛む。わずかに爪を汚したばかりで、数ミリも指先を土中にめりこますことはできなかった。
ほぼ同じ箇所にある出発点から、扇型に放射状にヒースの上にのびている幾本もの走路は、ターフあり、ウッドチップあり、ダートありとさまざまだ。
日本にいたころから、足もとに不安のあるシリウスだっただけに、シンボリ関係者の走路選択に寄せる気の配り方は細心だった。
早朝、みずから率先して、車に乗り、必ずコースの下見に出かけたのは岡部だった。そして和田とウインターに相談し、その日シリウスが走る丘と走路、距離、走らせ方を決める。
「調教師が非常に紳士で、協力的だから有難い」と和田はいった。その通りで、私の視線でとらえたウインターは、実に温厚でもの腰やわらかく、日本から来たオーナーブリーダーをたてた。
厩舎のリーダーがそんな態度だから、美貌で気の強いクリッパー夫人をはじめ、他の職員たちのシンボリ関係者に対する態度も、友好的だ。人ばかりか、10歳の胴長な愛玩犬『トッパー』も、愛敬のある短い足をチョコチョコ走らせて、日本人たちを歓迎した。
シリウスとワンちゃん.jpg
和田共弘とその関係者の表情は、じつにのびやかで、屈託がないように見えた。
午前8時20分。
シリウスがロングヒルのウッドチップの上を駆けていく。そのさまを、和田が双眼鏡で追った。何も言わない。だが、仕上がりの良さに満足しているらしいことは、彼が双眼鏡を顔から離したあとの目の色によって明らかだった。
8時49分。
ウインター厩舎の馬房にシリウスと、和田らが帰ってきた。馬の背からは、すでに岡部が降り榊原が手綱をひいている。
ニンジンを1本片手に、和田がシリウスの面前に近づいた。シリウスがかぶりつく。
「皮膚がまた薄くなってますよ」と榊原。
「そうだな…」と和田が返した。「……まだ変わるよ。すっかり英国の馬になったな。薄くなって、内側から筋肉が盛りあがってきた。日本とは違うな……やはり気候がいいせいかな」
数ヵ月前、主治医安部孝のすすめで煙草をやめた和田は、その代用品のパイプを口にくわえたまま、シリウスによりかかりその馬体に見入っている。
「哲ちゃん、ここへ来て気性も少しずつ勇んできたようだな……」
「はい、そうですね」
和田はいきなりしゃがんだ。シリウスの足もとにひれ伏すように、膝をついた。2つの掌でシリウスの左前肢、つづいて右前肢の管のあたりを、包みこんだ。それぞれ5、6秒間ずつ。荒れ地の調教場でけなげに走りつづける愛馬を優しくいたわっているようでもあり、その繊細な細い足に"永遠にたくましくあれ"と祈りを捧げているようにも見えた。そしてそのまま、ずっとしゃがみこんでいた。


シリウス_広大な草原.jpg
シリウス_3頭の真ん中.jpg

キングジョージを終えて、慰労パーティー

レースが終わった夜、ロンドン市内の中華レストラン『ニュー・ロン・フン』で開かれた慰労パーティの模様を書いておかなくてはなるまい。
アスコットから、ベンツでロンドン市内の宿舎バークレーに帰った和田は、妻容子や安部主治医婦人らが、和服から洋服に着替えるのを待った。
そのあと、ピカデリーサーカスに近いソーホー地区の慰労会会場へ足を急がせた。
7時25分。会場で待っていたのは旅行会社『トラベルホースト・インターナショナル』がパーティを組んだ、シリウス応援団36名である。ルドルフの直前不参加にもかかわらず、アスコットへ行くことを辞さなかった熱心なファンばかりで構成されている。そのなかにはかつてスピードシンボリで『キングジョージ』を戦った野平祐二、シンボリ牧場の職員小熊夫妻、三浦健司、中田茂治、松島光好らのほか、アメリカからかけつけた社台ファームの吉田善哉、照哉父子も入っていた。
和田が姿をあらわすと、一部の客席から静かな拍手が起こった。"8位"という結果に対してあらわされた、それは一行の"意気消沈"と和田に対する"気づかい"の入り混じった、力のない拍手だった。
しかし、指定されたテーブルの前に立ち、あいさつを始めた和田の語調は思いのほか闊達で、声量も大きく、力がみなぎっていた。
「みなさん、どうも、今日はご多忙のなかをごくろうさまでした。ひとことだけ、ごあいさつ申し上げます。私どもの期待どおりに馬が走らず、8位という結果に終わりました。考えれば、体調が悪くて惨敗したのなら残念ですが、そうじゃあなかったので、さっぱりしています。
英国に来て以来、きょうまで日本ダービーのときよりは体調がよかった。すべてがうまくいっていた。今夜ここに来ていただいている吉田さんも、そう見ておられたようです。なのにああいうレースをした。それだけ日本の馬が遅れている。それと、馬場の問題があったと思います。
レース前、岡部君もいってました。怖くて乗ってられないと。しかし、あらゆることを加味し、総合して考えれば、素直に日本の競馬が世界の一流から遅れていることについて、しみじみと思いをいたさなくてはいかん。調子がよかったのにかかわらず、今日の結果が出たのをみて、大変参考になった。そんな心境であります」
和田はそしてつけ加えた
「捕捉します。この英国へきて、ウインター厩舎が総力をあげて、まるで全体が開店休業のような状態で、私たちの今度のことに協力してくれました。そのことへの感謝がおおきいことも、申しあげておきます」
晴れやかな表情で語られていく和田のこの言葉を聞きながら、私は不思議な思いにとらわれていた。
ちょっと天邪鬼になって聞けば、負けを照れ隠しにして大見栄を切っているようにも聞くことのできるはずのその言葉が、それにしては少しも嫌味がないのである。和田は、いま負けおしみではなく本心をそのままに吐露していると思えた。そこには日本競馬界に2年連続ダービー馬を送り出したオーナーブリーダーの、矜持はうかがえなかった。いいえ、むしろその自負があるからこそ、謙虚である自分を堂々とさらけ出せたといえるのではないか。
自信をもって英国まで連れて来た愛馬で大敗したという現実。その厳然たる事実の前で、和田はこの一瞬、まだ勉強の足りない日本ホースマンの一員になり切って、反省しているように見えた。*93


以上がキングジョージ遠征時の一連の流れです。
果たして世間で揶揄されてるような傲慢なオーナー像や、適当に放り込んだと言われる姿が見えてくるでしょうか?
私はシリウス遠征時の資料を今も可能な限り探していますが、少なくともキングジョージ時のオーナーの言動や、シリウスに乗る岡部騎手のために費やした労力を見ると、決してそう言い切ることはできないと思います。


シリウス_レーシングポップ.jpg*94

バーデン大賞、ロワイヤル・オーク賞

まだ調べ終わっていない項目ですが、作成途中のこのページの記述を転載して誤解を招いている恐れのある記述が他サイトに存在するため、急遽追加します。追加情報などは時間を見つけたら行います。

日本のダービー馬の実力はどんなものか、と多くの人の関心が集まったのだが、緒戦のキングジョージVI&クインエリザベスSは8着と敗れ去った。その後、西ドイツのバーデン大賞4着、と敗れたが、10月27日、フランスのロワイヤル・オーク賞(G1)では堂々の3着と健闘した。慣れない馬場に、環境にようやく慣れてきて、「ことしはヨーロッパでも屈指の実力馬として活躍するでしょう」とフランスで管理するビアンコーヌ調教師は語っている。
日本のダービー馬としては異例の(もちろん初めてのケース)ローテーションをとったシリウスシンボリは、これもひとつの夢の象徴であったかもしれない。*95

引用した記述から、当時はロワイヤル・オーク賞での3着というのは「大健闘」と呼べる成績であったこと、そしてその頃には「馬場や環境には慣れてきている」と調教師さんが判断されていることが伺えます。

12月ごろ

1985年12月印刷の優駿誌上の鈴木淑子さんによるインタビューの「JCを勝ったルドルフについて」の話中にこのような一文がありました。

鈴木:シリウスシンボリはいかがですか。
和田:うん元気らしいね。ビアンコーヌ厩舎に結構強い馬いるけど、やっぱりシリウスシンボリは抜けているよ。
鈴木:そうですか。うあー。
和田:だから今年持って帰ろうかと思ったんだけど、ビアンコーヌに、G1が勝てそうなら置いておくし、無理だと思うなら持って帰るって言ったの。そしたら、大丈夫だと思いますというから。まあ、結果はやってみなければわからんけど。*96

とありましたので、1985年のおそらくロワイヤルオーク賞後のシリウスに付き添っていた時点(同日の秋天は海外にいたとの岡部騎手の記述から)では、今後の展望次第ではシリウスと一緒に帰国するという選択も用意はしていたようですね。

シリウスに付き添っていた日本人の厩務員はいつ頃までいたのか?

これについて、参考になるかもしれない一文があるため引用します。ルドルフのサンルイレイを観戦に行った競馬記者の方のコメントが載った記事からです。

「アメリカ人の馬丁さんの前ではおとなしかったルドルフがね。ある朝、まだ和田さんが見える前、厩舎を訪ねて来た祐ちゃんのさし出した手にいきなり噛みつこうとしたんです。ジーンと来ましたね。ルドルフのやつ平然として、日本の代表馬らしい風格よそおっているけれど、本当は甘える相手が欲しかったんだね。
シリウスの場合もそうだったかもしれない。あのときは二本柳厩舎との問題があったけれど、日本人厩務員が最後まで面倒みれれば、キングジョージ6世&クイーンエリザベスSの前に、あれほど焦れこまなかったかもしれないよ」*97

上記のように「日本人厩務員が最後まで面倒みれれば」と書かれていますので、どこかのタイミングで日本人の厩務員の方は帰国した可能性があります(時期を推定できるような記事は見つかっていませんが…)。
しかし、そもそもシンボリ牧場は当時のトレセンの「普通」のように常に所属厩舎に入っている体制ではなく、レース後に牧場に戻し調教を付けたり世話をするというサイクルを採用しており、シリウスの渡英の際も専属の方が共にいた記録があるので少々あやふやな情報を元にしている可能性があります。

帰国後

シリウス_帰国.jpg*98
帰国の時に優駿の今月のトピックスコーナーで半ページ割いて触れてもらってます。
空港職員の人が顔を触れる程度には大人しい(耳がナナメ後ろを向いてるのでやや警戒はしてるかもしれません)ことが分かります

そしてここで帰国後のシリウスの変貌について、おそらく唯一語っていると思われる加藤騎手のインタビューを引用します
転厩騒動でも触れる「悲劇のサラブレッド」からの引用ですが、この本は関係者の言動が他の資料数点とかなり食い違うため、信用度が低いことにご注意ください。

「戻ってきたシリウスは、性格も走り方もまるで別の馬になってしまったような感じだった。ダービーのころとはまったく別のサラブレッドといっていいくらい。あのころは図太いくらい物ごとに動じない馬だったのに、妙にオドオドするようになっていた。歓声や些細な物音にもビクビクしていた。走り方だって、フットワークが小さくなって、昔の面影なんて皆目残ってなかったよ……」
「でも、不思議に失望感はないんだよ。明らかに全盛期のシリウスじゃなかったから。もちろん、昔の力を取り戻して欲しいっていう願いはあったけど、一度無くしたものはなかなか戻ってこないからね。心の中では、"お疲れさま"っていう気持ちで乗ってたんだ。アイツはね、自分の運命に従ったエライ奴だと思うよ」*99

上記の加藤騎手の発言に基づくならば、帰国後は「気が荒くなっていた」のではなく「非常に憶病になっていた」と捉えることができます。
空港から帰って来た時の写真の「職員さんに曳き手(リードロープ)を引っぱられている時の耳が前を向いている」のを見る限り、そこまで臆病なようにはあまり見えないですが…
うーん…


一方で優駿でコーナーを持っていた中山さつきさんがシリウス帰国後にシンボリ牧場に行った際には

シリウスシンボリは馬房に入っていた。持って来た人参をさし出すと大きいままボリボリと元気よく食べている。フランスで会った時よりもずっと堂々としている。やっぱりわが家が一番落ち着くんだろうな。*100

と、見学者から差し出されたニンジンを平然と食べて堂々としていたという記述があります。
そうなると、どちらかが間違った情報を載せている、もしくはどちらも間違っておらず実家では堂々としており美浦ではビクビクしていた…という推測になってしまうんですよね………う~ん…

では何故まわし蹴り事件は起きたのか?本当の気性はどうだったのか?

手元の資料で関係者への取材に基づいたものがないので、「推測もままならない」というのが現状ではっきりと言える事実です。

しかり蹴り癖があったかどうかに関してはパドックやレース中の画像内で「尻尾に蹴り癖リボンがついているかどうか」である程度の推測をすることはできると思われます。
シリウス_85ダービー_パドック_リボン.jpg*101
上記の1985年ダービーのパドック写真では、1着のシリウスには蹴り癖リボンが付いておらず、3着のスクラムダイナに蹴り癖リボンらしき赤いモノが付いていることが分かります。
このことから、1985年時点では「蹴り癖のある馬の尻尾にリボンを付ける習慣」自体は存在したことが分かります。

シリウス_毎日王冠.jpg
まわし蹴りのあった毎日王冠では、動画からキャプチャした画像ですがおそらく蹴り癖リボンは付いていないと思われます。
(この時期の優駿は当たり前ですがタマちゃんとオグリパイセンのことばかりで写真が全然無いんですよ…)

シリウスと2代目.jpg*102
また、海外遠征時の英国で撮られた写真の中に、シリウスの足もとに2代目がしゃがみこんでいる一枚があります。本当に蹴り癖がある馬ならば写真のようなことは危険で出来ないのでは?という事から、蹴り癖はなかった可能性があると推測することができると思われます。

蹴り癖リボンを付けていないような「普段は蹴らない馬」「他馬を蹴るような何かがあった」というのが現状残されている写真から推測できる実態だと思います。


一方で、下記のGIGAZINさんの記述のように

尻尾のところに赤いリボンをしている馬がいますが、これはオシャレではなく蹴り癖があることを周囲に注意しているもの。80年代半ばに活躍したダービー馬・シリウスシンボリがまさにこの蹴り癖のある馬で、1988年の毎日王冠ではゲート入り直前にレジェンドテイオーとダイナアクトレスに蹴りを入れ、このうちレジェンドテイオーはレースに出ることができなくなったという事件もありました。

競馬の基本的な部分からちょっとマニアックな知識までを教えてくれる、東京競馬場地下道イラストいろいろ

というように、「蹴り癖がある」と断定してしまっている方が多いのが「気性が荒い」と言われる原因ではないか?と私は推測しています。
ちなみにシリウスの写真を色々と探しましたが、蹴り癖のある馬に付けられているリボンが写っているものは私の手持ちの中にはないです。
持ってるよ!という方いましたらそれを元にまた色々と推測することができるので、もしお持ちの方がいましたら情報提供をお願い致します。

また、以上のような経緯から「気性が荒い」と言われていることに関しての推測をするならば、オグリキャップの影響で競馬知識をこれから身に着けていく段階のファンが大量に増えていた状況で、シリウスの以前の姿を知らない観衆に「他馬を蹴る馬ということは…気性が荒い馬なのかな?」という思い込みを植え付けてしまった可能性が考えられるかもしれません。
残されている写真や、メディアの取り上げなどから推測できる状況は以上となります。


参考として、このページの検証の項で「信頼できない語り手の可能性がある」という仮説を設定している桐沢場長は2歳時のシリウスについて

美浦に行ってから、性質が荒っぽくなって、ゲートにも入らず手こずったようです。そのためにデビューが遅れたんです。*103

と言っています。
まるで美浦の厩舎に責任をなすりつけてるみたいで正直ちょっと…と思うんですが、万が一これが本当だとすると…という可能性があるので引用しておきます。

また、こちらが参考になるかは微妙ですがルドルフの調教助手をされていた藤沢師は馬が攻撃的な行動をとる時というのは…という意見として

馬は敏感で臆病な動物である。身に危険を感じると、逃げる、蹴る、噛む、この3つのうちのいずれかの行動を採る。草食動物である彼らは、敵に対しては、蹴るか噛むかの攻撃方法しか持っていない。多くの場合は走って逃げるわけだ。そのときの手段として速い足を持っている。
しかし臆病なだけではない。馬は繊細で利口である。自分に接してくる人間が、どんな精神状態であるかをすぐに察知する。怒っている人間が近寄ってくれば、警戒して耳を絞って後ろに寝かせ、攻撃しようとする。しかし、自分に危害を加える恐れがないと感じれば、馬は人間に対して攻撃的になることはない。耳も自然に立ったままである。

と自著で述べています。この引用文の文脈や前後が分かる文章はこちらで引用しています。

これは私の個人的な気持ちですが、加藤和宏氏は現在もご存命で2021年も現役で調教師を続けておられますから、シリウスへの気持ちが幾ばくかでも残っているなら、ここまで根拠が不明な噂で覆われているシリウスが本当はどういう馬であったかをいつか語ってほしいと思ってしまいます。


追記:コメント欄にて以下の情報を頂きました
(馬齢に関してのみ現在の数え方の補足を付け加えさせて頂きました)…が少しよく分からなくなってきましたので下に頂いた情報とシリウスの他の写真数点も載せます。

シリウスの蹴り癖についてですが、シリウス事件当時のサンスポ10月10日号に、蹴られたレジェンドテイオーの郷原騎手が「二度だよ、肩先と胸を。十分間隔は取っていたのに、いきなり下がって蹴りに来たんだ。赤いリボンでも着けていればもっと警戒したのに、あれじゃどうにもならんよ!」とシリウスの二本柳調教師に抗議しているのを記者が目撃したそうです。少なくともこの時に赤リボンは着けておらず、厩舎は蹴り癖がないと認識していたのかもしれません。

あれから他の記事を読んでいたところ、88年10月12日のサンスポ続報に、シリウスが実は赤リボンを着けていた馬だったと記述がありました。以下引用です。「…レジェンドテイオーの郷原騎手は「シリウスがリボンをつけていれば、もっと警戒したのに」と語ったものだ。ところがJRAの説明によると、シリウスは三歳時(補足:現在では2歳)からリボンをつけてきたものの、毎日王冠時にははずされていたという。これが、アクシデントに結びついたといえるが、“取り決め”の域を出ないため、シリウスの管理者、二本柳俊雄調教師には口頭での「以後、赤リボンをつけるように」という注意がなされただけ。」以上です。JRAの回答としてですが、3歳(補足:現在では2歳)からつけてたとなるとダービー時の写真等でもあるかもしれません。

では少なくとも私の持っているシリウスの尻尾が写っている写真ではどうなのか
(一応Photoshopで明暗補正などを掛けて赤色がどこかにないか探しました)

ダービーパドック時の真横写真…リボン無し
シリウス_85ダービー_パドック_リボン.jpg

ダービースタート時の横・斜め上空からの写真…リボン無し
シリウス_ダービー_スタート時.jpg*104

ダービーのウイニングラン後?…この角度からはギリギリ見えない可能性もあるがリボン無し
シリウス_ゴール後.jpg*105

NHKクローズアップ現代で放映されたダービーの口取り時…リボン無し
シリウス_ダービー_口取り式.jpg

同じくクローズアップ現代のダービーのゴール後…内ラチを背景に2枚切り取ってもリボンらしきもの無し
シリウス_ダービー_ゴール過ぎ01.jpg
シリウス_ダービー_ゴール過ぎ02.jpg

府中3歳Sパドック時の真横写真…リボン無し
皐月賞の主役たち.jpg
(海外は蹴り癖リボンを付ける慣習が無いそうなので写真が参考にならず)

となっており、他に2~3歳時でリボンを付けているレースがあるとすれば「新馬戦・芙蓉特別・いちょう特別・若葉賞」となります。
JRAが回答したという「シリウスは三歳(現在では2歳)時からリボンをつけてきた」という状況とダービー・府中3歳Sの残されてる写真が食い違う状況になってしまいました…(単に偶然、残されてる写真や動画すべてに映らなかった可能性もあります)
また、JRAはどのように蹴り癖リボンをつけてきたと把握してるのか(関係者への聞き取り調査なのか?)(それともリボン(蹴り癖)は何らかの届け出がいるのか?)(リボンを付けていなかった場合に口頭注意ということは管理などの手順書には載っている可能性がある?)(そもそも出走前にリボンの確認などは行わないのか?)など改めて考えてみると少しよく分からない状況になってきました…
この件については当時のカラー写真などが残されていそうな媒体を他にも探してみようと思います。


また、個人サイトの情報であるため参考にする情報としてはやや弱いかもしれませんが、冒頭で紹介した「引退後のシリウスに会ってきた」というサイト様たちの中から2サイトの記述を紹介させて頂きます。
引退後であり、年を経ているため蹴り癖があるかどうかの参考にはなりにくいかもしれませんが、見学にいらっしゃった方が触れるほど至近距離に近付けても大丈夫だと沖田牧場さんは判断しており、1件目の見学してきた方たちに至ってはお尻に触っています。蹴り癖があるならばお尻を触られたら何か反応を示すのでは…?という気もしますが…

2002年の見学記事(シリウス20歳時)
週刊グイッポ様
週刊グイッポ様の写真_明度調整Ver.jpg
(画像が暗かったため明度補正をさせて頂いております)

「入っていいよ」。その言葉に12の澱んだ瞳が点になった。柵を乗り越え放牧地に踏み入りダービー馬に触れる。その体に止まるアブを叩かれても動じない(もちろん従業員の兄やんにね)ほどドッシリと落ち着いた姿に貫禄が漂う。ボロも踏んだ。抜けたタテガミも頂いた。その1つ1つがかけがえのない宝物になった。従業員の兄やん、お忙しいところわざわざありがとうございました。


2006年の見学記事(シリウス24歳時)
PionPion様

場長さん、絶対蹴らないから大丈夫!とは教えてくれたけど
噛み癖のことも教えていただきたかった。

噛むだけではなく、どつかれたりとかなりおもちゃにされてしまった私。
スタッフの人曰く、遊んでくれる人がきてくれてうれしいのだとか???
ホントかなあ

引退後

引退先は…?

