杏先生とぐんちゃんだよ~

Last-modified: 2017-08-05 (土) 01:27:16

夕方になれば、親御さんが子どもたちを迎えに来る。
親御さんに簡単に報告を済ませて、手を降って見送るのも、仕事の一つ。
「せんせーさよーならー!」
「はい、さようなら。
また明日ねー」
横で今生の別れのような表情の東郷先生を置いて─毎日これだから困ったもの─結城さんの家の友奈ちゃんに挨拶をする。
「…ほら、東郷先生、いつまでやっているんですか」」
「うぅ…友奈ちゃん…また、また明日逢える…?」
「あえるよ!」
「嘘!」
「うそじゃない!」
「…本当?」
「うそ!」
「ゆうなちゃああああああああああん!?」
この寸劇ももう毎度の事なので周りも気にしていない。

日もすっかり沈む頃には園児は全員迎えが…いや、一人。
「上里先生、千景ちゃん…」
「あぁ、伊予島先生…。
そうなんです、また…」
千景ちゃんの親御さんは、何時も遅い。
閉園ギリギリの時間になったら来るかどうか、といったことがほぼ毎日。
暴力を受けた様な痕はないが、私達はネグレクトだと確信している。
児童相談所にも報告はしているが、千景ちゃんが何も言わないことと、
親御さんにその意志がないのか、一向に改善する気配はない。

仲のいい高嶋さんの家の友奈ちゃんが帰ってしまうと、何時も一人で、部屋の隅にぽつんと座っている。
私は、上里先生に千景ちゃんの親御さんへの連絡を任せて、千景ちゃんの傍に近寄った。
「…いよじませんせい」
「隣、いいかな?」
しゃがんで、目線を合わせる。
物静かで、自分の世界に閉じこもりがちの子だが、根は優しい子。
千景ちゃんは、コクリと頷いてくれた。
「ありがとう、千景ちゃん。
…親御さんが来てくれるまで、一緒に遊ぼうか」
そう言うと、千景ちゃんは首を振る。
「どうして?先生のこと、嫌い?」
一層強く首が振られる。
「きっとこない…。また、けんかしてたから…」
その顔はとても悲しそう。

チラリと、上里先生に目をやるが、反応は芳しくなかった。
私達のやり取りで察してしまったのか、千景ちゃんは俯いてしまう。
聡い子なのだ、歳不相応に。
優しい子なのだ、周りに気を使わせないように。
それが、とても悲しい。
若葉ちゃんみたいに、もっと快活でいいのに。
タマちゃんみたいに、もっと奔放でいいのに。
自分を殺す事を覚えるのは、まだ早すぎるではないか。
思わず唇を噛みしめてしまう。
「せんせい…?」
千景ちゃんの声にハッと我に返る。
気遣わしげな表情が、心に痛い。
頭を撫でてあげれば、くすぐったげに目を細める様はとても愛らしい。
努めて明るく、声を出す。
「…千景ちゃん、先生と一緒にご本を読もうか」

手に取ったのは、小さい子向けのゲームブック。
東郷先生に色々調べてもらって、購入したものだ。
膝に座らせた千景ちゃんが、興味深げに覗き込む。
「はじめてみる…せんせい、これはなに?」
「これはね、千景ちゃんがお話を決められるんだよ」
イマイチよくわかっていない様子。
「じゃあ読んでみようか。
『きみはかみさまにえらばれたゆうしゃだ。きみのまえにはおそろしいどうくつがある。
そこをすすんでいくと、みぎとひだりにわかれみちがあった。
みぎへいくなら2ページへ、ひだりにいくなら14ページへすすめ。』
だって、どっちに進んでみようか、千景ちゃん」
「…わたしがきめるの?」
頷く。
「じゃあ…ひだり」

それから、千景ちゃんは夢中になった。
やけに勇者が死ぬので─これは後でこの本を選んだ東郷先生を詰問する必要がある─、悔しがって続きをせがむのだ。
気づけば、千景ちゃんの表情から陰はなくなっていた。
「伊予島先生、そろそろ…」
どうやら、親御さんがやっと到着したらしい。
時計を見れば、常識を疑うような時間になっていた。
「千景ちゃん」
声をかければ、千景ちゃんは頷いてくれた。
「…またあした、よんでくれる?」
私は一瞬ためらう。
この本を読むということは、また千景ちゃんが一人で遅くまで残されるということなのだ。
でもここで、断るのは違うと思った。
親御さんの事を話すのも、違うと思った。
「…そう、だね。
うん、二人だけになったらね?」
「つづき、きになるから…。
ほかのひとにさきをこさせちゃ、いや」

千景ちゃんは、右手を差し出してくる。
握られた拳は、小指が伸びている。
「ゆびきり。
やくそくして」
私は頷いて、自分の小指を合わせる。
千景ちゃんの手は、年相応に小さく、とても温かい。
「うん。約束」
「…せんせいのて、あたたかいね」
「千景ちゃんのお手々も、とっても温かいよ」
指切りげんまんをしながら、私は千景ちゃんの幸福を祈らずには居られなかった。
頭を撫でてあげると、照れくさそうに微笑んだ。
親御さんは、千景ちゃんのこんな顔を知っているのだろうか…。

しっかりと指切りをして、親御さんの元へと千景ちゃんを連れて行く。
千景ちゃんは手を握ってくれた。
「…せんせい、きょうはありがとう」
千景ちゃんは、私にそう言ってくれた。
こちらにまるで興味を見せない親御さんに、私は怒りを覚えてしまう。
「…千景ちゃん、その」
「…また、あしたも、ごほんよんでくれる?」
そう言葉にする千景ちゃんの表情は、とても不安げで、今にも泣いてしまいそうだった。
「うん、読んであげるよ」
「ほんとう…?」
「指切りもしたから大丈夫。本当だよ」
東郷先生の寸劇を思い出して吹き出しそうになってしまう。
千景ちゃんも、笑ってくれた。

親御さんの後を追う千景ちゃんを見ながら、私は無力感に苛まれた。
あんなに辛そうな彼女を、私達はどうすることもできないのだ。
「…伊予島先生」
「上里先生…」
上里先生が私の肩を叩く。
「そんな顔をしないでください。
きっと何となります」
そう言って元気づけてくれる上里先生に、私も頷く。
私がへこたれていても、どうにもならない。
「そうですね…。
ああ、ところで東郷先生、あの本の内容なんですけど…」
「あら、何かまずかった…?
やっぱりもっと護国精神溢れる作品の方が…。
待って下さい犬吠埼先生と三好先生まで私は悪くないんです全ては護国のため…」


「…あぁ、赤嶺さんですか、いつもお世話になっております。はい、上里です。
えぇ、園児のご家庭のことでちょっと相談が…」