生卵事件

Last-modified: 2025-08-30 (土) 07:54:19

1996年(平成8年)5月9日、福岡ダイエーホークス(当時)の選手移動バスに20個前後の生卵が投げつけられた事件のこと。

1990年代の低迷期を代表する事件として有名である。


概要

1996年のホークスは開幕時から低調で、王貞治監督の采配を疑問視するファンによる過激なヤジや横断幕が度々見られた。
そして5月7日に日生球場*1で行われた近鉄バファローズ戦では敗戦後にバス周辺を取り囲まれる事件が起き、雨天中止を挟んだ翌々日の試合では敗戦後グラウンドに発炎筒やメガホンが投げ込まれ、その直後には再びバスを取り囲まれた上に「お前らプロか!」と罵声を挙げながら生卵を投げつけるファンが現れた。生卵はほとんどがフロントガラスにぶつかったものの、一部は選手にも直撃している*2

しかし王は反感を覚えるどころか、逆に生卵をぶつけられた帰りのバスの中で「球場にわざわざ卵を持ってきて投げるなんてこんな熱心なファンはいない。彼らの為に野球をしよう」「ああいうファンこそ本物なんだ。将来優勝したときに一番喜んでくれるのはああいう人達なんだ」ぐう聖演説を披露、これが一つのターニングポイントとなったと後年語っている


その後

これを受け近鉄側も新しい移動ルートを変更するなど安全策を講じたが、一部メディアがその新ルートの地図を掲載したため物議を醸した。

事件から4ヵ月後の9月16日に西武球場で行われた西武戦では、過激な横断幕の掲示やヤジが飛ぶ中で再び発炎筒が投げ込まれる事件も発生。このシーズンは54勝74敗2分(勝率.422)で最下位に沈んだ。

この年、出た横断幕は、

  • 「南海復活!」
  • 「その采配は王間違い」
  • 「ヘタクソ采配 王貞治」
  • 「病原性敗北菌 OH-89 *3
  • 「王 ヤメロ」
  • 「すげーむかつく!!」
  • 「さようならダイエー こんにちはアサヒビール*4
  • 「門田*5助けてくれ!」
  • 「杉浦*6前監督再登板」
  • 「頼むからヤメてくれ!王」
  • 「Bクラスの責任 腹切れ!王貞治」
  • 「チーム不振 山本和範解雇の責任を取れ 瀬戸山隆三
  • 「5年も待てるか 今すぐ辞めろ!サダハル」
  • 「ホークス潰しの奸賊 王貞治 死んでお詫びしろ」
  • 「王退陣」
  • 忌中

など王への非難、有能な人物が退団していることへの嘆き、南海OB冷遇への不満、身売りの要求まで多岐にわたった。

だが上記の王の発破や根本、瀬戸山らフロントの根気強い努力もあり、主砲の小久保裕紀城島健司に、長年代走・守備要員だった村松有人がこの頃から打撃面で覚醒し始め、秋山幸二も復調。翌年には松中信彦井口資仁・柴原洋らドラフトで獲得した選手が当たったことで1970年代後半の南海時代から長く続いていた暗黒時代から脱却し常勝球団になっていき、王の評価は徐々に変わっていった。1999年に監督として初の日本一を達成して以後、圧倒的な成績を残し続けた王を無能監督呼ばわりする者は少なくなった。

現在では「生卵事件を偲ぶ会」という団体が立ち上げられるなど一種の語り草となっている。

当時の主力選手の一人の村松有人は2010年に現役を引退した*7が、その際の引退会見で、この事件の悔しさを野球人生にぶつけようと努力し続けたことを涙ながらに語った。


余談

この他、中日ドラゴンズの優勝が決定した2011年10月18日の横浜ベイスターズ対中日戦の試合後、横浜・村田修一の車が横浜スタジアムの駐車場を出ようとしたところ、横浜ファンから生卵がぶつけられる騒ぎが起こっている。
この時、車には村田の家族(妻と息子2人)が同乗していたため「家族を危険に晒すのか」と激怒。横浜残留かFA移籍かで迷っていた村田の意をFA移籍に傾かせるきっかけになったといわれている。

2024年3月15日にドジャースのデーブ・ロバーツ監督*8が韓国の仁川国際空港で20代の現地男性から生卵を投げつけられる事件が発生している


関連項目

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*1 日本生命球場。近鉄バファローズ旧本拠地(1951~1984年)。近鉄沿線に所在するもナイター設備が無い藤井寺球場の代わりに使用されていたが文字通り日本生命からの借用である点と収容人員が2万人強しかない点より敬遠され、のちに藤井寺球場にナイター設備が置かれると本拠地移転と相成った。当事件が発生した試合が日生球場最後のプロ野球公式戦となり、翌年を持って閉鎖・取り壊された。
*2 当日の試合結果、および事件の詳細を記した日刊スポーツによる復刻記事
*3 この年は関西を中心にO-157の感染者が1万人を超え、当時のダイエーの選手も宿泊先の調理場が使えなくなったり食事のメニューが制限される影響を受けた。ちなみに「89」は当時の王の背番号。
*4 同時期、アサヒビールやサントリーが、本業不振のダイエーや阪神電鉄からプロ野球球団を買収する噂が挙がっていたことから。
*5 南海ホークスの強打者だった門田博光。1992年に引退したが、40歳を迎える1988年シーズンに本塁打王・打点王を獲得しMVPに選出されるなど、打力はそこらの現役選手より高いと評価されていた。2023年に逝去したが、かつての同僚である高柳秀樹や加藤秀司、定岡智秋などによれば、現役時代の自主トレで台湾を訪れた際に、現地の水道水は不衛生で飲めないので、水代わりにビールを飲まざるをえなかったことから、これ以降、朝から水代わりにビールを飲む習慣がついたのではないかと証言しており、現役末期以降の糖尿病や高血圧などによる体調不良につながったとの見解もある。
*6 南海ホークスのエース・杉浦忠。南海時代の1986年から89年まで監督を務めていたが、最高成績は87年と89年の4位だった。
*7 2003年オフにFAでオリックスに移籍し、2008年オフに大村直之とのトレードで出戻り。
*8 ロバーツ監督は那覇市出身で母親が日本人の日系アメリカ人だが、それが犯人の動機かどうかは不明。