なぜかシンボリ牧場と勘違いしてる人が多いのですが、引退先はブリーダーズスタリオンステーション→その後に沖田牧場であることが競走馬のふるさと案内所の馬産地ニュースの、シリウスの訃報に載っております。

現役引退後は日高町のブリーダーズスタリオンステーションへ種牡馬入りを果たし、96年の京都4歳特別(G3)2着馬オーシャンカレントなどを送り出したのち、96年シーズンの種付けを最後に種牡馬を引退。当時種牡馬シンジケート会の会長を務めていた沖田正憲さんに引き取られ、沖田牧場で余生を過ごしていた。
シリウスシンボリが死亡

当時の優駿でも写真つきで報道されてます。
種牡馬1年生.jpg*106

何故この勘違いをしてる人が多いかは不明です。
ちなみに私は直接拝見できていないのですが、現在の千葉シンボリ牧場にある名馬たちの合同墓にはシリウスの名前が刻まれていること、
ルドルフの際は千葉でお葬式を行い同じ墓に名前が刻まれていること、マティリアルはトレセンでお葬式を行ってもらい中山の馬頭観音にお骨を納めさせて頂いていることから考えると、(そのため千葉シンボリの墓石にはマティリアルの名前がないと考えられます)
シリウスのお骨は千葉のお墓に納められていると思われます。

種牡馬引退後に当て馬をしていた話は本当なの?

本当です

種牡馬引退後に当て馬をやっていた、という噂をよく聞きます。この噂の出所について…コメント欄にて教えて頂きました!

シリウスシンボリの当て馬発言についてはNHKのクローズアップ現代で「ダービー馬・栄光のあとで」という回があって、その時にダイナガリバーと一緒に出てきたシリウスシンボリが「役割は当て馬」と言われてた -- 2021-09-29 (水) 22:33:32
「クローズアップ ダービー馬 その後」で検索したらYoutubeの動画が出てくる、沖田牧場の人がシリウスシンボリを引いて話をしてる 追記についてはお任せします 動画を見てどうか判断してください -- 2021-09-29 (水) 22:40:15

という事なので見てきました、1996年5月30日(木)放送のNo.577の放送回です。開始後7:00~9:30ぐらいのあたりからですね。番組中で

  • 沖田牧場で当て馬をしていること
  • 毎年1頭は沖田さんが自分の持ち馬に種付けさせている

ということが明言されていました。というわけで当て馬をしていたのは確定です。
情報を教えて下さった方、本当にありがとうございました(グリーンチャンネルばっか探していたので永遠に見つからないところでした…)。

では当て馬事件は?
もう一件、「当て馬なのに制止を振り切って種付けをした事件」に関しては番組内では一切触れられていないので、引き続き推測していきます。
下の表と照らし併せて考えてみましょう。

種牡馬後の移動を年度別の経緯にすると(参考:個人サイトの弐段逆噴射様)

  • 1989年でブリーダーズスタリオンステーションで種牡馬としての供用開始
  • 1994年にブリーダーズスタリオンから沖田牧場へ移動
  • 1996年の種付けシーズンを最後に種牡馬を引退
  • 2000年10月24日に用途変更を行い功労馬(?)へ(こちらはスタッドブックの情報でも確認済み)

シリウス_種牡馬.jpg
種付けした頭数はJBISのデータではこのようになっております。
1994年に移動ですが25頭に種付けを行ってますから、この年はブリーダーズスタリオンステーションで普通に種牡馬をした後に移動と捉えたほうがよいと思われます。
AEI/CPIの数値がヤバイので数年でブリーダーズスタリオンステーションから移動となるのはかなり妥当な判断と言えます。

で、よく噂で囁かれる「当て馬なのに制止を振り切って種付けした事件」が本当ならば、種付けの報告を誤魔化すことは許されないので必ずこの1989~1996のどれかに該当すると思われます。
沖田牧場さんには他に種牡馬はいないようですが、牧場内で牝馬の発情を確認後に種牡馬のいる牧場へ移動させる流れと明言されています。
ですので該当するのは1995~1996年に絞られます(例え事故だったとしても種付けをしてしまった場合に誤魔化すと大変なことになるはずなので)。
そして番組内で沖田さんが「自家牝馬の1頭には必ず種付けさせている」と仰った発言と番組放送時が1996年で番組中で「今年」と発言していることから1996年の1頭は予定されていたものと見なした方がいいと思われます。
また、番組中では牧場の柵&板(ペンキを塗った合板的な何か?)越しに牝馬と接触しているため噂などで聞く「鼻ネジをしていたのを振り切った」「前掛けを押しのけてコトに及んだ」などは情報源が引き続き不明です。
1995年の6頭-1頭=5頭の全部に制止を振り切って種付けというのも考えにくいですし…

ちなみに
ジャパン・スタッドブック・インターナショナルの提供している血統書サービスの「種付け雌馬一覧」の検索を使うと、
1995年に種付けした牝馬はラキュストリンヌ(当時6歳)、ミマツスワロー(当時9歳)、マルセイロマンス(当時8歳)、スイートナイル(当時20歳)、ドウカングレート(当時15歳)、ユーワビクトリア(当時11歳)
という感じで、不受胎含めて架空血統表を用いて明らかにヤバいクロスがある場合はその馬が事件の該当馬の可能性があると考えたのですがこの中で一番クロスがきついのは、「スイートナイル」のパーソロン3×3、Nearco5×5しか該当せず。
ややキツイですがまぁ普通にありえるかな…みたいなラインで収まってしまいました。

当て馬事件に関してきちんとしたソースを知っている、という方を引き続き募集中です。もしお知りの際はコメント欄などでお伝えください。

種牡馬引退後(沖田牧場)

北海道シンボリ牧場の近所にある沖田牧場さんにて引退生活を送っておりました。
シリウス_沖田牧場.jpg
直接の住所を載せるのは憚られるので住所等にはモザイクを掛けています(どちらの住所も公開されてる情報です)。
車で4分徒歩で25分ほどなのでシンボリ牧場の方が会いたいと思えば比較的簡単に会える距離で生活しておりました。

こぼれ話
ウマ娘のアプリでシリウスの同室とされてるのはナカヤマフェスタです。
同室になっている理由として、凱旋門賞に挑んだ繋がりがよく指摘されておりますがそれだけでしょうか?

1点目
ナカヤマフェスタの馬主さんであり、晩年には 中山馬主協会最高顧問をされておられた和泉信一さんはそのインタビューの中でシリウスの馬主である和田共弘氏に対し

和田さんの言っていることはね、正論なんでね。競馬の10年先、30年先を考えれば、まったくそうなんだ。
それをね、目先の損得だけで役員を首にしちゃうなんてのは行き過ぎだ、もう1回もとに戻してくれと、そのとき会長だった小川さんが和田さんを擁護したわけ。
それでじゃあ時期をみて戻すようにしようと言っているうちに、和田さんが先に亡くなっちゃったの。それですぐ小川さんも亡くなっちゃって。和田さんの名誉回復というか、功績の再評価をすべきですよ
競馬の未来(前編)

と発言されておられます。
また、奥様の容子さんのインタビュー記事内では

前回のホースマンサロンにご登場いただいた和泉信一さんは
『千葉で種牡馬をやりたいんだが、どうだろう』
と共弘さんから相談を持ちかけられたと証言してくれました。
パーソロン、その血脈と込められた想い

『海外へ行っても観光なんかしたことがないんですよ。いつも競馬場と牧場、あとはカジノに行くだけ。和田はルーレットとブラックジャックがお気に入りでした』
チームシンボリの夢

と、馬主さん同士の仲が比較的良好であり、シリウスの馬主である共弘氏はカジノでのルーレットとブラックジャックが好きであったという証言をされておられます。

2点目
なぜこの項目でこの話を載せているというと2点目が本番だからです。
沖田牧場の生産馬である ナカヤマナイト をご存知でしょうか?
馬主はナカヤマフェスタと同じく和泉信一さん、入厩したのもフェスタと同じ二ノ宮敬宇師の厩舎です。
ナカヤマナイトはフェスタの2度目の凱旋門挑戦時のフェスタの帯同馬として共にフランスに遠征しております。
そしてこのナカヤマナイトは、ナカヤマフェスタの馬名希望の際の第2希望の名前であったという話があります。
雑誌等ではまだこの話の根拠となるものは見つけられていないのですが、日高で獣医をされており、「生産牧場の沖田牧場」「育成牧場の木村牧場」と交友があり、リンク先の記事で見られるように祝勝会にも招かれている関係がある方が自らのブログで書いておられることから、一定の信用度はあるのではないかと考えられます。
おめでとうナカヤマナイト号!

このナカヤマナイトが生まれた年は2008年03月24日、シリウスが亡くなられた年は2012年04月08日であるため、シリウスは幼い頃のナカヤマナイトの近くで生活していたことが推測できます。
あくまで集めた情報からの推測となりますが、このような理由も考えられて同室が決まったのだとすれば、素敵な話だなと思いここに記させて頂きました。

参考にした資料:
重賞ウイナーレポート 2012年09月23日 オールカマー ナカヤマナイト

月刊 UMA LIFE 2021年6月号
2017年9月、中山競馬場の誘導馬として再デビュー。2020年まで役目を務めたが、脚を痛めたことで退き、2020年11月28日にホーストラスト北海道に入厩、現在(注:おそらく雑誌発刊時の2021年5月12日前のこと)に至る。
環境に慣れさせるため5ヵ月ほど馬房生活を送り、4月になってようやく他の馬たちと一緒に放牧に出されたようだ。
同施設によると、「他の馬たちと比べても若々しく、とても元気です」とのこと。*107

ナカヤマナイトは現在 ホーストラスト北海道 にてスポンサー功労馬として過ごされております。

ルドルフとの関係について

弟分

生まれが1歳差という事、3歳で四冠馬となったルドルフの翌年のクラシック候補としてシンボリ牧場が送り出した期待馬ということで、当時の牧場関係者・雑誌・ファンの間では何かと比較したり「弟分」などという見方を取る人もいたようです。(もちろんみんな実際には兄弟ではないことは分かってますよ)
小林わかばさん_1985_07.jpg*108
シンボリ牧場の従業員である線がかなり濃厚な小林わかばさんによる優駿への投稿作品。
小林わかばさんの投稿作&優駿連載一覧はこちら

兄貴分ルドルフ.jpg
byよしだみほ先生

他に弟分扱いしてる文章は

ルドルフが、右前肢の蹄で寝ワラを神経質そうにかき寄せる。あたかも、英国に旅立つ弟分シリウスを妬いているように見える*109

(評)今年のダービー馬は"五冠馬・皇帝"の弟分にあたる"天狼星"だった。その額に輝くアルファ星は、光が満ち溢れて虚空に雫を垂らしている。天与の星を煌めかせて、偉大な兄にどこまで迫るか楽しみである。*110

とかでしょうか。
色々ふとした所で色んな人が言っているという印象があります。
あとはシリウスに触れた記事では弟分以外にも「海外遠征をルドルフの分まで頑張ってほしい」などの意見が多く、帯同馬候補だったのもあってやはりシンボリ牧場同士の身内のように見てる人が多いようですね。

シリウス_ダービー_弟分.jpg*111
ちなみにシリウスがダービーを優勝した後の優駿の特集号だと1ページ目でまさに「兄貴分、ルドルフに続いて」と書かれてます。

相性

(ルドルフは)60年のダービー優勝馬シリウスシンボリとも合わなかった。61年のダービー出場馬シンボリレーブは、いつもルドルフのそばでは脅えていた。なぜかシンボリカールとはよかった。*112

最後までルドルフと一緒にパートナーで走れる馬は1頭もいませんでした。あの(1歳年下のダービー馬)シリウスシンボリでさえそうでした。シリウスは乗り手が行けと言っても、ルドルフのそばに近寄らなかったように、馬同士の格がちゃんとあるんです。VS. in your dreams 2019年日本ダービー戦(webアーカイブより)

シンボリルドルフとシリウスシンボリは、2頭だけの独立した馬房で生活していた。ルドルフはシリウスを同格と見たのか、2頭をそばに近付けると激しい気合いをお互いにみせ、牽制した。シリウスがヨーロッパへ発った今、シリウスの馬房にシンボリレーブがいる。ルドルフはレーブを子供とみているのか、レーブがそばにきても表情ひとつ変えない。調教の追い切りにシリウスのみせたあの闘志も、今は懐かしい。
ルドルフの歩様はゆったりとして、重心が下へ下へとスムーズに移動する。シリウスは首を高めに若い足さばきだった。しかし、ルドルフの真後ろで毎日調教されているうちに、シリウスの重心はルドルフに似て低く、歩様もなぜか同じようになってきた。名馬ルドルフは立派な先生だ。馬が馬に教える。*113

とあるように、ルドルフとシリウスはそこまで気が合わなかった、なのでお互いに牽制していたと捉えることができます。
一方で、ルドルフとシリウスは2頭のみの特別厩舎で暮らしてた事を考えると、調教の時以外はわざわざ近づきたがらないが、近くの馬房で生活するのは許容範囲ぐらいの間柄と捉えられるかもしれませんね。

一方で、巷でよく聞く「シリウスはルドルフに対して怯えていた」という話は関係者からは一切出て来ない上に、「他の馬と違い、ルドルフに何度負けても食いついて行く闘志がある」「」という牧場の人の言や「2頭をそばに近付けると激しい気合いをお互いにみせ、牽制した」という写真集の記載がありますので、こちらは間違いの可能性が高いと思われます。
岡部騎手の著書の中にある、「シンボリレーブ(シリウスの全弟)はいつもルドルフのそばでは怯えていた」という情報との混同が元かと思われます。

ルドルフとシリウスの写真(以下の画像は全てルドルフの写真集「勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ」75Pより)
シリウスとルドルフ_歩く.jpg
歩くときはルドルフが先頭

シリウスとルドルフ_水路.jpg
トレーニング後に足を冷やすための水路歩きも2頭で

シリウスとルドルフ_記念撮影.jpg
記念撮影?

併せ馬

ルドルフの併せ馬のパートナーの中の一頭がシリウスだったという有名な話があります。

とにかく一度ルドルフと併せ馬を経験した相手は、その後、二度とルドルフの傍に寄り付こうとしなかったそうだ。岡部騎手は「あんな強い馬と稽古するのは、二度と御免だ。」と言っているようだったと語る。これはクラシック戦線で対戦した馬が、一様に感じたことなのかもしれない。そこでシンボリルドルフがシンボリ牧場で行ったトレーニングの内容を改めて岡部さんから聞いて驚いた。前半と後半に分けて、二頭の馬がパートナーを勤めるというもの。スタートして併せ馬で向正面まで行ったところで、今度はそこで待っていた馬と併せてゴールまで駆け抜ける方法である。後にも先にもこれほどまでハードな調教は聞いたことが無い。しかも、そのパートナーの中には、ダービー馬のシリウスシンボリまでいたと岡部さんに聞いたときには、開いた口がふさがらなかった。

競馬かわらVAN(リレーコラム) 第10回 私の中のシンボリルドルフ より

以下の参考画像は優駿の1985年8月号P38~39の物です
離れて歩く.jpg
参考画像1:離れて同じコースを歩くシリウスとルドルフ

ルドルフとシリウス_併せ馬.jpg
参考画像2:シリウスとルドルフのシンボリ牧場内での併せ馬 「ルナの方が強くて速いんですけどおおお!?」

馬好きなおじさんたち.jpg
参考画像3:😇😇

ルドルフの写真集(72~73P)に載っている併せ馬の画像
シリウスとルドルフとレーブ_併せ馬.jpg
左からシンボリルドルフ(野平師騎乗)、シンボリレーブ、シリウスシンボリ(加藤騎手騎乗)

ルドルフの併せ馬に関しては木村氏の著作の中にもこのような記述があります。

シンボリルドルフが、無傷のまま三冠を達成し、4歳のまま昭和59年の有馬記念を勝ち"四冠"。年が明けて60年春の天皇賞を制して五冠馬となるまで、私は何度もこの走路で併せ馬をしている幾頭ものサラブレッドとシンボリルドルフを見たものだった。
「強烈無比な馬を作るためには、稽古で実力対等か、それ以上の馬と競わせ、最大能力をもっと引き上げられる調教ができなければなりません」
と口癖のように言っていた和田共弘が、手中にしているシンボリルドルフをよりいっそう強化するために、それまでに蓄積してきた創意工夫の産物をルドルフに傾けていた。
「ルドルフと併せるのに、1頭の馬だけでは距離も速さも保たん。だから前半部分で相手になる馬と後半で併せるため待たせている馬と、2頭の馬を用意して、ルドルフと競わせているんだ。そんなことをしても、相手のほうが先に壊れてしまう。ルドルフと併せ馬をして、いったい何頭の馬が壊れたことだろう」
牧場内でとある新聞記者から耳にした話である。しかし、従業員からこんな喜びを含んだ言葉を耳にしたこともあった。
「1頭だけ、ルドルフに喰らいついていく馬がいるんだ。1歳年下のシリウスシンボリさ。結果的にゴール前で、いつだって兄貴分のルドルフにかわされてしまうんだけど、こいつが壊れない。
昭和60年のダービーも、シンボリで決まりかもしれないな。だってルドルフにあれだけ闘志を燃やして、喰らいついていけるんだからね」
それを裏付ける結果を東京競馬場の日本ダービーで眼前に見たとき、私は「シンボリルドルフを支えたのはシリウスシンボリ、逆にシリウスを鍛え、ダービー馬にしたのはルドルフだった」という単純なロジックに気が付いて静かに納得したものだった。*114


同じくルドルフの併せ馬についての記述です。優駿の連載である「杉本清の競馬談義」コーナーにゲストに来られた岡部騎手のお話です。

岡部:この馬(ルドルフ)の上にシンボリフレンド(5勝。京王杯スプリングH)、スイートコンコルド(3勝)という兄姉がいて、一応の成績は残しているんですよ。でも、こんなはずはないって、みんなが思っていた。このファミリーはもっと走らないとおかしいって。それで、このルドルフだけは、最初からクラシックやダービーを意識して、みんなが一丸となって育てた。だから、この馬のためにつぶれた馬もいっぱいいるんです、調教パートナーをやらされて。
杉本:ほかの馬とどれくらい違ったんですか。
岡部:一緒に走って来られないですよ。それこそ短い距離でも、彼が五分六分の力で走っているのに、パートナーは死ぬほど走ったってついて行けない。だから、野平厩舎の追い切りに使った馬なんて、次の日は馬場に出たがらないですよ。もう、あいつとは走りたくないって。
杉本:へぇー。それはすごいですねぇ。
岡部:牧場でもパートナーをやった馬がつぶれました。それで、しょうがないから、たとえばルドルフが5ハロンからスパートするときに、最後の3ハロンぐらいで待たせて、一緒に走る。あのシリウスシンボリでさえも、1マイルから行くルドルフを半マイルで待っているのに一緒にゴールインできない、離れちゃって。馬同士の格というか、レベルがわかるんですよ。敵わないと思ってシリウスは逃げていっちゃう。
杉本:そうらしいですね。牧場の人に訊くと、オープン馬と未勝利馬を一緒に放牧すると、未勝利の馬はオープン馬に近寄らないって。
岡部:そうです。だから、そこまで究極に稽古をやると拒否反応を示してしまいますけど、その手前でやめておくと、調教相手も強くなる。どこの世界でもそうでしょう。強い人と稽古すると強くなる。そういう連鎖はいっぱいありましたよね。だから、シリウスシンボリがルドルフに続いてダービーを取れたでしょう。稽古台になっているんですよ。
杉本:なるほどね。自分だけでなくほかの馬も強くしている。
岡部:そうです。野平厩舎でも、ルドルフの調教パートナーだったホッカイペガサスとか、イズモランドとか、超一流馬ではないですけど、オープン馬に育った馬がいましたから。*115


鈴木淑子さんがシンボリ牧場に見学に行った際に、2頭が一緒に運動していたのを見た、というお話です。

6月中旬、私は千葉のシンボリ牧場へ取材で伺った。10万坪という広い敷地の中に、4つの環境の違う馬場をはじめ、他にも馬のための全てが揃っていることに驚きまた、感動した。まさしくトレーニングセンターであり、クリニックである。和田共弘オーナーの夢が広がっていた。幸運なことに、屋根付き馬場で、なんと、シンボリルドルフとシリウスシンボリがお揃いで、午後の運動をしていた。流石に目の当りに2頭をみていると圧巻である。凛々しくて、絵になりすぎて、ため息がでる。天下御免の、天下無敵の、眉間に冴える三日月と一等星を光らせて、世界の檜舞台で活躍して欲しいと、私達競馬ファンも夢を託す。*116

シンボリ牧場内の特別厩舎

岡部騎手の著書での記述

千葉県大栄町の牧場には、自邸から、かなり離れた集中馬房のほかに自邸から歩いて20秒もかからない場所に2頭だけ入れることのできるデラックスな馬房がある。ルドルフやシリウスなど"目に入れても痛くない馬"をそこに入れ、まことに大事に管理してきた。一瞬たりとも目を離さない、と言っても過言ではないくらいだ。*117

藤沢師の著書での記述

シンボリ牧場には調教のための充分な設備とスタッフが存在し、和田オーナー自身が「調教師」の自負を持つ人だった。シンボリ牧場にある和田オーナーの自宅脇には2つの馬房があり、そこにルドルフとシリウスシンボリが繋がれていた。*118

優駿連載での密着取材上での記述

牧場のまん中にある和田邸と背中合わせのところに、ルドルフとシリウスが1頭ずつ入っている(馬房が二つしかない)厩舎がある。
いながらにして、その場でそろって出国検疫を受けていた二頭のダービー馬には、残酷なほど明白な対照が生まれていた。
まもなく牧場を離れるシリウスの全身には光沢がみなぎり、鍛えぬかれた四肢と全身に美しく筋群がゆきわたっている。黒く大きな目に覇気がただよう。
いっぽうのルドルフに、かつて記録的な勝利をおさめつづけたときの面影は見ることができない。視線に力がない。痩せ細ってしまった。あばら骨が透けて見える。遠征中止を決めて以来、故障個所に負担をかけないために、牧場のほうで意図的にカイバの量を落としたのである。
ルドルフが、右前肢の蹄で寝ワラを神経質そうにかき寄せる。あたかも、英国に旅立つ弟分シリウスを嫉いているように見える。*119

他にも記載箇所はあるかもしれませんが、

  • 他の馬を入れておく厩舎とは別にオーナー邸の脇に2頭しか入れない特別な厩舎がある
  • シリウスが遠征に赴くまでは、ルドルフとシリウスの2頭がそこに入っていた
  • 同時に2頭の様子を見ることができる程度に馬房同士の距離が近い

ということが各証言から分かります。

当時のシリウスへのメッセージなど

全てを網羅することは不可能なので優駿の読者投稿コーナーに寄せられたシリウスへのコメントなどを載せてみようかと思います。
正直、現代で言われてる「当時のファンは『海外なんてどうてもいいからもっと国内でレースをしてくれ』と望んでた」系の声が見当たらない気もするんですが…
何冊か読んだ人なら分かると思いますがJRAへの痛烈な批判意見も普通に載せるオールカマーで見当たらないのが不思議なんですよね…
まぁでもルドルフのJCと菊の選択の実情だって現代だと真逆に伝わってますしね…

1985年8月号
「優駿俳壇」という俳句投稿のコーナーにてシリウスに関連する句が2作佳作に選出されておりますので載せさせていただきます。
優駿俳壇_01.jpg
優駿俳壇_02.jpg

1985年10月号
オールカマー_1985_10_01.jpg
純粋に応援されてる感じのお声です

オールカマー_1985_10_02.jpg
残念だったけどまた来年も来てほしいという感じのお声です

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ハートマーク…?

