04 ASS/Another Side of the Story

Last-modified: 2009-07-14 (火) 16:52:45

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The Other Side of the Moon

村瀬組(村瀬、桑原、三村、中野、宮嶋、大司、川端、荒井、渡会、宮崎、川口、吉田)

staff

製作  桑原健

監督   村瀬陽亮

撮影   溝上郁夫

編集   村瀬陽亮

音楽  村瀬陽亮  川口剛広

衣裳/メーク  川端慶子  宮嶋伸  吉田舞

道具  荒井利佳  川口剛広  足立章太郎

広報  大司奈緒

撮影協力 居酒屋笑楽

製作総指揮 岡原正幸

デジタルパンフレット編集 トゴウタクマ

cast

ハルキ

ミカ

川合  三村祐輔

いつお  中野雄介

店員 折角だから、笑楽の娘さんに・・・

character

『Another Side of the Story』人物解説

【ハルキ】

・ 7月20日生 かに座 O型 21歳 宮崎県宮崎市出身
・ 神奈川県の私立大学に通う法学部3年生
・ 好きな映画:SFモノ。『ターミネーター』『バックトゥザフューチャー』等。
好きな音楽:洋ロック、ソフトロック。
   タバコ:マールボロライト、夏はメンソールにする。(先生へのオマージュ)
   酒:大好きではないがたまにビールを買って一人でも飲む。彼にとって当たり前ではないそんなひと時が結構気に入っている。飲みに行くと焼酎を飲む。
   服:流行に敏感なわけではないが、売っているものには評価をする。選ぶ基準は動きやすく快適かどうか。冬はいつも同じダウンジャケットをきる。特別な外出がない限り夏はスペースの大きいシャツと短パン。
   本:漫画、挫折する哲学の本、詩集を持っている。あとは人気作家の小説がちらほら。
  ・部屋は家賃60000円で築15-20年のもの。二階の204号室(角部屋)
   ベランダがある。アパート付近は閑静で車はあまり通らない。道幅はそんなに広くない。駅からは徒歩8分くらいで、駅周辺店やスーパーで食品などの買い物をする。コンビニもその近くにある。駅に行く前にちょっとした大通りがある。
・ 宮崎には父と母がいる。兄弟は3つ年上の兄が一人いるが東京に就職して一人で住んでいる。父は54歳会社員、母は52歳、看護婦で婦長をしている。現在父親の
体調が良くなく、入院するかもしれない。
・ 高校生の時にサッカーを見るようになり、河合ちゃん、いつお、純とはたまにフットサルをしている。現在チームを作る計画がある。

  〔家族〕
  ハルキは宮崎市郊外の住宅地の一軒家に両親と兄と祖母の5人で暮らしていた。父は会社員で単身赴任や出張が多かったので家にいることは少なかったし、週に二回母が夜勤の時は高校二年のときに亡くなった祖母と兄の三人で過ごした。しかし父は帰ってくるといつも釣りや遊園地、ドライブにハルキたちを連れて行ってくれるのでハルキは父が帰ってくるのを楽しみにしていたし、父が好きだった。母も子供たちに
寂しい想いをさせまいと温かく接してくれたし、おばあちゃん子だったハルキは祖母も好きだった。家族がそろえばみんなで出かけたし、仲の良い家族であった。

  〔ロックとSF〕
  これらは父の影響であると思われる。父の車の中では、いつもサイモン&ガーファンクルとかビートルズがかかっていた。ちなみにハルキは特にサイモン&ガーファンクルの『America』という曲が好きだったので、当時からアメリカという国は何故か好きだったし今でもそうである。父は映画も特にSFが好きで『スターウォーズ』『ブレードランナー』『猿の惑星』等ビデオもたくさん持っていたのでハルキも幼いころからそれを兄と二人でよく観ていた。兄は3歳年上でそのころまだハルキは小さくてわけもわからなかったが、弟は兄に追随するもの。音楽も映画もそういう環境で育った兄による影響が大きいといえるのかもしれない。
 
  〔法学部〕
ハルキは一浪して今の大学の法学部に入った。現役の時もいくつかの法学部を受けている。ハルキに理由を尋ねても明確に答えられなかっただろうし、答えたとしても誰かの受け売りか、ただもっともらしい理由を言うだけだろう。誰でもそんなものかもしれないが、ハルキもその程度であった。もっとも、現在のハルキは何か目標を持って法学部に通っているのかも知れないが。ではなぜ他の何かではなく法学部なのか。
ハルキがまだ5歳くらいの時、父親と一緒に風呂に入っていたときのこと。父はハルキに「大きくなったら何になりたい、ハルキ。」ときいた。ハルキはそんなことをよく考えたことはなかったので、幼稚園で流行っているように「車屋さん」と答えた。「そうか」と父親は言った。ハルキはその後「僕、お金持ちになりたい。」と加えると、父は「たくさん勉強してお医者さんとか弁護士とかになったらお金持ちになれる」と言った。お医者さんはなんとなく知ってはいたが、弁護士なんて聞いたことがなかったハルキは何か魅惑的に感じて「じゃあ弁護士になる。」と答えた。「そうか。うれしいなあ。」と喜んでくれた父を見てますますハルキはその気になり、それからしばらくの間、親戚や保母さんに同じことをきかれると、「弁護士になりたい」と言って周囲を驚かしていた。それでますます調子に乗っていった。その話を周りからきいてバツの悪い思いをしていたのは両親であった。そんなことがあってハルキの深層心理では法学部に対する特別な想いが根付いていたのかもしれない。それに彼の兄も法学部で学んでいたので、ハルキは学部を選ぶ際そんなに迷わなかった。逆に他の学部にはさらに関心がなかった。

