「朝礼を終える前に、一つご連絡があります」
毎朝、職員室で行われる朝礼。
安芸園長の言葉に、私を含めた先生たちの視線が集まる。
「先日、保護者の皆さんから提出していただいたアンケートの集計が終わりました。詳しい内容は後で各自確認してもらいますが、その前にこちらからお話しすることがあります」
アンケートとはこの園に通っている子どもたちのご両親にお願いしたもので、子どもたちの普段の様子などを書いてもらったものだ。
杏先生と一緒に、なかなか提出してくれない千景ちゃんの家まで訪問したのは記憶に新しい。
「実は、いくつかの家庭から我が園の指導についてご意見をいただきました。その点に関して、この場で対応を共有したいと思っています」
つまりは、私たちの指導に何らかの問題があった、ということだ。
園長の話を聞く私たちに緊張が走る。
「それではまず……伊予島先生」
「わ、私ですか?」
指名を受けた杏先生の体がびくりと反応する。
正直、私は驚いていた。
杏先生はどの生徒にも優しく接するいい先生で、あまり大人に心を開こうとしない千景ちゃんも、最近は杏先生には話しかけるようになった。
その彼女に保護者の方からどんな意見が……。
「娘が『伊予島先生がふりふりの服を着させようとする』と訴えてきた、という意見が……土居さんと三ノ輪さんから」
「「……」」
職員室に沈黙が流れる。
「子どもたちと仲良くするのは良いことですが、嫌がることを強要するのは……」
「ち、違うんです!!」
杏先生の初めて聞くほどの叫びに、集まっていた先生が思わずぎょっとする。
「だって、球子ちゃんも銀ちゃんも、本当はとっても似合うんですよ! ふりふり!!」
「……似合うかどうかはともかく、それを押し付けるのは……」
「二人ともふりふりの魅力をわかっていないんですよ! いわば食わず嫌いです! もしかしたら小学校、中学校にあがれば気づくかもしれない! しかし! それでは遅いんです! 小学生には小学生でしかできないファッションがあるように、今だからこそできるファッションもあるんです! つまり! 私はあの二人のふりふりが見たい!!」
……杏先生がここまで熱く語っているのを私は初めて見たし、もう二度と見たくないものである。
「……伊予島先生の持論はよくわかりました。しかし、子どもがどう育つかを決めるのは、伊予島先生ではなくそれぞれのご家庭です。もしそれに従うつもりがない場合は……伊予島先生には今後球子ちゃんと銀ちゃんに近づかないようにし――」
「私が悪かったです二度としません」
あっさりと、杏先生は折れてしまった。
安芸園長は小さくため息をつくと、全員に向き直った。
「伊予島先生は反省なさっているようですし、この件はこれでおしまいにしますが……棗先生、一応しばらくは様子を見ていただけると助かります」
「……承知した」
園長からの要請に棗先生が頷いた。
杏先生もあそこまで言われてまだふりふりを着せようとはしないだろうが、こうして他の先生が監視につけばさらに安心というものだ。
「さて、では次ですが」
「え、まだあるんですか?」
てっきり今のだけで終わりだと思っていた私は、思わずその疑問を口に出してしまう。
もしや、これは全員にダメ出しが来る流れなのか。
「ええ、まだありますよ、風先生。次は……上里先生」
「私、ですか」
ひなた先生が、眉間にしわを寄せる。
ひなた先生も杏先生同様穏やかな性格で子どもたちに人気だが、一方で叱るときはしっかり叱る先生でもある。
怒られた生徒が怖がるようになってしまった、という類のものだろうか、という私の予想は、しかし大きく裏切られることになった。
「乃木さんのところの若葉ちゃんですが、以前『おもちゃを口に入れる癖が直らず困っている』という相談をしたところ、上里先生が非常に親身に聞いてくださった、と。上里先生が指導してくれるようになってから癖も改善されてきていて、とても助かっています、とのことです」
「ふふ、それはよかったです」
「ええ、それだけならば。その代わり、最近はご家族やご友人の指をくわえるようになったそうです」