1985年12月号
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研修でフランスに行った際にシリウスに会ってきたというお声です

1986年2月号
オールカマー_1986_02_01.jpg
年賀状ですね、そしてシリウスを応援してますね

1986年11月号
オールカマー_1986_11_01.jpg
こちらは編集部の方のコーナー冒頭の挨拶文、普段は視聴できないレースが視聴できたことが分かります

続きは適宜載せていきます。

優駿の隔月連載4コマ「まきばの詩」

小林わかばさんという方が読者投稿を経て、隔月で連載することになった4コマの中でシンボリ牧場の馬やシリウス、モガミなどが描かれています。
当時の人がどのようにシリウスや他の馬たちを見ていたのかの参考になると思いましたので載せさせていただきます。
描いてる内容からすると、(ひょっとしてこの人は牧場従業員、それもシンボリの人では…?)という疑惑も湧くのですが、
世間で言われてるような「ワンマン経営でオーナーが厳しくて傲慢な事で有名なシンボリ牧場」が本当だったら業務の傍らで連載活動なんて許されるはずないですからきっと気のせいですね。
(もし本当だったら当時としては異常なほどオタクに理解のある職場ということになってしまいますしウマ娘のアプリで会長がデジタルの所に来る理由がなんとなく見えてしまうので色々とヤバイですね)
そしてこの方は私が知る限り恐らく最古のシリウスのガチ恋勢らしき方です。

読者投稿の頃の作品
小林わかばさん_1985_09.jpg*120

小林わかばさん_1985_12.jpg*121

小林わかばさん_1986_02.jpg*122

小林わかばさん_1986_04.jpg*123

小林わかばさん_1986_07.jpg*124

隔月連載4コマ
編集用メモ:連載開始は1987年1月号から、隔月連載4コマの中でシリウスが描かれていたのは
「1988年5月号、11月号、1989年すべて」

和田共弘氏(2代目)とシンボリ牧場について

字数制限にぶち当たったので移しました。
シリウスシンボリ(原作)/牧場
当時の資料・関係者への取材を元にされた本が何冊もあるのに今に伝わってるモノがほとんどないのは寂しい限りですね…

牧場に関してよく聞く噂話・デマなど

シンボリ牧場はやる気がない、牧場入り口から人間のやる気がないのが分かる。

検索すると出てくるまとめブログに書かれてる内容ですね。
シンボリ_白い犬.jpg
こういうやつ

千葉のシンボリ牧場は基本的に見学禁止です。いつ頃から見学禁止になっているのか正確な開始年は分かりませんが、90年代にはすでに関係者以外は立ち入り禁止だったと聞きます。
シンボリホースメイト出資者だった方のブログを探したところ、ルドルフ産駒の中の1頭の出資者であった人の写真背景に立ち入りお断りらしき文面があったため、1992年以降にはすでに会員以外の見学は禁止だったと推測できます。
(その方のブログを証拠として貼りたいのですが…その…シンボリファン以外が読むと気分を害する可能性がある表現が散見される為…未出典とさせてください)

ちなみに過去にはBOKUJOBでこういうイベントを開催したことはあったようです。

1988年10月号優駿の読者投稿コーナーに、北海道シンボリ牧場に行ったら見学禁止であった、という投稿がありましたので引用します

ただひとつだけ残念な事がありました。それは、皇帝ルドルフに一目会いたいと思いシンボリ牧場を訪ねた時に、見学を断られてしまった事です。"最近事故があったのでお断りしています"と言われただけなので理由は詳しくわからないのですが、見学に来た人たちが記念にしようと馬のしっぽを切るなどの事が長い間の積み重ねとなり、そして決定的な何かがあったんだと思います。でなければ牧場の方が見学を断るなんてないと思います。牧場の方々にとって馬たちは大事な生活の柱だし、まして名馬たちは全国のファンの忘れられないヒーローやヒロインなのです。もし、彼らに何か事故があっても"多額の損害を見学者に請求してもしかたない事なので…"と牧場の方はおっしゃってました。
遠くからはるばる名馬たちに会いに行ったのに会えないなんて、こんな悲しい事はありません。牧場の方は見学者から見学料をとっているわけではなく、ご厚意で見学させて下さるのですからマナーを守って見学してほしいと思いました。
いつかまた、ルドルフに会える日が来る事を祈ります。*125

この見学禁止が一時的なものなのか現在まで続いているものかは不明ですが、上記の投稿から1988年前後は見学禁止であったと考えてよいと思います。

「競走馬のふるさと案内所」のWeb上では2008/02/05から北海道シンボリ牧場ではずっと見学禁止の告知が掲げられています。
ちなみにこの前後に見学禁止にした牧場さんが大量に出ており、北海道新聞などにマナーを守ってという記事が掲載されていたそうです。
php更新のためWebアーカイブでの情報が取得できませんでしたが、下記の個人サイトさんの意見から何があったのかを何となく察することはできるかもしれません
牧場見学について改めて思う事

過去には「サウスニアレースホースクラブ」という一口馬主クラブに入る事で、特典としてシンボリ牧場を見学することもできたそうですが、途中でシンボリ牧場との繋がりもなくなり、現在の後継クラブに変わってから途中で特典も消えたそうなので、現在では一切関係がないハズです。
※もし見学特典が復活したら私はこのクラブに出資するのでその時はスレ立てて教えてくださいね「」ペちゃん!
なお、後継クラブの「広尾サラブレッド倶楽部」の馬で千葉シンボリの育成施設を使う子がいたのは確認できたので経営上無関係なだけで仲が険悪とかそういう理由は特にないと思われます。

仮に見学に行った人がクラブの出資者だったと仮定して、
見学者がどういう立場の人で、どのような時期に、どのような状況で見学をしたのか分かりませんので言及は控えますが、「牧場の業務は馬を飼育・調教をすることであって見学客の相手ではない」「人の事業所内に勝手に入ってはいけない」ってのは普通の原作ファンなら分かるハズなんですけどね…
一口馬主クラブの人なら当然それぐらいは分かってると思いたいのですが…

ちなみにシンボリ牧場の入口ってこれなんですけど…(Googleストリートビューより)
シンボリ牧場_北海道_ストリートビュー.jpgシンボリ牧場_千葉_ストリートビュー.jpg
入り口からやる気分かるんですかね…?

本業は別にある、島根の山林関係なのでそちらの収入がある為やる気がない

これもまとめブログとかで出てくる情報ですね。
多分シンボリ牧場の一代目が島根の出身であり、その近辺に林業を営む人が多いため出た噂だと思います。
気になって本当なのか色々調べたのですが未だにそれらしい情報は掴めていませんし同姓の大手山林業者は島根にいないと思います。
一方で島根の酒造さんとは縁戚関係にあることが明言されているため、どこかで情報が混ざって生まれた特に根拠のない噂かな…と今のところ私は思ってます。
「和田 農 林が大本」ってまとめブログの書き込みもありますが元々一代目がやっていた農場は全く別の名前であることが古い優駿で確認できましたのでこれも想像だけで書かれた噂話だと思われます。

ちなみに1985年発行の優駿に記載されていた内容によると当時の取材では「他の多くの馬主と違い馬づくり以外に副業を持たない」という記述がありました。
優駿1985年8月号141Pでは白井透さん(サラブレッド血統センター代表)が「(和田さんは)大地主の息子」と仰っていますので、この辺りが噂の原点かもしれません。
情報求む

コメントにて、

林業について。20世紀日本人名事典「和田 共弘」の項に「昭和17年和田 農 林を設立、取締役。26年専務を経て、55年社長。」とあります。シンボリルドルフの馬主がシンボリ牧場ではなく和田林業(有)と表記されてることがありますからこれでしょう。今もあるのか、そもそもこの会社が島根で林業やってるのかはわかりません。国税庁の法人番号公表サイトで出てきませんでした。 先代の和田孝一郞は島根県の大地主で県議会議員です。木村幸治『神に逆らった馬』にほんの少し触れられている他、日本中の名士が記載されている人事興信録に名前があります。地元の種牛組合に種牛導入、奨学金を寄付、林業等々活躍したそうです。和田孝一郎については未読ですし読んでもあまりこのページには関係なさそうですが『和田孝一郎翁頌徳録』という本に詳しそうです。和田農林が実家の私有地の山を使っていたとしたなら島根県にあったのかもしれません。既に倒産ないし解散したと思われます。

という情報を頂きました。ありがとうございます!
私有地の山で思い出しましたが、「三元育成用の牧場を設立する時に私有地の木材を切り出して資金を作った」みたいな記述を優駿の連載取材か何かで見た記憶があるのでその辺かもしれないですね…
こちらの記述を探し出せましたら追記しようと思いますが一文を狙って探すのは時間かかりそうなため、引用元の箇所を明記するまでは資金作りの話は噂程度に思っていただけたら幸いです。

千葉のシンボリ牧場はもう閉鎖した

これもまとめブログとかで出てくる情報ですね。
おそらくこの噂の根拠は同住所で開業?している会社があるためだと思います。
この噂が本当なのか気になったので色々頑張って調べて国税庁の登録照会で調べてみました。
(さすがに法人番号をここで出すのはアレなので気になる人は自分で探してみてください)

その結果、シンボリ牧場の名義自体は昔からの千葉シンボリ牧場の住所で登録されていることが判明し、

  • 新規 平成27年10月5日
  • 最終更新年月日 令和元年5月29日

という照会結果が返ってきました。
コメントにて、

国税庁の法人番号公表サイトは法人番号が登録された日を番号指定日として公表するので、番号制が始まった平成27年10月5日以前に設立された法人は、全て平成27年10月5日に「新規登録」扱いになります。日本中央競馬会も平成27年10月5日新規登録。

ということを教えて頂けました!
ということはちゃんと前々から続いてたってことですね!やったー!
現在の生産リーディング情報はnetkeibaで2015年に新設された名義から続いています

ちなみにnetkeibaのシンボリ牧場は検索をかけると千葉名義が2つ、北海道が3つなので
何かnetkeibaの登録情報に大きな変動があったのか?それとも単純に名義統一をしたのか?netkeibaのミスなのか?
理由は定かではありませんがこの辺りの名義のブレも誤解を招く元になっているのかもしれませんね

千葉シンボリ牧場と同住所で「会社を登録している」「施設を利用している」事が判明してるのは3社さんほどあるのですがとりあえずここでは関係ないので省きます

ちなみに、毎週の競馬予想の参考に皆さんがおそらく見ているであろう「外厩情報」、あそこでたまに「シンボリ牧場」って書かれてるのが千葉シンボリの事ですからキチンと原作をやってる人は閉鎖してないことは当然知ってるんですよね…
最近シンボリの外厩を利用していい成績を出した子だと2021/7/10のいわき特別でメイショウ🍥ω🍥ムラクモ君が本人が強いのが大きいですがダート2勝クラスで7馬身差つけて勝ってますね…しゅごい…

じゃあ何でシンボリ牧場のWebサイトはずっと落ちてるの?

以前自分で調べた時に「Whois(ドメイン情報を調べるサイト)で調べたらドメインの再販リストにのってる?っぽい気がする?」という推測をしていましたが、
先日Whoisの見方を教えてもらいましたので記載しておきます。
ただし、教えてもらった私自身の前提知識が明らかに不足していると感じたため、説明を正しく理解できているかどうか分からないので、そのあたりをご了承の上でご覧ください。
(自分の理解度に自信がないあたりに(?)を付けています…)
シンボリ牧場_whois.jpg
こちらがWhoisで出てくる情報です。
「Creation Date」…作られた日付のこと、2010年に作られたことが分かります。
「Updated Date」…最後に何らかの更新や動きがあった日、こちらが2020年となっています。
「Registry Expiry Date」…ドメインの有効期間を示しているもので、この期限まではドメインの契約を保持していると見なしてもよい(?)そうです。
「Domain Status: clientTransferProhibited」…「クライアント転送禁止(?)」というものだそうで、「契約更新の料金をウッカリ払い忘れた時などにドメイン乗っ取り業者を防ぐもの」だそうです。

つまり私の理解が間違っていなければですが、現在ドメインは保持しているけれどWebサイトだけを「落ちたままにしている」と言った方が正しい、ということになるそうです。
以前の私の推測は「門外漢のトンチンカンな推測」だったので実情とは真逆の推測をしてしまっていました、申し訳ありません。
結局「なぜ落ちてるの?」の完全な解答にはなりえませんでしたが、現状で分かるのはココまでのようです。

また、コメント欄で

http://web.archive.org/http://symboli-stud.com を検索すると、2019年12月までは、確実に存在していたようです。symboli-stud.com の所有者登録は日本のホスティング業者なので、シンボリ牧場がそのホスティングと契約していれば、ドメインの権利はシンボリ牧場が所有していると思われる。

という情報を頂きました。

シンボリ冠名の本家分家

コメント欄で

シンボリ関連で気になった話題なのですが冠名が前に付くか後ろに付くかで本家分家のような関係というのは本当なんでしょうか

という方がいたのでお答えしますが、この情報の初出はおそらくimgのウマ娘エピソードゼロのネタです。
アプリリリース前のエピソードゼロを楽しんでた一人として証言しますが、原作でも本家分家があったとか特にそういうのはないです。

以下はスレに参加してた一人としての言い訳になりますがあの時期はアプリリリース前でまだ皆リリースに対しても半信半疑でいた上に、
あの頃にシリウスのスレを覗きに来る人なんて「シンボリ牧場や80年代の原作知識がそれなりにある人orそれなりに原作に対しての造詣が深い人」を前提に皆さんキャッキャしてましたので(ですよね?)
まさかエピソードゼロとしてウマ娘の物語としてシリアスな展開の妄想してるのを本気でとる人が出るなんて思わないじゃないですか…!
さらにアプリがここまで大ヒットして、そこからさらに原作に興味を持つ人がそれなりに発生するなんて思わなかったんですよ…!
まぁ本家分家を最初に言い出したのは私ではないことは断言しておきます!私の愛蔵本を全部賭けてもいいです!
みんながネタで話してる発言が、元はデマのつもりじゃなかったのにいつの間にかデマになって行く見本ですよこれ…気を付けないとですね…


ちなみに本家分家の元ネタですが、真面目に解説しますとこれは
「シンボリ」が前に付くのは馬主が「シンボリ牧場」名義であり、後ろに付くのは馬主が「和田共弘」名義であることが元ネタだと思います。
更に言うならシンボリ牧場名義では「シンボリホースメイト」を主催していたことから、オーナー個人の持ち馬ではない&後援者に支えられている=分家 っていうお話づくりのネタにしやすかったのが全てだと思いますよ。

netkeibaの馬主別の年度別成績で代表馬を見るとかなり分かりやすくて
シンボリ◯◯(シンボリ牧場名義)
◯◯シンボリ(和田共弘名義)
となっており、命名規則にそれぞれ法則性があることと勝負服も全然違う別登録なのが分かりますね。
シンボリ牧場名義に◯◯シンボリが混ざってる(アイルトンシンボリ、プレストシンボリ、マーベラスシンボリ等)が混ざってるのは2代目がお亡くなりになった頃にはすでに馬名登録されてたから…という線が濃厚だと思われます(アイルトンは元は2代目の名義で後にシンボリ牧場名義に移動されたのが確認されています)
ちなみにこの年度別成績にルドルフとかシリウスが載ってないのは同名でも名義が複数に分かれていたり、netkeibaの古い年代の成績は反映がおかしくなっていることがあるからです。

ちなみにスイート(女の子につける冠名)はシンボリ牧場名義は◯◯スイート、和田共弘名義がスイート◯◯だったようです。
2021年現在だとシンボリ牧場名義で走らせている牝馬はスイート◯◯で統一されているようです。

3代目が費やした関係修復とは…?

これに関してミル貝で触れられているのですが、「名馬を読む2」の中で行われた3代目への取材と食い違う点が出てくるので比較してみたいと思います。
ミル貝の和田共弘の項では

孝弘とシンボリ牧場は、調教師・厩舍関係者との関係修復や外部からの新たな血統の導入に数年の時間を費やさねばならないなど、和田の遺したトラブルと不振の後始末に追われ、苦難の道を歩んだ。それでもなお、実績のあるベテラン調教師や厩舎関係者との関係修復が叶わず仕舞いで終わった所も少なくなく、結果的に藤澤和雄等、和田の意気盛んな頃にはまだ調教師になっていなかったり、厩舎を開業していても和田からの馬の預託の実績が無かったりといった新進調教師の厩舎が、シンボリ牧場の主な預託先となっていった。

 
とあるんですが、「名馬を読む2」のシンボリクリスエスの項目ではこう書かれてるんですよね…

藤沢和雄は和田の1歳年上で、野平祐二厩舎で調教助手をしていたときにシンボリルドルフに出会った。その縁で、調教師になるとシンボリ牧場の馬を預かるようになる。シンボリインディも藤沢厩舎の馬である。和田共弘についてだれよりも深く取材した木村幸治の『調教師物語』には、和田共弘が亡くなる前に病室に藤沢を呼んで「うちのあと(孝弘)を頼む」と言い残していたという記述がある。突き放しながらも、父は息子の牧場を心配していたのだ。*126

ここで「調教師物語に載っている」という一文があったので、持っていなかったので調教師物語を購入して中身を確認してみましたところ、

余談を1つ。先年、日本競馬会の大老舗であるシンボリ牧場の2代目オーナー、和田共弘氏が他界した。死の2週間足らず前、和田は自分の入院した病院の個室に、調教師藤沢和雄を呼んでいる。
「藤沢君、うちのあと(3代目当主、和田孝弘氏)を頼むぞ。君ならできると信じているからな」
日本競馬史に輝く金字塔を打ち立てた男はその時、40代を過ぎたばかりの調教師にそう言ったという。馬をよく見る伯楽が、人をもよく見る力のあることを示している逸話のような気がしてならない。*127

とありました。
2代目や藤沢師に度々取材を行っていて親しい木村幸治氏の著書ですから信憑性がそれなりにありそうです。

また、藤沢師の著書の中では

平成6年春、病床にあった和田共弘オーナーに呼ばれて千葉県香取郡大栄町のシンボリ牧場を訪ねたことがあった。調教師になって7年目、なんとか厩舎経営も軌道に乗った時期である。
(中略)
最後に和田オーナーは「これから頼むな」と静かに言った。
「こちらこそよろしくお願いします」
型通りの返事をすると、オーナーは独り言のように呟いた。
「馬ってのは走らないものだ。俺はよくわかっている」*128

と記載されています。和田邸に行ったのか、病院に行ったのかで食い違いが発生してますね。取材で伝える際に齟齬が生じた、年月が経つことによって記憶が曖昧になった、などの可能性が考えられますが、「和田氏と藤沢師が直接対面し、これからの事を頼まれた」というのはほぼ事実と見ていいと思われます。

以上の事から、ミル貝に書いてある文章を読むと誤解しそうになりますが「藤沢厩舎にシンボリ牧場の馬が預けられるようになったのは2代目の遺言によるもの」が濃厚だと思われます。
ちなみにミル貝の文中ですとまるで藤沢師が新進調教師であるかのように受け取ってしまうのですが(開業して数年なのは合ってますが…)、この本の記述が正しいとすると1994年に3代目の事を頼んだことになり、その前年の1993年の藤沢師の成績は「開業6年目、リーディング成績…44勝、全国1位」、1994年の成績は「開業7年目、リーディング成績…37勝、全国2位」でした。
さらに探してみたところ、藤沢厩舎に初めてシンボリの馬が入厩したのは1988年のスイートキャスィーが初でした。この年は開業1年目で実績は全くありません。
少なくとも、2代目の存命時に預託実績がある事がこのデータから分かります。
なぜ藤沢師に頼んだかは不明ですが、シンボリルドルフの調教助手を通じて人柄を知っていたという可能性もあるでしょうし、馬第一主義の姿勢を知っていた可能性もあるかもしれません。

また、ミル貝の2代目のページの記述だと

シンボリルドルフ引退後の「シンボリ軍団」はG1はおろか重賞勝ちすらもままならない長い低迷の時代を迎える事となる。

となっていますが、
そもそもルドルフ引退翌年の1987年にはマティリアルがスプリングS(G2)で勝っていますし、
1990年にもスイートミトゥーナがクイーンC(G3)で勝っています。
(余談ですけどマティリアルの死後に岡部騎手が怒ってシンボリの馬に乗らなくなったって噂はスイートミトゥーナのこの時の鞍上が岡部騎手なの知ってると「?」ってなります)
シリウスの騒動があった1985年+ルドルフ引退年1986年~2代目死去の1994年までの馬主リーディング順位をnetkeibaの情報を元に表にしてみると
(古い時代のnetkeibaのデータは👻霊界通信👻が発生することがあるので完全に信用することはできませんが…)

1985198619871988198919901991199219931994
シンボリ牧場71697748341011174218
和田共弘132711121338504834154

となっており、一番成績が悪そうな1986年は最下位だと1460位の名義が100以上あります。

そして中央競馬馬主登録数について調べてみましたところ

「JRAの馬主登録数は個人・法人・組合を合わせて、2018年末の段階で2473名義。1991年末から20年ほど減少していましたが、12年末(2256名義)に底を打ち、そこから6年で200名義ほど増加しています」*129

という日経の記事がありました。

1991年以前の数値には触れられてませんが

1991年:2256名義以上(ここから登録数の減少が始まる)

2012年:2256名義

2018年:2473名義

という推定ができますね…
名義が全体で2200ほどある中で100位台までの成績を不振というのはいささか無理があるかもしれません。154位や169位だとやや不振であると言っていいかもしれません。
このページであまり邪推するような事は言いたくないのですが…さすがにミスリードの誘導では…?と思わなくもないですね…

また、成績にやや関連する事柄として「近年のシンボリ牧場がオーナーブリーダーとして振るわない」という話を稀に聞くのですが、前述した「名馬を読む2」のインタビューの中では次のように書かれています。

父の共弘は孝一郎がつくった牧場に住みながら多くの名馬をつくってきたが、経営はいかにも大金持ちの家に生まれ育った男らしいものだった。
「だから、父を反面教師として見ていたのかもしれません」
そう言う和田は、父が亡くなるとすぐにアメリカに渡った。1994年のことだった。時間をかけて考えた末に牧場を継ぐ決心を固めて帰ってきた息子に、父は「アメリカに行く必要はない」と言いつづけてきたが、和田の目に映ったアメリカはとてつもなく魅力的だった。広大な牧草地が広がり、世界に名だたる名種牡馬があちこちにいる。牧場主も馬主もビジネスライクに馬を売買し、大牧場でさえ馬主から預かった馬を飼養している。牧場のスケールは大きいが、経営にはリスクをかけない工夫と努力をしていた。
父がやってきたのは、種牡馬も繁殖牝馬も牧場で所有し、生産から育成まで一貫して自分の裁量でおこなうヨーロッパスタイルのオーナーブリーダーだった。それではビジネスとして成り立たないことを、外の社会でサラリーマン生活を経験した和田はアメリカに行って確認できた。父はたしかに「反面教師」だった。
これからはアメリカでやってみよう——。
そう思うとすぐに、アメリカのトレーニングセールで1頭の牝馬を買った。その牝馬は日本で4勝した。さらに翌年にはエーピーインディ(1992年アメリカ年度代表馬)の仔を宿した牝馬を買ってケンタッキーの名門牧場ミルリッジファームに預けた。このときうまれたのがNHKマイルカップに勝つシンボリインディである。
そうやってアメリカのせりで毎年1、2頭いい牝馬を買い、アメリカの牧場に預託して生産をはじめる一方で、ヨーロッパにいた馬や日本の繁殖牝馬を淘汰しながら牧場の体質改善をはかっていった。そうした過程で誕生したのがシンボリクリスエスだった。
1998年に和田は名種牡馬クリスエスの仔を宿していたティーケイという牝馬を30万ドルで落札した。翌年、牡馬を出産すると、種付け権を共有していたキングマンボを配合したティーケイをせりに出し、27万ドルで売っている。さらに、うまれた「ティーケイの息子」も1歳馬のせりに出したが、希望価格には届かなかった。このとき、日本で走らせる予定だったスイートオーキッド(主な勝ち鞍:クリスタルカップ)の弟が死んでしまったために、その代役として「ティーケイの息子」を日本に連れてきた。受け入れ先はスイートオーキッドの弟がはいる予定だった美浦の藤沢和雄厩舎である。*130

  • ヨーロッパスタイルのオーナーブリーダーはビジネスとして成り立たない
  • ヨーロッパにいた馬や日本の繁殖牝馬を淘汰しながら牧場の体質改善をはかっていった

とありますので、3代目の存命中から生産牧場メインの体制に移る予定だったことが伺えます。
若くして急逝されてしまったのでまだまだ改善途中だったかもしれませんが…近年のシンボリ牧場が繁殖牝馬を40頭ほど繋養している(ハロワの求人情報より)ことからすると生産牧場への転換は予定通りだった可能性が高いですね。

…本当に成績不振だったの?