〔友情関係〕
    ハルキは幼いころは兄の友達たちと混ざって遊ぶことが多かったので、同じ年頃の友達は少なかった。近所に同じ年の女の子が2人いたがめったに一緒に遊ぶことはなかった。兄が自分をおいて遊びに行ってしまうときは急に一人ぼっちになってしまい家でおばあちゃんと二人でいることもあったが、知っている兄の友達の家に訪ねていくと、運がよければ中で集まってゲームなどをしていることもあったが、ほとんどの場合が兄と一緒に遊びに行ってしまっていて、その子の母親に「ごめんねー」と言われて帰るのであった。
同年代の友達ができるのは小学校に入ってしばらくするあたりからだ。兄達のように甘えたりできいが、小さいからといっていじめられたりもしない同年代の友達はハルキにとって新鮮だったし、新しい楽しみとなった。
  小学校5年からハルキは地元の少年野球のチームに入った。3年生になれば入れるのだが母親は働いているし父親は家にいないことが多いので、両親は父兄として送迎や会合などチームに協力できないのは申し訳ないと考えたからである。4年生の時に野球をやっている友達の家で「僕も本当は野球をしたいけど、お母さんが忙しいから・・・」というようなことを言ったことを、友達の母親が聞いて、その晩ハルキの母親に「せっかくやりたいって言うんだし、私たちが協力するから野球さしてあげたら。」と言われ、5年生からチームに入ることになったのである。それから野球をしていたが、中学校で入った野球部が不良の巣窟のようなところだったのであまりきちんと練習もできなかったし、2年になると周りの仲間は先輩と同じようになり、ハルキも含め、後輩には先輩が自分たちに接したように接した。だが練習は少しはまともにするようになり、三年の最後の大会までそれなりに目標をもって取り組んだが、一回戦で格上の学校と当たって大敗に終わった。公立の進学校に進学したハルキは練習が厳しいことと、坊主頭にしなければならないことが嫌で野球部には入らなかった。勉強もあまりしなかったし、男友達のグループでワイワイと実のない時間を過ごしたのがハルキの高校生活だった。
  河合ちゃんと知り合ったのは大学に入ってからである。いつおと純もほぼ同時期に大学のクラスで知り合った。四人でよく飲みに行くようになり不定期的に集まっている。ハルキは高校生の頃からサッカーに興味を持ち始めたのだが、四人の話題といえばサッカーの話が多い。純と河合ちゃんは経験者であった。現在フットサルのチームを作ろうと計画中である。河合ちゃんとは比較的家が近いのでつながりが深かった。普通ハルキはあまりはっきり物事を言わないし自分の悩みとかを人に打ち明けたりするタイプではないのだが、ハルキに何かあるときは微妙な表情からでもそれを察知して「おいー、なんかあったのかよ。元気ねーなー」といってくれる河合ちゃんには話せた。すると河合ちゃんはハルキのことを理解した上で、ちゃんと正直な気持ちを言ってくれた。だから河合ちゃんは信頼していたし、いつおや純も河合ちゃんに対しては同じように思っていたに違いない。

【アキ】

 ハルキがアキと初めて会ったのは、大学に入学したてのころの心理学の授業でであった。
アキはその授業で毎週ハルキの斜め前の席に座っていた。大学に入りたてのころなどほとんどがそうであるようにアキは一人でその授業をきいていたし、ハルキも同じくそうであった。アキはハルキと同じ新入生で、フランス語科の学生だった。細身なので背が低いのもそんなには目立たない。肩よりも少し長いストレートの黒髪で広くて張った額が印象的な女の子だ。服装はきっちりと清潔感があり、スカートが多かった。それ自体は珍しいものではないが、流行を感じさせるものでもなかった。アキは両親と2歳年上の姉と4歳年下の弟と暮らしていた。家柄は上流家庭に属する良家で、私立の女子高出身の、当時18歳だった。
 いつも授業内で配られるプリントを後ろのハルキに渡すのがアキだった。アキはハルキにプリントを手渡すときはいつもハルキの目を見て、爽やかな気分になるような表情をした。ハルキがペンなどを床に落とした時もそれに気付くとすぐに拾い上げハルキに渡した。アキはそんな性格の女の子だ。
 アキが校内でいつもの清潔感のある格好で一人で歩いているところや、図書館で一人で調べものをしているアキをハルキはよく見かけたが、挨拶をしたり話しかけたりはしなかった。顔立ちも良く、屈託の無い性格のアキに好感を抱いていたが、その頃はまだ遠い存在で恋愛対象などではなかった。
一年生の夏休みが過ぎ、11月頃だった。心理学の授業中にハルキは鼻血を出した。恥ずかしいわ血はとまらないわで困っていると、アキがそれに気付き「大変っ!大丈夫ですかぁ!?」と言い、カバンからティッシュを取り出してハルキに渡した。大変!なんて言われるとよけいに恥ずかしいので、わざと表情を緩めて少し笑いながら「あーっ、すいません・・・」と言いながらティッシュを受け取ったら、アキも驚いた顔を少し緩めた。血を拭いているハルキを見守りながら「これで足りますか?」と気遣ってくれた。これがアキと交わした最初の会話らしい会話である。
ハルキの中でアキの存在が近くなった気がした。それからはごく軽い会話を交わしたり、構内ですれちがう時に手や顔で挨拶をしたりした。一度電車を待っているアキを見つけたハルキはアキに話しかけ、話題を探そうと住んでいる場所とか出身地とか趣味とかを互いに話した。まずは親しくなって、自分がアキの恋人候補になることが重要である。ハルキは週に一回くらい授業中にアキのことをかわいい子だなぁと思う程度から、週に五日くらいはそんなことを考えるようになっていた。だからある日アキと話していた時に同じ映画に興味を持っていることが判明して、アキに「今から観にいこうよ!」と言われた時は嬉しくてしかたなかった。ハルキは何年ぶりかに爽やかな恋愛をしている気分で満たされていた。ハルキはアキの笑顔が好きだった。いつも笑っていて、そのことはハルキを不安な気持ちにさせなかった。そしてアキは始めの頃から、もう随分前からハルキを知っているかのようにハルキに接した。だから自分もそのように接することができたし、今までこんなに自分が自然体でいられる女の子と出会ったことはなかった。しかしアキと別れて家に一人でいるとウキウキ気分の反面、不安のようなものが押し寄せた。もう数回二人でデートをしたことがあったし手をつないだこともあった。この状態でも十分だったし、あえて「付き合う」という言葉で確認するのは怖くて嫌だった。だけどまだアキの中での自分の位置づけに確信が持てないでいた。12月半ば、イヴにアキが好きだといっていたディズニーランドに行かないかと誘った。アキは「行きたい!」と簡単に答えたが、ハルキにとってはイヴにデートすることは大したことだった。ハルキはディズニーランドで手をつなぎながらアキに「また来たいね。」と言った。アキは「うん。何回も来たいな。」といつもより落ち着いた声で言った。「じゃあ、これからずっと恋人でいてよ」とハルキが言うと。アキはハルキの顔を見て笑い、腕を組んでハルキの肩に頭を寄せた。
ハルキがまじめにこんなことを女の子に言ったのは初めてだった。中学生の頃には男の友達と遊んでいることが多かった。一度勢いで告白したときには断られた。中学生の時はそのくらいであとは特に何もなかった。高校一年の時には文化祭の日によく知りもしない他クラスの女の子に突然好きだから付き合ってほしいといわれ、よく見るとかわいかったし、その女の子の友達数人も周りを囲んでいるという雰囲気に呑まれOKした。初めは楽しかったが、半年も経ってくると本当に彼女が好きなのか分からなくなり、会うことも少なくなってきた。二年の夏休みに入る前の終業式の日、彼女から別れを告げてきた。そのときも遠巻きに友達数人が囲んでいた。結局1年近く付き合ったがすっきりした反面、何か切ないものを感じた。それから地元の仲の良い女友達と付き合ったことがあったが、学校も違うし色々難しくて3ヶ月程度で自然に消滅していた。3年の時は特に恋愛はしなかった。浪人をしていた時も。
さて。その次の年の9月にアキがフランスに行くつもりなのをハルキはもう以前にアキから聞いて知っていた。だからハルキにとってその限られた時間は特別なものだったし、時が経つにつれアキもそのことを気にした。だけどハルキがアキの肩を押した。「行ってきなよ・・・ちゃんと待ってるし・・・手紙もたくさん書くよ。ずっと行きたかったんだろ。たった一年だよ。」本当はハルキも遠くになんて行ってほしくなかったが、そう言ってあげることがアキに対する自分の気持ちの深さを伝えられる方法だと思ったのである。そしてそれがアキのためにもよいのだと思った。
アキに対する気持ちの継続はアキの気持ちが変わらない限り自分の責任だと思ったし、アキを思い続ける自信もあった。それくらい失いたくなかった。