「「……」」
「幸い噛んだりすることはないそうですが、『ひなた先生の指は甘いのに』などブツブツと言いしばらく機嫌が悪くなるとか。……心当たりはありますか?」
話を聞き始めたときは笑顔だったひなた先生の顔も今や真っ青である。
「その……癖のことでご相談をいただいてから、若葉ちゃんにいろいろと教えていたんですが……おやつのあと、シロップがついた私の指を舐めてからすっかりハマってしまったようで……」
「……では、上里先生の指が甘いというのは?」
「若葉ちゃんがあまりに幸せそうなので……その、ポケットにシロップを忍ばせて、いつ舐めようとしてきても大丈夫なように……」
「今後はしないよう、お願いします」
「…………はい」
またも、安芸園長はばっさりと両断してしまった。
がくりと肩を落としているひなた先生を見ていると、なんだか気の毒に思ってしまいそうになり、あわてて目を逸らす。
「ではこちらも……秋原先生、しばらく経過を見守っていただけますか?」
「はいはい、了解ですよー」
雪花先生が手を挙げて快く承諾した。
……棗先生といい、雪花先生といい、なんだか面倒な仕事を押し付けてしまったようだ。
しばらく二人の分の仕事を手伝ってあげようか、などと考えていると、再び安芸園長が口を開いた。
「これで、保護者の方からいただいた指導に関するご意見は以上です」
どうやら二人以外の先生には、特に問題はなかったようだ。
自分に回ってこなかったことにほっとして、胸を撫でおろしてしまう。
「最後に、東郷先生」
「はい?」
これまで静かに朝礼に参加していた東郷先生に、安芸園長が話しかける。
問いかけられた東郷先生はきょとんとしているあたり、心当たりはないらしい。
「実は結城さんから非常に気になるご意見がありました」
「友奈ちゃんのご両親から……?」
「指導に問題があるというものではありません。『園で過ごす時間はもちろん、休日は家に招いていただいたり、東郷先生には非常に可愛がっていただき、とても感謝しています。今後もよろしくお願いたします』とのことです」
「まぁ……!」
安芸園長からの嬉しい報告に、東郷先生は喜びを隠しきれないといった様子。
東郷先生が友奈ちゃんを特別可愛がっているのは私も知っていたし、ご両親に褒められたとなれば喜びも一入だろう。
……家まで招いたというのは初耳だったが。
朝礼に集まった先生が揃って聞く中、安芸園長の話は続く。
「友奈ちゃんは時間があれば、朝から晩までずっとご両親に東郷先生の話をしているそうです。園でのこと、東郷先生の家でしたこと……いろいろと話してくれるそうですよ。『東郷先生と一緒にお昼寝をした』、『東郷先生にご飯を食べさせてもらった』、『東郷先生にマッサージしたらとても喜んでくれた』、『東郷先生と一緒にお風呂に入った』……」
「もう、友奈ちゃんったら……二人だけの秘密よ、って言ったのに……」
「『私が結婚できるようになったら、東郷先生が迎えに来てくれると言ってくれた』、『東郷先生に大人のキスを教えてもらった』、『東郷先生のおっぱいにたくさん触ると、東郷先生がとっても喜んでくれる』……他にもいろいろあるようですね。結城さんは子どもの言うことだから、と本気にはしていらっしゃらないようですが」
「……」
ニコニコとしたまま固まった東郷先生は、その顔に冷や汗をだらだらと流している。
その反応で、話を聞いていた周囲の人間は、今のが子どもの冗談でもなんでもない話だったことを理解した。
「……いけないことをしている、という自覚があるなら今後は弁えるようにお願いします。それから、一人の子をあまり贔屓しすぎるのは好ましくありません。友奈ちゃんだけを家に招くのも、なるべく控えるようにお願いします」
「…………はい」
杏先生やひなた先生以上に打ちのめされた様子の東郷先生。
しでかしたことのレベルを考えれば甘いくらいの処遇だと思うが、これは友奈ちゃんのご両親が特に憂慮していないというのが大きいのだろう。
「この件に関して、しばらく東郷先生には園での友奈ちゃんの世話を離れてもらおうと思っています」