上の項目で馬主名義の成績のデータを調べたことによって、ミル貝に書かれてた

和田とシンボリ牧場は厩舎関係者から根強い不信感・警戒感を抱かれる様になった。結果、厩舎関係者との意思疎通が順調に取れなくなり、「シンボリ軍団」は低迷傾向に陥ってゆく。特にシリウスシンボリの一件によって美浦トレセンの厩務員組合との関係を著しく悪化させてしまったツケは大きく、以降は預託先の確保や担当厩務員の固定にも苦労する事が多くなった。

結果的に藤澤和雄等、和田の意気盛んな頃にはまだ調教師になっていなかったり、厩舎を開業していても和田からの馬の預託の実績が無かったりといった新進調教師の厩舎が、シンボリ牧場の主な預託先となっていった。

の文章に対して本当かな?と疑問を持ったので調べてみようと思います(調査が完了しました)
「苦労することが多くなった。」という表現であるため、実際の内実を知っている方にお聞きしないと苦労されたかどうかは判明しないと考えたため、ここでは実数値のみを調査した上で推測をしてみようと思います。

1985~1995の間、シンボリの中央競馬所属馬はどこの厩舎に所属していたのか

netkeibaの古いデータはミスが超目立ちますので(既に亡くなられてる調教師さんが生きてることになってたり…)辿れるものは辿っています。

名義調教師名所属馬リーディング順位
(順位/全体)
開業してからの年数備考
1985シンボリ牧場大和田稔(美浦)ブェゴウスイート22/226位8年目
高橋英夫(美浦)シンボリカール45/226位24年目
高松邦男(美浦)シンボリソレイユ226/226位6年目※所属馬が故人所属でカウントされてる為
父名義の厩舎だと50/226位
田中和夫(美浦)シンボリカノープ226/226位8年目※所属馬が故人所属でカウントされてる為
父名義の厩舎だと12/226位
野平祐二(美浦)シンボリカントリー
シンボリシャンス
シンボリルドルフ
12/226位11年目
畠山重則(美浦)シンボリレーブ22/226位6年目
保田隆芳(美浦)

清田十一(栗東)
シンボリヨーク69/226位(保田)16年目※6/8の水無月賞~12/8の六甲Sの間に
名義がシンボリ牧場から桐谷茂さんに変更
それに伴い調教師も変更
和田共弘大和田稔(美浦)シノンシンボリ22/226位8年目
清田十一(栗東)オリオンシンボリ
オリガシンボリ
スイートシャンタン
39/226位16年目
佐々木亜良 (美浦)スイートセシール79/226位10年目
高橋英夫(美浦)アリエスシンボリ
スイートナタリー
スイートリゲル
45/226位24年目
高松邦男(美浦)アブニールシンボリ
シャルルシンボリ
スイートアルテミス
226/226位6年目※所属馬が故人所属でカウントされてる為
父名義の厩舎だと50/226位
田中和夫(美浦)コンラートシンボリ
スイートエテルナ
スイートカトリーヌ※2
スイートカペラ
スイートボルドー
226/226位8年目※所属馬が故人所属でカウントされてる為
父名義の厩舎だと12/226位

※2…1985/09/28→1985/12/01の間に
馬主が永尾政志さんに変更。
さらにその後佐藤和子さんに変更
新関力(美浦)ペガサスシンボリ
スイートジョサント
59/226位7年目
二本柳俊夫(美浦)シリウスシンボリ6/226位29年目
野平祐二(美浦)ピセスシンボリ
ユーグシンボリ
レオシンボリ
スイートキャサリン
スイートクロード
スイートナディア
メイキャリー
12/226位11年目
畠山重則(美浦)アルゴシンボリ
シータスシンボリ
テュフオンシンボリ
スイートオスロ
スイートジョアンナ
スイートシルビー
22/226位6年目
松山吉三郎(美浦)スイートカシオペヤ
スイートジェーン
3/226位30年目
保田隆芳(美浦)スイートレグルス69/226位16年目
1986シンボリ牧場高橋英夫(美浦)シンボリカール44/227位25年目
高松邦男(美浦)シンボリソレイユ8/227位7年目
田中和夫(美浦)シンボリカノープ148/227位9年目
野平祐二(美浦)シンボリシャンス137/227位12年目1986/03/29時は野平祐二所属を確認
次走の1987年は高橋英夫に所属
畠山重則(美浦)シンボリレーブ35/227位7年目
和田共弘大和田稔(美浦)シノンシンボリ16/227位9年目
清田十一(栗東)オリオンシンボリ
オリガシンボリ
スイートシャンタン
81/227位17年目
佐々木亜良(美浦)スイートセシール162/227位11年目
高橋英夫(美浦)アリエスシンボリ
スイートナタリー
スイートリゲル
44/227位25年目
高松邦男(美浦)アブニールシンボリ
スイートキャリー(NEW)
8/227位7年目
田中和夫(美浦)コンラートシンボリ
ミストラルシンボリ(NEW)
レオシンボリ(移動後※)
マティリアル
スイートピッコロ(NEW)
スイートフォルテ(NEW)
148/227位9年目※1986/02/09→1986/10/19の間に
田中和夫(美浦)に移動
新関力(美浦)スイートジョサント57/227位8年目
野平祐二(美浦)ピセスシンボリ(移動前※1)
ユーグシンボリ
レオシンボリ(移動前※2)
スイートクロード(移動前※3)
137/227位12年目※1…1986/02/22→1987/01/06間に
清田十一(栗東)に移動
※2…1986/02/09→1986/10/19の間に
田中和夫(美浦)に移動
※3…1986/10/26→1987/05/30の間に
田中和夫(美浦)に移動
畠山重則(美浦)アルゴシンボリ
シータスシンボリ
ジョンシンボリ
スイートシルビー(NEW)
スイートブリジット(NEW)
35/227位7年目※所属調教師は野平好男(美浦)
となっているが、
現役時の2戦はどちらも
畠山重則(美浦)によるもの
藤原敏文(美浦)(NEW)スイートビオラ(NEW)5/227位8年目
保田隆芳(美浦)スイートドミニク(NEW)
スイートレグルス
68/227位17年目
1987シンボリ牧場小林稔 (栗東)(NEW)シンボリムルテン(NEW)2/228位22年目
佐々木亜良 (美浦)(NEW)シンボリビアスカ(NEW)92/228位11年目
高橋英夫(美浦)シンボリカール
シンボリケネディ(NEW)
シンボリシャンス(移動後)
ビソアスイート(NEW)
10/228位26年目
高松邦男(美浦)シンボリソレイユ30/228位8年目
田中和夫(美浦)シンボリカノープ
シンボリサクソン(NEW)
シンボリブルック(NEW)
シンボリモントルー(NEW)
71/228位10年目
畠山重則(美浦)シンボリアドラー(NEW)
シンボリウォーレン(NEW)
シンボリレーブ
モルジェスイート(NEW)
92/228位8年目
和田共弘大和田稔(美浦)シノンシンボリ71/228位10年目
清田十一(栗東)ピセスシンボリ(移動後)
スイートアレグロ(NEW)
119/228位18年目※1986/02/22→1987/01/06間に
清田十一(栗東)に移動
境勝太郎(美浦)(NEW)スイートローザンヌ(NEW)23/228位5年目
佐々木亜良(美浦)スイートセシール
スイートハープ(NEW)
92/228位12年目
高橋英夫(美浦)アリエスシンボリ
スイートリゲル
10/228位26年目
高松邦男(美浦)アブニールシンボリ30/228位8年目
田中和夫(美浦)コンラートシンボリ
ミストラルシンボリ
レオシンボリ
マティリアル
スイートクロード(移動中※)
スイートチェレスタ(NEW)
スイートピッコロ
スイートフォルテ
スイートフルート(NEW)
71/228位10年目※1986/10/26→1987/05/30の間に
田中和夫(美浦)に移動。
1987/09/05→1988/01/05の間に
境征勝(美浦)に移動
新関力(美浦)ペガサスシンボリ59/228位8年目
二本柳俊夫(美浦)シリウスシンボリ20/228位31年目
畠山重則(美浦)アイゼンシンボリ(NEW)
アルゴシンボリ
スイートシルビー
92/228位8年目
藤原敏文(美浦)チャーチルシンボリ(NEW)
ドゴールシンボリ(NEW)
バリスシンボリ(NEW)
51/228位9年目
1988シンボリ牧場清田十一 (栗東)(NEW)ピュリースイート(NEW)137/227位19年目
境勝太郎(美浦)(NEW)シンボリビラール(NEW)54/227位23年目
境征勝(美浦)(NEW)シンボリクリエンス(NEW)
シンボリシーザー(NEW)
シンボリチェピオ(NEW)
92/227位6年目
佐々木亜良(美浦)シンボリビアスカ92/227位12年目
高橋英夫(美浦)ビソアスイート54/227位27年目
高松邦男(美浦)シンボリソレイユ32/228位9年目
田中和夫(美浦)シンボリカノープ
シンボリザイラー(NEW)
シンボリサクソン
シンボリプラット(NEW)
シンボリブルック
シンボリベルソア(NEW)
シンボリホフマン(NEW)
シンボリマルタン(NEW)
シンボリモントルー
64/227位11年目
畠山重則(美浦)シンボリウォーレン
シンボリハイデン(NEW)
シンボリレーブ
モルジェスイート
32/227位9年目
藤原敏文(美浦)(NEW)シンボリファルス(NEW)17/227位10年目
和田共弘大和田稔(美浦)シノンシンボリ41/227位11年目
境勝太郎(美浦)スイートアンナ(NEW)
スイートローザンヌ
54/227位24年目
境征勝(美浦)(NEW)スイートキティー(NEW)
スイートクロード(移動後※)
スイートシンシア(NEW)
92/227位6年目※1987/09/05→1988/01/05の間に
境征勝(美浦)に移動
佐々木亜良(美浦)スイートセシール92/227位12年目
高橋英夫(美浦)アリエスシンボリ
グラルネルシンボリ(NEW)
トーマスシンボリ(NEW)
スイートボニー(NEW)
54/227位27年目
田中和夫(美浦)ミストラルシンボリ
ボビンスキー(NEW)
マティリアル
スイートクロード(移動中※)
スイートシャモニー(NEW)
スイートバーデン
スイートピッコロ
64/227位11年目※1987/09/05→1988/01/05の間に
境征勝(美浦)に移動
新関力(美浦)ペガサスシンボリ64/227位9年目
二本柳俊夫(美浦)シリウスシンボリ80/227位32年目
畠山重則(美浦)アイゼンシンボリ
アルゴシンボリ
ジュネーブシンボリ(NEW)
バゼールシンボリ(NEW)
ブライアンシンボリ(NEW)
スイートアスコナ(NEW)
スイートコルティナ(NEW)
32/227位9年目
藤沢和雄(美浦)(NEW)スイートキャスィー(NEW)183/227位1年目
藤原敏文(美浦)チャーチルシンボリ
ドゴールシンボリ
バリスシンボリ
スイートサンモリス(NEW)
17/227位10年目
松山吉三郎(美浦)(NEW)スイートダイアナ(NEW)72/227位33年目
1989シンボリ牧場境勝太郎(美浦)シンボリビラール49/231位24年目
境直行(栗東)(NEW)シンボリデーバ(NEW)57/231位7年目
境征勝(美浦)シンボリオベリスク(NEW)
シンボリクリエンス
シンボリシーザー
シンボリチェピオ
クララスイート(NEW)
40/231位7年目
佐々木亜良(美浦)シンボリビアスカ
シンボリマック(NEW)
82/231位13年目
高橋英夫(美浦)ビソアスイート49/227位28年目
田中和夫(美浦)シンボリアシュラ(NEW)
シンボリガルーダ(NEW)
シンボリザイラー
シンボリサクソン
シンボリハイデン(NEW)
シンボリプラット
シンボリブルック(NEW)
シンボリベルソア(NEW)
シンボリマルタン
シンボリモントルー
34/231位12年目
畠山重則(美浦)シンボリウォーレン
シンボリブラーフマ(NEW)
モルジェスイート
25/231位10年目
藤原敏文(美浦)シンボリファルス82/231位11年目
和田共弘大和田稔(美浦)シノンシンボリ57/231位12年目
清田十一 (栗東)マイケルシンボリ(NEW)40/231位20年目
境勝太郎(美浦)スイートアンナ49/231位24年目
境征勝(美浦)ルクソールシンボリ(NEW)
スイートシンシア
スイートドゥルガー(NEW)
スイートマドンナ(NEW)
40/231位7年目
佐々木亜良(美浦)スイートセシール
スイートデラ(NEW)
82/231位13年目
高橋英夫(美浦)スイートアプサラス(NEW)
スイートボニー
49/231位28年目
田中和夫(美浦)ミストラルシンボリ
ボビンスキー
マティリアル
スイートアプサラス(NEW)
スイートグレース(NEW)
スイートルーシー(NEW)
34/231位12年目
田村駿仁(美浦)(NEW)スイートカーリー(NEW)
スイートケプリ(NEW)
149/231位9年目
畠山重則(美浦)アルゴシンボリ
イースタンシンボリ(NEW)※
ジュネーブシンボリ
ブライアンシンボリ
スイートコルティナ
スイートサルナート(NEW)
スイートヤクシニー(NEW)
25/231位10年目※小西登(美浦)所属と
なっているが
現役時は全て
畠山重則(美浦)所属で出走
藤沢和雄(美浦)スイートキャスィー94/231位2年目
藤原敏文(美浦)チャーチルシンボリ
ドゴールシンボリ
バリスシンボリ
82/231位11年目
松山吉三郎(美浦)スイートダイアナ129/231位34年目
松山康久(美浦)(NEW)スイートミトゥーナ(NEW)5/231位14年目
1990シンボリ牧場境勝太郎(美浦)シンボリビラール12/228位25年目
境直行(栗東)シンボリアレック
シンボリデーバ
128/228位8年目
境征勝(美浦)シンボリオベリスク
シンボリキャメロン(NEW)
シンボリクリエンス
シンボリシーザー
シンボリチェピオ
118/228位8年目
佐々木亜良(美浦)シンボリビアスカ118/228位14年目
高橋英夫(美浦)ビソアスイート128/228位29年目
田中和夫(美浦)シンボリアシュラ
シンボリガルーダ
シンボリザイラー
シンボリファースト(NEW)
シンボリプラット
シンボリブルック
シンボリプレジール(NEW)
シンボリベルソア
シンボリマルタン
シンボリモントルー
49/228位13年目
田村駿仁(美浦)(NEW)シンボリヒリュウ(NEW)181/228位10年目
畠山重則(美浦)シンボリウォーレン
シンボリダンサー(NEW)
シンボリハイデン
シンボリフォルテ(NEW)
21/228位11年目
和田共弘小林稔(栗東)(NEW)シャマードシンボリ(NEW)16/228位25年目
境勝太郎(美浦)スイートアンナ
スイートスジャータ(NEW)
12/228位25年目
境征勝(美浦)ルクソールシンボリ
スイートシンシア
スイートドゥルガー(NEW)
118/228位8年目
佐々木亜良(美浦)スイートカジュラホ(NEW)
スイートクメール(NEW)
118/228位14年目
高橋英夫(美浦)スイートアプサラス128/228位29年目
田中和夫(美浦)ミストラルシンボリ
スイートグレース
スイートスーリヤ(NEW)
スイートディオレラ(NEW)
49/228位13年目
田村駿仁(美浦)マンドリスシンボリ(NEW)
スイートカーリー
181/228位10年目
畠山重則(美浦)イースタンシンボリ
ジュネーブシンボリ
ブライアンシンボリ
スイートコルティナ
21/228位11年目※小西登(美浦)所属と
なっているが
現役時は全て
畠山重則(美浦)所属で出走
藤沢和雄(美浦)ネイトシンボリ(NEW)
スイートキャスィー
スイートシバ(NEW)
スイートシャリマー
33/228位3年目
藤原敏文(美浦)ドゴールシンボリ82/231位11年目
松山吉三郎(美浦)アトウムシンボリ(NEW)
スイートダイアナ
111/228位35年目
松山康久(美浦)スイートミトゥーナ3/228位15年目
1991シンボリ牧場境勝太郎(美浦)シンボリビラール109/227位26年目
境直行(栗東)シンボリデーバ19/227位9年目
境征勝(美浦)シンボリオベリスク
シンボリキャメロン
シンボリクリエンス
シンボリシーザー
シンボリチェピオ
シンボリポジション(NEW)
109/227位9年目
佐々木亜良(美浦)シンボリビアスカ
リバティースイート(NEW)
137/227位15年目
高橋英夫(美浦)シンボリトレンディ(NEW)22/227位30年目
田中和夫(美浦)シンボリアシュラ
シンボリカイザー(NEW)
シンボリガルーダ
シンボリシンホニー(NEW)
シンボリファースト
シンボリプラット
シンボリブルック
シンボリプレジール
シンボリベルソア
シンボリモントルー
63/227位14年目
田村駿仁(美浦)シンボリグローリー(NEW)
シンボリヒリュウ
146/227位11年目
中野隆良(美浦)(NEW)シンボリドルフィン(NEW)39/227位16年目
畠山重則(美浦)シビルスイート(NEW)
シンボリダンサー
シンボリフォルテ
スピカスイート(NEW)
146/227位12年目
藤沢和雄(美浦)(NEW)パブロワスイート(NEW)6/227位4年目
和田共弘小林稔(栗東)シャマードシンボリ(NEW)16/228位26年目
境勝太郎(美浦)スイートルシード(NEW)109/227位26年目
境征勝(美浦)オリエントルーラー(NEW)※109/228位9年目※1991/11/16→1993/08/16の間に
地方競馬へ移動
佐々木亜良(美浦)ルミエールシンボリ(NEW)137/227位15年目
高橋英夫(美浦)リーチシンボリ(NEW)
スイートアプサラス
22/227位30年目
田中和夫(美浦)ミストラルシンボリ
スイートジェシカ(NEW)
スイートスーリヤ
スイートノクターン(NEW)
63/227位14年目
田村駿仁(美浦)プリードシンボリ(NEW)146/227位11年目
畠山重則(美浦)イースタンシンボリ
ジュネーブシンボリ
トワソンドール
スイートイザティス(NEW)
スイートカプリッチ(NEW)
スイートコルティナ
スイートリーチ(NEW)
146/227位12年目※小西登(美浦)所属と
なっているが
現役時は全て
畠山重則(美浦)所属で出走
藤沢和雄(美浦)ヴィーブシンボリ(NEW)
スイートシャリマー
スイートマギー(NEW)
6/227位4年
藤原敏文(美浦)ドゴールシンボリ80/228位12年目
松山吉三郎(美浦)スイートダイアナ68/228位36年目
松山康久(美浦)アジュレーシンボリ(NEW)※68/228位16年目※田中和夫(美浦)所属と
なっているが
中央競馬現役時は全て
松山康久(美浦)所属で出走
1992シンボリ牧場小野幸治(栗東)(NEW)シンボリエンブレム(NEW)11/216位9年目
境勝太郎(美浦)シンボリエイトス(NEW)74/216位27年目
境征勝(美浦)シンボリキャメロン
シンボリクリエンス
シンボリフラッグ(NEW)
シンボリポジション
98/216位10年目
佐々木亜良(美浦)シンボリチャンプ(NEW)56/216位16年目
田中和夫(美浦)シンボリカイザー
シンボリガルーダ
シンボリザイラー
シンボリシンホニー
シンボリズルムー(NEW)
シンボリテンペスト(NEW)
シンボリノーブル
シンボリファースト
シンボリファントム(NEW)
シンボリプラット
シンボリマルタン
シンボリモントルー
74/216位15年目
田村駿仁(美浦)シンボリグローリー
シンボリヒリュウ
144/216位12年目
中野隆良(美浦)シンボリチェイサー(NEW)
マジックスイート(NEW)
74/216位17年目
畠山重則(美浦)シンボリダンサー
シンボリフォルテ
51/216位13年目
藤原敏文(美浦)シンボリウイナー(NEW)113/216位14年目
松山康久(美浦)(NEW)シンボリレンジャー(NEW)16/216位17年目
和田共弘小林稔(栗東)シャマードシンボリ1/216位27年目※1992/02/08→1992/08/08の間に
田中和夫(美浦)に移動
境勝太郎(美浦)スイートビビアン(NEW)
スイートルシード
74/216位27年目
境征勝(美浦)スイートダヴィンチ(NEW)
スイートミーガン(NEW)
98/216位10年目
高橋英夫(美浦)リーチシンボリ51/216位31年目
武邦彦(栗東)(NEW)スイートルノワール(NEW)11/216位12年目
田中和夫(美浦)アランシンボリ(NEW)
ポセイドンシンボリ(NEW)
スイートジェシカ
スイートジョディ(NEW)
スイートライザ(NEW)
74/216位15年目
畠山重則(美浦)アイルトンシンボリ(NEW)
ジュネーブシンボリ
トワソンドール
スイートオリビア(NEW)
スイートクリスティ(NEW)※
スイートシャガール(NEW)
51/216位13年目※野平好男(美浦)所属と
なっているが
現役時は全て
畠山重則(美浦)所属で出走
藤沢和雄(美浦)ヴィーブシンボリ
スイートシャリマー
8/216位5年目※1992/12/20→1993/01/30の間に
名義が前田篤久さんに変更
それに伴い調教師も変更
松山吉三郎(美浦)スイートシガニー(NEW)74/216位37年目
松山康久(美浦)アジュレーシンボリ16/216位17年目※田中和夫(美浦)所属と
なっているが
中央競馬現役時は全て
松山康久(美浦)所属で出走
1993シンボリ牧場小野幸治(栗東)シンボリエンブレム
ダンシングスイート(NEW)
49/218位10年目
境征勝(美浦)シンボリポジション98/218位11年目
佐々木亜良(美浦)シンボリチャンプ150/218位17年目
田中和夫(美浦)シンボリヴェルディ(NEW)
シンボリカイザー
シンボリガルーダ
シンボリザイラー
シンボリシンホニー
シンボリズルムー
シンボリテンペスト
シンボリドレスデン(NEW)
シンボリバイエルン(NEW)
シンボリファースト
シンボリファントム
ムーランスイート
15/218位16年目
田村駿仁(美浦)シンボリグローリー
シンボリヒリュウ
スイートタイム(NEW)
マイティーシンボリ(NEW)
150/218位13年目
中野隆良(美浦)シンボリチェイサー
マジックスイート
22/218位18年目
畠山重則(美浦)カーニバルスイート(NEW)
シンボリダンサー
シンボリパイク(NEW)※
シンボリフォルテ
120/218位14年目※野平好男(美浦)所属と
なっているが
中央競馬現役時は全て
畠山重則(美浦)所属で出走
松山康久(美浦)シンボリレンジャー15/218位18年目
和田共弘境征勝(美浦)スイートルーベンス(NEW)98/218位11年目
佐々木亜良(美浦)アトラスシンボリ(NEW)150/218位17年目
高橋英夫(美浦)リーチシンボリ
スイートミレー(NEW)
36/218位32年目※1993/08/15→1995/03/07の間に
名義が石本鈴雄さんに変更
武邦彦(栗東)ジャムシード(NEW)※
スイートルノワール
74/218位13年目フランスにいる時は畠山重則(美浦)
その後は武邦彦所属となっている
田中和夫(美浦)シャマードシンボリ
スイートジェシカ
スイートジョディ
スイートモジリアニ(NEW)
スイートラファエロ(NEW)
15/218位16年目
畠山重則(美浦)アイルトンシンボリ
ジュネーブシンボリ
トワソンドール
スイートオリビア
スイートシャガール
120/218位14年目
藤沢和雄(美浦)スイートシャリマー
スイートセザンヌ
1/218位6年目
松山吉三郎(美浦)ゼウスシンボリ(NEW)(移動前)83/218位38年目※松山師の引退後
調教師変更
松山康久(美浦)アジュレーシンボリ15/218位18年目※田中和夫(美浦)所属と
なっているが
中央競馬現役時は全て
松山康久(美浦)所属で出走
1994シンボリ牧場小野幸治(栗東)アクティブシンボリ(NEW)
プライムスイート(NEW)
7/221位11年目
郷原洋行(美浦)(NEW)ゼウスシンボリ(NEW)※移動後
フィアレスシンボリ(NEW)
190/221位1年目※和田共弘氏の死去後
名義がシンボリ牧場に変更。
同時期に前調教師が引退したため
調教師変更
境勝太郎(美浦)ハリケーンシンボリ(NEW)47/221位12年目
境直行(栗東)ケリソン(NEW)
スイートボレロ(NEW)
89/221位12年目※1996/12/15~1997/04/26の間に
郷原洋行(美浦)に調教師を変更
境征勝(美浦)スイートサフラン(NEW)
モナミスイート(NEW)
100/221位12年目
佐々木亜良(美浦)ガーデンスイート(NEW)
シンボリチャンプ
137/221位18年目
高橋英夫(美浦)ファンシーバル(NEW)89/221位33年目
武邦彦(栗東)(NEW)ジャムシード(移動後)※
ダンスミルド(NEW)
18/221位14年目※和田共弘氏の死去後
名義がシンボリ牧場に変更。
フランスにいる時は畠山重則(美浦)
その後は武邦彦所属となっている
田中和夫(美浦)ゲイルスイート(NEW)
シャープダンス(NEW)
シャマードシンボリ
シンボリヴェルディ
シンボリシンホニー
シンボリズルムー
シンボリテンペスト
シンボリドレスデン
シンボリバイエルン
スイートフーガ(NEW)
スイートラベンダー(NEW)
ソーシャルダンス(NEW)
ダンスカール(NEW)
トルネードシンボリ
ブルーモナーク(NEW)
ムーランスイート
ランベルトシンボリ(NEW)
171/221位17年目※和田共弘氏の死去後
名義がシンボリ牧場に変更。
調教師はそのまま。
田村駿仁(美浦)スイートタイム(NEW)
マイティーシンボリ
122/221位14年目
中野隆良(美浦)マジックスイート5/221位19年目※和田共弘氏の死去後
名義がシンボリ牧場に変更。
調教師はそのまま
畠山重則(美浦)アイルトンシンボリ
カーニバルスイート
グロリアスシンボリ(NEW)
シンボリダンサー
デビスシンボリ(NEW)
137/221位15年目※和田共弘氏の死去後
名義がシンボリ牧場に変更。
調教師はそのまま
藤沢和雄(美浦)スイートシャリマー
スイートタンジー(NEW)
ダンスハーモニー(NEW)
ベストリファール(NEW)
マーベラスシンボリ(NEW)
2/221位7年目※和田共弘氏の死去後
名義がシンボリ牧場に変更。
調教師はそのまま
松山康久(美浦)シンボリレンジャー1/221位19年目
和田共弘武邦彦(栗東)ジャムシード(移動前)※18/221位14年目※和田共弘氏の死去後
名義がシンボリ牧場に変更。
調教師はそのまま
田中和夫(美浦)シャマードシンボリ(移動前)※
スイートジョディ
171/221位17年目※和田共弘氏の死去後
名義がシンボリ牧場に変更。
調教師はそのまま
畠山重則(美浦)トワソンドール137/221位15年目※和田共弘氏の死去後
名義がシンボリ牧場に変更。
調教師はそのまま
藤沢和雄(美浦)ベストリファール(移動前)※2/221位7年目
1995
(おまけ)
シンボリ牧場石毛善彦(美浦)(NEW)スイートキプロス(NEW)212/230位1年目
大和田稔(美浦)シンボリマルベリヤ(NEW)
スイートポルカ(NEW)
177/230位18年目
小野幸治(栗東)アクティブシンボリ
シンボリモナコ(NEW)
28/230位12年目
郷原洋行(美浦)スイートストリング(NEW)
スイートマジョルカ(NEW)
194/230位2年目
境勝太郎(美浦)スイートココス(NEW)
ロゼオール(NEW)
76/230位13年目
境直行(栗東)ケリソン116/230位13年目
境征勝(美浦)ユーターン(NEW)103/230位13年目
高橋英夫(美浦)ファンシーバル216/230位34年目
武邦彦(栗東)ジャムシード41/230位15年目
田中和夫(美浦)シンボリドレスデン
シンボリバイエルン
シンボリレンジャー※移動後
スイートフーガ
スイートボレロ(NEW)
スイートロンド(NEW)
ダンスカール
ハマチドリ(NEW)
ヘキウン(NEW)
ムーランスイート
ランベルトシンボリ
194/230位18年目※1995/05/06→1995/08/05の間に
田中和夫(美浦)に移動
畠山重則(美浦)アイルトンシンボリ
グロリアスシンボリ
デビスシンボリ
ベニハナ(NEW)
202/230位16年目
藤沢和雄(美浦)カチボシ(NEW)
キリョク(NEW)
スイートタンジー
ヌーベルダンス(NEW)※移動前
プレストシンボリ
ベストリファール
マーベラスシンボリ
1/230位8年目※最初の新馬戦の時のみ
藤沢師所属、
その後は松山師所属。
松山康久(美浦)シンボリレンジャー※1移動前
ヌーベルダンス(NEW)※2移動後
マザーメリー(NEW)
28/230位20年目※1…1995/05/06→1995/08/05の間に
田中和夫(美浦)に移動
※2…最初の新馬戦の時のみ
藤沢師所属、
その後は松山師所属。

