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田中角榮

Last-modified: 2015-08-13 (木) 08:50:00
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田中角榮とは~角榮が歩んだ人生の歴史~ Edit

~小学校まで Edit

新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。ただし、長兄は夭逝しており、実質的には7人の兄弟姉妹で唯一の男児(他に姉2人と妹4人)だった。田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・捨吉は農業の傍ら宮大工を業としていた。母は寝る間も惜しんで働き、「おばあさん子」だったという。幼少年時代に父角次がコイ養魚業、種牛の輸入で相次いで失敗し家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ吃音があり、浪花節を練習して矯正した。
1933年(昭和8年)、二田高等小学校(現在の柏崎市立二田小学校)卒業。なお、田中は最終学歴について「中央工学校」卒と公称することが多かったが、彼が学んだ当時の中央工学校は、学制上の学校ではなかった。また田中自身も、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたことがある。小学校時代から田中は勉学にすぐれ、ずっと級長をしていたという。高等小学校の卒業式では総代として答辞を読んだ。

上京~角榮参上!~ Edit

卒業後の田中は土木工事の現場で働くが1か月で辞め、その後柏崎の県土木派遣所に勤めた。旧制中学校への進学は、家の貧困と母の苦労から「気が進まなかった」という。
1934年(昭和9年)3月、「理化学研究所の大河内正敏が書生に採用する」という話が持ち込まれ、それを機に上京する。だが、東京に着いてみると書生の話は通っておらず、やむなく仮寓先としていた井上工業に住み込みで働きながら、神田の中央工学校土木科(夜間部)に通う。その後、保険業界専門誌の記者や貿易商会の配送員といった職に就いた。一時は、海軍兵学校入学を目指して研数学館や正則英語学校などにも通ったが、母の病気の報を受けて実業に志望を変えた。
1936年(昭和11年)3月、中央工学校土木科を卒業し、建築事務所に勤めるようになるが、事務所の主催者が軍に徴集されたため、1937年(昭和12年)春に独立して「共栄建築事務所」を設立する。これに前後して、日比谷のビルで大河内正敏と偶然エレベーターに乗り合わせたことから知遇を得て、事務所は理研コンツェルンからの仕事を数多く引き受けた。
1938年(昭和13年)、徴兵検査で甲種合格となり、陸軍騎兵第3旅団第24連隊への入隊が通知される。1939年(昭和14年)に入営し、4月より満州国富錦で兵役に就く。内務班での私的制裁を古兵から受けたが、夏に勃発したノモンハン事件に古兵が動員されたことに加え、部隊内の事務や能筆といった技能により、上官に一目置かれるようになった。1940年(昭和15年)3月、入営から1年で騎兵上等兵となる。しかし、同年11月にクルップ性肺炎を発症、翌年2月内地に送還される。治癒後の1941年(昭和16年)10月に除隊、除隊翌月に東京の飯田橋で田中建築事務所を開設し、1942年(昭和17年)3月に事務所の家主の娘、坂本はなと結婚した。家主は土木建築業者で、結婚によりその事業も受け継いだ。同年11月 長男正法(1947年9月、4歳で死亡)が、1944年(昭和19年)1月に長女眞紀子がそれぞれ誕生している。
1943年(昭和18年)12月に、事務所を改組して田中土建工業を設立した。理研コンツェルンとの関係も復活し、理化学興業(ピストンリング製造、現リケン)などから仕事を請け負う。田中土建工業は年間施工実績で全国50位入りするまでになった。
1945年(昭和20年)2月、理化学興業の工場を大田(たいでん、テジョン)に移設する工事のため、朝鮮半島に渡る。8月9日のソ連対日参戦で状況が変わったのを察して、降伏受諾の玉音放送前に朝鮮にある全資産の目録を「新生朝鮮に寄付する」と現地職員に渡した。敗戦後の8月下旬に朝鮮半島から引き揚げた。田中土建工業は戦災を免れる。

この先 Edit

いいことたくさんしましたおわり