アキとハルキがキスをしたのはディズニーランドへ行ったときだった。だが初めてセックスをしたのは4ヵ月後の5月。アキには門限があって10時から11時までには家に帰らなければならなかったので、ハルキはアキと会うときはいつもその時間までには帰した。それに仲良くなりはじめた頃と会話もテンションもさほど変わっていなかったので、仲はとても良かったがハルキにとってアキとセックスは連想しにくかったし、アキのほうからセックスを求めてくることはなかったので、それまではそういう空気にならなかった。だが5月のある日、二人で遊びに行った帰りハルキの家に帰った時に、ふとしたきっかけで二人はセックスした。その次の日の朝早くアキは帰ったが、友達の家に泊まったと嘘をついた。やはりその時二人はお互いに関係が深まったと感じた。二人が次にセックスをしたのは夏休みに二人で沖縄に行ったときだけだ。9月にアキはフランスへ発った。

【ミカ】
・ 9月21日生 乙女座 25歳 A型 埼玉県春日部市出身

ミカは埼玉県の裕福な家庭に兄を持つ長女として生まれた。父は地元では有名な建築会社の社長である。その会社は祖父の代から続いているが、ここまで大きな会社にしたのはミカの父とそれを陰で支えた母によるものであった。ミカの兄が次の代を継ぐことになっている。裕福ではあったが、ミカの両親はミカを甘やかすことなく、品性のある素直な人間に育てようとした。ミカは両親に対して素直で従順な「いい子」だった。ミカは両親を愛していたし、両親を悲しませることは彼女にとって罪なことだった。
 ミカは小・中・高・大と一貫のミッション系の私立の学校に通っていた。幼い頃からバイオリンを習っていたので、高校からは音楽を専攻して、短大でもバイオリンを専門としていた。卒業してからは、実家に住みながら、ピアノ教室をしたり、管弦楽団のオーケストラの一員として演奏したりという生活をしていた。
 2年が過ぎた頃、母が結婚の話をもちかけてきた。相手は5歳年上の地位もある実業家であった。ミカの印象では誠実そうで優しく、話していても楽しかった。話はうまい具合に進展し、半年後には二人は結婚した。二人は藤沢近辺のマンションに住み、ピアノ教室は彼の意向で続けないことになった。決して妥協などではなく、両親の言いなりになったわけでもない。ミカは彼との結婚生活に希望を抱いていた。
 しばらくは二人の結婚生活は順調だった。セックスにもミカは満足していた。しかし結婚して一年が経とうとしていた頃、そろそろ子供も欲しいし、もうできていてもおかしくない頃なのに、その気配はまったくない。病院で検査したところ、ミカは医者に自分には子供ができない、できたとしても極めて確立が低いのだと聞かされた。ミカは非常に落ち込んだが、思い切ってそれを夫に打ち明けた。すると「そうか。残念だけど、ミカが一人で落ち込むことないよ。それにそんなこと関係ないよ、僕がミカを愛してることには変わりない」と夫は優しく慰めてくれた。それを聞いてミカはとても嬉しかったが、ミカの中でセックスと不妊とが結びついてしまい、セックスにはいつもうしろめたさがつきまとった。それまでのように純粋にセックスで喜びを味わえなくなっていた。時が経つにつれ夫も結果に結びつかないセックスに苛立ちを感じ始めた。二人の性生活は次第に冷却化し、セックスはほとんど無くなった。あっても夫のセックスも機械的で義務的なものだった。そういう夫の感情もミカは感じ取った。さらには夫の帰りが毎日遅くなっていき、帰ってこない日もある。ミカは辛かったがそれが自分もせいであると感じていたので何もいうことができずにいた。両親に心配をかけたくもなく、実家帰ることもなかったし、母とは明るい調子で接していた。母も人当たりのいいミカの夫には好感を持っていたので幸せに暮らしていると信じて疑わなかった。タバコを吸い始めたのもこの頃である。
 ある夏の夜中ミカは一人で泣いていた。いつものように酔って女ものの香水の匂いのついた夫が帰ってくると、落ち着いた感じで「お帰りなさい。」と言った。平然として遅い帰りの自分に文句ひとつ言わないミカに腹が立ったのか、夫は細かいことについてミカに当たった。ミカは下を向いて部屋に行きまた泣いた。しばらくしてリビングで夫がテレビを見ているとき、ミカの部屋の扉が開き、玄関も開いた。夫はミカを呼び止め、玄関へ行ってミカの腕を摑んだが、ミカは「放して!」と小さな鞄一つで衝動的に出て行った。 
ミカはセックスにおいて自分自身がただの一人の女として強く求められるという幸福をもう長い間経験していなかった。だが誰でもいいからセックスをしたいと思って飛び出したわけではない。そこにいるのが辛かったし、自分自身に嘘をつくことが耐えられなくなっていた。夜中の街はミカを悩みから解放してくれたし、ミカを「ミカ」ではなく、一人の25歳の女にした。ミカは嫌なことをすべて忘れた。

