Vanquisher Sentinel AC I

Last-modified: 2017-09-05 (火) 13:35:02

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Tier 4 イギリス 中戦車

公式紹介ページ

スペック

車体

HP370
車体装甲厚(mm)65/45/45
最高速度(km/h)60.4
重量/最大積載量(t)27.94/31
実用出力重量比(hp/t)11.83
本体価格(ゴールド)2,200
修理費(シルバー)

パッケージ

詳細

パッケージ名エンジン武装履帯砲塔
出力弾種貫通力ダメージ総弾数弾代発射速度
照準時間
精度
旋回速度砲塔装甲旋回速度視認範囲HP通信範囲
Vanquisher Sentinel AC ICadillac "75" x3QF 2-pdr Mk. X-ASentinel AC ISentinel AC370WS No.19 Mk.II(Aust.)
330AP
APCR
HE
80
121
23
45
45
60
13030
3G
15
26.09
1.90
0.37
4065/65/6544350450

解説

史実

ACはAustralian Cruiser Tankの略でオーストラリアの国産巡航戦車を示しています。 別名センチネル(Sentinel)として作られました。
対日戦に加えて日本によるオーストラリア侵攻まで囁かれるようになった1940年7月、オーストラリア国防省は戦車の量産計画を立て始めましたが、ドイツ電撃戦で壊滅の危機になったイギリスの戦車では能力不足で、おまけに本国も戦車不足のためオーストラリアに戦車を回す余裕も無いと考え、国産化することにして1940年11月に陸軍に設計部を立ち上げました。
要求は重量16~20ロングトン、主砲は2ポンド砲、最大装甲厚50mm、航続距離150マイル、乗員4~5名で、必要数は2,000両と見積もり、1941年7月から週産70両を目標としていました。
オーストラリア国防省はイギリスに設計者の派遣を依頼し、情報収集のため技術責任者のA.チェンバレンがアメリカに送られると共に、イギリスに要請して戦車の専門家を派遣してもらいました。
その人物こそ、機械化(工業化)委員会の委員、W.D.ワトソン陸軍大佐だったのです。
ワトソンは途中アメリカに立ち寄りチェンバレンと会い、アメリカの戦車開発についても研究することができたのをきっかけに、M3中戦車の設計を見学して1940年12月にオーストラリアへ到着、この間、M3中戦車を国産化しようと論議が交わされましたが、製造工場の設備や規模、技術習熟度を鑑みて独自の戦車を作ることが決まり、早速設計に入っています。

AC 1となるのは、50cmの装甲が鋳造または均質圧延鋼板製で、合金素材はオーストラリア産のもののみを使用していて、最大48km/hの快速を狙い最終減速機とギアボックスはM3中戦車のコピーとし、エンジンにはアメリカからギバーソン・ディーゼルの導入を予定したのですが、入手困難であることを考慮して民間車用のフォード・エンジンとキャデラック・エンジンを3基クローバー状に結合したものを使えるようにしました。
モックアップは1941年初めに完成し、4月にアメリカから最終減速機が到着しましたが、オーストラリアの工業力ではコピー生産できず、工作機械を米英から輸入するにも1942年以降となることが判明し、AC 2が提案されました。
しかし、駆動系の能力不足でAC 2が実を結ばずに、並行して開発が続行していた本型の設計に逆戻りし、最終減速機を単純化、ついでにサスペンションもオチキス式水平ボリュート型に換装することにしました。
車体はイギリス巡航戦車をお手本にしており、装甲は鋳造一体構造で、上部構造前面左右に乗員室、中央に車体機銃を持つ。乗員室前面には内開きの視察窓、その上にペリスコープ、上面に両開きのハッチがある。下部転輪は2枚1組でボギーに取り付けられており、ボギー上部には上部転輪1枚が付き、ボギーは片側3基ずつ車体に装着されていて、起動輪は前方、誘導輪は後方にあります。 履帯はアメリカ系ラバーブロック型を採用していました。
車体と同じく英巡航戦車を参考にした砲塔は鋳造製で、側後面に良好な避弾経始を持ち、左上面に前後開きハッチ付きキューポラを装備していて対空用ブレン機銃を追加可能でした。
全長20フィート9インチ(6m37cm)、全幅9フィート1インチ(2m77cm)、全高8フィート5インチ(2m59cm)、戦闘重量62,720ポンド(31.36t)。主砲は2ポンド砲(130発)、副武装は.303ヴィッカーズ機銃2丁(車体、同軸。4250発)。
装甲厚65~25mm。エンジンはキャデラックV-8ペトロル(117馬力)3基、最大速度路上30マイル(48km/h)、路外20マイル32km/h)、航続距離200マイル(320km)。乗員5名(車長、操縦手、車体銃手、砲手、装填手)。
1941年10月に試作車体、1942年1月に試作車全体が完成し、テストを実施して改良を加え、量産初号車は1942年8月にロールアウトしていて、8月から生産車が部隊へ引き渡しを開始しています。
しかし、実際運用してみると各部に問題が発覚した為に、1943年7月までに66両が完成したところで生産打ち切りとなりました。
この頃には、イギリスやアメリカから戦車が供給されて、オーストラリア第1機甲師団に十分な戦車が行き渡るようになったためと、日本軍の南方戦線の弱体化が決定打になり、AC 1は訓練にのみ使用されました。
生産型の量産開始に伴って、AC 1巡航戦車には「センティネル」(Sentinel:番兵、歩哨)の愛称が付与されたのですが、これは、当時のオーストラリアが太平洋戦域で日本軍の攻勢の矢面に立っていたことに由来した命名だったと言えます。
まがりなりにも、重工業国とは言いがたいオーストラリアで日本戦車を凌ぐ戦車を作れた事は評価に値すると言えるのではないでしょうか。
ちなみに、オーストラリアは自動車を作った事もなく自動車メーカーもないとの言われることもありますが、厳密には純国産化をしなかっただけで、1908年に馬具メーカーだったホールデンが自動車修理と内装生産に乗り出し、1930年前後にはGM系傘下に入ってノックダウン生産とオリジナルボディによるコンプリートカーを生産、1920年にはシドニーのトラム車両を製造していて、現在でもGM傘下のオーストラリアチャンネルを担っています。

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