1 
夕刻から降り始めた雨は、いっこうにやむ気配がなかった。
六月上旬,コンフェイト公国は乾季に入っているはずなのに。ゆかりに会いに来たあきらが、日本から梅雨雲を連れてきたかのようだった。
「お誕生日おめでとう、ゆかり」
ベッドに並んで腰掛けたあきらが,プレゼントの小箱を手渡す。勧められるままラッピングを解くと、中からガーネットのピアスが現れた。
「本当はペアリングにしたかったけど,スイーツ作るとき、はずさないといけないでしょ。わたしも、実習が始まったら指輪できないだろうし」
ゆかりは照明にピアスを透かした。あきらを彷彿ほうふつさせる赤い石が、光を反射して輝く。
「そのピアス、ずっとつけていてほしいんだ」
軸ポストに「A to Y」の刻印を見つけ、ゆかりは小さく笑う。赤い石も刻印も、まるでゆかりを束縛する鎖のようで。でも、それは嫌なものではなく、むしろゆかりの心をときめかせた。
「とってもきれいね。ありがとう、あきら」
ゆかりは髪を耳にかけ、つけていたピアスをはずす。
「これ、あきらがつけてくれる?」
真新しいガーネットのピアスを、あきらは慎重にピアスホールにさした。息を潜ひそめた彼女から緊張が伝わってくる。熱い指先と冷たい金具が同時に耳に触れた。
「よかった。すごく似合ってる」
安堵あんどの息をついたあきらは、はにかみながらこう続けた。
「わたし、ゆかりとおそろいのピアスしてみたいんだ。ゆかりが赤でわたしが紫」
「でもあなた、ピアス開けてないじゃない」
「だから今から、ゆかりに開けてもらおうと思って」
あきらは立ち上がり、スーツケースからピアッサーを取り出してきた。
「いいの? わたしがやっても」
「ゆかりにやってほしいんだよ」
あきらの言葉に、胸の鼓動が早くなる。大切な人の体に傷をつけることはちょっぴり怖くて、でも、めまいを覚えるくらい魅惑的だ。
消毒液をしみこませたコットンで、あきらの耳たぶをていねいに拭く。
高校生の頃からずっと、ゆかりはこの耳たぶを軽く噛むのが好きだった。けれど、ピアッシングしたらもう、次に会うときまでそこに触れることはできない。
しんと静まったゆかりの部屋に、雨音が忍び込んでくる。
「じゃあ、開けるわよ」
ピアッサーを耳に当て、指に力を入れる。バチッと大きな音がして、きつく閉じたあきらのまぶたが震えた。
紫のスワロフスキーをはめ込んだファーストピアスが、あきらの耳で光る。
「痛い?」
そっと頬に触れながら訊ねると、あきらはゆっくりと目を開いた。
「うん、だんだん痛くなってきた。……でも、これでしばらくは、いつもゆかりのこと近くに感じていられそう」
幸せそうにほほえみ、あきらはゆかりの肩に頭をもたせかけた。
(最高の誕生日プレゼントね)
遠く離れていても、ゆかりの存在は傷や痛みとなって、あきらの体に残るのだ。
「梅雨どきだから、化膿かのうしないようにちゃんとケアするのよ」
髪を撫でながらそう言うと、あきらが苦笑した。
「わかってるよ。ゆかり、わたしが医大生だってこと、忘れてない?」
雨のにおいと、かすかな血のにおいが混じり合う。
耳たぶに舌を這わせたい衝動を抑え、ゆかりはあきらの頬に、唇に、首筋に、キスを落としていった。
無防備に首を反らし、あきらが呟く。
「ファーストピアスって、いつはずせるんだろう」
「三か月後くらい……。ちょうど、あなたの誕生日頃かしら」
セカンドピアスはわたしがプレゼントするわ──。そうささやき、ベッドにあきらを横たえる。
ゆかりが贈るピアスも、あきらを縛る鎖。
「Y to A」の刻印をほどこしたアメジストのピアスを持って、九月、ゆかりはあきらに会いに行く。
2 
ファーストピアスをはずしたとたん、体の一部が欠落したように感じるから、慣れとは不思議なものだ。
