概要
柴 田 政 人。寿司屋「政」の大将。相談役は甥
大僧正やヨーイチさんと同期であり「馬 事 公 苑 花の15期生」と呼ばれる
中々ダービーを勝てないトップジョッキーの一員だったが、1993年にチケゾーと共に獲得した話は競馬史の中でも有名エピソード
その前のダービーに関する苦労談としては
- 69年(初挑戦)のダンデイボーイで、結果は23着(28頭立て、1頭競走中止)に終わった
- 70年のアローエクスプレスはクラシック三冠挑戦前に無念の乗り替わりで主戦を降ろされた*1
- 75年のロングホークは稀代の逃げ馬カブラヤオーには勝てず
- 78年のファンタストで皐月賞を勝ちクラシック初制覇したものの、ダービーは10着に敗れた
- 84年は実はルドルフの主戦になる予定*2があったが、彼が夏の新潟でデビューすることになったため夏場そこを主戦場にしていた大僧正に明け渡すことになった
なお、この年のダービーはトウホーカムリという馬に騎乗して、12着だった - 85年のミホシンザン*3は本当に大チャンス…だったのだがケガにより出走できず
- 88年はコクサイトリプルで挑んだが、相手がサクラチヨノオーでは分が悪く3着
- 89年はダービー馬クライムカイザーの仔マイネルブレーヴで挑む。2番人気だったが7着に終わる
- 91年はイイデセゾンで3着。トウカイテイオー相手ではもっと分が悪すぎた
- 92年はアサカリジェントで出走の予定だったがまたケガで挑戦すらできなかった
といった苦労の歴史がある
ちなみに「ダービーを勝ったら引退する」は「ダービーを勝てたらもう騎手をやめてもいいというくらいの気持ちで臨む」という発言が曲解されたもの*4結局ダービー制覇から1年もしないうちに落馬のケガで事実上引退となったが……
引退後は1000勝ジョッキー特典の一次試験免除を経て調教師となるが、重賞すら勝てず黒歴史。*5
厩舎にばししゅーが10年近く所属していて厩舎所属時代にビートブラックでG1制覇していたため、調教師ではなく競馬学校の教師としてだったらやれてたかもしれない*6
柴田人
現役時代の馬柱でこう書かれていた*7
理由としては、当時柴 田 政 見*8騎手がおりその区別として書かれていたのだが、初めて見た方には物凄くインパクトがあっただろう。
また、奇妙な略し方に関しては同じ一族の柴 田 不 二 雄がおり、こちらは「柴田不調教師*9」とされていた
主な騎乗バ
全戦騎乗は太字
ウマ娘
- イナリワン*10(1989年有馬記念、1990年天皇賞(春)2着)
- ウイニングチケット(1993年東京優駿)
非ウマ娘
- アローエクスプレス(1970年京成杯)
- ファンタスト(1978年皐月賞)
- プリテイキャスト(1980年天皇賞(秋))
- ブロケード(1981年桜花賞)
- キョウエイプロミス(1983年天皇賞(秋)、1983年ジャパンカップ2着)
- ミホシンザン(1985年皐月賞、1985年菊花賞、1987年天皇賞(春))
- パーシャンボーイ(1986年宝塚記念)
- フレッシュボイス(1987年安田記念)
- カリブソング(1990年フェブラリーH、1991年金杯(東)、1991年目黒記念、1991年天皇賞(秋)2着)
- ホワイトストーン(1990年セントライト記念、1990年菊花賞2着、1993年AJCC)
など