赤報隊事件

Last-modified: 2025-02-01 (土) 12:28:24

赤報隊事件(せきほうたいじけん)は、1987年(昭和62年)から1990年(平成2年)にかけて「赤報隊」を名乗る犯人が起こしたテロ事件で「朝日新聞阪神支局襲撃事件」とも呼ばれる。

警察庁広域重要指定番号から「広域重要指定116号事件」とも呼ばれた。

記者が政治的テロによって殺害された日本国内唯一の事例とされる。2003年(平成15年)に全ての事件が公訴時効を迎え、2023年時点に至るまで犯人の特定がされていない未解決事件となっている(#時効を参照)*1

事件概要

1987年から翌年にかけて起こった赤報隊テロ事件と呼ばれるものは以下の通り。いずれも未解決である。

【1987】

  • 1月24日 朝日東京本社銃撃事件
    午後9時頃、東京都中央区築地5の朝日新聞東京本社2階の窓などに、散弾銃2発が撃ちこまれる事件があった。しかし、これは当初人に知られることはなく、同年5月に送付された犯行声明文発表を受け、10月1日に弾痕が発見された。
  • 5月3日 朝日新聞阪神支局襲撃事件
    午後8時15分、兵庫県西宮市与古道町の朝日新聞阪神支局に、目出し帽を被り散弾銃を持った男が侵入、2階の編集室にいた小尻知博(29歳)、犬飼兵衛(当時42歳)の2人の記者に2発散弾銃を発射し、小尻さんを死亡させ、犬飼さんにも3ヶ月の重傷を負わせた。目出し帽の男は終始無言、編集室には撃たれた2人の記者の他ににもう一人高山記者(当時25歳)がいたが、彼には目もくれず逃走した。
    5月6日、時事・共同の両通信社に赤報隊と名乗る者から犯行声明文が届く。この中で犯人は1月の東京本社銃撃も明らかにした。1月の朝日新聞東京本社銃撃も明らかにし、「われわれは本気である。すべての朝日社員に死刑を言いわたす」「反日分子には極刑あるのみである」「われわれは最後の一人が死ぬまで処刑活動を続ける」と殺意をむき出しにした犯行声明であった。
  • 9月24日 朝日新聞名古屋本社の単身寮襲撃事件
    午後6時45分ごろ、名古屋市東区新出来にある朝日新聞名古屋本社の単身寮「新出来寮」に侵入、無人の居間兼食堂で、テレビに向けて散弾銃を一発発射し、逃走中に西隣のマンション外壁にも一発発砲した。犯行声明文。

【1988】

  • 3月11日 静岡支局事件
    午前11時から、午後3時の間に、静岡市追手町の朝日新聞静岡支局の駐車場に、何者かが時限発火装置付きのピース缶爆弾を仕掛けた。翌日、紙袋に入った爆弾が発見されたが不発に終わっていた。犯行声明文。
  • 3月11日 中曾根・竹下両元首相脅迫事件
    静岡事件と同じ11日の消印(静岡市内で投函)で、高崎市の中曾根康弘前首相(当時)の事務所と、島根県掛合町の竹下登首相(当時)の実家に脅迫状を郵送した。内容は「靖国参拝や教科書問題で日本民族を裏切った」というものだった。中曽根宛ての脅迫状。竹下宛ての脅迫状。
  • 8月10日 江副宅銃撃事件
    午後7時20分頃、東京都港区南麻布の江副浩正・リクルート元会長宅の玄関ガラスドアに向けて散弾一発が発砲された。犯行声明文。

【1990】

  • 5月17日 愛知事件 
    午後7時25分頃、名古屋市中村区亀島の在日本大韓民国居留民団愛知県地方本部の事務所が入っている愛知韓国人会館の玄関前に何者かが灯油をまいて放火した。火はすぐ消され、窓ガラスを破損したにとどまった。赤報隊による最後の犯行声明文。