三か月前、コンフェイト公国で開けたピアスホール。真剣な表情であきらの耳たぶを確認していたゆかりは、満足げにほほえんだ。
「よかった。きれいに開いてるわね」
その時約束した通り、ゆかりは誕生日プレゼントのセカンドピアスを持って、あきらの大学がある町にやってきた。
あきらが彼女の誕生日に贈ったものと、同じデザインのピアス。
ゆかりのピアスは真っ赤なガーネット、あきらのものには紫のアメジストがはめ込まれている。そして軸には、「Y to A」の刻印が入っているはずだ。
セカンドピアスを取り出したゆかりは、ふとなにかを思いついた様子で、それをケースに戻した。猫みたいにくるくる気が変わる。ゆかりのきまぐれは相変わらずだ。
「ピアスつけてくれないの?」
「ええ。その前に、やらないといけないことを思い出したの」
そう囁きながら、ゆかりはあきらの耳たぶを軽くくわえた。彼女の唇の熱さに、思わず吐息が漏れる。
あきらは高校生の頃から、こうしてゆかりに耳たぶを食まれるのが好きだった。鼓膜を揺らすゆかりの息に、少しずつ欲情が入り交じっていくのがたまらない。
ふだん取り澄ましている彼女の、むき出しの本能に触れられるのはあきらだけ。
そして、誰にでもオープンに見えるあきらも、実はまわりに一線を引いて接している。
その境界の内側に入れるのは、あきらが名前を呼び捨てにするふたり──妹のみくとゆかりだけなのだ。
でも、みくとゆかりには、それぞれ見せている顔が違う。たとえば、こんな風にベッドでゆかりとじゃれあっているところなど、決してみくには見せられない。
飽くことなく耳を舐め続けるゆかりが、本物の猫そっくりで、あきらは笑いながら体を離した。
「ねえ、ゆかり。そろそろピアスつけようよ」
「あら。コンフェイト公国ではお預けだったのに?」
ゆかりが上目遣いに睨んでくる。
そういえば、三か月前にピアッシングしたとき、「今回は耳に触れないわね」と、残念がっていたのを思い出す。
すねるゆかりの髪を、あきらは優しく指で梳いた。
「今日はわたしの誕生日だから、わがまま言わせてよ。早くゆかりとおそろいのピアスつけたいんだ」
あきらの素直な要望を聞いて、ようやくゆかりは顔をほころばせた。
「あきらも、ずいぶんかわいいこと言うようになったのね」
出会ったばかりの頃、自分を犠牲にしてまで他人を優先するあきらに、ゆかりはいつも苛立っていた。
「みんなの意見ではなく、あなたの意見は?」とたずねられたこともある。
あれから二年。ゆかりに対しては、やりたいことやして欲しいことを、伝えられるようになってきた。まだ「完全に」ではないけれど。
ゆかりは再びセカンドピアスを取り出し、そっとピアスホールに差し込む。キャッチをはめ、彼女は少しおどけた口調で言った。
「はい、おそろいのピアスのできあがり」
ふたりを縛る鎖の、できあがり。
あきらとゆかりは頬を寄せ合い、ルームミラーに顔を映す。
お互いの色の石とイニシャルの刻印は、違う生き方を選んだふたりを繋ぐよすがだ。
一緒にいた高校二年生の頃から分かっていた。どんなに相手のことを想っていても、自分たちは一緒の道を歩むことはできないのだ、と。
あきらは同じ場所に根を張って、みくのための研究を続ける。
ゆかりは、自由奔放に世界を飛び回り、ひとつところに落ち着くことはない。
心は寄り添っていても、視線は違う方向を見ている。それがあきらとゆかりが選んだ在り方だった。
だからせめて、お互いを繋ぐ証を体に刻もうと考えたのだ。
あきらはゆかりに赤い石のピアスを贈り、ゆかりもそれに応えて紫のピアスをくれた。
「あのね、あきら」
鏡の中のあきらを見つめたまま、ゆかりが口を開いた。
「わたし、今年いっぱいで留学は終わりにしようと思うの」
あきらも、鏡のゆかりと目を合わせたまま聞き返す。
