グループB

Last-modified: 2024-01-20 (土) 16:28:06

グループBは、自動車レースに使用する競技車両のカテゴリーの1つ。
一般の市販車に改造を施す点ではグループAと同じだが、グループAよりも大幅な改造が施せる点が異なる。

 

1981年、FIA(国際自動車連盟)の下部組織だったFISA(国際自動車スポーツ連盟)によって、それまで1から8の数字によって形成されていたレギュレーション(国際自動車競技規則・付則J項)を改定し、AからF・N・Tという8つのアルファベットへ簡略化されたものの1つである。*1グループBはかつてWRC(世界ラリー選手権)のトップカテゴリーとして定められており、1983年から全面的に施行された。*2

 

連続する12か月間に200台製造された車両がホモロゲーションの対象となる。従来のWRCのトップカテゴリーであったグループ4が、連続する24か月間に400台生産することを義務付けていたことから、マニュファクチャラーにとっては大幅な負担軽減措置となった。*3
後に、「ワークスカーとして選手権に参戦する車両となるエボリューションモデル20台をラリーカーとして認める*4」という文章が追加されたことで、この規定を最大限広くとらえた各社ワークス、特にトップクラスの技術を持つワークスの手により、グループBでの選手権は実質限りなくプロトタイプスポーツカーに近い車両、つまり「外観は市販車に似ているが中身はまったく別物の車両」で行なわれることとなった。

 

そのため施行当初から様々な掟破りのマシンが投入され、最終的には、

  • パイプフレームにケブラーやカーボンでできたボディをかぶせ、軽いものでは1トンを切る軽量な車体
  • 500馬力超の強力なエンジンを搭載
  • ミッドシップレイアウト+4WDは当たり前
     

という怪物ともいえるマシンたちが続々と登場することになった。*5その加速力は0-100km/h加速を1.7~2.5秒でこなし、これは1,000馬力とも言われた当時のF1カーをも凌いだと言われている。*6このとにかくパワーとスピードを追求した技術者たち、操縦性もへったくれもないマシンを操るドライバーたち、その暴力的な走りに魅了されたギャラリーたちによってWRCは狂気と熱狂の時代を迎える事となった。

 

しかし極限の速さを求め、行き過ぎた開発競争はやがて事故という形でその危険性が表面化することとなった。

  • 1985年第5戦のツール・ド・コルスで、アッテリオ・ベッデガの運転するランチア・ラリー037が立ち木に激突し、ドライバーのベッテガが死亡。
  • 同年第8戦のアルゼンチンラリーで、アリ・バタネンの運転するプジョー・205ターボ16エボリューション2が下り坂で猛スピードで横転し大破。この時運悪くシートがシャーシから外れてしまい、ほぼシートベルトが意味をなさなくなり車の中で振り回されたことでバタネンは瀕死の重傷を負ってしまう。*7*8
  • 1986年第3戦ポルトガルラリーで、フォード・RS200にてワークス参戦していたヨアキム・サントスが、コース上の観客を避けようとして観客席に時速200キロメートルで突っ込んでしまう。死者3名(一説には4名)を含む40人以上の死傷者を出す大惨事となった。*9
     

ドライバー・観客を死傷させてしまう大惨事が立て続けに起こったにも関わらず、関係者は主催者側の観客整理規則のまずさ等に事態の責任を求め、グループB車両の性能の暴走を認めなかった。*10

 

しかし同年(1986年)第5戦のツール・ド・コルスで決定的な事故が発生する。初日からトップを独走していたトイヴォネンが緩い左コーナーにノーブレーキで突っ込みコースオフ、崖から転落した直後に車両が爆発炎上。トイヴォネンはコ・ドライバーのセルジオ・クレストとともに死亡した。*11このトイヴォネンとクレストの死亡事故で、グループB車両そのものが危険だという事実は誰の目から見ても明らかとなった。

 

FISAはこの死亡事故を受け、緊急に会議を招集し2日という異例の早さで以下の声明を発表した。

  • 以後のグループB車両のホモロゲーション申請を却下
  • 1986年限りでグループBによるWRCは中止し1987年以降は下位カテゴリーであるグループAにて選手権を行う
  • グループS*12計画の白紙撤回
 

これによってグループBは、わずか5年でWRCの主役の座を追われることとなった。*13その後、グループB車両はWRCを追われた後も様々なモータースポーツで活躍することになる。、前述のプジョー206ターボ16はホイールベースを改造*14した改良型の205T16GRをパリ・ダカールラリーに投入し、後継機の405T16GRと併せて4連覇を達成しており、「砂漠のライオン」の異名と共に他チームに恐れられた。
また、アメリカで行われるパイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムに、参加車両に対する制限が無いアンリミテッドクラスが存在する為、現在でもプライベーターがかつてのグループB車両で参加している。かつてはワークス体制で出走したグループB車両も多く、プジョーやアウディなどが活躍した。

 

このようにグループBの廃止により数々のラリーカーたちは歴史の表舞台から姿を消すことになった。そして三菱スタリオン4WDラリーやシトロエンBX 4TC等の悲運のラリーカーを産み出してしまったのも事実である。
競技で使用できなくなった後は行方不明になった車両も多いが、ワークス(の母体となっているメーカー)で僅かに保管されている他、コレクターの手に渡り、ファンイベントでの展示やパフォーマンスなどに用いられている車両もある。*15

