Pz.Kpfw. III Ausf. J

Last-modified: 2018-02-18 (日) 19:05:10

G10_PzIII_AusfJ.png

Tier 4 ドイツ 中戦車

公式紹介ページ

スペック

車体

HP310
車体装甲厚(mm)70/30/50
最高速度(km/h)64
重量/最大積載量(t)18.0/19.25
本体価格(シルバー)138,000
修理費(シルバー)

戦車パッケージ

パッケージ名
(必要経験値/購入シルバー)
Pz. III/IV
(13,480/315,000)
Pz.Kpfw. III Ausf. J
(3,800/138,000)
PzKpfw IIIJ
(2,05/23,650)
PzKpfw IIIL/M
(5,120/39,520)
PzKpfw IIIN
(4,570/40,000)
Z.W.38(2cm)
(160/3,160)

詳細

パッケージ名エンジン武装履帯砲塔
出力弾種貫通力ダメージ総弾数弾代発射速度
照準時間
精度
旋回速度砲塔装甲旋回速度視認範囲HP通信範囲
Pz.Kpfw. III Ausf. JMaybach HL 108 TR3.7 cm KwK 36 L/46.5PzKpfw-III-Ketten Ausf.JPzKpfw-III-Turm Ausf. E310310
320AP
APCR
HE
40
74
18
36
36
42
1310
2G
6
26.09
1.70
0.46
4030/30/3046330
PzKpfw IIIJMaybach HL 120 TR5 cm KwK 38 L/42PzKpfw-III-OstkettenPzKpfw-III-Turm Ausf. E310415
350AP
APCR
HE
60
96
25
70
70
90
7630
5G
18
24
2.29
0.47
4530/30/3046330
Z.W.38(2cm)Maybach HL 108 TR2 cm Flak 38 L/112PzKpfw-III-Ketten Ausf.JPzKpfw-III-Turm Ausf. E310310
320AP
APCR
39
51
11
11
4003
1G
171.43
1.39
0.44
4030/30/3046330
PzKpfw IIIL/MMaybach HL 120 TRM5 cm KwK 39 L/60PzKpfw-III-OstkettenPzKpfw-III-Turm Ausf. M350710
440AP
APCR
HE
67
130
25
70
70
90
9330
5G
18
24
2.29
0.40
4557/30/3044330
PzKpfw IIINMaybach HL 120 TRM7.5 cm KwK 37 L/24PzKpfw-III-OstkettenPzKpfw-III-Turm Ausf. M350710
440AP
HEAT
HE
43
87
38
110
110
175
7030
5G
38
13.95
2.29
0.55
4557/30/3044330

解説

アプデ3.5にて、名称が「Pz.Kpfw. III」から「Pz.Kpfw. III Ausf. J」に変更。

史実

第一次大戦後の再軍備計画で装甲部隊の創設者ハインツ・グデーリアン上級大将(当時は中佐)が提案した対戦車用戦闘車と支援戦闘車の二種類で、対戦車用戦闘車として開発されたのがPz.Kpfw.III。支援戦闘車として開発されたのがPz.Kpfw.IVである。
ヴェルサイユ条約により軍備に様々な制限を受けていたドイツだが主力戦車であるPz.Kpfw.IIIに秘匿名としてZW(Zugfuhrerwagen-小隊指揮官車)と命名し開発を続け当時としては先進的な技術を取り入れ、1937年に10両のプロトタイプ(15両説もある)Pz.Kpfw.III Ausf.Aが生産された。
その後Pz.Kpfw.III Ausf.B~Dまで改良が続けられたが、Pz.Kpfw.III Ausf.Aと同じくポーランド侵攻後からは実戦部隊から外されていた。
ドイツ装甲師団の中核戦力として構想された戦車であったが、ポーランド侵攻、フランスの戦いで3.7cm KwK 36 L/46.5の火力不足が指摘され、続くPz.Kpfw.III Ausf.E、Fでは5cm KwK 38 L/42の換装が見送られ、1940年7月以降に生産されたPz.Kpfw.III Ausf.Gにようやく5cm KwK 38 L/42が換装された。
だが、バルバロッサ作戦で赤軍の装備していたKV-1・T-34の前に対戦車兵器の威力不足が露呈し、更なる改良が求められたが、砲塔のターレットリング径が小さく、長砲身の7.5cm砲の搭載が不可能であった。
ちなみに、7.5 cm KwK 37 L/24はオーデル河付近での戦闘で、急造砲架に乗せて使用された。
こうして改良の限界を迎えたPz.Kpfw.IIIは主力戦車の座を支援戦闘車として開発されたPz.Kpfw.IVに譲り、1943年にPz.Kpfw.V Pantherの生産が始まると同時に生産が打ち切られた。 生産にPz.Kpfw.III7台分の手間で6台分出来るという、概算が後押しとなったためと、生産が軌道に乗るまで時間がかかり、乗った頃には旧式化していたことが挙げられる。