調査したデータをまとめたグラフがこちらになります

預託している調教師の人数 と 新規に預託した調教師の人数_2名義分_ミス修正.png預託している頭数_2名義分_ミス修正.png

こちらが2名義の預託調教師と預託頭数をまとめたグラフです。
1985年と比べ、預託している調教師の数は1986以外はミル貝に書かれている内容とは真逆に増えている、もしくは同数なことが分かります。
一方で、預託している調教師は誤差程度の増減を繰り返しているのに1991年からの預託頭数は明確に減少し出していることがグラフから分かります。

これは表にまとめた和田共弘氏名義の馬の移動を見れば分かるのですが、1992年半ばから持ち馬を減らそうとしていく動きが見てとれるためと考えられます。

1992年~1994年
和田共弘名義では、それまで平地であまり勝てない馬も障害で走らせることが多かったところ、この年から地方馬主に譲渡し出すという新しい動きが見え始めており、段々と頭数を減らしていき1994年、共弘氏が死没した日までに出走した和田共弘氏名義の現役馬は5頭しか残っていませんでした…
これって…死期を悟った人がやる生前整理じゃないですか…?知りたくなかった…

1994年の代替わり後…
シンボリ牧場名義で預託実績がなく開業後間もない調教師は1994年は郷原洋行師(美浦)の1名、他は全て和田共弘氏からの預託実績あり。
頭数で数えた場合、新規預託は2頭のみ、他45頭はすでに預託実績ありの厩舎。
オマケに見た1995年では、共弘氏からの預託実績がなく開業後間もない調教師は石毛善彦師(美浦)、郷原洋行師(美浦)の2名、他は全て和田共弘氏からの預託実績あり。
頭数で数えた場合、新規預託は3頭のみ、他33頭はすでに預託実績ありの厩舎。

1995年以降…
シンボリ牧場名義ではそれまで平地であまり勝てなかった馬でも中央の障害で走らせる傾向にあった持ち馬を、何頭も地方競馬の馬としていることが権利者の移動の記録から見てとれます。
3代目の言っていた生産牧場体勢への転換として、引き続き不要な馬を手放していこうとする姿勢の中の1つと見てもよいかもしれません。

また、1995年以降になると調教師の変更などが度々出てきているのですが、その調教師に預託している他のシンボリ馬がそのままであったりする事を見ると、トラブルというよりは馬の何らかの整理を行っていたと考えた方がよいかもしれません。

というわけで、netkeibaの特定年数データを全て調べて表とグラフに纏めた結果

和田とシンボリ牧場は厩舎関係者から根強い不信感・警戒感を抱かれる様になった。結果、厩舎関係者との意思疎通が順調に取れなくなり、「シンボリ軍団」は低迷傾向に陥ってゆく。特にシリウスシンボリの一件によって美浦トレセンの厩務員組合との関係を著しく悪化させてしまったツケは大きく、以降は預託先の確保や担当厩務員の固定にも苦労する事が多くなった。

結果的に藤澤和雄等、和田の意気盛んな頃にはまだ調教師になっていなかったり、厩舎を開業していても和田からの馬の預託の実績が無かったりといった新進調教師の厩舎が、シンボリ牧場の主な預託先となっていった。

の2点はおそらく見当違いである可能性が高いと思われます。
そして藤沢師は1988年にフツーに預託実績があります。
そもそも馬主としてのリーディング成績ふつうに良いですしねこの期間…

おまけ
ちょっとグラフ上手く作れなかったんですが…それぞれの調教師さんへの預託頭数の数・調教師リーディング順位のグラフです

各調教師への預託の割合の推移.png
美浦と栗東の割合変動とか見えるかなーと思ったけどあまり見えませんでした。

預託している調教師の調教師リーディング.png
超わかりにくいグラフですね…それでも2代目があとを頼んだ藤沢師(紫色の折れ線)の成績がグンッと上がり出すのが分かるかと思います。

預託している調教師さんたちの代表馬
ウマ娘しか知らない人でも分かりそうな代表馬がいる人たちです。

藤沢和雄
代表馬:タイキシャトル・ゼンノロブロイ
高橋英雄
代表馬:ダイナカール(エアグルーヴ先輩のママ)
境勝太郎
代表馬:サクラバクシンオー・サクラチヨノオー
松山康久
代表馬:ミスターシービー
中野隆良
代表馬:ヒシアマゾン
小野幸治
代表馬:サッカーボーイ(シングレのディクタストライカさんの推定元ネタの確率が高い馬)
武邦彦
代表馬:バンブーメモリー

オマケ

資料探しをしていた時に見つけた、ちょっと貴重かもしれない情報たち

芦毛への偏見

「芦毛の馬は走らない」というよく聞く言葉、古くは軍馬として使われた時の「悪し毛」が元だと言われてますが
競馬で昔からそういうことを言われていた資料はあるのかな?と思いつつソースを見つけられずにいたのですが、優駿1985年8月号(創刊500号記念)の優駿の歴史振り返り特集にて
「パカパカ問答(連載名)の昭和16年の8月号で芦毛のサラブレッドについて書いている」「当時は芦毛に対する偏見があったようですが、◯◯さんは芦毛が大好きだという印象を受けました」という記述あり
実際に走らないと言われていたのかどうかは不明ですが速さを競う競馬でも結構昔から芦毛がとやかく言われていたのは事実みたいですね

マルゼンスキーの引退後

マルゼンスキー_種牡馬時代.jpg
1985年8月号の優駿から
重賞を勝った馬の故郷の牧場を訪ねる企画の挿絵にマルゼンスキーさんの馬体重が…
現役時は500kg前後だった事を思うと…すごく…太いですね…

牧場の見学禁止の古い記録

「昔からマナーの悪いファンが多くなるたびに見学禁止になる流れがあった」とよく言われますが、優駿にそういう記事ないかなーと探したら手持ちの中で一番古い見学禁止のやつがありましたので貼っておきます。
1988年11月号の記事ですからオグリパイセンの大ブームがやってくる直前ぐらいですね
そしてページ下部のほうでボロクソに言われてる米三冠馬のシアトルスルーさん…
競走馬のふるさと案内所.jpg*131

シャーガー事件

以下の2枚の画像はシャーガー事件から1年後の優駿の海外競馬ニュースとして載っていたものです。
シャーガー_01.jpg
↑こちらが1984年3月号152P
シャーガー_02.jpg
↑こちらが1984年4月号144P

私は他のコミュニティ等で語られてるシャーガーには詳しくないのですが、上記の記事で記載されている内容からは
「身代金は支払うことが不可能な条件が含まれていた」
「IRAは犯行声明を出しておらず、犯行グループのメンバーは1年間誰も逮捕されていない事」
が分かります。

imgで「模倣犯を防ぐために身代金を支払わなかった」というレスを見かけたために当時の資料としてコレをアップしておきます。
もちろん本当に模倣犯を防ぐためという意図で支払われなかったという可能性もありますが、9か国に渡って34人が在籍しているシンジケートで、時間的に応対不可能だった指示もあると書かれている中で意思統一ができたのか?となると少々疑問が生じます。
また、1枚目を見れば分かるように現地の新聞紙の中には真偽不明の報道を行っている所もあり、情報が錯綜しやすい状態になっているため、事件の全容の報告書がまとめられた1年後の内容を採択するのが最も妥当と言えるのではないかと考えられます。
現在もシャーガー事件の真相は闇の中ですし、真相を推理したり創作の題材として盛り上がるのは楽しいですが、資料と矛盾する事実を伝えたり、ソースがない情報を信じきって伝言していくのは後世の人にとって損失であるため(実際に過去の事例を紐解くときにこういう例が混じると本当に大変なので…)アップさせて頂きました。

もちろんここに載っている情報よりもさらに信頼度の高い情報が後々出た可能性もありますが、当時海外競馬ニュースをきちんと毎月扱ってくれていた雑誌は優駿ぐらいしかないと思われます。
このページでも度々触れていますが、ソースが記載されていない話については話半分に聞いておくこと、ソースがない情報を又聞き状態で他の人に話すと伝言ゲームが誘発されていくこと、この2点には後世で競馬史を知りたいと思った人のためにも気を付けていきたいですね。
あと伝言ゲームの途中に話を盛る人・推測を確定に変換する人が存在する可能性は考慮していきたいですね…私も自分が書いたレス(シンボリ以外)の内容が2日間でとんでもない内容に変貌してたことがあって頭を抱えたことがあります…怖いですね。

シャーガー_エイプリルフール.jpg
ちなみにエイプリルフールの定番ネタの初報と思われるニュースがおそらくコレ(優駿1991年6月号124Pより)

ルドルフ

ルドルフのミル貝に拾われてない小ネタとか少々ありますよね…と思ったけど独立するほどの分量がないなぁと思ったのでちょっとだけ載せていこうかなと…
私はルドルフ関連本を全冊集めたと言ってる「」ペちゃんではないので抜けてる可能性があります(全冊集めるとかしゅごい…)

近親の重賞馬・遠征馬

ルドルフが活躍する前に生まれた近親(馬の世界では近親とは母系に連なるものを指します)の重賞馬、遠征馬たち*132

シンボリフレンド
全兄、1977年生まれ
勝ち鞍…京王杯スプリングH(現:京王杯スプリングC、G2)
岡部騎手の著述によれば、スイートルナの仔らしく神経質でイレ込みが激しく、頭の良さが裏目に出て苦しいところで堪えきれず手を抜いてしまう所もあったそうです
スイートコンコルド
全姉、1978年生まれ
3歳時にフランスに遠征
牝系は今も続いており近年ではステルヴィオ(G1マイルCS優勝)などが子孫にいます
セントシンボリ
伯父、1967年生まれ
持込馬、フランスに遠征し2勝
サクラオンリー
伯父、1968年生まれ
勝ち鞍…中山大障害・秋(現:中山大障害、JG1)、東京障害特別・春(現:東京ハイジャンプ、JG2)
The Elk
従叔父、1966年生まれ
勝ち鞍…Observer Gold Cup(現:フューチュリティトロフィー、英G1)、Derby Trial Stakes(現:英リステッド)
※同名が3頭存在するためpedigreeonline.comを参考にしました 参考記録
スリーファイヤー
従叔母、1974年生まれ
勝ち鞍…金鯱賞(現G2)、阪急杯(現G3)、中日新聞杯(現G3)、北九州記念(現G3)


と、近親馬でルドルフが走る前に重賞馬となっていた馬が4頭(フレンドを除いても3頭)おり、岡部騎手が優駿の対談で

この馬(ルドルフ)の上にシンボリフレンド(5勝。京王杯スプリングH)、スイートコンコルド(3勝)という兄姉がいて、一応の成績は残しているんですよ。でも、こんなはずはないって、みんなが思っていた。このファミリーはもっと走らないとおかしいって。*133

と語っていたのはこのような血統背景があったことも1つの理由と言えなくもないかもしれません。

帝王学

ウマ娘のアプリの方でルドルフが帝王学を教わっていたという設定があります。これが元ネタかも?(あくまで推測ですが)という記述があったため引用します。

モガミの隣の囲いの中にはスピードシンボリが、今年は1頭も種付けをしなかったとて、なにやらしぼくれて、隣の若い者の騒ぎにも関心なさそうに風に吹かれていたが、孫のルドルフが1歳馬として近くですでに「帝王学」を受けていたわけだ。何も知らなかった、こちらは。*134

と、この文章が元ネタになったのかな?と思える記述があるのですが、シンボリ牧場は0歳秋になると育成施設の方に移動されルドルフの方もそのような移動をしたとの岡部騎手含む複数の方の証言に残っていますので、あくまで「元ネタに使った可能性が伺える」程度に捉えるのがいい話ですね。

メンコは3種類

ルドルフはシリウスに比べて神経質で書かれている事が影響しているのかは分かりませんが、
ルドルフは
・トレセンでの調教時
・パドック時
に撮影された写真では必ずメンコをつけています。ちなみにシリウスはパドックでもメンコなしです。
また、シンボリ牧場内での調教時は野平騎手や岡部騎手が騎乗する際でもメンコは一切付けていなかったようです。
現在(2022年)でもパドックでメンコをつけゲート前で外す馬は割といますので、パドック時の人の声などが影響しないよう付けていた可能性が高いです。
この3種類をどう使い分けていたかは法則性が分からないです(単純に洗濯ローテーションだった可能性もあります)
ルドルフ_メンコ_01.jpg
ルドルフ_メンコ_02.jpg
画像はルドルフの写真集(勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ)と優駿(1984~1985年)での各レース特集時の写真から

ルドルフはどんな音楽が好き?