【赤報隊とは】

赤報隊は幕末から明治維新にかけて実在した団体である。赤報隊は悲劇の志士たちと一般的に知られている。簡単な概略はいかの通り。
下総相馬郡(現・茨城県南部)の郷士の子ながら、江戸生まれでで、国学者でもある相楽総三は幕末、江戸で倒幕運動に関わったり、幕府の役人や御用証人などへのテロ行為を行っていた。その後、相楽は幕府軍による江戸藩邸焼き討ちをれ、同士とともに京都をめざした。さらに京都で各地の志士たちと合流して、明治維新を目指し、官軍の先遣隊として東進をはじめた。
1868年1月10日、近江・秦荘(現・滋賀県秦荘町)の金剛輪寺で、同士たちと「赤報隊」を結成し、相楽は自ら隊長に就任した。赤報隊は進軍先の各地で「新政府は年貢を半減する」などと約束しながら、美濃(岐阜県)あたりまで進んだが、年貢半減政策を撤回した新政府によって帰還命令がだされ、隊の一部は名古屋を経由して京都に戻った。ところが、相楽たちはそのまま信州方面に進撃を続けたうえ、独断で年貢免除を約束したり、勝手に軍資金を調達したために、官軍側から「ニセ官軍」とのレッテルを貼られてしまう。
3月3日、相楽ら8人の幹部は信州・下諏訪で長野県下諏訪町)で、「官軍の名を騙った」として志半ばで処刑された。残りの隊員たちは一時、長野と群馬の境・碓氷峠まで進軍したが、官軍の討伐により全滅した。
 
1980年代に”復活”した赤報隊は、どんな思いでこの名前を拝借したのだろうか?ある捜査幹部は「権力に利用されたという被害者意識、正当に評価されないという不満。幕末の赤報隊に右翼の心情が重なる」と推測した。ちなみに事件当時、相楽総三の玄孫(孫の孫)にあたる人物(当時48歳)が阪神支局から1kmも離れていない西宮市内に住んでいたことがわかったが、事件とは無関係だった。
赤報隊が結成された滋賀県秦荘町の金剛輪寺は湖東三山の一つで、741年、聖武天皇と行基菩薩により建立された。国宝にも指定されている。境内のはずれに高さ1.5mの碑がある。これは93年、赤報隊の精神に共鳴する民族派が建てたものである。碑には「幕末勤皇 赤報隊顕彰之碑」と書かれている。

それまで赤報隊は幕末の世界が好きな人以外には知る人ぞ知る存在だった。だが1968年頃には「明治維新100周年」として、突然注目されたりもした。歴史小説が復刻され、三船敏郎主演の映画「赤毛」(69年)の題材にもなっている。また90年代半ばにはアニメにもなった「週刊少年ジャンプ」(集英社)の人気漫画「るろうに剣心」(和月伸宏)の主人公・剣心の仲間として赤報隊の生き残りがおり、隊長・相楽が美男キャラとして描かれるなど、10代の多くの若者たちも赤報隊という悲劇の部隊の存在を知るようになった。

【犯行声明分と時代背景】

1987年10月に発覚した朝日東京本社の事件の犯行声明文の差出人には「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」、と書かれてあった。ちなみに他の7件はすべて「赤報隊 一同」としか書かれていない。
82年に政権を発足させた中曾根氏は85年8月15日、公約通り靖国神社に参拝した。78年の第二次大戦A級戦犯合祀以来、首相として初めての参拝となったが、中国や韓国から厳しい批判を浴びたために翌年から見送った。中曾根氏は総理就任当時、その政治信念から右翼関係者らの間で人気があったが、こうした参拝取りやめ事件や教科書問題などで、期待していた失望が大きかったという。失望が怒りに変わるというのはごく自然な流れだ。
85年、読売新聞の論説委員長だった渡邉恒雄氏が主筆となり社論をリードするようになった。渡邉氏は朝日新聞を「左翼新聞」と敵視しており、中曾根氏との親交も厚かった。
87年1月から日本皇民党による竹下首相ほめ殺し事件が起こる。
88年8月の江副宅襲撃事件と同時期に竹下首相が靖国参拝を見送る。
90年、最後の声明文で「盧泰愚(韓国大統領)は日本へ来るな」という旨を書いている。その後、盧泰愚大統領が来日、天皇が日本の加害責任に触れ「痛惜の念」を表明した。