KISS MY "ASS"!! ~感情製作日誌~

村瀬ページより再録

夏を振り返ってみて

先日、25日の笑楽での撮影にて、『ASS』のロケ撮は99%終了した。後は阿佐ヶ谷にある通称「スタジオ」での撮影とアフレコを残すのみである。ああしかし、大学の授業が始まってみるとこんな感じのテンションになるのかと自分でも驚いた。ふと鏡を見ると生き様も気合も感じられない、やりきれない髪型の自分がいた。気づいたときはハサミを握り締め、前髪をザックリ切ったあとだった。そのまま、好きなようにクレヨンを持った児童のように切った。最初、セクシーな髪型にしようとしたのだが、結局アニマル浜口みたいになった。不本意だったが気合は入った気がする。

8月14日 河合ちゃん登場

8月10日 クランクイン! 藤沢

朝10時の藤沢は快晴の青空、前日カチンコ購入の目的で渋谷東急ハンズに行ったところ扇風機を選んでいる女優・小雪に遭遇したのでこれはついていると思ったが間違いなかった。晴れ男選手権で東海大会3位の実績もこの快晴に関係しているのか。

この日シーンの撮影のために集まったのはマイマイ、中野、ハルキ役のミッキー、僕の四人。撮影のためにレフ板とドリー撮映用台車を持ってきたので重くて吐きそうになったが撮影が始まると大丈夫だった。台詞のない今回のシーンはイメージ通りスムーズに運び、余計なものまでたくさん撮った。アポを撮っておいたスーパーでの撮影も向こうが予想外に協力的でうまくいった。レトロな中華料理屋で冷やし中華を食べ、午後の撮影はシーンの一部。ハルキがミカの額にキスして別れるシーンを撮ったが早く二人の信頼関係も深まると良いです。自宅でチェックするとまず画像の美しさに驚いた。やっぱりこの郁夫さんのカメラ凄い。後は僕次第だが・・・・。しかし夏の日差しの中ではホントにいい画が撮れる。

8月7日 モーターサイクル横濱旅行記

公園の候補地としてもう一つ荒井さんから横浜の港の見える丘公園を推薦されたので、行ってみることにした。一人ならとバイクにまたがったものの、横浜は遠いのでこのポンコツ原付が途中でダダをこねないかと心配だった。ダダイズム真っ盛りのうちのモトラは先日老朽化したブレーキの修理をしたばがりだが、油断は出来ない。ただ、心配なのは朝6時までタイ人コックの新居で飲んでいた僕の体調でもあったので、実際は原付と僕の耐久戦だった。

途中、郁夫さんに三脚を借りるために田園調布に寄らなければならない。僕は荻窪から感情八号線にのり渋滞をぬってまず田園調布に。連日のセレブ警報にやられて「大きくなったら社長になってここに住んで、息子は田園調布学園だ、そしてトモダチ○コであっさり札束だ。」と独り言。

三脚を背負うとまた感八で綱島街道まで。懐かしい光景だと思うと日吉を過ぎた。横浜まではもう一息。

みなとみらいはバイクで来るとひどく殺風景だ。人工的で人のぬくもりを感じない。大きなビルの隙間には広いサラ地があり大規模な工事が進んでいる。奇妙に整って交通量の少ない土曜の朝の道路を走っていると急に怖くなってくる。『回路』のワンシーンを思い出し、あの恐怖感はこの非人間的な空間から生まれてくるのかと思った。

8月6日 代官山アフタヌーン

公園のロケーションが決まってないや。ということで皆にアオッたところ、代官山にある公園が二票。だけ来た。ある意味100%の推薦。行くことに決めたこの日は忘れてはならないUNLUCKY STRIKE原爆投下の平和記念日、更に弟と祖母のハッピーバースデイの複雑怪奇な日。

今日も暑いしいい陽気だ。自慢のモトラに跨り身を極限にまで窶してセレブ多発指定地区代官山へ単独で乗り込む。因みに遺書は残してこなかった。古いカメラを首に下げ、万一のことがあっても僕が最期に見た景色だけは残された者たちに届けばよいと、そう思っていた。田舎の母に電話で最後に残した言葉は「地雷を踏んだらサヨウナラだ・・・」

ゼミの中でも数人しか目にしたことのないその「代官山の公園」とは一体どこに行けばあるのか。そしてその景色に出会うことができるのか。不安だった。手にしていた僅かな情報といえば、「代官山」「すごいおちつく」。この二つだ。ゲリラ戦使用にカスタムされた僕のモトラは思いのほか役に立った。ていうか何度か命を救われた。警備犬に囲まれた時も歩道を走っていて曲がったら目の前にピストルを持った低級役人がいた時も。

さんざん迷ったあげく木陰に身を隠していた学徒ゲリラの一人に敵ではない事とここにいる事情を説明して公園を知っているかと尋ねたが彼らも其処へ向かう途中で、しかも公園は「ヨヨギ」というところにあると信じているようで、僕にも説得し始めたので、すぐに礼を言って別れた。間違った情報まで流れている。代官山の状況がここまで進行していたとは、確かに阿佐ヶ谷にいる時は分からなかった。。。公園は究極のセレブスポット、僕はセレブソナーを使ったが四方から反応してまったく使いものにならない。途方に暮れていたその時、向こうから一人の男が。一瞬警戒したが彼はここに住んでいるが明らかにセレブではないと確信した。その証拠に彼が連れているのは「フツーの犬」だ。満を持して僕はセレブ語で話しかけた。この地域の人間は皆セレブ語で話す。僕は幼い頃唯一のトモダチだった橋の下に住んでいた落ちぶれた元セレブのじいさんにセレブ語を叩き込まれていた。じいさんは良き時代のセレブで落ちぶれてもそのプライドを持ち続けていた。