ルドルフ_リズム感.jpg*135
実際にルドルフの鞍上で口笛を吹いてる野平師によれば「リズム感のあるメロディーが好きなのではないかな?」と感じるようです

ションボリルドルフ

しょんぼりるどるふ(よしだみほ先生).jpg*136
読者投稿コーナーでの1枚ですが…この絵柄…どこかで見覚えがありますね…

ルドルフの幼い頃って?

悲劇のサラブレッドでは「幼少時代は、人を小馬鹿にしたような馬だったと聞く。」という話が書かれてますが(ルドルフの関係者が語った記述をかなり探したましたがこの情報の元になりそうな話は未だ見つかってません)実際はどうなんでしょうか。
気性や性格が垣間見えそうなものを関係者の方々が語られた記述から抜粋してみようと思います
当歳=とねっこ=0歳 の事を指します

北海道シンボリスタリオン場長 畠山和明 氏
生まれたときは紅鹿毛であかぬけていて、きれいな馬でした。集団のなかでも目につく馬で、健康優良児そのものだった。注射を打つこともなかったし、ほんとうに手がかからなかった。誰が見てもいい馬って感じでした。いくらか細身な感じだったが、芯があった。生命力が旺盛で、母親のルナが食事しているときも、いやがられても蹴とばされても、乳にくらいついていた。その気の強さが、現在の競走能力の根源となっている。*137

岩手シンボリ牧場場長 松島光好 氏
門別からやってきたのは当歳の秋(1981年)。全体的にレベルの高い年でしたが、上のランクにいましたね。追い運動でも先頭を走るのではなく、自分のペースを守って走るタイプでしたよ。我慢強さは天下一品で、鼻ねじをかけて治療することがなかった。祖父のスピードシンボリの癖だった首をあげて周りを確かめるしぐさは、あの子に受けついでいます。*138

岡部騎手
当歳の秋、岩手に移ってからの"ルナ"を待ち受けていたのは松島光好氏である。ボクと同じ昭和23年生まれだ。この松島氏と50年の春、結婚した千葉シンボリ牧場の元従業員、日大獣医学科卒業で医師免許もある月江夫人が中心となって"ルナ"の面倒をみた。彼等はそのとき20頭いた当歳馬の中からすぐに"ルナ"の非凡さを見抜いた。気性の強さも、雰囲気も1頭だけ、抜きん出ていた"ルナ"の可能性を2人は確信した。*139

56年秋に、当歳馬として種市に来たその牡馬は、母親の名をとって"ルナ"と呼ばれていた。初対面の印象は、6年前に見たサクラショウリほど鮮烈ではなかった。とりたてて美しいというのではない。
一見して丈夫そう。欠点がない。およそ20頭いた同齢馬のなかで、(シンボリカールやシャルルシンボリと並び)上位3位内と松島は見ていた。「鉛筆で描くならHBでかけるややシャープさに欠けるライン」と彼は笑う。
"ルナ"は、1歳になった2月ごろ、蹄の中に砂が入りこむ『砂のぼり』をわずらった。激痛をともなう外傷である。並の馬なら、この治療にのぞむとき、暴れる。そこで職員たちは"ハナねじ"をかける。しかしルナは平然と治療を受けた。しかも3倍近い回復力をみせて松島らを感心させた。
それ以降、ルナが見せた変身ぶりには、言葉がないと松島は言う。飼い食いのスピードが他の馬の倍以上だった。集団の中で放牧しても、べつだん親分になりたがるわけではない。平然とのんびり草を食んでいる。
リーダー格の馬「モンブラン」がけしかけて来ても、逃げもせず、相手にもならず、堂々とした態度をくずさない。やがて夏になりルナの体つきだけが胸前も、トモにも、幅が出て来た。3か月の間にガラリと変身した。
サクラショウリが1年間の滞在でほとんど変化しなかったのに比べ、ルナは1歳の秋、すっかりサクラショウリを越したように、職員たちには見えた。
57年11月、のちにシンボリルドルフと名づけられる"ルナ"にも、千葉からの迎えが来た。牧場前の空地に馬運車が横づけになる。斜めの登り板が、スルスルと車から伸びてくる。
臆病な馬は、その踏み板を上るのを嫌がる。ルナは平然とその傾斜道を上った。千葉まで同行するために、松島が助手席に腰をおろした瞬間、ルナは狭い"馬房"のなかで初めて暴れ、大きく嘶いた。
思わず助手席を飛び降りて、瞬間的なパニックと立ち向かっているルナの悲しげな表情を見た松島は、初めて気づいた。
堂々として、太い輪郭の感性しかないと思っていたその馬に、実はデリケートな内面性が隠されていたことを。
走り出した車のなかで、たえず背後の"馬房"に聞き耳をたてた松島だった。しかしそれ以降一度も、ルナの騒ぐ音は聞こえなかった。*140

シンボリ牧場 渡辺実 氏
1歳の秋(1982年)から乗ったよ。きかなくてうるさくてやんちゃだった。ハネたり、横へ切れたりして。でも、そのころから風格があったね。柔っこいけど筋金がはいった感じだった。何回も落とされた、それだけ腰のバネの瞬発力があったからね。*141

シンボリ牧場 此村与志松 氏
2歳(1983年)の2月、時計らしい時計を出した。走るんじゃないかと思ったよ。手ごたえ十分だった。(中略)兄のシンボリフレンド、姉のスイートコンコルドが少しカリカリするところがあるから、カリカリしないように乗った。素直な馬で、あの馬には1回も落とされていない。これは珍しいことだよ。*142

上田仁田 氏(元装蹄師、1984年有馬記念後引退、引退後ルドルフのみに鉄を打っている)
昨年引退して今はルドルフしかやってない。シンボリに来るのは、2週間にいっぺん。美浦では鉄はいじらない。勝負鉄にはきかえさせるだけ。蹄鉄っていうのは爪の形と歩様で決めるんだけど、最初の2歳の時の削蹄がうまくいったんで、そのあとあまり手がかからなかった。素直な馬なんで割りに楽だった。*143

藤沢和雄 氏(元調教師、ルドルフ当時は調教助手)
ルドルフが入厩したその日、野平調教師は、私に乗ってみるように言った。2歳春の若駒は、人間で言えば小学校の高学年か、中学生くらいに相当する。まだ子どもである。
ルドルフは新しい環境に連れて来られて、はしゃいでいた。私がまたがると、すぐに早足でダッダッダッダと行きはじめた。元気いっぱいである。
しばらく進むと、少し先の内ラチにカラスが1羽とまっていた。動かない。ルドルフは走りながらカラスを見ていた。ルドルフと私が目の前に来たとき、カラスは私たちをからかうようにサッと飛び立った。その瞬間、ルドルフはピタッと脚を止め、私の体は宙に投げ出された。幸い、怪我はなく、急いで飛び乗るとルドルフはまた元気に走りだした。
ルドルフが名馬の評価を確かなものにしたあと、野平調教師には「ルドルフから落馬したのはおまえだけだな」と何度か笑い話のタネにされてしまったが、このときのルドルフは若く、落着きや風格といったものは、まだ備えていなかった。*144

藤沢和雄 氏(元調教師、ルドルフ当時は調教助手)
そうそう(笑)。シンボリルドルフが厩舎に入ってきた初日に乗って、見事に振り落とされてしまいました。師匠は「落ちたのは和雄だけだな」と笑っていましたね。シンボリルドルフは元気の良いパワフルな馬で、最初の頃は本当に手の掛かる馬でした。「俺はチャンピオンなんだ」とまるで自覚しているかのような我がままな性格で、たとえば、「馬運車なんかに俺は乗らないぞ!」とばかりに駄々をこねたりするのです。誰かが乗せようとして後ろに回り込もうものなら、羽目板に穴が開くほどの強烈な蹴りで近づいてきた者を威嚇する始末。そうなっちゃうともう誰も寄り付けない。そんなときは、野平師匠と私が2人で手を組んで後ろに回り、馬運車に向けてシンボリルドルフのお尻をグッと押し込むわけです。人を見る賢い馬で、どういうわけか私たちだけは蹴ろうとしないんです。ルドルフの後ろに行って尻尾をつかまえても平気でした。写真を撮るときに立たせたりもしましたよ。ルドルフと信頼関係を築けたことは、師匠と私の大きな自慢でもありました。*145

オマケ
じゃあ大人になったら…?

シンボリ牧場 榊原哲雄 氏
ダービーの終わったあと(1984年6月)初めて乗りました。(中略)走ることに関しては、ソツのない馬だった(寂しそうに)。競走馬としての自覚が十分備わっていた。*146

岡部騎手
シンボリ牧場では、自分の庭だから、いかにも天下をとったボスらしい強気な態度をみせるのだが、競馬場や美浦ではそんなことはオクビにも出さずにしらんぷり。典型的な内弁慶だね。それを意識してやってるから、スッゴイよ。*147

岡部騎手
レースの10日前、牧場から野平厩舎に移され、レースを終えるまでのルドルフは実に堂々と落ち着いている。馬房の中にいても、そこへ取材記者が押しかけても、多少の苦痛はルドルフ自身が耐える。わがままを外にあらわさない。
牧場に帰る。すると制服からふだん着に替えたようにリラックスし、ルドルフの態度は一変する。甘えているのだろうけれど、よく噛む。和田氏の手にも噛みつこうとするし、牧場の従業員の腕などは、もう傷だらけだ。それに、行儀が悪い。"人並み"に女好きにもなるし、仲間の好き嫌いも激しい。自分の好きな馬はそばに近寄らせるが、嫌いな馬は絶対にそばに寄せつけない。気が荒いのだ。*148

シンボリ牧場 小熊春治 氏
オレにだけは、ルドルフは甘えるんだよ。わがまま自由自在、それでもまだ遠慮しいしいやってるようだけど。ジャンパーなんか、何回破られたか、腕なんか内出血のアザだらけ、キズだらけ、みんな"ライオン"というけど、あれはライオンを超えた猛獣だね。*149

ルドルフ産駒が気性難なのはパーソロンのせい?

ルドルフ産駒やテイオー産駒が気性難なのはパーソロン由来というimgでのレスを見たのでちょっとオマケで書いてみようと思います。

私はパーソロンに関する優駿の記事は流し読みしたのでどうだったのか断言できないのですが(すみません…)
少なくともルドルフに関しては岡部騎手の本の中では「ルドルフはスイートルナの血が目覚めないように気を付けた」的なことが書かれてるんですよね…
また、ルドルフの写真集にも気性は母親譲りではないか?と推測されている文章があります

1981年3月13日夜10時、北海道門別シンボリ牧場で鹿毛の牡生まれる。細身に出たが筋金入りと思える仔馬は、出生して30分後に立ち上がる。母スイートルナは仔馬をかわいがったが、自分が餌を食べるときに乳を飲みたがると怒り追い払った。普通の仔馬は母親に叱られると馬房の隅でおとなしく待つが、この仔馬は耳をしぼり猫が逆毛を立て威嚇するように母親に立ち向かい、貪欲に乳を飲んだ。感情起伏の激しさは母親ゆずりか、シンボリルドルフ。*150


そしてルドルフの気性について岡部騎手が触れてる箇所を岡部騎手の著書から引用します。
美浦トレセン入厩後

昭和58年6月6日、シンボリルドルフは茨城県稲敷郡美浦村の美浦トレーニングセンターに入厩した。7月に新潟でひらかれるサラ2歳・新馬戦でデビューすることになっている。ボクは幸運だった。シンボリ牧場のオーナー和田共弘氏が、ボクをルドルフの騎手に選ぶにあたって次のように発言しているのだ。
「べつだん他意はありません。札幌のダートじゃなく、新潟の芝で使おうと決めた時、柴田政人君は北海道に行きっぱなしだった。岡部君が新潟に行くという。それで岡部君にたのむことにしました」
で、ボクは鐙に左足をかけルドルフの背に乗った。
あれ……と思った。
ルドルフは昭和56年3月13日金曜日の生まれと聞いている。まぎれもなく、生後2年4か月しかたっていない2歳馬だ。けれどほとんどの2歳馬が持っている幼さがないのだ。ファンなら多くの人がご存知のように、日本競馬会で競走するため生産されるサラブレッドは、毎年冬が終わるころから、遅くとも初夏が訪れるころまでに生まれる。したがって普通なら、どの馬にも個体差はあっても誕生月日による差はさほどできはしない。ところがルドルフは違った。大きいとか、太いとかいう違いではない。
馬にまたがったとき、騎手が馬を直接感じるのは内股と膝、ふくらはぎ、くるぶしなどの内側だ。乗馬ズボンの比較的厚目の生地を通して37度の体温も伝わってくる。ルドルフの場合も、そこらあたりは毎年またがる2歳馬と同じだった。だけれど何かが違う。雰囲気と言ったら一番正確に違いない。この雰囲気というやつが、例年またがる他の馬に比べて半年分は成熟しているな、と感じた。
新馬戦に臨むころの2歳馬というのは、人間でいうと幼稚園児みたいなものだ。人間のすることに対してちょっと気に入らなければ、鳴きわめくし、暴れるし、興奮するし、噛みつく。ともかくわがままのし放題。パドックではキョロキョロ、馬場に入ると興奮しておびえたり、ゲートに並べようとすれば、とんでもない方角に行く。そんな馬が日本の競馬界にはいくらでもいる。ルドルフには、しかしそんな幼稚っぽさが全然なかった。*151


新馬戦に関しての記述
※このへんミル貝の記述と食い違う所があるんですよねぇ…まぁあくまで「岡部騎手の談話」ということで…

「終わりよければすべてよし」
という。うまい格言だが、この言葉は良質のサラブレッドを育てあげる社会では半分死語に近いとボクは思う。サラブレッドは最初の育て方が肝心。初めが悪ければ、終わりがよくなることは絶対にないのだ。
たとえば2歳馬の場合、どの馬にも長所と短所がある。ルドルフの場合の短所は彼が生まれた血にあると言われた。
(中略、パーソロンの系譜と3代始祖の話)
さて、ルドルフの血に不安があるというのはどういうことか。まず、パーソロンの子を宿した彼の母スイートルナ。彼女は、癇のきつい神経質な馬だった。この母はルドルフが1歳の秋に、北海道新冠の放牧場で草を食べていた時に事故死した。猟師が近くの山林で野鳥に向けて撃った鉄砲の1発。その音に驚いて彼女はパニック状態になって疾走し、牧場の柵に激突して腰と背を骨折。回復不可能のため、注射で安楽死させられたのだ。
母の血は、よく子に伝わる。いい例が、同じ父と母から生まれた、兄のシンボリフレンドと姉のスイートコンコルドだった。野球の世界で、ブルペンではすごい球を投げるのに、マウンドに立つとペシャンコになる選手がいるけれど、この2頭がそんな調子だ。2頭とも練習では実によく走った。さすがはパーソロンの子と周囲の人たちを喜ばせたものだ。
レースに臨んでシンボリフレンドには、ボクも乗ったが、主に柴田政人や郷原洋行騎手が乗った。スイートコンコルドにもこの2人の騎手が乗っている。しかし、2頭とも何とも神経質でイレ込みが激しい馬だった。母親の血をかなり濃厚にうけ継いだと思われる。
シンボリフレンドは52年2月27日生まれ。野平厩舎。柴田騎手の騎乗で新馬戦は勝ったけれど、6歳まで23戦して5勝、2着が2回で、着外が25回もあった。ボクも一度乗ったことがあるが、馬混みの中でからっきし弱かった。気が弱いというよりは、妙に頭がいいのが悪く出たんだと思う。
馬にとって、レースは過酷で、苦しい。第4コーナーを回って直線に入ると、馬は息もつかず、心臓が破れそうになってもなお、人間のムチに応えて必死に走ってくる。ところが、シンボリフレンドにはそこで歯を食いしばらないずるさがあった。苦しいのがわかっているから、自分から勝負を投げてしまうわけだ。騎手がいくら「行け」とムチを入れても、そこそこしか走らない。頭がよくて、ただ、従順だけの馬ではなかった。その頭のよさが裏目に出て、せっかくの素質を殺してしまったんだ。
それでもオープン入りしたのだから、力のある馬だったはずだ。58年1月15日中山競馬場、柴田政人騎乗で初富士賞に出走した時、第3コーナーで骨折して命を落とした。不運だったし、最後まで歯車のかみ合わない、エンジンが全開しきらないもどかしさがあった。誰よりもこのもどかしさを感じたのが野平氏だったと思う。この馬の力を引き出せなかったことは苦い経験として、野平氏はじめこの馬を育てた人たちの記憶に焼きついたことだろう。
そんな次第だから、北海道シンボリスタリオンでルナの3番目の子ルドルフが誕生した時も、牧場の人たちは、この3番子が兄姉と同じコースをたどらないことを祈る思いだった。
さて、そのルドルフを実戦の場であやつる人間に選ばれたのはボクだ。もし、ルドルフが新潟の芝1000メートルの新馬戦でのデビューでなく、札幌のダートだったら、騎手は柴田政人になっただろうことは前述した通りだ。
ところが札幌の砂は重い、軽い新潟の芝でデビューさせようとの配慮が和田氏にも野平氏にも働いた。このあたりに、この馬が初期のころ持っていた"危うさ"があらわれている。オーナーブリーダーとトレーナーは、1頭の若駒の第1歩に神経を払いに払った。新潟か札幌かを決めたのも、考えぬいてのことだ。シンボリの2歳馬はそれまで新潟の夏競馬に1回も行ったことがない。いつも札幌か函館で初戦をつかう。シンボリフレンドも札幌のダートから使った。だがルドルフは新潟だった。
そしてボクが乗る時が来た。野平師はボクに言った。兄や姉が才能はあるけれど非常に"危うい馬"だったことを。ルドルフにも同じ素質があるからその点を十分に頭に入れて乗ってほしいというわけだ。
騎手時代の野平祐二氏。最近でこそ、通算勝利数を増沢末夫騎手に抜かれたが、ボクたち後輩の騎手にとって神様みたいな存在だった。競馬場や厩舎ですれ違っても、ボク等はただ一方的に挨拶することができるだけだった。口さえ聞くのがはばかられるような実績を作った人が、ボクにルドルフの精神面を注意してくれという。
ともあれ、ルドルフの背にまたがってみる。その瞬間「おやっ!!」と、ルドルフのただならぬ雰囲気に驚いたのは前にも書いた。それまで16年間、さまざまな馬に乗ってきた経験が感じさせるのだろう。ルドルフの全身からなんともいえない繊細さ、気難しさを感じた。この馬はうまくのびれば三冠だって可能だ。しかし一歩間違えれば、ゼロにもなりかねない。そんな脆さを持っていると感じた。
そのことをボクよりも敏感に察したに違いない野平氏は、だからルドルフの新馬戦で1勝にこだわるより、未来に焦点を合わせたのである。1000メートルに挑むボクたちに、「1マイルのつもりで」戦ってくれと言った。
生まれて初めてのレースにいどむ新馬戦10頭たちの、熱いパッションや、早鐘のように打つ心臓の鼓動に合わせてルドルフを戦わせ、彼の中にある繊細な神経をいたずらに刺激することを野平氏は避けたかったのだ。ルドルフにまたがったボクは野平氏の言わんとすることが100パーセント理解できたと思った。
この時の野平氏とのやりとりはほんのひと言、一見さり気ないものだった。が、実はとても劇的なできごとのように思える。こんな注文をつける調教師はどこをさがしてもいないからだ。新馬戦の場合、勝つことよりレースを教えることが大事。だから、初めてのレースはゆっくり使い馬を思い遣って無理な追い方をせず、ムチも使わないほうがいい。その理屈はわかっていても、いざレースになると、つい勝敗にこだわってしまうものだ。ところが野平氏は純粋に育てる姿勢を示した。それはルドルフにかける期待と意気込みのあらわれであり、強い信頼があってのことだ。このひと言から、ボクたちの戦いは始まったのだ。
ルドルフに対して、騎手であるボクがする仕事はひとつしかなかった。それは繊細にして、ケタ外れの可能性を秘めたルドルフの背にまたがること。そして、彼の唇が噛んでいるハミ(馬銜)、その両端につながる手綱をどの馬にも負けないようにコントロールすることだった。ボクはその"現場"でボクなりの新しい騎乗術を"開眼"させられたのであった。*152


さらにもう一つ、別ページでの新馬戦での記述です

振り返れば、昭和58年7月23日の新馬戦にいどむ前、野平氏は言ったものだ。
「いいですか、岡部君。レースは1000メートルです。でも1マイル(1600メートル)の感じで乗って下さい。ゲートもゆっくり出て行って下さいよ」
1000メートルよりも1600メートルの方が距離が長い分、後に余力を残すため、前半の追い方もゆるくなるわけだ。また、ゲートをゆっくり出るということは、出遅れろということではない。ゲートを出てすぐに追うなということだ。どこの世界に、新馬戦に臨もうとする若駒に対しこんな注文をつけるトレーナーがいるだろう。
「わかりました」
ボクは答えた。野平氏の言おうとする意味が、真っ白な紙に真っ赤なインクを落としたように、実にくっきりとボクには理解できた。ルドルフ陣営は最初から、その1勝を問題にもしていないのだ。あわてず、騒がず、馬に変な気を起こさせないよう、のん気にレースをやってくれと言うのである。心の中でボクは「へえーっ」と声を出した。馬も馬だが、トレーナーもトレーナーである。ついでに言えば、ボクに何も言ってこない馬主もまた、馬主である。*153