「そのあとはどうするの?」
「製菓の勉強を続けながら、お茶とスイーツを絡めたビジネスを始めようと思って。たぶん、日本のあちこちや、海外にも行くことになると思うわ」
興味のおもむくまま、軽やかに世界を渡り歩く。ゆかりらしい生き方だ、と思う。
「日本ではどこに住むの? いちご坂?」
あまり期待しないように、予防線を張りながらたずねた。たぶんゆかりは、あきらと一緒に暮らすことを、選びはしないだろうから。
「東京にいることが多くなるでしょうね。官公庁や企業も、有名なパティスリーも多いから」
東京――ふるさとのいちご坂でも、あきらの住むこの町でもない場所。
――やっぱり、一緒にはいられないか。
落胆が混じらないよう、あきらはつとめて明るく答えた。
「そうなんだ。東京もここからはちょっと遠いけど、コンフェイト公国よりはだいぶ近くなるね」
平気な振りをしてみたものの、ゆかりの目を見ていられなくて、あきらは鏡から視線をそらした。
ゆかりがあきらの顔を覗き込む。
「どうしたの? 寂しい?」
――お見通し、か。
あきらの気持ちを見透かしておいて、こんな質問をするのだから、ゆかりは昔と変わらずちょっと意地悪だ。
「……ゆかりが、ゆかりらしくいられるのが一番だよ」
ゆかりがくすりと笑う。
「それ、質問の答えになってないわよ」
自分でも答えになっていないな、と思う。
本当は、素直に「寂しい」と言ってしまえればいいのだけれど。
だけどそれは、彼女の行動を制限してしまう言葉だ。気ままに動けない生き方は、ゆかりをゆかりでなくしてしまう。
だから、これくらいがちょうどいいのだ。
おそろいのピアスでお互いの心を縛りあって、それぞれ別の夢を追う。つかず離れずの今の距離感が、きっと自分たちにはちょうどいい。
あきらは自分にそう言い聞かせた。
でも、本音を言えば、もう少しだけ、ゆかりと一緒にいられる時間が増えると嬉しいのだけれど。
そんな正直な気持ちを伝えたら、ゆかりはどんな反応をするだろう──。
口をつぐんだあきらの耳に、ゆかりが唇を寄せた。
「ねえ、あきら。家賃は半分出すから、もうちょっと広い部屋に引っ越さない?」
「え?」
「ここは空港も近いし、国際線も国内線も充実しているでしょう。日本の拠点は、この町にしようと思ってるの」
にわかには信じられず、あきらはゆかりの顔をまじまじと見た。
「東京に住むんじゃなかったの?」
「あら、『東京にいることが多くなる』としか言ってないわよ」
すました顔で言われ、肩の力が抜けていく。悪びれもせず、あきらを振り回して遊ぶところも、相変わらずゆかりらしい。
「どういう間取りがいいかしら。わたしたち、生活時間が違うから、それぞれの部屋が欲しいわよね」
ゆかりの思考はもう、留学後の生活に飛んでいるようだった。
彼女が側にいる日々を考えると、あきらの心も浮き立ってくる。ついさっきまで、気持ちが沈んでいたというのに。現金なものだと、自分で自分がおかしくなった。
「ベッドは別? 一緒に寝ないの?」
「夜這よばい方式にしましょ。いつも一緒のベッドより、その方があきらもときめくでしょう?」
古めかしく、ちょっと生々しいゆかりのセリフに、ふたりは額を寄せて笑った。
「そうすると、2LDKがいいかしら」
「いや、2DKがいいな。2LDKだと広すぎて、ゆかりがいないとき、寂しいから」
少し驚いたように、ゆかりが目を見張る。
――ああ、「寂しい」って言っちゃったな。
気持ちが浮ついて、つい口が滑ってしまった。
おそるおそるゆかりの顔をうかがうと、彼女はふっと表情をゆるめ、あきらの頬を両手で包んだ。
「じゃあ、一緒にいるときは、いっぱい寂しさを埋めてあげないといけないわね」
優しく頬に口づけてから、ゆかりはアメジストのピアスごと、あきらの耳たぶを口に含んだ。