「フツーの犬」を連れた彼は表向きにセレブと戦う少数派の対抗勢力の指導者で絶大な信頼を集めている今セレブの間では最も危険な人物と警戒されているのだが、どうして護衛も無しで一人で歩く?と尋ねると「代官山が好きだからだ」と答えた。彼の目は確かに未来を見ていた。こんな奴がまだここにはいるのかと思うと何だかほっとした。彼は東にまっすぐ進めば大きな木が見える、そこが公園だと言った。礼を言ってモトラのエンジンを吹かした時彼は言った「本当に行くのか」「ああ」「若いの・・お前に家族はあるか」「ああ」「そうか。私にはいない。ここへ来る時に捨てた。」「・・・」「家族を大切にしろ。お前には未来がある。」そういうと去っていった。

しばらく東に行くと大きな森があった。確かに、森の中央には一本だけ目立って背の高い木が見える。「西郷山公園」公園の名前だ。様子を見るために迂回し小さな入り口から公園に入った。そこからは険しい山道だ。僕は必死に登りきり最後に階段を見つけた。これを昇れば・・・。ありますた。森の中央にひっそりと佇む展望スポットが。東京の見慣れた景色を眺め下ろしながらここにたどり着けたことの幸福感に満たされていた。この公園にいたセレブは街角セレブとはどこか様子が違う。過度に飾り立てられていないがどこか威厳と余裕があり、誰もが穏やかな表情をしていた。ここにいるセレブはじいさんが言ってた昔の古き良きセレブに違いない。下界の混乱はウソのようにセレブたちは白すぎる犬やモデルみたいな犬を連れて優雅にひと時を過ごしていた。僕は公園内で車売りをしていたカキ氷を買って食べた。フッカフカで生涯最高のカキ氷!皆さんも通りかかった際はどおぞ。この公園ではセレブとノンセレブが共存していた。この平和記念日に改めて今なお続く戦争のこととを考えた。平和ってなんだろ。セレブってなんだろ。

この出来事の90パーセントはいや80・・・真実です。イメージは日常を非日常化する。

8月1・2日 ロケハンバカンス一人旅 葉山・伊豆下田

午後5時ルノアールを出た後駅でメンバーと別れ、僕はその足で海のシーンで使用するサイトを求め最後のロケハンに出た。中継地にと訪れる葉山はJR逗子駅からバスに乗って行く。品川から横須賀線に乗り換え、しばし電車の旅、昔から電車は嫌いじゃない。窓はスクリーンで物語りは自分の頭の中で起こる。到着と同時にその結末は確実にやってきて、その現実的な距離と時間はその物語の余韻をリアルに胸に残す。今回の映画は約一時間逗子駅で第一部が終わった。到着したの6時を過ぎた頃、駅は家路に着いた海水浴客で忙しい様子だ。早速葉山行きのバスに乗リ込む。
^バスを降りるとそこは小さな田舎町だった。行き先の長者ヶ崎海岸まではごく普通に民家が立ち並ぶ。都会と違って敷地の広い一軒家はどれも開放的で家の中からは遊びつかれて帰ってきた子供と母親のやり取りが聞こえてくる。夏の夕涼みの空気の色を想像できるでしょうか、季節ごとに空気も色の赴きを変え、今日此処のは薄みがかったオレンジに混ざったピンク。僕にもこんなセピア色の思い出がある。意味が違うか。。。
しばらくして海岸に着いた。どちらかといえば小ぶりで特別にリゾート感もない近郊の海水浴場である。すでに2,3ある海の家は早くに営業を終え、近くの民宿では宿泊客が庭に集まって、アロハに身をつつんでギターを弾くオーナーを取り囲んでバーベキューをしている時間だ。海岸から見える高台には消防車が何台も来ていて、レスキュー部隊が溺れたダイバーを救助している。そんな時間に一人海岸にやってきた僕を波が歓迎しているのかどうかは分からないが、このくらいの時間の海水浴場に響く波の音は何故か一日働いてくたびれて一人で気ままにハンモックで揺れているような感じがする。そこへ同じく一仕事終えた我らが大司奈緒が出迎えてくれた。広告研究会の海の家はそのビーチでは唯一まだ営業していて、スタッフはいつものようにゆっくりと閉店の支度をしていた。木でできた洒落た内装はなかなかいいムードで、南国を彷彿させる。少し疲れた僕は席につき、一望できる美しい日が日没直後のおみを眺めながら彼女が奢ってくれたカールスバーグを飲んでいた。"Probably,the best beer in the world"(でしたっけ?)やや謙虚なこの宣伝文句の深い意味が初めて理解できた瞬間だった。一杯のビールを表現するには究極のフレーズですね。しばらく岡ゼミのマドンナを独占した後、閉店と同時に長者ヶ崎海岸を後にした。長者ヶ崎海岸。ハルキとミカがここへ来たのかと想像すると何故か納得してしまう。不意に発見してしまったような得した気分だった。密かに葉山ロケ計画の萌芽を感じていた。

葉山に来たもう一つの目的はリトルパンガンがあるという噂の真相を突き止めるためだ。もしあるのだとすればフルムーンのこの日は最高潮の盛り上がりを見せるもの。期待に胸が高鳴る。僕は夜のビーチエリアを散策しながら今日泊まる宿を探していた。二軒あたってみたがどちらも部屋は埋まっていた。もう一度今度は長者ヶ崎海岸の西側出入り口からビーチに入ろうとしたところ懐中電灯を持った巡査にでくわした。どこかに宿はないかとたずねたところ、看板がいくつか出てはいるが空きがあるかも営業しているかもわからない、そんなに寒くはないから・・・。野宿しろと・・。健康な男一人、そういう方法があることは知っていた。「そうですね」と愛想笑いをしながら。敬礼をする巡査と別れた。旅の予算の事を考えると少し落ち着いた僕は更に西にある一色海岸を目指した。