日本ダービー

このレースを、ボクは自分の記憶と、記者席で観戦した競馬ジャーナリストたちの目によって再現してみたい。
「1コーナーを回って、隊列が落ち着いたとき、場内からどよめきが起こった。逃げているのは、スズマッハではないか……意表をつく逃げ。ジョッキーが大崎とわかった時、スタンドは騒然とする。遠く44年、ダイシンボルガードで、56年、カツトップエースで、現役ただ1人のダービー2勝騎手……」(日刊スポーツ)
大崎騎手は意欲満々だった。そのあとを増沢末夫騎手のフジノフウウン、田村正光騎手のスズパレードが追っている。
第2コーナーを回るころ、ボクは馬場がだいぶ荒れていることに気づいた。そしてルドルフの行きっぷりが悪い。馬混みにもまれてもがいている。ボクはひとつ、ふたつと肩ムチを入れた。肩ムチというのは、両手綱を持ったまま、トントンと刺激する合図だ。「行こう」という気持ちを馬に伝える。
この時、野平調教師は双眼鏡でボクとルドルフを見て「エンジンのかかりが遅い」ことを気にしていた。
スポーツニッポンは、こう書いた。
「いつの世も千両役者はハラハラドキドキさせて、最後に限りない夢を与えてくれる存在なのかもしれない。セキひとつすることさえはばかるほど静まりかえった馬主席。21頭が激しく火花を散らすターフとは鮮やかな対照の妙をえがきだしていた」
馬主席にはもちろん、シンボリ牧場の和田共弘、容子夫妻がいた。和田氏と並んで北海道シンボリスタリオンから、昭和56年3月13日、ルドルフの誕生に立ち合った畠山和明夫妻もいた。あとで聞いたのだが、畠山氏はボクたちのレースを見ながらただひたすら祈っていたそうだ。
第3コーナーにさしかかる。このときボクは7、8番手にいたルドルフを、どこに持っていこうか、としか考えていない。直線までは、まだ距離があった。このときスポニチ記者清水理義氏は馬主席にいて、和田夫妻とボクたちのレースを交互に見ていた。
「勝負の分かれ目となる第3コーナー。岡部は1発、2発とシンボリルドルフの体にムチをくれた。和田共弘オーナーは『ダメだ』といって目を閉じた。かたわらの容子夫人は放心した様子でくずれかかった……そんな人間の心をあざ笑うかのようにシンボリルドルフは地響きを立てながらやってきた」
東京競馬場には11万5000人の観衆がいてボクの耳にも、人びとのどよめきが聞こえてきた。
第4コーナーに入った。残り500メートル。
早く行こう、早く行こうとボクは焦っていた。けれどもルドルフには、まだ全力を出す気配はなかった。
上り坂に来た。残り400の地点を過ぎた。ボクはムチでルドルフの左尻を叩いた。
少しずつ、ルドルフが前に行く。スズパレード、フジノフウウン、スズマッハに近づいて行く。
ルドルフの体内にあるエンジンに、熱い火がついた、とボクは感じた。あと200だ。まだスズマッハまで2馬身の差はあった。
「しっかり、つかまってろ」
ルドルフがそう叫ぶのをボクは聞いた。
残り100を切った。
ルドルフは先を行く3頭に並んだ。
それも一瞬のことだった。ルドルフはあっという間に先頭に立った。こんなに鋭いルドルフを見るのは初めてだった。
ゴールが近づいてきた。生まれて初めて、ボクは大舞台のゴールを切った。
時計は2分29秒3。2着スズマッハを1馬身3/4離した。

その夜、さすがにボクは興奮していた。なにしろ12回目の挑戦で、やっとものにできたレースである。しかし、興奮の理由はほかにもあった。乗った馬がずばぬけた人気馬だったから、絶対負けてはならないと決めていたから。その決意がボクをことのほか興奮させ、そして神経を疲労困憊させた。
(中略、ダービーの夜の家庭の描写など)
布団に入ったのは11時半ごろだった。
いつもの習慣でボクは、布団の中で天井を見上げたまま、今日のレースのおさらいをした。騎手になった直後に、先輩から教えられて以来続けているボクの癖である。スタートから、第1コーナー、第2コーナーへと、乗った全レースの展開を思い出し、反省点はなかったか、騎乗にミスはなかったか、違う方法はありえなかったかをチェックしていく。反省してみたところで、終わったレースはもう二度と戻ってこない。しかしこれが予想外に次のレースに役立つことがわかった。そこで先輩に感謝しながら、レースの夜ごとに実行してきたのだ。
脳裏にコースを描き、そこで馬を走らせているうちに目が冴えて眠れなくなることがある。ダービーの夜は眠った。深い眠りに入る前、ボクは今日のレースがボクの力ではなく、ルドルフの賢さ、したたかさで勝てたことに気づいていた。
行きっぷりの悪いルドルフに、ボクは第2コーナーを曲がるころからムチを入れた。第3コーナーでも、第4コーナーを回って直線に入る手前でも叩いた。ルドルフは少しずつ前との距離をつめてはいたが、さほど反応しなかった。ボクはもしかしたら、今日の勝ちはないぞと疑った。
けれども直線に来て、ルドルフは動いた。電光石火のように、変速ギアをかえ、前をいく3頭の獲物に火のように襲いかかった。「何もしないでつかまっていろ」とボクに言った。ボクはその通りにし、そして勝った。
ボクはルドルフに対して、恥ずかしい思いがした。マスコミの一部は、ボクたちの闘いを"苦戦"と書くだろう。そうだ、明らかな苦戦だった。しかし、その原因のほとんどはボク側にあった。快調に逃げるスズマッハやフジノフウウンが、ボクには手応え十分に見えたのだ。だから大逃げを許したくはなかった。「待て!」という気持ちがボクをつきあげ、ムチを振らせた。しかしルドルフは、最初から他の馬には負けないとの確信を持って走っていたのだ。ボクはあとになってそれに気づいた。
こんな馬が他にいるのだろうか……と考えているうちに、ボクは眠りに入っていた。*154


3歳時の有馬記念前についての述懐

それまでのレースでボクはルドルフに対して何もしなかったわけではない。道中に何度かムチや全身の動きを通して"行こう"とか"行け"とかの合図を送っている。
ルドルフの反応は早い。ボクの意思を敏感に読みとって反応する。ところが、レースをこなしていくうち反応しない場合が出てきた。最初にそういう態度が出たのはダービーだった。ボクは焦った。もう一度、"行こうよ"と合図を送る。無視される。わけがわからない。ボクは困惑した。
馬が騎手の言うことを聞かないということは以前にも何度となく経験している。が、ルドルフの"無視"は、それまで多くの馬たちがやったわがまま丸出し、鈍感そのものの無反応とは違うような気がした。また、いっぱいでそれ以上行かれないというのとも違う。余裕は十分にあったのだから。
ダービー。一度も勝ったことがないこの大レースに、ルドルフみたいな人気ナンバー・ワンの有力馬にまたがったボクは、勝たなくてはというプレッシャーに呑み込まれていた。
ゲートが開く。まだ、第2コーナーにさしかかったばかりだというのに、ルドルフの行きっぷりが悪いと感じたボクは、行かせようとムチを使った。バックストレッチを過ぎ、第3コーナーに入るころにも、またルドルフを刺激した。ルドルフは、しかし微動だにしなかった。
実は勝つという確信のあるレースだったから、ルドルフは悠然と走っていたにすぎなかった。ボクはそんなルドルフを叩いた。ボクの意図とは関係なく、ルドルフは勝ってみせた。ゴールしてみて、ボクは自分が恥ずかしかった。と同時に、ファンの歓呼に包まれながら、どれほど感動したか。それは勝利者の喜びではない。これほどまでに勝つ意志を持ち、冷静にレースを判断したルドルフ。ヘタクソな騎手に「よけいなところで動くな」と教え、「大丈夫だ、オレにまかせろよ」と勝ってみせた。
母スイートルナから引き継いだルドルフの危うい血。その危うさを治めることに、ボクたちは成功したわけだ。年を追うごとにルドルフは、父パーソロンより、ルナの父つまりルドルフの祖父のスピードシンボリに似てきたと言われる。天皇賞と2年連続で有馬記念を制したスピードシンボリ。騎手は野平祐二氏。海外遠征でも4戦してる。最後のレースになった昭和45年、2度目の有馬記念制覇は7歳になっての敢闘だ。健気でがまんのいい馬だった。素直な気性で、野平騎手のムチに応えて懸命に走った。
ルドルフはこの祖父のひたむきな勝負魂を引き継いでいるようだ。では、ルナの血は彼の潜在能力の中に埋もれてしまったのか。それは違う。ルナの血はルドルフの性格の中に確かに生きている。騎手の展開をつっぱねて自分の判断で走って勝ってみせる。この自己主張はスピードシンボリにはないもの。明らかにルナから引き継いだものだ。ルナの持つ激しい気性、癇の強さは、まわりの人間たちの細心の気遣いを受け、ルドルフの中で見事にプラスに消化されたんだ。そんなレースをいくつか体験するうちに、ボクは、それまでルドルフに与えていた、余計な刺激を、少しずつだが減らせるようになっていた。信じていればいい。騎手は何もせずに乗っているだけで勝てるんだ。
ボクはルドルフと出会うまで、サラブレッドがこんな動物だとはまったく考えもしなかった。こんな夢みたいなことがあるのか、とボクは自分の感覚を疑った。だが、それは実際にボクの目の前で起こっていることだった。
勇気のいることだったが、ボクはルドルフに乗る時ばかりか、ほかの馬に乗る時にも試してみた。騎手がレースのほとんどをつかさどっているという考えをやめ、馬上でなるべく余計な操作はせずに、ある程度馬にまかせるレースを試みてみた。
ボクは失敗すると予測していた。何もしないで勝てたのは、ボクの鞍の下にいた馬がほかならぬルドルフだったからだ。ふつうの馬なら、メチャクチャなレースになるだろうと思っていた。
意外なことが、起こった。いや。当然の結果だったのだろう。でもボクには信じがたかった。
「何もするな」というボクの自戒は、ルドルフより能力が落ちる馬にも十分適用できることがわかったんだ。それまでと同じようにやっぱりミスはする。だがこちらが余裕をもってリラックスして乗るせいか、馬も騎手の心理を理解して、大きなミスをしなくなった。
「これは、いったいどういうことだ……」
ボクはわけがわからなくなった。でも混乱した中で、この年になって改めて、競馬の底深い面白さに出会ったと思った。
「何もしないこと。これがわが手綱さばきの秘訣になるのじゃあるまいか」
ボクは、複雑な心境になった。
競馬世界にはもともと、"馬7分に騎手3分"という文句がある。馬の強さというものは馬が先天的あるいは後天的に持っている能力が70パーセント、残りは騎手の能力で引き出すもの、といった意味である。
だからといって、騎手は最初から7割の努力を諦めて、3割分だけレースに協力すればいいというのではない。一生懸命努力した状態でも、レース結果には30パーセントしか反映しないということだ。
そこでハートのあるほとんどの騎手は、馬を100パーセント近くリードできる騎手になろうと努力する。そうすることによって、モノ言わぬ(人間より下等な)動物の能力を少しでも多く引き出せると思いこむ。けれども結局は、馬が行きたいというのに行かせず、行きたくないのに行かす強引な騎乗がアダになって失敗するケースが多いのではないだろうか。
多くの騎手仲間に聞いてみたわけではないのだが、まだ30代までの若い騎手はとくに、そう考え右のような失敗を演じるタイプがいるのではないかと思う。少なくともボクにはそんな面がかなりにあった。この考えを"偏見"と感じさせてくれた初めての馬がルドルフだった。
ボクはあるレースで、自分をまったく捨てて、ひとつルドルフにすべてをまかせてみようかと思った。まかせるには心の中で葛藤があった。大丈夫という思いが80パーセント、不安な気持ちが20パーセント。でもその冒険をあえてやってみる。
おそらくボクの頭で気づかない部分で騎手の"習性"めいたものが、ルドルフに対して働いていると思えるので、レースの100パーセントを彼にまかせたとは言い切れないかもしれない。けれど、ボクのそんな試みに対して、馬はいつもボクの不安をぶち壊す方向で活躍してくれたのである。*155

というのが岡部騎手が書いているルドルフの性格と、母であるスイートルナについての大体です。
他にもルドルフの性格とか細かいエピソードはもうちょっとあるんですがスイートルナと関連するものではないので省略します。
今ならまだ古本屋でも手に入ると思うのでルドルフが好きな人は買っても損がない本だと思いますよ。

その他の証言
サクラ軍団の馬とつながりが深い調教師、堺勝太郎師(代表馬:サクラチヨノオー、サクラユタカオー、サクラチトセオー、サクラローレル、サクラバクシンオーなど)

境がそうした「高い馬でも買ってくれる」全演植の好意を信じ、好きで好きでしょうがなかったので6、7回も社台ファーム千歳牧場に足を運んで買ってもらったのがサクラサニーオー(京王杯、アルゼンチン共和国杯)である。
「姿が良かった。父馬パーソロンの性格の良さと血を引いていたんです。ちょっと細目でサクラさんそんなに好きな体形じゃなかったようです。でも先生がいいというなら、じゃあ買おうと言ってくれた」*156

と、パーソロンの性格は良いと仰っています
また、岡部騎手の別の著作の中でパーソロンの気性について触れた箇所があり以下のように書かれています。

大局的にみれば、パーソロンの穏やかな気性は日本向きといえるかもしれない。馬とのふれ合いでは日本の競馬は残念ながらまだ欧米に遅れている。気性の激しい馬を扱い切れない一面が残っているというのが、ボクの素直な見解だ。気性の激しいタイプは、一日中馬房に閉じ込められる全休日制度のある中央競馬には向かないこともある。ところが、パーソロンのような温和で忍耐強い性格はそういった逆境を克服できるのだ。*157


もし当時の優駿などで「パーソロン産駒は気性難である」などの記事をお知りの方はお教えください。

おまけ
ダジャレ
こぼれ話ですが野平師の著書には以下のような逸話があります。(複数の著作に書いてあるのですが引用元はとりあえず1冊にしました)

余談になるが、和田さんと麻雀の卓を囲むときはきまって"パーソロン"ルールだ。つまり、どんな形であれ、八索(パーソー)で上がれば、決まって一翻高くなる。パーソ・ロンというわけだ。*158

座右の銘の時の冗談といい2代目のギャグセンスはかなり…その……

引退後のルドルフに「ギャロップダイナ」と言ってみると…?

ルドルフ_引退後_ギャロップダイナ.jpg*159
優駿編集部の人員で日高各地へ取材を行った時の記述だそうです。

別ページ

ページ冒頭でも一応書いてるんですが、字数制限のために書ききれない事を別ページに記載しています。
気付かない人がソコソコいるようなので再度ここでも書いておきます。

このページから飛べる別ページ

シリウスに直接かかわらない海外遠征の当時の事情などは 海外遠征 のページに纏めております
シリウスに直接かかわらない、当時のシンボリ牧場・2代目に関しては 牧場 のページに纏めております

終わりに

もう亡くなった名物オーナー、過去に栄華を誇った名門牧場
面白おかしく話のネタにすると事情通になった気持ちになれて楽しいかもしれません。
でもその話は本当の事でしょうか?どこかで情報が歪められている可能性を考えたことはありますか?その情報の出典元を確認してみたことはありますか?
競馬に限らず資料を探していく過程では、出典とされている物を他の資料と照らし合わせたら食い違う箇所が出て来た事や、出典を辿ったら載っていなかった事例などが存在します。
参考:福井県立図書館のレファレンス事例詳細

もちろんこのページで取り上げた情報が間違っている可能性だってあります、ですから自分が信頼できる語り手の情報を集めてみてください。
集まった情報によってはこのページで載せている事と全く違う結論になるかもしれません。
そもそもこのページを書いている私自身が2代目と桐沢場長に対しては状況や事情は理解しつつも「クソボケがーっ!」って言いながら殴りたい気持ちを抱きながら書いてますからね…

大事なのは「他人から見聞きした情報を疑わずに、検証もせずに人に伝える事をやめる」ことだと思います。
参考:総務省の出してるデマ・フェイクニュース対策のページ

シンボリ牧場は今では4代目が経営しており現在も事業を続けております。
一時は成績に陰りも見られましたが、近年は生産者リーディング50位前後という成績を出しています。
過去の時代の当て擦りを、今を頑張る人たちにするのは止めませんか、人も馬も必死に努力しています。
(もちろん親のやらかしは未来永劫に子孫が贖えという主張の人も世の中にはいるかもしれませんが…)

また、当時の実情を知れば「いつか誰かが解決しなければいけなかった風習」「新しい制度を導入したが故の軋轢」
それらが噴出したという見方もできます。
その矢面に立ったのがシンボリ牧場という一面はあります。

まぁそれはそれとして私自身も

🧠   💥
👴 → 👴
     🐴<👑👑👑👑👑👑👑

という疑念をずっと払拭できていないのも事実ですが…
せめて評価や批判をするならば、人柄なり功績なりをきちんと把握してからにしたいですね。
そして資料を集めれば集めるほど世間でクソミソに言われてるほどか…?という人物像が見えてきたり、
ミル貝やニコ百で事実として述べられてる事柄と矛盾する関係者の証言・記事も出てきたりして誰が嘘をついてるのかよく分からないってのが私の個人的な感想ですね。

過去にいたダービー馬の中の一頭として、競馬史の過去として忘れ去られつつあったシリウスシンボリに光が当たりとても嬉しく思います。
ですがファンならば関係者の書いた本や、優駿での連載などで理解していたシリウスとそれを取り巻くシンボリ牧場の努力、そこから見えてくる2代目の人柄などには一切触れず、当時の資料を当たらずに無責任に憶測を書き連ねることがシリウスのファンにとっては非常に悲しいことである事をご理解いただけたら幸いです。

少なくともこのページを読んでくれた人がこれ以上、無責任な噂話に惑わされなくなる事を願います。

追記になりますが、私は「ウマ娘の二次創作としてならまぁイイんじゃないの」派です。だって映画とかでCIAやアメリカ国防省が悪者扱いされてたからって「現実もそうだ!」とか言い出したら頭おかしい人ですしそんな人いないでしょ多分…現実の牧場や関係者がヒドイやつらなんだ!ってやらなければいいんじゃないですかね…あくまで私の個人的な意見ですが。

参考資料

このページと関連する2ページ(牧場・海外遠征)を含めた計3ページ分の参考資料です。

本類に関してまだ絶版になってない奴はamazonのリンク貼っておきます(中古もアマゾンに稀にあったりします)

<書籍など>

  • JRA60周年記念 60YEARS 名馬伝説 下 絶賛発売中!
  • ルドルフの背
  • 馬、優先主義
  • 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ
  • ミホシンザンの時代~同時代の優駿たち~
  • 月刊優駿 1974年9月号、1984年2月号~1989年12月号、1990年3月号、1990年11月号、2011年10~11月号、2021年8月号
  • グラフ優駿 中央競馬のヒーロー群像  84年~86年号
  • 週刊Gallop臨時増刊号「日本ダービー80年史」
  • 月刊 UMA LIFE 2021年6月号
  • 名騎手たちの秘密 -野平祐二の実戦的騎乗論-
  • 野平祐二の新しい競馬
  • 野平祐二の競馬の極意
  • 騎手伝
  • 馬の背で口笛ふいて
  • 口笛ふきながら
  • ROUNDERS vol.3 「野平祐二」ミスター競馬が教えてくれたこと 絶賛発売中!(リンク先のタグは発行元公式です)
  • 覚悟の競馬論 絶賛発売中!
  • 名馬を読む2 絶賛発売中!
  • 凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち 誰も書かなかった名勝負の舞台裏
  • 競走馬私論 馬はいつ走る気になるか
  • 調教師物語
  • 馬の王、騎手の詩
  • 神に逆らった馬
  • 吉田善哉 倖せなる巨人
  • ウマ娘 シンデレラグレイ 第4巻 絶賛発売中!

<本ページ内の検証で信頼度が危ういとしている参考書籍>

  • 悲劇のサラブレッド
  • サラブレッド怪物伝説

<Webサイトなど>


コメント(何か新しい情報の資料などありましたらどうぞ)