 

現在でもホモロゲーション取得用に生産された市販モデル、競技用のモデルはファンの間で根強い人気を誇る。市場に出ようものなら数百万から数千万の値段がアッサリとつくこともある。

 

今日では、グループBのようなマシンが世界選手権を走るのはあまり見ることはできないが先述のパイクスピークヒルクライムや世界ラリークロス選手権では、900kg/900hpや1000kg/700hpといったグループB並のモンスターマシンが暴れまわっている。興味があるなら一度調べてみるのも良いだろう。
また現行のラリー1車両は「市販車の部品はライトぐらいしか使っていない」「直結4WD」「エンジン380馬力+ハイブリッドアシスト140馬力」と、安全面以外は現代に蘇ったグループB車両となっている。

 

・湾岸マキシに登場する車両でグループBに関係する車種

  • SAVANNA RX-7 TURBO SE-Limited (SA22C)*16
  • 911(930) Turbo S*17
  • STARION GSR-VR (A187A)*18
     

・関連項目

  • グループA
  • グループN

*1 グループBはかつてのグループ4の後継にあたる。
*2 1982年は移行期間としての試験導入が行われ、この年は新旧両レギュレーショングループが入り混じって選手権を競った。
*3 FISAは、1970年代の石油危機を契機に選手権参戦から遠ざかりつつあった各マニュファクチャラーに対して選手権への参戦を促すためにこれらの規定変更を行い、目論見通り、各マニュファクチャラーがこぞってWRCに参戦することとなった。
*4 つまり、ワークスとして選手権に参戦する車両はエボリューションモデルを20台を作ればホモロゲーションの対象となるということである。
*5 余談だが、あまりにモアパワー・モアスピードを追求したため、これらのマシンはパワーがありすぎることでタイヤが常に空転状態となり、基本的にまっすぐ走らないといわれている。
*6 その圧倒的な速さから、「公道を走るF1」と言われることもある。ただし、F1カーの低回転域のトルクは非常に細く、停止状態からの加速性能は優れていないことは考慮する必要がある。また、「1986年にヘンリ・トイヴォネンがランチア・デルタS4でモンテカルロ市街地コースを走らせたところ、F1よりも速いタイムが出た」という逸話があるが、これは、トイヴォネンが同コースをF1マシンで出したタイムが、デルタS4で出されたと勘違いされたという誤解である。
*7 ドライバーのバタネンはラリーに復帰するまでに18ヶ月を要し、この間にプジョーはWRCから撤退してしまった。
*8 この時、相次ぐ重大事故が起きたにもかかわらず、グループB車両の危険性を指摘する声は表には出ず、熱狂的な観客たちの支持もあり、発展していくWRCの象徴としてグループBはさらに先鋭化していった。
*9 その後ポルトガルラリーは全マニュファクチャラーが競技から撤退し、残りの日程はプライベーターのみで争われる異常事態となった。
*10 実際に観客側も迫力のある走りをより近くで見ようとしたり、車両を撮影しようとして大きく身を乗り出したりコース上に飛び出すなどの問題行動が多かったようである。YouTubeなどの動画投稿サイトに投稿されたグループBのWRC映像にも、このような観客の問題行動を写したシーンが存在する。
*11 ランチア・デルタS4はアルミ製燃料タンクが運転席の真下にあることと、ボディーが樹脂製でマグネシウムホイールを装着していたことなどから、車両はスペースフレームとサスペンションを残して全焼し、トイヴォネンとクレストは発見時に白骨化していたとも骨すら残らなかったと言われるほどの凄惨さであった。
*12 FIAがWRCをグループBから移行させるために計画した新カテゴリー。参戦メーカーが鎬を削ることによってハイパワーになり過ぎた(開発コスト高騰、安全性も危惧された)グループBの反省から、最高出力を300馬力に制限する一方で、ホモロゲーションに必要な台数を、わずか10台としたことで、より多くのメーカーの参戦を促すとともに、様々なアイデアを生み出すよう考えられていた。もし実現していれば、グループBの発展形…というよりも究極形となると考えられていた。
*13 しかし1987年以降も、プライベーター達の抗議もあって下位クラスの車両は選手権ポイント対象外ながら出走できた。これらの低馬力の「スモール」グループB車両は、ホモロゲーションが切れる1990年代初頭までプライベーターの手により主にヨーロッパのラリーで姿を見ることができた。
*14 マラソンレイド用の巨大なガソリンタンクを搭載するため。他にも夜間走行用にフロントライトの増設、入念な防塵処置等、大幅な改造を施されていた。
*15 中には前述のランチア・デルタS4等のように日本のナンバープレートを取得したものもある。
*16 マツダ・ラリー・チーム・ヨーロッパが参戦のために製作。しかし前述の通り1986年でグループBのWRCが終了したため、製作台数は7台のみにとどまった。ちなみにエアロBを装着するとある程度似せることができる。
*17 ポルシェ・911SC-RSの名前でホモロゲーションを取得している。
*18 フロントを大幅に改造した4WDラリー仕様がホモロゲーションモデルとして作成され、プロトタイプクラスに参戦した。しかし、申請前に新規のグループBのホモロゲーションが取得できなくなってしまい、公式戦に出ることはできなかった。