僕は細い道を歩いていた。さっきからビーチスタイルの若い西洋人の集団何組かやタケルみたいに髪の長い男、アジアンファッションの女の子達などと何回もすれ違っていた。気になっていたので僕の前を歩くドレッドヘアの白人女性の後をついていった。海岸に通じる細い道にさしかかった頃、ビーチのほうからジャンべやディジュの音や大騒ぎする声などが聞こえてきた。サックスやギターを弾いているのも別の方向から聞こえてくる。あらゆる言語が飛び交い、あらゆる肌の色の人々が入り混じっていた。ここは一色海岸。「楽園あったー!」と叫んで東の空を見ると澄み渡った山際から大きくて蒼白い満月が昇り始めていた。楽園ここにあり。

近くでフィルムを二本買い、ビーチに戻った僕は奥にある大きな海の家から聞こえてくる圧倒的な太鼓の音のほうに歩いていった。どこかで聞き覚えがある和太鼓の激しいリズム。もしかしたら・・、と思い辿りついた先には人だかりができていた。見ていた人にGOCOOですか?と聞くとGOCOOだよ、と。マトリックスのBGM参加で世界的にも評価された彼らがワールドツアーを終えた直後にここ葉山でパフォーマンスを披露しているらしい。偶然出くわした貴重なライブに心の行き場を失うような興奮を覚えた。

ライブが終わってビール片手に近くの二人組みが2年に渡るアジア放浪の話をしているのを聞きながら余韻に浸っていた。「何でそんなに旅をするの?」「分からない、それが分かったら旅をしないんだよ」という二人のやり取りが印象的だった。旅に目的はないのだ。思いがけないものに出会い、体験する事が旅のロマンである。

人生も映画作りもまた旅か・・とそんな事を深深と考えながら別の場所でファイアーダンスの揺れる炎を延々と眺めていた。12時を過ぎ人の少ないビーチの隅でホーミーの練習をしたりエジンバラで覚えた民謡をハーモニカで吹いたりしていると酔いが回ったせいか少し眠たくなってきた。明日は早朝からロケハンをして伊豆に行かなければならない。早いとこ野宿しやすい場所を探そうとビーチを去った。ビーチに隣接した公園の隅にいくつか遊具があったので、その中の滑り台を今夜の寝床に選んだ。用意周到に持参したスウェットを着込んで斜めの滑り台に横になる。寝心地は悪くない。それよりも静寂の中に聞こえる波の音が最高のBGMになり、月と星空を独占できる贅沢さを心から感謝した。高校2年の時に夏の北海道を野宿して一周したのを思い出す。あれ以来テントもなしで野宿したのは記憶のない渋谷の歩道ぐらいである。

そう思ったのも束の間15分もすると肌をさらした足元や顔に蚊が群がり出した。翌日用のシャツを足に巻いてもタオルを顔に巻いても効果はない。寝袋も虫除けスプレーも無しで何が用意周到か。その後1時間半あまりは当然眠りにつけなかった。やっとウトウトし始めた時、向こうから3人ほどの足音が僕に近づいてくるのが聞こえた。目を開けた瞬間、懐中電灯の光が僕の顔を照らした。「何やってるのここで」「寝てるだけです」「何で」「・・・・」「何しに来たの」「・・・・」「だめだよこんなとこに寝てちゃ。身分証明書出して。」洗いざらい聞かれて、やっと僕を怪しい人物ではないと判断したらしいが、「今、神奈川県中に悪い奴いっぱいいるし、野宿は条例で禁止されてるからとりあえずすぐにここ出てって」と重要な問題を何一つ解決しないまま無責任にも僕をこの鄙びた町に放り出して去っていった。「じゃあもうこれでお巡りさん行くから」と。自分の事お巡りさんて言うんだーと思いながらゆっくり支度をして僕もその公園を去った。歩きながら最初に会ったお巡りさんの事を思い出した。あいつは僕に野宿を提案してきた。体制のあり方に不安を覚えながら行く当てもなく危険だという神奈川の田舎町を深夜徘徊していた。15分くらいバスで来た道を歩いているとセブンイレブンがあったので、夕飯を食べていないことに気がつきカップ麺を買って大きな駐車場の隅に座って食べた。虫除けスプレーも忘れずに購入。さあこれで準備万端と次の寝床を探そうとした矢先、目の前にはお寺がある。真言宗○○院。仏様はこうやって迷える僕を救い導いてくださる。中に入り一応お堂の前で合掌し、賽銭箱の前のコンクリートに横になる。ああサンクチュアリだ、ここなら制服に身を包んだ魔物も入ってくるまい。と安心して眠りについた。

朝の鮮やかな光に目覚めたのは午前六時。足は虫除けスプレーでガードできたが首から上には見るも無残な虫に刺された痕が数十箇所。足のも手のひらのも数えると相当な数である。もう一回お堂に向かって合掌をし、寺を出、コンビニで歯を磨き顔を洗う。よく晴れて爽やかな朝だ。早速海岸沿いをロケハンしに出かけた。今度は広範囲にわたってくまなく散策した。早起きとはこんなにも清清しいのかとテンポ良く2時間かけて回りきった。途中でまた一人の警官と出くわした。僕を見るなり、「ああ、昨日の・・あれからどうしたの」と。昨夜二回警官に会(遭)っている僕は言葉に詰まり「あれから?」と答えると、「公園の」と言ってきたので、軽く舌打ちをして「お寺で寝ましたよ」と言ったきり目も合わせずその場を去った。

この時もう僕の中では葉山ロケはほぼ決定していた。すばらしい候補地が次々と出揃い具体的なイメージもできあがりつつあったからだ。もう東京に戻ろうか、少しはそんなことも考えた。しかしすぐに昨夜の旅人の言葉が頭をよぎった。ロケハンとかそんなことはもうどうでもいい。この旅を続けるかどうか、答えはただ一つしかなかった。