  • コメントの方失礼致します。ツイッターの方で競争生活晩年のシリウスは輪乗りに入れなかった -- 2023-07-01 (土) 21:12:08
  • すみません、途中送信してしまいました。ツイッターの方で競争生活晩年のシリウスは輪乗りに入れなかったとの記述のある雑誌の切り抜きを見つけました。>https://photos.app.goo.gl/5vkMDNED982njkp4A一部しか写っていなかったので理由はわかりませんでした。情報不足で申し訳ございません。 -- 2023-07-01 (土) 21:21:58
    • これは蹴り事件の影響じゃないです?(しかも蹴り癖リボンどうこうの報道されて厩舎の管理体制がズサンと分かった後で) -- 2023-07-02 (日) 10:31:35
  • 加藤和宏調教師がX(Twitter)始めてウマ娘もインストール(!)したのでシリウスのこぼれ話とか出てくるといいですね -- 2023-12-23 (土) 12:36:35
  • 加藤先生がシリウスについてインスタで語ってます
    https://www.instagram.com/p/C11UOXJv_9O/
    我が強くてわがままな馬だったけど欧州から帰ってきたら少し人を怖がるようになっていたそうです -- 2024-01-08 (月) 18:27:37
    • あとこれはノルマンディーの懇親会で加藤先生と話した人のブログです
      ブログなので信憑性は微妙かもですしもう読んでおられるかもですが
      https://ameblo.jp/yabubu56/entry-12552498865.html -- 2024-01-08 (月) 18:43:18
    • コメントありがとうございます。本文中の「帰国後」の項目ですでに当時の本からの引用として『怯えるようになっていた』という加藤騎手のインタビューを引用しています。併せて、同じく当時のコメントとして牧場を訪れた優駿記者の「フランスで見たときよりも堂々としていた」という記述も載せております。また、シリウスの気性については全く正反対のことを言う人が複数存在するため判断は難しいと思っております。 -- 2024-01-08 (月) 18:52:43
  • 舌が千切れてたとか割と重要な情報だと思うのですがこの部分を引用しなかった意図は何ですか?あと別件ですが最早このページ最早wikiwikiの仕様から可読性がアレなので別ブログかHPか何かに書いたほうがいいのでは…? -- 2024-01-08 (月) 19:47:53
    • 舌ついての言及はブログの記事で加藤騎手のインタビューではなかったですね。申し訳ありません。 -- 2024-01-08 (月) 20:58:17
    • その部分は私の時間が出来たら追記します…すぐに追記するのは無理なのでその辺りはご理解いただきたいです…
      可読性は私は関与できない事です。ブログは色々と試してみましたがそもそも1ページで複数のものごとをまとめるのに向きません。日本に存在するブログは基本的に日記のような用途で使うのが良いと思っております。HPに関してはサーバー代とドメイン代をどう捻出するかが問題だと思っております。またウェブに詳しい競馬友達に相談したところ、「ドメインを借りた人の情報は調べればわかるので最悪刺される覚悟でやったほうがいい。申請すれば隠すことはできる。」と言われました。コメントをしてくださった方がドメイン代やサーバー代をずっと負担して下さりレンタル情報も代理して下さるというのなら渡りに船ですのでお願いしたいですがいかがでしょうか? -- 2024-01-08 (月) 21:00:14
      • 自分で追記しておくと「英語だったら無料のブログ形式でもいいのあるよ」と言われましたが私は英語読むのどっちかというと嫌いなので日本語以外は無理です! -- 2024-01-08 (月) 21:02:27
      • GoogleSiteって無料だしだいぶ安全じゃありませんでしたっけ?他にも無料のHPサービスはありますし…。「」wikiとはいえwiki形式のサイトで半ば私物化したページを作っておいて喧嘩腰なのはいかがなものかと思いますし、過剰な個人情報保護の要求はいくらなんでも… -- 2024-01-08 (月) 21:24:38
      • 無料のHPサービスも2~3個試してみたのですが望んだ形では無理でした。自分望んだ形に作れないかと思って相談したところサーバーとドメインを借りろと言われました。
        半ば私物化といいますが別に他の人が触るななんて私は一言も言ってませんよ…イタズラでページの冒頭を書き換えられた時(2021-10-23 (土) 00:32:52のクンリニンサン連絡ページ参照)はクンリニンサンにお願いしましたが…さっきのスレで触るなとか言ってるアホが暴れてたのは見ましたが私は放置してたので見かけても放置でお願いします。ページ書き換えがあった時もスレでお願いしましたが騙りがいるようですので。 -- 2024-01-08 (月) 21:34:48
      • 他の人が触るなと言ってないからといって事実上私物化していることは否定されないとは思いますが…まぁここは人それぞれですね。しかしよく考えたらwikiwikiがベストなら個人でwikiwiki借りるのが手っ取り早いのでは?何かあったときクンリニンサン介さず自分で管理できますし -- 2024-01-08 (月) 22:05:29
      • ほぼ私しか触らないページはこのシリウスのページ以外にも10ページ以上あるので今さらだと考えてます。(他ページも私の思いつきでほぼ私しか編集しない立派な私物化ですし)
        このコメントの冒頭で書きましたことですが再度書かせて頂きます。このページを作った理由を尋ねられた時にこう返信しました。
        「何故でしょうね…?おそらくは私が匿名掲示板はimgしか見ないからだと思います。そして世間に一度広がりきってしまったイメージというモノの前では、きちんとした証拠や比較検証を元にした意見というのは殆ど意味がないという事を何回も見たり体験しております。だからせめて奇跡的に治安がとても良い状態で競馬を語れて自分が見てるimgだけでも…という気持ちが強かったのだと思います。あとニコ百は基本的に出展付けない文化ですし、あそこのシリウスのページも基本は世間に流布されてる説が元ですから、人が原型を整えた物の全てをバッサリ訂正するのは作った方が気分を害されるだろうなぁ…と思ったので避けました。」です。
        このコメントを読んでいないでレスされてるのではと考えて再度貼らせて頂きましたが、私の考えはこの時から変わっていません。
        「自分の見てるimgだけでもノイズを減らしたい」です。imgというのが大前提です。以上です。 -- 2024-01-08 (月) 22:20:16
  • 加藤師の名義で『語ったことのない実話書いたので是非』とされているインスタの記述は、ここの編集者が集めたシリウス考よりも確度が高いと見るのが妥当だと思う -- 2024-01-08 (月) 23:35:37
    • 舌の話に関しては時間が出来たときに追記させて頂きますね。「怯えるようになっていた」という話に関してましては、実は既出でして記事中の「帰国後」のところで触れています。併せて、同じく当時のコメントとして牧場を訪れた優駿記者の「フランスで見たときよりも堂々としていた」という記述も載せております。のでそちらも読んで読んだ人ご自身で判断して頂ければ幸いです。もちろん、加藤師が正しく他の情報が間違っていた、と判断するのも読んだ人の自由だと思っています。 -- 2024-01-08 (月) 23:38:02
      • そういった部分的な事柄ではなく『シリウスは気性が荒い…デマの可能性大(当時の資料・複数の関係者の証言より)』から抜本的に間違っている可能性がある。近くで実際に携わった人間の記述と、ここの編集者が挙げている取材などの確度の低い証拠では。加藤師が書いていることがまず正しく、矛盾するここの証拠は総じて価値が低いのではないかということ -- 2024-01-08 (月) 23:44:06
      • 私が当時集めた資料などよりも、加藤師のコメントを重視するのは自由だと思います。ただ、私の考えでは「大人しかった」という意見をあげる人が5人以上発生している場合は偶然や勘違いという風には考えにくいと考えたこと、それぞれの方のプロフィールを見ても嘘をつくような方ではない事、各々の個々の発言に矛盾があるわけではないこと、を考えて「大人しかったと言ってる人が多かった」という観点からデマでは?としています。また、シリウスも調整などはシンボリ牧場で行っていた写真などが残っているため、加藤騎手が頻繁にシリウスに接するためには牧場にいらっしゃる必要があることから考えて、放牧時以外はずっとトレセンに在厩している当時の他の馬とは違う顔を牧場では見せていたのではないか?と考えています。それこそ上で触れたようにシンボリルドルフが接する人によって態度を思いっきり変えていたのと同じ事がシリウスにも起こっていたのではないか…と個人的には考えています。で、人によっては大人しい面を見せて気性が常に荒かったわけではないならノットイコール気性が荒い、と考えております。
        あと、ここから飛べる牧場のページで「なぜ近しい関係者・実際に取材していた人から世評と全然違う人物像が見えてくるのか」というのもやってるのでよかったら読んでみてください。
        あと身内向けwikiなので郷に入っては郷に従ってほしいと思います。 -- 2024-01-08 (月) 23:55:42
      • 繰り返しになってしまうけれど、5人以上などと書いているが、調教にあたった主戦騎手の打ち明け話とでは重みが違い過ぎる。それぞれの都合で5人のお世辞を言った人間が出てくる可能性は普通にある。自説に都合のいい証拠を集めるのではなく、確度の高い情報をまず重視するべきだと思う -- 2024-01-09 (火) 00:00:48
      • こちらも繰り返しになってしまいますが、私が上のコメントで伝えたいのは「ルドルフが接する人によって態度を思いっきり変えていたのと同じ事がシリウスにも起こっていたのではないか…と個人的には考えています。で、人によっては大人しい面を見せて気性が常に荒かったわけではないならノットイコール気性が荒い、と考えております。」の部分です。
        あと再度述べますが、ここのwikiルールに従って「郷に入っては郷に従ってください」 -- 2024-01-09 (火) 00:06:21
      • 例えば、その説よりも、加藤師が『シリウスはそれはもうどんな馬よりも我が強く、ゲート試験に半年かかるような奴だった、入厩からずっとまたがってきた相棒とはいろいろとゴタゴタはあったが、』をまず重視すべきではないかと言うこと。この加藤師の書き方を重視するなら、シリウスが本質的に大人しい馬だったとするのは無理がある -- 2024-01-09 (火) 00:10:15
      • 三度目の警告です。郷に入っては郷に従ってください。
        私はどちらかというと、いろいろと多角的な視点から見た方が対象物の実像を詳らかにできるのではないか、と考えています。人間と馬は同じように、人によって見せる面が違うと考えています。なので、一人の人の意見や一人の人の主観のみで何かを判断するのはとても危うい事(加藤騎手の発言が間違っているということではなくシリウスの見せている顔が違う可能性があるという事)で、資料などは比較検討する必要があると思っています。ので、加藤騎手の言葉のみを受け取るのは資料を比較する観点からするととても危うく、むしろ美浦トレセン以外では大人しい姿を見せていたのでは?と考えています。例えば美浦トレセンでシリウスと加藤騎手以上に接していたはずの厩務員さんは「シリウスには蹴り癖があって2歳時から蹴り癖リボンをつけていた」とされるのに、今のところ残っている複数の写真は反対の事実を示している(もちろん今後これを覆す写真が出る可能性もあります)、などのことがあるため悲しいことですが「接していた時間の密接さ=確度の高さ」とは思えません。そういう矛盾が極度にからまりあってしまっているのが現状だと思いますので、一度このページの他の部分も読んでみて頂ければと思います。 -- 2024-01-09 (火) 00:19:29
      • ちなみにですが、『郷に入っては郷に従う』場合、どのような書き込みをもって、加藤師の証言を位置付けるべきなのですか。参考のために、これをロールプレイして、文章を作成してみてください -- 2024-01-09 (火) 00:25:02
      • 分かっておられないようなのでTOPページにも貼られている:お外の子向け案内を貼らせて頂きます。あとこの場にそぐわないので3回以降は白塗りさせていただきます。私は3回警告を行いましたことをここに記述させていただきます。 -- 2024-01-09 (火) 00:31:22
      • そちらの考察は抜本的に加藤氏の打ち明け話より信頼度が低いのではないか、そちらの自説を繰り返すのではなく加藤師の打ち明け話をまず重視すべきなのではないか、また、『郷に入っては郷に従ってください』と言うのなら、加藤師の話を郷に入っては郷に従いつつ取り込むことを具体的に行うべきなのではないか、といった事柄について、白塗りや警告は回答になっていない。「3回警告した」等の自己正当化に熱心だが、平行線の論からの、白塗りでは、話を逸らした、議論をすり替えた、と考えざるを得ない -- 2024-01-09 (火) 00:41:17
    • 少なくとも、
      ・貼ったお客様向けリンク先をおそらく読んでない
      ・もしくは読んだけど守る気はない、分かってない(?)
      ・再三警告してもルールを守る気がない

      という人から「こっちの方が信用できるはずだ!お前は間違ってる!」って言われましても、やっぱり「多角的な面から見るのって大事なんだな…」という認識を深めてしまいます。以降は暇を見つけたら白塗り対応をします。白塗りにする理由はあなたのコメント自体がルール違反をしているからです。以上です。 -- 2024-01-09 (火) 00:48:55
      • 率直に言って、ルールについてのそちらの主張はもっともなものだろうとは思うけれども、シリウスシンボリの真実と考察というものが最大の関心事なので、そういったルール論・人格攻撃ではなく、郷に入っては郷に従った上で、加藤師の証言も部分的にではなく取り込んだ、再考察を行って欲しい -- 2024-01-09 (火) 00:54:27
      • ルールを守ってください(4回目です)。私の主張は上の「加藤騎手以上にシリウスに接していたはずの」厩務員さんの当時の発言が矛盾してしまったせいで「多角的に見るのが大事」となっていることから変更はありません。あとこのページの上にも書いていますが「私はそもそも諸説ある過去の事柄を事実と断定するのはどれだけ証拠がそろっても「可能性が高い」としか言えないと思っておりますが」という考えですので、真実は永遠に明らかにならないと思っています。そもそもたった一つの真実なんてあるんでしょうか?というのがこのページの主旨ですので、そこは押さえておいてほしいです。 -- 2024-01-09 (火) 00:56:30
      • 付け加えたくなってしまうのは、真実はわからないというのはもっともだけども、このページの記述は『デマの可能性大』のような、自説ではない説を「デマ」とし「非真実」と位置付けることによる、自説を真実であると主張するものとなっていて、『真実は永遠に明らかにならないと思っています』とは自己矛盾していると思う -- 2024-01-09 (火) 01:11:30
      • ルールを守ってください(5回目です)。そうですか、私はしっかりした立場の方々複数人がJRA発行機関誌に載せている言葉も無視できないと思っております。 -- 2024-01-09 (火) 01:14:22
      • 無視できないのは良いけれど、『デマ』ってのは「嘘だから無視しろ」というニュアンスにしか読めないので、自説に有利な証拠は『無視できない』、自説を傷つけるものは『デマ』では、『真実は永遠に明らかにならないと思っています』という姿勢とは裏腹な執筆態度になっており、自己矛盾していると思う -- 2024-01-09 (火) 01:18:04
      • 6回目です。私は「嘘だから無視しろ」という意図じゃないので勝手に行間から主張してないなんらかのニュアンスを読み取っておられるようですね。ずーっとルール違反を続けて挑発するような言葉遣いを改める気はないようですので、申し訳ないですが主張は以降はスルーさせていただきますね。 -- 2024-01-09 (火) 01:23:46
      • はっきり言っておきますが、挑発の意図はありません。それこそ、「意図じゃないので勝手に行間から主張」に該当すると思います。また、「デマ」で辞書を検索してみると、『1.事実に反する扇動的で謀略的な宣伝。2.いいかげんな噂話(うわさばなし)。流言。』と出てくるので、これは当然、「嘘だから無視しろ」というニュアンスが出ると見なすべきでしょう -- 2024-01-09 (火) 01:31:40
      • ルールを守れと5回警告しても聞かないで使ってはいけない言葉遣いをする時点で私はずーっとイライラしてました。 -- 2024-01-09 (火) 01:39:16
      • お詫びします。申し訳ありませんでした -- 2024-01-09 (火) 01:49:39
  • 横槍ですが、騎手の方だけがお馬さんに関わっている訳ではないと思うので、今回のことについては"加藤師視点の情報が増えた"以上のことは起こっていないと思います。元騎手の方からお話が出たから他の関係者の方のお話の信憑性が薄れるなんてことは無いと思いますし… -- 2024-01-09 (火) 06:36:55
  • シリウスのリボンについて、シリウスの主戦騎手の方から追加情報です→ https://twitter.com/yukishir0623/status/1745447528257159636 -- 2024-01-14 (日) 20:36:40
    • コメントありがとうございます。時間が出来たら追加させて頂きますね。帰国後は付けてて毎日王冠の時に付け忘れ、それ以降は付けてるという認識で大丈夫ですかね(そうではなくずっと付けてるならリボンが見当たらない若駒時の写真は全部角度が悪くて見えてないだけ?) -- 2024-01-15 (月) 09:03:48
  • シリウスの海外遠征に同行された榊原厩務員のインタビューがありましたのでお知らせしておきます。→https://tospo-keiba.jp/breaking_news/42017 シリウスがメインではないので新規情報は少ないかもしれませんがシリウスに託された期待の一端がうかがえますので一応 -- 2024-02-15 (木) 22:27:35
    • ありがとうございます、GW頃に時間ができると思うので追加させて頂きます -- 2024-02-16 (金) 16:15:06
  • すみフラ、シリウスさんの1986年の国際クラシフィケーション・レーティング117ポンドについて、この値がどのレースのパフォーマンスを評価されたものなのかについて分かる私いますかね? 『優駿』1987年2月号で石川さんが「欧州古馬2000メートルの18位」と言ってるやつですが、この記述が事実なのかについての疑問が若干ありまして……
    本当は自分で当時の速報誌やタイムフォーム年鑑のような資料なりを見て確かめるべきなんですが、もし詳しい私がいるのならと思ってお伺いさせていただきます -- 2024-02-20 (火) 12:51:36
    • シリウスさんの公式レーティングについて自己解決したのでここにも報告しておきます、TimeformのRacehorses of 1986, p.971を取り寄せて見てみると、シリウスさんの1986年の国際クラシフィケーション・レーティングは距離区分[11,14)ハロン、すなわち今で言う距離区分Lの117ポンドでした
      石川ワタルさんの『優駿』1987年2月号、164頁には「欧州古馬2000メートルの18位」という説明があるわけですが、それはミスで、本当は「2400メートル」のように書くべきところだったようですね……でもって区分Lに限定してこの年の戦績を探すと、1986年凱旋門賞14着のパフォーマンスは同11着のイアデスさんが120ポンドであることを踏まえると流石に117ポンドには達せず*160、やはりこれはフォワ賞2着によって与えられた117ポンドかなといった感じに思われます -- 2024-03-07 (木) 12:49:14

*1 引用している箇所のサンプル形式です
*2 優駿1985年8月号113P
*3 優駿1985年8月号76P
*4 優駿1985年8月号194P
*5 名馬を読む2、83P
*6 野平祐二の競馬の極意159P
*7 野平祐二の競馬の極意22P
*8 優駿1985年7月号135P
*9 グラフ優駿 中央競馬のヒーロー群像 85年号20P
*10 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ 70P
*11 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ 75P
*12 ウマ娘 シンデレラグレイ第4巻172P
*13 ウマ娘 シンデレラグレイ第4巻172P
*14 優駿1985年7月号135P
*15 60YEARS 名馬伝説 下 111P~112P
*16 優駿1985年7月号55P
*17 優駿1985年9月号56P
*18 優駿1985年10月号181P
*19 優駿1985年9月号58P
*20 優駿1985年9月号58P
*21 優駿1985年10月号89P
*22 「悲劇のサラブレッド」176~177P
*23 優駿1988年7月号167P
*24 ROUNDERS vol.3 「野平祐二」ミスター競馬が教えてくれたこと 23~24P
*25 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ 89P
*26 優駿1986年1月号47P
*27 優駿1984年3月号44Pにて記者3人が記載
*28 1985年6月号55Pにて記載
*29 岡部騎手の著作「ルドルフの背」P48~49
*30 再録:60YEARS 名馬伝説 下
*31 優駿1985年6月号55P
*32 優駿1985年8月号198P
*33 優駿1985年8月号198P
*34 優駿1985年3月号44P
*35 優駿1985年4月号118P
*36 優駿1985年7月号135P
*37 優駿1985年5月号136P
*38 優駿1985年7月号135P
*39 優駿1985年6月号55P
*40 優駿1987年7月号58P
*41 1985年4月号2~3P
*42 1985年4月号41P
*43 優駿1985年9月号55Pより
*44 吉田善哉 倖せなる巨人17P
*45 60YEARS 名馬伝説 下
*46 グラフ優駿 中央競馬のヒーロー群像 85年号32P
*47 60YEARS 名馬伝説 下
*48 北海道沙流郡シンボリ牧場場長
*49 優駿1985年8月号P135
*50 グラフ優駿 中央競馬のヒーロー群像 85年号12P
*51 週刊Gallop臨時増刊号「日本ダービー80年史」160P
*52 週刊Gallop臨時増刊号「日本ダービー80年史」160P
*53 優駿1985年7月号44P
*54 優駿1985年7月号45P
*55 優駿1985年7月号45P
*56 優駿1985年9月号57P
*57 優駿1985年9月号58P
*58 優駿1985年8月号142P
*59 優駿1985年10月号89P
*60 優駿1985年9月号11P
*61 優駿1986年11月号164P
*62 優駿1985年9月号5P
*63 ミル貝では和田氏と吉田氏って犬猿の仲って書かれてますけど後々犬猿の仲になるってことなんですかね…?
*64 「ルドルフの背153~154P」
*65 優駿1985年9月号57~58P
*66 優駿1985年9月号55Pより
*67 優駿1985年9月号56Pより
*68 優駿1985年8月号36Pより
*69 優駿1985年9月号55Pより
*70 優駿1985年9月号35Pより
*71 「ルドルフの背」153P
*72 優駿1985年9月号57P
*73 2000年からはG1に昇格しています
*74 1986年からはG2、1990年からはG1に昇格しています
*75 現在ではG2
*76 現在名:ヴィンセントオブライエンS、1985年からはG1に昇格
*77 優駿1985年9月号103P
*78 現在はG2
*79 現リステッド
*80 現在はG1
*81 優駿1985年9月号、151Pの海外ニュースコーナーの情報「レースはレインボークエストのペースメーカー、オーガストの逃げで始まった。これがびゅんびゅん飛ばす。勝負は全く度外視して、差し脚が身上の僚馬に有利なレース展開になるよう逃げまくる。英国では、こういう厩舎作戦が許されているのだ。」
*82 優駿1985年9月号151P
*83 現在はG1
*84 文中だと13頭ってなってるんですが記録上は12頭ですし他ページのレース結果も12頭と書いてるので誤字と判断して直してます
*85 優駿1985年9月号7P~8P
*86 「ルドルフの背」154~156P
*87 勝ち鞍…コロネーションC(英G1)、キングジョージ(英G1)など
*88 優駿1985年9月号103P~104P
*89 当時は30度を越えたら猛暑だったらしいです
*90 優駿1985年9月号3~5P
*91 優駿1985年9月号44P、特集「英・仏・米の競馬場ガイド 当世最新海外競馬事情」より
*92 優駿1985年9月号57P
*93 優駿1985年9月号59~60P
*94 優駿1985年10月号 表3
*95 グラフ優駿 中央競馬のヒーロー群像 85年号32P
*96 優駿1986年1月号61P
*97 優駿1986年6月号69P
*98 優駿1987年7月号103P
*99 「悲劇のサラブレッド」176~177P
*100 優駿1988年7月号167P
*101 優駿1985年7月号12P
*102 優駿1985年9月号5P
*103 優駿1985年7月号55P
*104 優駿1985年7月号6P
*105 グラフ優駿 中央競馬のヒーロー群像 85年号32P
*106 優駿1989年5月号170P
*107 月刊 UMA LIFE 2021年6月号11P
*108 優駿1985年7月号176P
*109 優駿1985年9月号56P
*110 優駿1985年8月号P125の俳句投稿コーナーでの評より
*111 優駿1985年7月号1P
*112 「ルドルフの背」64P
*113 「勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ」71P
*114 神に逆らった馬375~376P
*115 優駿2011年11月号21~22P
*116 優駿1985年8月号204P
*117 「ルドルフの背」180Pより
*118 「競走馬私論 馬はいつ走る気になるか」100P
*119 優駿1985年9月号55~56P
*120 優駿1985年9月号172P
*121 優駿1985年12月号165P
*122 優駿1986年2月号173P
*123 優駿1986年4月号173P
*124 優駿1986年7月号173P
*125 優駿1988年10月号165P
*126 「名馬を読む2」85~86P
*127 調教師物語661~662P
*128 競走馬私論 馬はいつ走る気になるか 102~104P
*129 日本経済新聞「急増する新規馬主 夢と感動、「心の損益」プラスに」
*130 「名馬を読む2」84~85P
*131 優駿1988年11月号167P
*132 優駿1986年2月号123P、有馬記念勝利馬シンボリルドルフの血統記述より
*133 優駿2011年11月号21P
*134 優駿1985年7月号60P
*135 優駿1985年5月号174P
*136 優駿1986年2月号177P
*137 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ 88P
*138 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ 88P
*139 ルドルフの背164P
*140 優駿1985年5月号82P
*141 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ 89P
*142 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ 89P
*143 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ 89P
*144 競走馬私論 馬はいつ走る気になるか 79~80P
*145 ROUNDERS vol.3 「野平祐二」ミスター競馬が教えてくれたこと 23~24P
*146 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ 89P
*147 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ 87P
*148 ルドルフの背 62P
*149 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ 88P
*150 勝つことに憑かれた名馬 シンボリルドルフ 4P
*151 「ルドルフの背」10~11P
*152 「ルドルフの背」102~108P
*153 「ルドルフの背」30~32P
*154 「ルドルフの背」54~61P
*155 「ルドルフの背」121~126P
*156 調教師物語47P
*157 馬、優先主義21P
*158 野平祐二の新しい競馬 118P
*159 優駿1989年8月号97P
*160 個人ブログですが、大体同じことを考えている人が居たので参考のために紹介しておきます。