坂本

Last-modified: 2010-04-17 (土) 18:01:24

坂本城



坂本城(さかもとじょう)は近江国滋賀郡坂本(滋賀県大津市下阪本3丁目の坂本城址公園内)にあった城。琵琶湖に面した平城であり、明智光秀によって築かれた城。

概要

坂本城は、琵琶湖の南湖西側にあり、大津市の北郊に位置する。西側には比叡山の山脈があり、東側は琵琶湖に面していることから、天然の要害を具えた地であった。比叡山は近江国と山城国にまたがっており、白鳥道と山中道の2つの道は両国を結ぶ道路が通じており、中世、近世において頻繁に利用され、比叡山の物資輸送のために港町として、坂本は交通の要所として繁栄していた。

現在城郭の大半は宅地化され、推定地の中央には国道161号が貫通している。

1571年(元亀2年)、比叡山焼き討ちの後、明智光秀に近江国滋賀郡が与えられ、織田信長の命によって京と比叡山の抑えとして築城した。宣教師のルイス・フロイスは著書『日本史』にて豪壮華麗で安土城に次ぐ名城と記している。

沿革

元亀2年(1571年)9月比叡山焼き討ちの後、宇佐山城の城主であった明智光秀に対して、織田信長は滋賀郡の支配を命じ坂本城を築城させた。比叡山延暦寺の監視と琵琶湖の制海権の獲得が目的であったと思われている。『永禄以来年代記』によると、


“ 明智坂本に城をかまへ、山領を知行す、山上の木にまできり取 ”

—永禄以来年代記


とある。山領というのは延暦寺の事で、比叡山焼き討ち後、1571年(元亀2年)中に築城が開始されたと思われている。また『兼見卿記』元亀3年(1572年)12月22日の記述よると、


“ 明智見廻の為、坂本に下向、杉原十帖、包丁刀一、持参了、城中天守作事以下悉く披見也、驚目了 ”

—兼見卿記


とされていることから坂本城には天守があり、作事が行われ翌12月頃には天守がかなり進捗していたと思われている。『兼見卿記』の筆者でもある吉田兼見は、短文ながら天守の壮大さに驚いている様子が伺え知れる。また坂本城はイエズス会宣教師のルイス・フロイスの『日本史』にも、


“ 明智は、都から4レーグァほど離れ、比叡山に近く、近江国の25レーグァもあるかの大湖のほとりにある坂本と呼ばれる地に、邸宅と城砦を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗にもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった。 ”

—フロイスの日本史


と記されている。この記述はルイス・フロイスの感想ではあるが、名城安土城と並び称される建物として意識されていた。


その後明智光秀は坂本城を拠点に近江国の平定を目指す。1572年(元亀3年)-1573年(天正元年)にかけて、木戸城、田中城を落城させ、また湖面より囲船にて湖北の浅井勢に襲撃し打撃を与えた。その後、石山城、今堅田城も攻城し湖南はほぼ手中に収めた。その後坂本城は近江国における反織田信長に対する重要な軍事施設として使用された。黒井城の戦いでほぼ丹波国を手中に収めると、1580年(天正8年)亀山城の城主となったが、坂本城もそのまま城主となっていたようである。

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀は中国攻めには向かわず本能寺の織田信長軍を急襲し、織田信長を炎の中に追い込み、次いで二条城を攻城し織田信忠を自害させた。しかし、同年6月13日山崎の戦いで敗れた明智光秀は一旦勝竜寺城に退き、その後坂本城を目指している途中、山城国の小栗栖周辺で百姓らに襲われ死去したと言われている。一方安土城の城主となっていた明智秀満は、山崎の戦いで敗戦を知り安土城から移ってきたが、羽柴秀吉軍が城を囲む中、明智秀満自身が天守に火を放ち光秀の妻子もろとも落城した。

その後、羽柴秀吉が丹羽長秀に再建を命じ城主となった。その後賤ヶ岳の戦いの軍事上の基地として使用され、後に杉原家次そして浅野長政が城主となった。この時に城下町が形成されたと思われている。しかし1586年(天正14年)秀吉の命を受けた浅野長政が大津城築城により廃城になり、資材は大津城築城に使用された。築城から約15年後のことであった。

なぜ廃城になったか『信長戦国近江』によると2つの理由を紹介している。ひとつは豊臣秀吉が1584年(天正12年)に山門復興を許可。山門に対する監視の必要性が薄くなったことと、もうひとつは1583年(天正11年)-1588年(天正16年)に大坂城を築城しており、大津の地が東海道や淀川を通じた北国を結ぶ上に重要視された為ではないかとしている。

城郭

坂本城は歴史上重要な役割を果たしていたが、ながらく城の位置や構造については不明となっていた。しかし1979年(昭和54年)に実施された発掘調査によって一定の構造が明確になってきた。

水城

天正6年(1578年)1月11日に明智光秀の茶の師匠であった堺の津田宗及が坂本城に招かれ茶会がひらかれている。この時の『天王寺屋会記』によると、


“ 御座船を城の内より乗り候て、安土へ参 ”

—天王寺屋会記


と記載されている。城内には琵琶湖の水が引き入れており、城内から直接船に乗り込み、そのまま安土城に向かったようである。従って城郭の建物が湖水に接した「水城」形式の城であったと思われている。また吉田兼見が天正10年(1582年)1月20日に坂本城に訪れた時に「小天守」で茶湯を喫している。これによりただちに小天守があったと断言はできないが、『信長戦国近江』によると「姫路城のような大天守と小天守が並び建つ壮麗な城だったのであろうか」と紹介している。

発掘調査

1979年(昭和54年)まで坂本城は一度も発掘調査されることは無かったため、坂本城の遺構に関しては殆ど注目される事は無かった。しかし、坂本城跡の中心部で大規模な宅地開発が計画されたので、これに伴う調査を実施したことがきっかけとなり、現在に至り断続的に発掘調査が行われ、城の縄張りなどが少しずつ明らかになってきている。

坂本城は後に築かれた大津城、膳所城も琵琶湖に面して本丸がその先端部に位置していること等、類似点が多い縄張りとなっており、坂本城が先行した城ではないかと考えられている。


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