浅井久政

Last-modified: 2010-04-13 (火) 19:01:38

浅井家軍師 神主武将

武将列伝

浅井 久政(あざい ひさまさ) 大永6年(1526年)- 天正元年8月27日(1573年9月23日)は、日本の戦国時代の武将。北近江の戦国大名浅井氏二代目当主、下野守。浅井長政(賢政)の父。

1542年に父・亮政が没したため後を継いだが、武勇に優れた父とは対照的に武勇に冴えなかった。
久政が当主となってからの浅井家は次第に六角氏の攻勢に押されてついにその配下となってしまった。嫡男に六角義賢の一字 賢の字を偏諱として受けさせ、「賢政」と名乗らせたりその妻に六角氏家臣平井定武の娘を娶らせるなど、六角氏に対しては徹底した従属的姿勢をとった。

このような、久政の弱腰外交に家臣たちの多くが不満をもつようになり、1560年に久政の嫡男・浅井長政(賢政より改名)が野良田の戦いで六角義賢に大勝し六角氏から独立すると、家臣たちから家督を長政に譲ることを強要され、強制的に隠居させられることとなった。しかし、久政は隠居してもなおも発言力を持ちつづけ、父以来の朝倉氏との友好関係に固執し、新興勢力の織田氏との同盟関係の構築には終始反対しつづけたとされる。

この久政と長政との曖昧な関係が結果的には浅井家滅亡の遠因となってしまう。織田と朝倉が対立を深め、両家と同盟関係にあった浅井家はどちらにつくかの決断を迫られた場面で久政は強硬に朝倉方につくべきであると主張し、長政が折れる形で信長に反旗を翻すこととなった。結果的に数年間の抵抗の末、浅井・朝倉連合は織田氏に敗北し、1573年、織田軍の猛攻を受けた久政は、小谷城京極丸にて自害し、長政もやがて自刃し戦国大名浅井氏は三代で終幕した。

一般に久政は、時の流れを読めなかった暗愚な当主とされることが多い。久政暗愚説の根拠となっている歴史書の多くが学術的には偽書と位置付けられており、後年になって誇大に記述されたり、脚色されたものがほとんどである。最近の有力説に久政がそれほど無能ではなかったという説がある。

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