バスに乗り逗子駅に着いたのは午前9時を回った頃。9時17分発小田原行きの各駅停車に乗り込み電車の旅の物語第二部が始まった。小田原で熱海行きに乗り換えるのを含めると今度は二時間の長編である。蚊も警官も居ない快適な車内ではこの長編映画はララバイのようなもの。疲れのせいか寝てしまった。熱海からは伊東本線に乗り換え伊豆半島縦断である。目的地の白浜海岸は伊豆半島の南端、終点伊豆急下田駅からバスで行く。熱海から終点までは30駅近くあって値段も1910円。高。逗子から熱海までは1110円だったので片道3000円以上かかる。鷹。だが窓から見える景色は最高で、伊豆半島の大自然を堪能できる設定になっております。初めは花や緑が溢れる山間の景色が。ついでリゾート観光地の風景。いい感じに椰子の木なんかが道路沿いに植えてあります。それを過ぎると今度は閑静な高級別荘地がいたたまれないほどに立ち並んだ地域を。更に進むと今度は最初のような山間というより、ジャングルです。それにここはバリの農村かと思うような光景の中を列車は走ります。すでにリアルに椰子が育っていたりと、生態系まで変わってきたという感じすらします。相当昔伊豆半島は本州とは別の島だったらしいがそれも納得、もう本州にいる感覚ではなくなってきていた。この分だと下田は・・・。と色々想像していると終点の下田に近づいてきていることに気づいた。想像とは違い下田は伊豆半島でもかなり栄えた独特な雰囲気を持った町で、観光客もたくさんだ。海水浴に海の幸、そして1854年ペリーが来航したという歴史を持った町である。今年は2004年、開国150年ということで観光客を集めるキャンペーンもやっている様子である。ここではペリーは大人気でマスコットにもなって街中をにぎわし、愛されている。当時はどうだったのか知らないが、ここにあの黒船がやってきたのかと歴史に想いを馳せながらバスで白浜海岸に向かった。

バスで向かう途中、一つビーチがあったのを見たが、絶好の海水浴日和のせいか多くの人出でにぎわっていた、しかし白浜海岸は更にすごかった。かなり広い砂浜がビーチパラソルで埋め尽くされている。そして何より名前の通りの白い砂と日本とは思えないようなエメラルドグリーンの海。こんなとこがあるのかと感動した。僕も海水浴をしたい!と思ったが足だけで我慢した。ビーチの隅にある鳥居のたったがけの上に登り本を読んだり昼寝をしたりして僕もリゾートした。

この日の六時には渋谷で溝上氏と待ち合わせがある。四時半には白浜海岸を後にした。六時に、少なくとも六時半に渋谷に着くにはもう特急しかない。お土産を買ったり名残を惜しんだりする間もなく5時7分発特急踊り子東京行き、初短い滞在だったが下田を
出発。五千円は逗子からの三千円を思うと納得がいく値だ。踊り子、伊豆の踊り子と瀬戸の花嫁がいまいち区別がつかない活字離れ甚だしい僕だが、今日は踊り子に助けられ丁度一時間、6時7分には渋谷に着いた。再び借りたビデオカメラを担ぎながら家に帰る途中、ロケ地のイメージをもう一度描いていた。このカメラ、大事に使わせてもらいます。おわり。

てか迷惑級に長げぇよこの私的旅行記。撮影日記じゃねぇよ。wikiですんなよ。わかってます、すいません・・・。次回は『モーターサイクル横浜旅行記』です。

8月1日 主役決定! 都内ルノアール

前日にタケルから「創造工房」の俳優との面会をすると伝えられて、待ち合わせ場所に指定された都内某所の大型レンタルビデオ店のアキ・カウリスマキ、ミカ・カウリスマキ監督コーナーに向かっていた。タケルが「創造工房」の総会でハルキ・ミカ役を募集したところただ一人ハルキを演じることに興味を示してくれたのが、この日会う人物だった。僕が待ち合わせ場所に到着するとすでにタケル、マイマイ、彼の3者がそこで待っていた。いったいどんな人物がハルキ役としてやってきてくれるのか、全くイメージとかけ離れた人物だったら演出を大幅に改定しなければならないのか。それでダメでももう一から俳優を探す時間などない。様々な不安と大きな期待を胸に自宅を後にしてきた。だが彼を見るなり、不安は無くなった。むしろハルキというのはこういう人物だったのかと自分でも気付かされたように自然に受け入れることができた。
 彼の名は上原幹男。身長が181cmと高く、タフそうな体つき、それと誠実で明朗そうだが繊細さを秘めた表情はハルキと通じるものがあると直感した。
 ハルキ候補の彼とミカ候補のマイマイ、タケルと僕の4名で撮影の概要、条件の検討などを確認し、彼らに主役の二人を演じてもらうことを正式に決定した。途中で衣装川端を含めてのミーティングもした。上原君のスケジュールの関係からクランクインは10日の予定だ。これまででもっとも大幅の前進!これで先のプランも作業も充実するだろうと嬉しくなった。良い作品にしなければと改めて決意が固まった8月どアタマ。

ハルキ的物件を探して

阿佐ヶ谷駅から南方に約1K、善福寺川沿に広がる集合住宅郡のある一帯は僕の密かに温めてきたスポットだ。番号のふられた無機質な建物は長い年月と様様な人の出入りで歴史と温もりを感じさせるものになっている。機能性や便宜性だけを重視した建物は何故こんなにもうつくしいのだろう。ひとつの時代が過ぎても尚深みを増すばかりで情報社会の流行や最先端の技術・理論からは別の次元に存在するかのようだ。岐阜にいた時代、ダム、コンクリート工場、刑務所、田畑、ビニルハウス郡など、機能性にだけを重んじた色気のない景色に心を打たれたことがあったが、阿佐ヶ谷のこの団地に対してもそれと同じ感覚を覚えた。もう少しそのスポットについての詳細を説明しておこう。はっきり言って杉並区にこんな場所があるのだとは想像もつかないその理由の一つはは、贅沢に設けられた公共スペースにある。公園や道路、個人の庭的な敷地は杉並区ではなく都下や高速沿いのベットタウンを感じさせる。道は区画状ではなく、ぐねぐねと円を描くように走っていて広い。もう一つの理由は緑の多さである。乱在する公園には芝生が生い茂り、住宅の隙間にはアジサイ、スギ、ヤシまでもの様様な植物に埋め尽くされている。この二つの理由から都会ならではの閉塞感を全く感じさせないのである。独特な生活感は地方工業地帯の社宅郡と南国の田舎町という一見相反するような二つのイメージを同時に彷彿させ、初めてここに迷いついた時はまさに桃源郷に辿り着いた気分であった。視界は空とつなぎ、緑が日差しを乱反射する。その美しい村は陶淵明の詩の中では二度訪れることはできないのだが、今まさに僕はその危機に直面していることがわかった。1,2週間前のことだった。ハルキのアパートを探そうとその場所に来ていた時、道で掃除をしていた管理局の人に物件の相談をしようと話し掛けたところ、この団地全体は来春をもって改修工事に入り代わりに大きなマンションがいくつか建ち並ぶのだそうだ。確かに阿佐ヶ谷駅から徒歩10分、南阿佐ヶ谷駅からは3分の環境であるこの団地はほとんどが空き部屋で、1棟丸ごと使われていないものも目立つ。寂しい想いの反面、最後にこの地を『ASS』のロケに使わなければ、という想いが込み上げてきた。