Pz.Kpfw.III Ausf.E以降の1938年12月~1942年2月を通して4958両の戦車と321両の指揮戦車が生産された。
先進的な技術を取り入れ、後の戦車の戦車の搭乗者の人数の基本を創った戦車ではあったが、一方で実戦で要求された水準に対して、常に火力は不足し、防御力も不十分であったが、主力戦車として、クルスク戦では一番多く投入された。
支援戦闘車として開発され、最後までドイツ軍の主力戦車として戦い続けたPz.Kpfw.IVとは対象的であった。
後にその車体を流用して駆逐戦車StuG IIIが誕生する事となり、多く作られた為に数合わせにPz.Kpfw.V Pantherの代わりとして、部隊に配備される事もあった。

バルバロッサ作戦でT-34との遭遇とその顛末をここで解説をする。
ドイツのソビエト連邦奇襲攻撃作戦の秘匿名称「バルバロッサ作戦」が開始されようとしていた。
目的はアドルフ・ヒトラーの著書『Mein Kampf(我が闘争)』の中で、ドイツ人がより広い生存圏を必要とし、それを東方に求めており、スラヴ人が住む東ヨーロッパの広大な土地から彼らを放逐して、そこにドイツ人の植民地を設けることを企図していた。
当時のソ連はスターリンの大粛清により戦略家や熟練将校を失っていた事やスターリン自身が「同盟者であるヒトラーが密約を破り対ソ戦を仕掛けてくる筈がない」と過度な期待があったとされ、特に「日独伊ソ四国同盟」が締結直前だと信じており、スターリン以下首脳陣の殆どがドイツから戦争をしかけてくるとは思っていなかった。
かくして1941年6月22日。独ソ不可侵条約を一方的に破棄したドイツによるソ連侵攻が開始された。

当時のドイツの主戦力はPz.Kpfw.35 (t)、Pz.Kpfw.38 (t)、Pz.Kpfw.IIIであった。
参加兵力は以下の通りである。

ヴィルヘルム・フォン・レープ元帥率いる北方軍集団(第18軍、第4装甲集団、第16軍)

フェードア・フォン・ボック元帥率いる中央軍集団(第3装甲集団、第9軍、第4軍、第2装甲集団)

ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥率いる南方軍集団(第1装甲集団、第11軍、第6軍、第17軍、ルーマニア2個軍)

6月22日から29日にかけてのミンスクでの戦いに勝利し、7月3日にはハインツ・グデーリアン上級大将率いる第2装甲集団はドニエプル河畔のモギレフに到達していた。
目的は「モスクワへの扉」と称されていた都市スモレンスクである。
ここでソ連は第13、21軍を投入し、激しい戦闘が繰り広げられるが第2装甲集団は勝利し、ついにドニエプル河を渡る事に成功する。
7月8日、第2装甲集団の先鋒がスモレンスク後方で初めてT-34と遭遇した。
戦闘の合間に休憩をしているドイツの前に現れたT-34は1両と伝えられているが、その1両を破壊するのにドイツ軍は多大なる代償を払う事となる。
Pz.Kpfw.IIIの砲撃を跳ね返し、対戦車砲である3.7cm PaK 36も砲撃するもののこれも跳ね返し、対戦車砲陣地を蹂躙した。
尚も前進するT-34をカノン砲である10.5cm sK 18まで持ち出してようやく仕留めたという。
この日以降ドイツの前にソ連はT-34、KV-1、KV-2と次々とドイツを凌駕する戦車を運用し始めたのである。

独ソ不可侵条約締結記念にソ連にPz.Kpfw.III Ausf.Aがプレゼントされたが、ソ連側は「よく出来たオモチャ」だと言い、もっと強力な主力戦車を隠しているに違いないと考えていた。

コメント

  • T-34-85とヘル猫ボコッてレヘバなんちゃら賞を貰った -- 2017-07-23 (日) 21:24:42