「そんなっ!?」
項垂れていた東郷先生が勢いよく顔を上げる。
信じられないものを見るかのようなその形相からは、相当の悲しみが伝わってくる。
「しっかりと反省していることがわかれば、一週間ほどで元に戻しますよ」
「さ、最短、で……一週間も……?」
安芸園長は絶望に満ちた瞳を向けてくる東郷先生から顔を逸らすと、私にその視線を向けてきた。
……嫌な、予感がする……なんだか、とても嫌な予感が…………。
「その間、友奈ちゃんのことは犬吠埼先生にお任せします」
お断りします、と全力で叫びたい気分だったが、棗先生や雪花先生が引き受けている以上、私だけが逃げるわけにはいかない。
「……はい、任せてください」
私の返事に頷くと、長引いた朝礼をさっさと終わらせ、安芸園長は職員室を出ていった。
「……ほら、そろそろ子どもたち来るわよ。いい加減泣き止みなさい」
「……ぐすっ、で、でもっ……友奈ちゃん……」
「私も落ち込んでいたのですが、東郷先生を見ていたら自分はまだ良いほうだと思ってしまいました……」
「ひなた先生に同感です……」
玄関に並んで、子どもたちが来るのを待つ。
いつもならば談笑でもしているのだが、今日は雰囲気が重苦しい。
「いやー、これからを思うと、むしろ私は風先生に同情しちゃうけどな~」
「? どういう意味だ?」
「見てればわかると思うよ……ほら、早速きた」
雪花先生の言葉の直後、玄関に本日一番乗りの女の子が突撃してきた。
「おはようございまーす!」
大きな声で挨拶した友奈ちゃんは、そのまま東郷先生の元へとダッシュする。
「とーごーせんせー、おはよ……あれ!? せんせー泣いてるの!?」
なんとか涙をこらえようと努力していた東郷先生だったが、友奈ちゃん本人を見てその努力は脆くも崩れ去ってしまったらしい。
友奈ちゃんは東郷先生のすぐ側へと駆け寄ると、自分の袖で東郷先生の頬を流れる涙を拭う。
「だいじょうぶだよ、とーごーせんせー。とーごーせんせーをなかせるひとは、わたしがやっつけてあげるから。だって、とーごーせんせーは、えがおがいちばんにあうもん!」
友奈ちゃんの微笑みに、東郷先生のみならず、その場の先生全員に動揺が走る。
この子は、もしかして天性のタラシだったりするんじゃなかろうか。
……気は引けるが、任された仕事には責任を持って取り組まねば。
「友奈ちゃん。東郷先生はね、ちょっと疲れてるだけなの。だから、東郷先生がもう大丈夫だよってなるまで、そっとしておいてあげて?」
「え……?」
「その代わり、東郷先生が元気になるまでは、私が友奈ちゃんとたくさん遊んであげる!」
私の言葉に、友奈ちゃんは戸惑っているようだった。
大好きな東郷先生を放っておけないのだ。
だが多少強引でも、これで納得してもらえなければ困る。
「東郷先生のために、ね?」
「……とーごーせんせーのため……」
だめ押しが聞いたのか、最終的に友奈ちゃんはこくりと頷いてくれた。
「よし! 友奈ちゃんえらいぞー!」
友奈ちゃんを抱き上げ、ぎゅっと抱きしめる。
「友奈ちゃん……」
「とーごーせんせー……」
私の肩越しに見つめ合う友奈ちゃんと東郷先生は、まるでロミオとジュリエットのようだった。
「……まるで風先生が悪者のようですね」
「なるほど、そういうことか」
「あはは、だから言ったでしょー?」
他の先生たちの完全に他人事のような会話に、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
……初日の朝だけでこんなに労力を使う任務を、はたして私は何日続けることになるのか。
その答えは、神のみぞ知る。
「……とーごーせんせーより、おっぱい小さい……」
(……頑張れ、私!!)
友奈ちゃんの何気ない発言に心を貫かれ、背中に東郷先生の恨みがましい視線を感じながら、私は自分をひたすら鼓舞し続けるのだった。
結局、東郷先生となかなか遊ぶことができず、日に日に元気がなくなる娘を見かねた友奈ちゃんのご両親の要望により、この措置は一週間も経たずに終了したのだった。