すぐさま管理事務所にかけ込み打診したところ、理事会で映画・取材等の撮影は全て断ることと決まったらしい。部屋の撮影がしたいということなら住宅は全てが個人の所有なので空き部屋も含めて個人的に交渉するほかはないということであった。何人かの団地住民に話を聞いたところ空き部屋の持ち主は互いにわからないし、企業が所有するものも撮影のために貸すことはまずしないだろうとのことだ。僕は途方に暮れた。こんなにもすばらしいロケーションで空き部屋だってたくさんあり入居者もいないのにどうして使えないのか。もどかしかった。だが可能性が失われたわけではない。うまくいかなければ逆に情熱は高まるもの。藁にもすがる想いで光明を見いだす手段をつくそうと、そしてここがダメでも撮影だけは成功させたいと、そう思った。

僕がハルキの住む部屋に何故この場所を選んだか。便宜的には、ひとつひとつの部屋が広く撮影がしやすい事。空が大きいので月が望みやすいこと。住民が少ないので静かなこと。あるいは無料で部屋が使えるという希望。作品的には、緑が夏のイメージを倍増させるであろうこと。無機質さが不要な時代性を排除させてくれること。それとあのユニークな環境は日常とファンタシーの境界を取り払ってくれるだろうことなどが挙げられる。皆さんも機会があったら是非徒然に散歩にでも訪れてください。心がおちつきます。

distance zero

美しい人

僕の通っていた高校は自宅からおよそ8キロの場所にあり、普通自転車かバスで通学していた。天気が良ければ自転車で、悪ければバス。雨の日のバスは中がじめじめしており、その上晴れた日よりも乗客が多いので快適ではない。座席に座ることができるのは滅多にないので、約50分の道のりを立ったまま過ごすのが常だった。

あれは7月だった。その日は雨が降っていて、夕方の5時頃学校から帰宅するのに僕はいつものバス停からバスに乗った。冷房はかかっているはずだが車内はまとわりつくように暑く、車内には座れないで立っている乗客が僕を含めて5人いた。いつものことながら退屈な50分間の始まりである。景色を見ようとも窓の外は曇って見えないし、今のように携帯電話には、メールの機能など付いていない。そんな時僕はいつも無意識に他の乗客に目をやることが多かった。その日も同様に周囲の乗客を見ていた。僕が利用していたような郊外へ向かう路線バスの乗客には見たことのない人間などほとんどいないものである。学生なら顔は知っているような先輩や後輩。毎日同じ時間にバスに乗る老人。近所のスーパーでよく見かける主婦。中に友人や知り合いなどがいれば恰好の退屈しのぎにでもなるというもの。前方の座席に僕はある一人の少年を見つけた。少年といっても当時の僕より3歳年上だ。しかし体の線は細く、目が大きな童顔で少年といってもなんら差し支えはない。何より彼は知的障害者なのでその表情やしぐさはまるで少年のようなのである。彼のことは同じ小学校に通っていたので知っていた。今はどうか知らないが当時街で清掃作業の仕事をしているのを見たことがあった。おそらくその仕事の帰りであったのだろう。彼もバスではよく見かける人物だった。バス停を5つほど過ぎた時、そのバスに一人の若い女性が乗ってきた。その女性は栗色の長い髪で、夏らしい薄手のスカートをはいていた。年齢は二十歳前後だっただろう。彼女は先ほどの知的障害の彼の前辺りにシートに付いた取っ手につかまって立っていた。僕は彼女のことを知らなかった。とても美しく、夏服に浮き出る体のラインに僕の目はくぎ付けになった。暑くて退屈なことなど忘れ、彼女の後姿を見ていた。ふと知的障害の彼に目をやると、彼はうつむいて口を「い」の字型にしている。よく見ると彼の通路側の手は小刻みに震えていた。さらにいくつかの停留所を過ぎ、バスは次の停留所にさしかかった。バスが停留所の横に寄り扉が開いたとき、彼は自分の左手をその美しい女性のお尻に押し付けた。彼はすぐさま手を離したが、驚いた彼女は「キャッ!」と声を上げ、彼を軽蔑するような目でにらみつけた。すると後ろにいた若い男も、隣にいた中年の男も、彼女の前に立っていた主婦もみんな彼を軽蔑したような目でじっとにらみつけた。彼が知的障害者であることも周知の事だったのだろう。露骨に犯罪者扱いする人はいなかった。彼は気まずそうな表情で周りの人の顔をきょろきょろと見回していた。後ろのほうの座席では、高校生同士が「何?」「痴漢?」とひそひそ話をしている。うつむいてじっとなっている彼・・・。あの時何故だか分からないが僕は悲しくなって涙がでそうになったのを覚えている。僕は次の停留所でバスを降りた。確かに彼のとった行為は社会では不適切な行為だ。しかし彼と彼女、そして乗客の一連のやりとりは僕の心に大きなわだかまりを残した。当時の僕の日記には汚い字でこう記されている。「・・・あいつの行為は純粋で美しい。あいつは俺が今まで見てきた中で最も美しい人間だ。・・・」
 

Project Format

名称 Another Side of the Story(ASS)/The Other Side of the Moon

日時  

場所

発想

成員

・Production  

・Staff  

・Art Direction  

枠組

協働