赤報隊の正体

1 新右翼「一水会」説

犯行声明文から疑われたのが右翼・新右翼であり、なかでも真っ先に疑われたのは新右翼団体「一水会」であった。その根拠となったのは最初の東京本社事件の犯行声明文で「日本民族独立義勇軍」と書かれていたことにあった。というのも、この事件から6年前の81年12月から83年8月にかけて、「民族独立義勇軍」を名乗って示威的なテロ攻撃を朝日新聞および米ソ両領事館に対して行った正体不明の組織が存在したのだが、その犯行声明がなぜか「一水会」に送付され、機関紙「レコンキスタ」に掲載されていたことがあったからだ。こうしたことから一水会周辺は警察に徹底的に捜査された。一水会の創設者である鈴木邦男氏は容疑者扱いをれるがシロ、その後赤報隊関連で最も広く深く発言する人物となった。

2 野村秋介周辺説

野村秋介氏は朝日新聞糾弾の急先鋒として知られていた。野村氏は「週刊朝日」の1ページで、自身の「風の会」を「虱の会」と揶揄され激怒、93年10月20日、朝日新聞社に乗りこみ中江社長に謝罪をさせている。その後、そこで拳銃自殺を遂げた。そんな野村氏の周辺にいた人物が朝日新聞を狙ったのではないかとも推測された。野村氏は生前から「右翼にそんな度胸のある奴はいない」と公言し、自らの関与も否定していた。

3 愛知在住右翼説

過去に「赤報隊」と名乗っていた団体が愛知に存在した。その団体は県内在住の某右翼が地元の暴走族出身者ら約30人を集めて結成していたものだった。その右翼幹部は朝日新聞の取材に対し、事件への関与を全面否定しているが、メンバーの動向については回答を拒否した。

4 東京在住右翼説

犯行声明文によると、愛知事件を「中京方面」、阪神事件を「関西」としているが、江副宅の事件では「都内南麻布」と書いている。また、静岡事件の声明文では関西では販売されていない東京新聞を朝日ととも批判する一文がある。このため都内で活動するインテリ系右翼だと推測された。

5 関西在住右翼・暴力団説

赤報隊関連で初の大規模捜索(82ヶ所)が大阪府警によって行われた。この時は関西に拠点を置く暴力団と、その組織との関係が深い右翼団体の事務所が徹底的に捜索された。ジャーナリスト一橋文哉氏によると、その理由は前年に大阪府内の暴力団員が、銃身を短く切った散弾銃を借金の担保として右翼関係者に渡しており、その右翼関係者から『赤報隊に入らないか』との情報を得たかららしい。しかし、散弾銃は発見されず、そのままうやむやとなった。

6 世界基督教統一神霊協会(統一協会)説

阪神支局の事件の2日後、朝日新聞東京本社に散弾銃の空楽きょうを同封した脅迫状が送付された。文面は「とういつきょうかいの わるくちをいうやつは みなごろしだ」というものだった。
ジャーナリスト・有田芳生氏は”赤報隊=統一協会説”を「週刊文春 97年5月15日号」で展開している。それによると86年12月から「朝日ジャーナル」は霊感商法批判キャンペーンを始め、当時まだタブー視されていた統一教会批判に乗り出したことへの報復らしい。また、殺害された小尻記者も統一協会の霊感商法を取材していたようだとも報じられた。有田氏が特に指摘したのは教団関連企業の「統一産業」が韓国から大量狩猟用散弾銃を輸入したことがあり、信者の多くが全国各地で鉄砲店で経営しているという点だった。

7 極右過激派説

前出の一水会説で疑われた鈴木邦男氏は「週刊SPA」の連載で、「赤報隊とおぼしき人物に会った事がある」と告白した。それによると83年ごろ、鈴木氏は「日本民族独立義勇軍」を名乗る男から接触を受け、「今後は朝日をやります。何人かは死んでもらいます」と語ったという。さらに86年ごろにその男と再会し、「中曾根康弘を殺す」という宣言も聞いたという。

8 自衛隊・元自衛官説

自衛隊には少数ながら極右とされるグループが存在するらしい。実際に右翼団体と交流したり、憂国思想を語る自衛官はいる。右翼団体ではなくても、犯行声明文に書かれているようなことを嘆いている人物のいる組織ということで自衛隊もひとつの可能性として語られた。

9 新左翼説

広範囲に行われた警察の捜査も右翼とは真逆の新左翼関係者にも向けられた。一部の新左翼には”反米独立”路線で新右翼と急速に接近している人脈もあり、無関係だとは断定できなかった。赤報隊といえば右翼的心情が浮かぶと上で書いたが、幕末の赤報隊という組織を民衆運動の観点から見なおそうとする左翼系グループもあったという。
また、「赤報隊の関係者ではないか」と名指しされた人物もいた。「週刊SPA 00年6月7日号」の中で一水会の鈴木邦男氏が書かれた、西宮市の左翼系出版社「エスエル出版会」の松岡利康社長である。松岡氏は以前、「赤報派」と名乗っていたこともある関西ブント系過激派「共産主義同盟」のメンバーで、しかも赤報隊が犯行声明分作成に使った物と同タイプのワープロを鈴木氏に贈ったことがあり、その事実を口止めしたというのだ。

10 関西闇人脈ヒットマン説

阪神支局の大島支局長は過去に新聞労連委員長を務めており、在阪夕刊紙の労働争議で指導力を発揮したこともあるため、関西右翼・暴力団筋から狙われていてもおかしくない位置にいた。ちなみに当時小尻記者とともに撃たれた犬飼記者の座っていた席は大島氏がよく座っていた席だったのだが、これは怪しい。大島氏を狙うなら何も職場でなくてもいいし、朝日新聞社にショックを与えるためにあえて阪神支局を狙うなら最低でも大島氏の在社を確認してから襲撃するはずだ。

11 外国人ヒットマン説

阪神事件の犯人は終始無言だった。おまけに改造して軽量化した散弾銃の扱いにも手慣れていた。このため何者かが雇ったプロの外国人ヒットマンという見方があった。

12 ジャーナリスト 一橋文哉氏(※)の説

一橋氏は「赤報隊の正体」(新潮社刊)の中で、阪神支局で殺害された小尻記者は人権問題に熱心であり、同和問題の取材で被差別部落出身のある男に接触し、さらにその男が出入りしていた大阪の右翼団体にも接近した形跡があるということを指摘した。そして、その人脈がたまたま平和相銀事件の背後に暗躍した関西闇社会の核心に位置していたため、図らずも命を狙われることになった可能性が高いと書いている。その裏づけとして一橋氏は次のようなことを挙げている

・男は特徴が目撃情報と酷似していること。
・男が滋賀県の赤報隊発祥の地で生まれ、自身も赤報隊を信奉して育ったこと。
・事件当時、仕事の関係で兵庫県内に頻繁に出かけており、現場周辺に土地勘があったこと。
・若いときから武器や空手の訓練を受けた形跡があること。
・散弾銃の改造能力を持っていたこと。
・犯行声明文の封筒の中から検出された特殊繊維片が、男の神道系宗教の儀式に使う衣服のものに近いこと。

ちなみにこの男はすでに亡くなっている。病死ということであり、一橋氏のレポートは闇に葬られたという形でレポートを終えている。
一方、朝日新聞社116号事件取材班の「新聞社襲撃 テロリズムと対峙した15年」(岩波書店)という本では完全に一橋説を否定している。第一にそうした男は存在していないし、小尻記者もそんな男と会った形跡はなかった。そして、男が小尻記者に渡したとされる土地取引をめぐる資料も存在していないということである。 

※一橋文哉(イチハシフミヤ)・・・謎のジャーナリスト。著書は他に「闇に消えた怪人」「三億円事件」「オウム帝国の正体」などがあり、三億円事件やグリコ・森永事件といった未解決事件の黒幕と思われる人物に接触するなど、何かと真相に迫るノンフィクション作家。ちなみに一橋文哉という名前は一橋→ヒトツバシ(毎日新聞)、文哉→ブンヤということから、(元)毎日新聞社の記者ではないかと言われている。

【手がかり】

☆犯行声明文作成に使用したワープロ
シャープ製「書院WD-20(25)」。事件発生までに販売されたのは41311台。保証書などから内24000台の所有者がわかっている。

☆犯行声明文が入っていた封筒
サンエイ製封筒「枠なし洋型3号」

☆散弾銃、銃弾、
散弾銃の種類としては銃口が2つの2連銃と、1つしかない自動銃がある。事件で使われたのは2連銃と見られている。だが犬飼記者の証言によると「銃口は1つだった」とあるので自動銃の線も落ちきらない。
散弾銃というのは猟に使うもので、数百の弾が広がって飛ぶだめ細かな狙いを定めなくても標的を殺傷するにたやすい。犯人の持っていた銃は高山記者の目撃によると猟銃にしては短く、銃身を切断して短くしたものだった。銃身を切断すると言うのは持ち運びの際、目立たない・邪魔にならないという点と、発射する銃弾の広がりが大きくなるという利点がある。また犯人は2発発射したが薬莢が現場から見つからなからず、犬飼記者が「銃口にプラスティックの覆いがあった」と証言している点から、薬莢回収装置がついている可能性もある。
銃弾は米国レミントン社製の「ピータース 7.5号弾」。薬莢内の火薬が爆発しカップ・ワッズと呼ばれるプラスティック容器に入った約400個の鉛粒が拡散して飛ぶ。阪神支局事件では銃弾とカップ・ワッズが遺留品として残されていた。

☆時限爆弾
静岡支局の事件では爆弾が不発だったために火薬、時計、クギなど14点の遺留品があった。とくに火薬は黒色猟用火薬という特殊なもので注目された。

【銃身を切断した散弾銃をめぐる事件】

一連の赤報隊テロ事件で使われたと思われる銃身を切断した散弾銃をめぐる事件はその後いくつか起きている。捜査本部では「銃身を切断した散弾銃の持ち主を洗っていけば犯人に辿り着く」と調べてきたが、赤報隊事件で使われた銃の行方はいまだわかっていない。

☆ケース1
90年1月、長崎市長の木島等さんが拳銃で撃たれ重傷を負った。地元の右翼団体「正気塾」の構成員が逮捕されている。事の起こりは木島市長が「(昭和)天皇の戦争責任はあると思う」と答弁したことから襲撃を決意したという。これはまさしく右翼のテロと呼べる事件で、赤報隊事件に通じる部分がある。92年1月には別の事件でこの団体の別の構成員の知人宅から銃身の切断された散弾銃が押収されている。

☆ケース2
00年6月 福岡県春日市で銀行強盗が起き、直後に現場近くの公園で奪われた現金と銃身の短い散弾銃が見つかった。これは赤報隊事件の捜査対象だった銃で、72年に兵庫県伊丹市の民家で盗まれた物と判明。10月に春日市に住む男が逮捕され銀行強盗事件は解決したが、散弾銃について男は「福岡市内の知人に借りた」と供述。伊丹市の民家で散弾銃を盗んだ男については73年に逮捕されており、「持ち運びしやすいように銃身を切断して東京の知人に預けた」と供述していた。

☆ケース3
01年4月、宇都宮市のタクシー会社に立てこもった暴力団員が警察官を射殺した。この事件でも銃身を切断した散弾銃が使用された。この銃は暴力団と関連ある金融会社が借金のかたに取り上げた正規の登録の銃だった。
  

【犯人像】

この一連の事件で、阪神支局襲撃事件の他に名古屋、静岡、江副宅の事件でも犯人が目撃されている。

☆阪神事件(犬飼、高山両記者の目撃)
・年齢20~40歳の男
・身長160~165cm 細身
・黒ぶちのメガネ
・黒か茶色の厚手の目出し帽
・殺気だったギラギラした目

☆名古屋事件(通行人の目撃)
・年齢25~35歳の男
・身長165~170cm 中肉
・黒っぽい目出し帽

☆静岡事件(駐車場内で通行中の主婦が目撃)
・30代後半の男

☆江副宅事件(付近住民が目撃)
・細長い袋(散弾銃?)を抱えた男
・身長160cm前後
・黒ぶちメガネ、白いマスク、野球帽(全体が紺で、前部が赤色)を着用

【時効】 

警察庁は銃身を切断した散弾銃や犯行声明文に使ったとされるワープロの機種などから、以上の8件の事件を同一人物か同一グループの犯行と断定し、「警察庁広域重要指定116号事件」に指定した。しかし、なんた手がかりをつかめないまま、2002年5月3日、殺人罪が時効を迎えることになった。
2006年、阪神支局建て替えに伴い、事件を伝える「資料室」が新設された。資料室には現場のソファ、床などに散乱していた散弾粒、犬飼記者がポケットに入れており、銃弾で折れたボールペン、血に染まった原稿用紙、犯行声明文など60点を展示。事前予約すれば一般でも見学できる。

コメント欄

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  • やっぱり統一教会だろ。 -- 2024-12-11 (水) 10:36:48

*1 グリコ・森永事件に次ぐ2件目の未解決の警察庁広域重要指定事件で、警察庁広域重要指定事件で未解決事件となったものの中では唯一死亡者が出た。